第二話

 

「・・・・・悪夢だ」
 眼が覚めると温かい布団の上だった。
 皹の入った天井が見える。蝋燭の光にゆらゆら揺れて、割れた窓から至福するような月明かりが差し込んでいた。そういうやこの布団、いい匂いがするな。お日様のとはまたちがう、なんだか包まれるような心地いい匂いだ。なんでこんな気持ちがいいのに、あんな夢なんて見たのだろうか。
 三年前に、吸血鬼に襲われた。
 生き残っているのが不思議だと思うぐらいの奇跡で助かったものの、首筋にはしっかりとヴァンパイアウィルスが注入されてしまった。だから、この身は今も吸血鬼に蝕まれ続けているのだ。
 人狼は、このウィルスに免疫があるものの、それでも限界がある。刻一刻と、三月の体はちょっとづつ変化してきてしまっているわけだ。本当にやるせない。
 こんなとこさえ噛まれなければあんな夢を見ることもなかっただろうに。
 首筋を摩ろうとして、
「いてっ」
 予想外の痛みに手を引っ込めた。
 ちょんと触れてみる。
 痛みとともに、何かやわらかいものの感触があった。その周辺を触ってみる。テープである。紙テープで、ガーゼを固定されていたのだ。
 おかしい。
 夢のはずだ。夢だったのだ。夢であってくれ。
 だが、覚醒していく意識で見てみたこの部屋は、どっからどう見ても見知らぬ・・・いや、見たことのある廃墟である。思い出した。きっとこの峯野町と南西部に位置する病院だ。一年ぐらい前に、古いから立て直そうとかあの場所は不便だとかいう意見が飛び交って市立病院が建て直されてから、そのまま放置された病院である。放置されてあら半月ぐらいたったぐらいに肝試しをやったからよく覚えている。裏手の板張りを剥がして窓を割ったのは三月である。一応、怪我をしないようにと掃除はした。ここらへんが三月という人物像を表している。
「まあ問題はなんでここにいるかってことなんだけどな」
 壁に皹が入り、窓は割れているというのに誇り一つない清潔な部屋だった。なんともアンバランスである。誰がここまで運んだのか。分からない。理由が思いつかない。
 と。
 奥のほうから、足音が近づいてくるのに気がついた。
「あ、起きましたか?」
 ひょっこりと、小動物を思わせるようななりをした少女が顔を出した。
「お前が助けてくれたのか?」
「あ、はい。でも、もともとは私が責任ですし。でも、私だってちょっと我慢できなくて。その、酷いんですよ。病院とかのセキュリティってこの前一気に上げられたみたいで、あんまり血を盗めなくなちゃったんです。それで、ふらふらお腹をすかせてるとおいしそうな人がだんだん人気のない方向に行っちゃうじゃないですか。
 ああこれは神様の恵みだなって誘われるがままに・・・・・あとは、その本能的にやっちゃいまして」
 語尾は殆ど聞き取れないほど弱々しかった。
 まあつまり、そういうことなのだろう。
 天性の吸血鬼ではなく、感染された吸血鬼。
 一度は死んで、また蘇った生ける屍というわけだ。よく生きてたもんだと感心する。
「お前、吸血鬼になって何年だ?」
「えっと三年ですね。それで気がついたら、いつのまにか」
 吸血鬼になっていたのだろう。
 吸血鬼になるということは、かなりの地獄である。体中の細胞が発火していくような、そんな逃れようのない苦痛が身を襲い、硫酸の水槽にぶち込まれ溶けていくような感覚を味わわされる。まあ聞いただけの話であるが。
 普通なら、あまりの苦痛に狂うという。
