巣山古墳
葛城国の王一族の墓
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| 巣山古墳の島状遺構と埴輪 | ナガレ山古墳から葛城氏の故地・葛城地域を望む | 巣山古墳の島状遺構説明会(2003/10/11) |
奈良盆地の西部の北葛城郡広陵町から上牧町に広がる馬見丘陵には4・5世紀に大型古墳が築造され、馬見古墳群と呼ばれている。その馬見古墳群中最大規模を誇るのが巣山古墳で4世紀末の築造で全国24位の規模である事が確認された。馬見古墳群は葛城地方(今の御所市と北葛城郡新庄町)を威圧しながら三輪王朝が栄えた三輪山方面にも威容を誇示している。
巣山古墳(全長220m)が築かれた馬見古墳群(奈良県広陵町、4〜5世紀築造)は葛城国の王族を埋葬したとするのが通説であったが反論もある。葛城(葛木)を社名に持つ神社は金剛・葛城山麓から二上山麓に限られ馬見古墳群はかろうじて葛城の範囲に含まれるだけであり、さらに馬見古墳群の大型古墳は副葬品が豪華で大和古墳群や百舌鳥古墳群のように大王家のものと考えるべきである(和田萃、以下敬称略)という指摘がある。一方、葛城ソツヒコの後裔である葦田宿禰(あしだのすくね)に由来すると考えられる蘆田(あしだ)の地名が馬見丘陵の中央部に見られるし5世紀に成立する大和王権の実体は大王家と葛城氏の両頭政権ではなかったか(直木孝次郎)、更に馬見古墳の石棺は葛城地方と同じく長持形石棺が目立つ(門脇禎二)、などの点が指摘されており決着に至ってない。そのために、広陵町のホームページでは「...巣山古墳は4世紀末葉の大王墓の一つと考えられます。...」と記述されている一方で馬見公園の案内板には「葛城地域の王墓と考えられています。」とされ一貫性がない。4世紀後半、三輪王朝から河内王朝への王権交代は葛城氏の河内王朝への寝返りが決定的に影響したとする論者(岡田精司)もいる。ここでは馬見古墳群は葛城氏の墓域という立場に立ちたい。
参考文献 「葛城と古代国家」(門脇禎二著、講談社学術文庫)、奈良県広陵町資料
統一王朝としての大和朝廷が成立する前は倭国(やまとのくに、現在の奈良県天理市の大和神社付近を中心とした)と葛城国(かつらぎのくに、今の御所市付近)が共存していて王族は互いに濃い血縁で結ばれていた。葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘・磐之媛(いわのひめ)は応神天皇の子・仁徳天皇の皇后となり第17代履中、第18代反正、第19代允恭(いんぎょう)天皇の母となった。倭の5王の時代は天皇の外戚(皇后側の親戚)として葛城氏が大いに栄えた時代であった。磐之媛は天皇に対しても臆することのなかった女性と伝えられるが、これは葛城氏の勢力を反映していると考えられる。その後、王位を巡って両王族間に血を血で洗う争いが起こり、仁徳の孫・大泊瀬王子(後に第21代・雄略天皇)によって葛城氏の血脈にあたる市辺押磐王子(いちのべのおしはおうじ)とその弟の御馬王子(みまおうじ)が殺戮されたが市辺押磐王子の子から第23代顕宗天皇と第24代仁賢天皇(第26代継体天皇の義父)が実現した。大泊瀬王子はその後も兄・坂合黒彦王子と八釣白彦王子、更には従兄弟までも粛清して第21代雄略天皇(?〜日本書紀では479年8月没、即位は456年10月)として位についた。雄略天皇の妃となった韓媛は葛城氏の娘で第22代清寧天皇が生まれている。しかし、5世紀を通じて栄えた応神王朝もその天皇家と後継者を巡って反目した葛城氏も急速に衰退の道を歩んだ。5世紀に勃発したと記紀が伝える一連の出来事である。
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| 巣山古墳(広陵町資料から) 右下の露出部分が島状遺構 | 島状遺構(広陵町資料から) |
巣山古墳の島状遺構については発掘担当者の報告が一番信頼できるので、説明会資料を全文紹介する。
『はじめに
奈良盆地の西部にある馬見丘陵には、4・5世紀に造られた大型古墳が多く、馬見古墳群と呼ばれています。なかでも巣山古墳は最大級の古墳で、周辺の新木山古墳(陵墓参考地)とともに丘陵中央部に集中する古墳群の中核をなし、昭和27年には国の特別史跡に指定されています。周濠が農業用溜池として利用されており、水位変動や波によって墳丘と外堤の裾が大きく削り取られ、埴輪列が露出していました。
