木ノ芽峠、栃ノ木峠 越前・福井の街道 TOPに戻る
木ノ芽峠(きのめとうげ、628m)は天長7年(830年)、越前国百姓・上毛野陸奥公山(かみつけぬのむつきみやま?)によって開かれた。古代、都への道は山中峠を越えたが、以後旅人は主にこの木ノ芽峠を超える(山中越え、等も利用された)ようになった。この付近は越中・越後境の親不知(おやしらず)と並ぶ交通の難所であったが、都と越(こし)の国を結ぶ幹線道路であり、北陸道の入り口なので紫式部、源平両軍、道元、新田義貞、蓮如らが熱い志を抱いて通って行った。 鹿蒜険道(かひるけんどう)は古代からあった山中越えの旧道と合流し木の芽街道(西近江路)となる。二ツ屋は宿場町として発展したが今は住む人はなくなった。明治天皇の行在所跡(あんざいしょあと)が残っていてかつての栄光を伝える。明治天皇の北陸行幸については多くの記録が残っている。 天正6年(1578年)柴田勝家が、峻険で毎年数mもの豪雪に見舞われる木ノ芽峠の少し東に安土への最短道として栃ノ木峠(とちのきとうげ、539m)を開き(東近江路)、以後4世紀間近世北国街道として幹線道路に発展した。越前平定の野望に燃える織田信長や柴田勝家との決戦に臨んだ豊臣秀吉も茶々ら三姉妹やお市の方も通った歴史街道であり、江戸時代には参勤交代で賑わった。1962年、真下にJR北陸トンネルが開通した。国道365号線もこの栃ノ峠を越えるが、この付近は今でも多雪地帯である。 越前・福井の街道は北国街道(北陸道、北国路とも言われた)以外に、府中(越前市)から日本海に向かう馬借街道、福井から東郷・大野を通って美濃に向かう美濃街道、松岡・勝山に向かう勝山街道、敦賀から近江に向かう7里半越や深坂古道、小浜から熊川を通って京都に向かう九里半越、若狭から京都に鯖などを運んだことから鯖街道と言われる幾つかの経路があり、旅人は強盗、悪路、天候急変などの辛苦をなめながら街道沿いに様々な伝承や遺構を残した。それぞれweb上で検索する事ができる。 木ノ芽峠の茶屋の御主人は平清盛の37代目の末裔だと言い、平将門や国香の名を挙げられた。茶店の建物は500年前の物という。暖冬と言われる昨今の冬でも積雪は2,3m、かっては数mの積雪があったといい、茶店の間近に広大なスキー場が開設されている。峠の茶店や言うな地蔵に行くには国道365号線の栃ノ木峠から西向きに林道へ入る。 |
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淀川源流の碑(福井・滋賀県境) 高時川最上流の栃の木峠付近は淀川河口から最遠の地であり淀川の源流である。 |
峠の茶屋(木ノ芽峠)普通に言う茶店ではなくかっては藩からの侍が常駐した関所。下界よりも10℃は低く今庄で32℃だったこの日茶屋の軒下で20.6℃だった。 |
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言うな地蔵(木ノ芽峠) | 道元禅師碑 ※1 |
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木の芽峠にて 地図案内 |
※1 1253年夏、道元(1200〜1253年)が病気治療で京に上る途上、都までの随伴を切望する徹通ら2人の高弟に本山の守護を厳命して、この木ノ芽峠から越前に別れを告げた。それは徹通や越前国との今生の別れであった。万感の思いを込めた別れの歌が伝わっている。 |