 考えることを放棄して、ただ本能のみで暴れまわる化け物になりさがるのである。それが、鬼と呼ばれる所以だ。三月のように、体そのものが、強力すぎるヴァンパイアウィルスに蝕まれて、崩壊していくケースだってある。精神的にも肉体的にも、ウィルスは人を選ぶのだと伝えられている。
 それに耐えた少女に対して、三月は敬意の眼差しで少女を見た。
 が、一つだけ、気がかりなことがある。
「そっか。ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「はい、なんですか?」
「お前、俺の血を吸うときに謝ったよな?」
「え、あ、はい。それが――」
「なんでだ?」
 間髪を待たず三月が尋ねた。
 きょとんと少女が眼を見開く。
「俺は、飯を食べるときにあやまったりはしないぞ。食べるときはいただきます、だ。そこに罪悪感はないし、むしろ愉悦しているほうが自然だ。そりゃ、もと人間だからな。辛いとは思うが、でも謝るのはやめろ。これから身が持たないぞ。これからはそう割り切れ。でもって、食ったやつを糧になんとしても生きろ」
 ふうと嘆息する。
 ああ、なんでこんなこと言ってんだろうな。三月は、くく、と自嘲気味に口を歪ませた。
「食え。強者には、弱者を糧にする資格がある。俺だって、いろいろな動物の肉を食ってきたんだ。何かをするってことは、それをされる覚悟もしなくちゃいけないんだって俺は思ってる。だから、俺のことは気にするな」
 まあ率直な話。
 馬鹿になってたんだと思う。もう先が長くないことを知っているから、人生に絶望しか浮かばなくて、何もかもが面倒くさくなってきてしまった。そう、生きることさえ面倒だ。
 生きているのに死んでいる。
 これではさながら、自殺志願者ではないか。笑える話だった。さっきは生きたいと涙を流した自分が、血とともに生気も奪われたのか。だけどただ死ぬのは我慢できなくて、だからこいつを助けようと思ったのだ。吸血鬼に噛まれたもの同士、ただ生きられるかそうでないかの違いだけの存在だから。俺のIFがこいつだったから。

 ――だから、正当化したいのか?

 知らず、奥歯を噛み締めた。
 何を考えてた。そんなこと言うまでもない。吸血鬼になることを考えていたんだ。他人を犠牲にしても生きたい、と考えてしまったわけである。
 それが悪いことだとは思わない。
 生きるということは、何かを踏みにじるということなのだから。食べるために殺す。それが自然の摂理である。例えば、スーパーで並べられた食品は生き物“だった”ものを人は食べて生きている。ならば、その逆――人が吸血鬼に食べられるというのもありのはずだ。
 何もしてないなんて戯言は聞きたくない。
 だって、お前はすでに他の生物を食って生きているのだから。違いは、ただ自分で手を下したかしてないかの違いだけだった。
「でも、共食いなんていやです」
 三月のうちにできたわだかまりを、少女は的確に貫いた。
「私は、これでも元人間です。人間だから、できれば共食いなんてしたくはありません。ライオンだって、餓死しそうだからって自分の子供は食べたりしないし・・・・螳螂とかは別ですけど、でも少なくとも人は共食いなんてしません」
 ああ本当に、
「考え方が似てる」
 そう。これは気持ちの問題なのだ。人であるか、化け物であるかの。人ならば共食いなんてしない。化け物ならば、人を食うことに躊躇いはない。つまりは、そういうこと。
「じゃあ、感染とかはどうする気だったんだ?」
「大丈夫ですよ。加減さえ間違えなければ。先輩――ああ、私に吸血鬼のありかたを教えてくれた人なんですけどね、その人が言ってたんです。吸血鬼の感染は、そういった“情報”を含んだ唾液が噛んださいに相手に入り込むのが原因らしいです。ですので、傷さえ作れば後は吸うだけで感染は防げます。これ、そのときに使ったストローです」