このため、史跡整備と発掘調査を平成12年度から継続して進めています。第1次調査では当初の墳丘規模が、全長約220m、後円部径約130m、高さ約19m、前方部先端幅約112m、高さ約16.5mであることが判明しました。第2次調査では前方部北西隅から墳丘完成時に行われた祭祀に係わる木製鋤、周濠の北西隅では古墳に邪気が入り込まないように結界として立てられた靫形木製品が出土しました。第3・4次調査は整備事業として行った周濠泥土の浚渫工事中に発見した島状遺構の調査を行いました。
遺構の概要
前方部の西側ほぼ中央部で墳丘から周濠へ張り出す島状遺構は、高さ約1.5m程あり2段で築かれ、茸石を施しています。基底部で南北約16m、東西約12m、上端で南北約11.5m、東西約7mを計測します。島の東側は方形で、東辺(墳丘側)から南辺及び北辺へは直角に西方向に延び、南辺から南西方向、北辺から北西方向に突出部を設けています。南西突出部は幅約3m、長さ約4m、北西突出部は幅約3m、長さ約3mを測ります。突出部先端から続く石積
みは、西辺の石敷きに結合させます。石敷きは幅約2.6m、長さ約8mで、州浜状に拳大の礫を敷き、他の辺より傾斜角度を緩くしています。島状遺構の南東隅には大型で平板な石を立て、青石傾斜角度を緩やかにし、西へ直線的に進み、突出部の基部で南西方向に大きく屈曲させ、先端部にも石を立てています。北東隅でも倒れた平板な石を確認しており、北辺へ葺石傾斜角度を緩やかにして西進し、突出部基部で大きく北西に屈曲させています。東辺には墳丘へ連絡する渡り土手があり、墳丘第一段テラスより約2m程低い位置から、上幅約2m、基底部幅約5m、長さ約5m程残っています。渡り土手斜面には、島状遺構の東辺から連続して葺石が葺かれ、前方部の墳丘茸石とは界石列を設け区別します。頂上部は蓮の根などにより撹乱されていましたが、石英の白礫を敷き詰め、形象埴輪を配していたと考えられます。
周濠は丘陵を大きく掘り込むことから、島状遺構は当初から地山を削り出して造られたと考えられ、渡り土手の取り付き位置を前方部三段目の前面前端に合わせることも計画的に築かれた証となります。 また、州浜状の石敷きの西側には直径約4mと約3mの連続する円形の石積みが築かれていました。
遺物の出土状態
本来、島状遺構の頂上部平坦面に配列されていたと考えられる形象埴輪が数多く出土しました。原位置を保つものはありませんが、蓋形7点、家形7点、盾形3点、水鳥3点、囲形4点、柵形10点以上が出土しています。蓋形埴輪の傘部には四方に張り出す肋木飾りがあります。家形は切妻、入母屋、高床があり、このほかに小型で囲形の中に入れ、配置されたと考えられるものが2点あります。水鳥は島状遺構の南西突出部付近に置かれたと考えられ、頭部が
まとまって出土し、周辺に胴、翼の破片が集中していました。平たい嘴をもつ雁鴨類を模したと考えられ、大きさが異なることから雌雄と子を表現したと思われます。囲形埴輪は平面が鉤形で人口を表現する鉤の手を右に置き、入口上端部に山形突起を設けています。柵形は島状遺構の西側頂上部から転落した状況で検出されています。
まとめ
巣山古墳は、大王の墓域が佐紀から河内へ移動する時期に築かれた前方後円墳で、大阪府藤井寺市の津堂城山古墳とほぼ同時期と考えられ、周濠内に島状遺構を設け、水鳥形埴輪を配する点は非常によく似ています。墳丘から渡り土手を設け、島状遺構に蓋、家等の埴輪を置き、王の居館を埴輪によって再現するところは、三重県松阪市宝塚1号墳の埴輪配列にも共通するものと考えられます。島状遺構の埴輪配列は、外堤から臨場感をもって眺められることから、王の威厳を埴輪で表現し、広範に人々に見せる場所であった可能性もあります。
また、前方部に設けられた島状遺構の祭祀は、造出しで行われる祭祀とは異なると考えられ、島状遺構の突出部や立石が三重県上野市城之越遺跡に酷似することから、外堤から途切れることなく湧き出す水を神聖視し、首長が司る水に関わる祭祀を表現しているのかもしれません。大王墓に匹敵する巣山古墳で執行された様々な祭祀は、古墳祭祀を考える上で極めて重要な資料であるといえます。
2003年10月
本資料は、広陵町ホームページhttp://www.town.koryo.nara.jp/にも掲載しています。
本資料は、広陵町教育委員会事務局社会教育課が作成しました。』 (『 から 』までは全文、広陵町資料による)