 鉛いろの重そうなストローを取り出して言った。先が、注射針のように鋭く尖っている。首筋の痛みはこれだったわけか。すぐに意識が遠ざかったのを考えると、先端に麻酔薬か何かが付着されているのかもしれない。
「それ、綺麗か?」
 懐から取り出されたにこやかに細菌君よろしくと公言してそうなストローを凝視する。
「さあ?」
「・・・・・・・・・・・なんか滅茶苦茶無責任だな」
 膿んだりしてないだろうか。
 明日、久々津のところに行ってみるとしよう。
「大丈夫ですよ。ちゃんと消毒しましたし。ああ、それより背中大丈夫ですか? 落ちたときに私とあなたでけっこうな重量がかかってたと思うんですけど。もし痛むようなら、インドメタシンとかもありますよ?」
「なんだそれは?」
「痛みを和らげる薬です。まあ麻酔のようなものですね。大量摂取すると無痛病になったりします」
「昔ゲームでその名前を聞いたころがある。確か、防御力を上げるんだ」
「ひどい話ですね。痛みを分からなくして戦わせようとするなんて。それじゃあ何処が悪いとか分からないじゃないですか。痛みは、体の悲鳴を伝える立派な信号なんですから」
「それを勧めているやつが今ここにいるんだがな」
「それはそれ。これはこれです」
 皮肉をあっさり受け流し、吸血鬼はにこりと笑った。
 まるで小動物。
 おもわず抱きしめたくなるようなオーラをふわふわと湧き立たせて、名高い美術作品のように見惚れてしまう赤くくりんとした眼が上目遣いに見つめてきた。小さな桃色の唇から目が離せない。血染めしたようなふっくらとした癖毛がいかにも自然体で、少女の雰囲気をさらに際立てている。
 吸血鬼が妖艶だなんて誰が言った。
 ブレーキの壊れたダンプカー並みの攻撃力を秘めているはずのその体は、思わず守りたくなるような矮小な女の子にしか見えなかった。
「あの・・・・どうかしました?」
 不思議そうに首を傾げてきた。
「いや」
 お前に見惚れてたんだとは言えず、三月は曖昧にお茶を濁した。
「まあいいですけど。なんだか元気みたいですし。それじゃあ、お腹は空いてませんか?」
「そういや、なんか胃が貪欲に得物を求めてきりきりともがいてるような感覚はあるな」
「・・・・素直に空いていると言えないんですか?」
 呆れるようにそう言われた。
 とはいえ、もう日も沈んだ時刻である。昼食すら食べてないわけだから空いてないはずがない。貧血気味であまり食欲はないが、それでも体はよこせよこせと食い物をせがんでいる。
「ちょっと待っててください。今、シチュー持ってきますから」
 三月は素直に頷いた。
 食べやすいものにしてくれたのは、少女の配慮なのだろう。まあ血を吸った張本人であるのだし。
「ああ、それと」
 蝋燭を持って、少女が振り返った。
 ゆらりと揺れる炎が、眸をルビーのように煌かす。
「私、咲といいます。さっきも言いましたが、吸血鬼です」
「そうか。俺は天知三月だ。分かってると思うが人狼の血を引いている」

 

 女の子みたいと言われたことがある。
 本人が全力でそれを否定しようとも、鋭く射抜くような眸が綺麗だとか、顔が端整ですっきりしてるとか、髪がさらさらで流れる風を視覚化したようだとか、弥生――三月の双子の姉――のクローンに見えるぐらい似ているだとか周囲が情け容赦なく肯定してくれる。
 それが嫌で三月は思いっきり捻くれてやった。
 喧嘩上等!
 とコンビニに群がる迷惑極まりない煙草中毒者に眼をつけてやったこともある。当然、喧嘩になった。数人がかりでぼこぼこにされたが、そのうち一人を骨折させたのを覚えている。正当防衛なので罪を問われることはなかった。
 まあそんなことばかりしていたから、三月は女の子みたいだと言われる前に危険人物だと恐れられるようになったわけである。怖いものがないわけではないが、それでも顔には出さない自身はあった。そもそも、この身は人ではなく狼だ。たとえ獣化しなくとも、その鋼の意志はこの身に宿っている。
 そんな三月がここまで狼狽するのは実に三年ぶりのことである。
 あのときは絶対的な吸血鬼を前に腰を抜かした。
 今はこのあどけない吸血鬼に困惑していた。
「だから、あーん、してくださいよ」
「拒否権を発動させてもらう」
「それは無理です。日本は常任理事国入りしてませんからそんな権限はありません」
「やかましい。だいたい、なんでお前はそんなに食べさせたがるんだよ!?」
 そんな言い合いがもう五分近く繰り広げられていた。
 熱せられたシチューがそろそろ冷めてくるころあいなのだが、依然として上る湯気がそういった道理を踏みにじるように上っていた。咲はにこにこ笑顔のまま目だけは決然と三月を捉え、三月は三月で断固として口を閉ざして応戦する。
 ここまでくるともう意地の張り合いである。
 三月は、貧血で朦朧とする体に渇を入れながら、気合と根性で目前の吸血鬼を睨みつけた。
「ああ、ほら! 三月さん、ふらふらじゃないですか! さっき元気だったんで大丈夫かなって思ったんですけど、実は立てないぐらい弱ってるんじゃないですか? 目つきだって滅茶苦茶悪いですよ。綺麗な顔がもったないです」
 最後のほうはどこか貶されたような気がするがとりあえず保留しておく。
「立てなくても手は動く。貧血だろうとそれぐらいのことはできるさ」
「駄目です。だいたい、ちょっと手が震えてるし、顔色だって悪いです!」
「その原因である張本人が何を言うか」
「・・・・だから、こうして食べさせてあげようとしてるんじゃないですか!」
 震える小躯をさらに小さくさせて、咲は申し訳ないと言うように上目遣いで三月を見た。
「だから俺はそれが嫌だと言っている」
「ですから私はしたいと言ってるんです」
 ずっとこんな調子だ。
 そもそもなんでこんなに意固地になっているのか判らない。三月は、これでも男である。部屋にいかがわしい本を持っているとは言わないが、同年代の女の子を見てどきりとしたことは何度もあるし、もてたいという願望がないわけでもない。もともと顔はいいほうであるからもてないわけはないのだが、性格が悪い、という噂が噂を呼び今では奇態な性格の持ち主しか三月に話しかけてこないでいる。
 かわいい女の子が吸血鬼とはいえご飯を食べさせてくれようとしている。
 なんとも幻想的なシチュエーションだ。
 ここは理想郷であると三月が豪語したとしたら、クラスの半分は羨望と嫉妬、殺意と怨恨という十人十色の反応をもって肯定を示してくれるだろう。もう半分はどこか汚いものを見るような卑下の視線を送ってくれるかもしれないが。
 まあ要するに三月自身、嫌ではないということだ。
 それが分かってるからか咲は眉を下げならも一心不乱にいまだ湯気が出ているシチューを見て唸っていた。どうやって三月を言い包めるか算段でもしているのであろう。小さいからといって侮ってはいけない。吸血鬼とは、不死ではないが不老の存在だ。咲の言葉を信じるなら、この姿からプラス三歳が咲の本当の歳ということである。それでも年下には変わらないだろうが。
 そういえば、なんでまだシチューは冷めてないのだろうか。
 ふと見ると咲は持っているスプーンでシチューをかき混ぜていた。底の深い取っ手のついたタイプの皿だから混ぜやすそうだ。注意すれば、皿の下にほんのりとした力の塊のようなものが感じられた。
「それ、魔法だな?」
「あ、はい。ちょっとぐらいなら扱えるんです。熱っていうのは、エネルギーの中でももっとも基本的で生まれやすいものですから簡単ですよ」
「知ってる」
 そうまでして食べさせたいのか。
 まあこっちは貧血で溢すかもしれないということを前提でやっているわけだから冷めてようがいまいが関係ないわけだが。だが何も言葉を発さずに魔術を扱えるというところは素直に簡単すべきところである。
「ところで三月さん。右の・・・三月さんからしたら左の奥歯、それって虫歯じゃないですか?」
「ああ、よく気づいたな。四月のときに学校でそう言われたんだが、あんまり気乗りしなくてな」
 突然話をすり替えされたということ困惑しながらも、問われたので答えてやる。歯医者が怖いからではなく面倒だから行ってないとも言おうとしたが、なんだかそれは自分から怖いと言ってるようだったのでやめておいた。
「駄目ですよ。病気とかと違って、歯は自然治癒しないんですから。お爺ちゃんになったときぼろぼろになって哀れ入れ歯生活が強いられちゃいます。あれってけっこう高いんですから」
 なんでそんなことを知っている?
 出掛かった疑問を三月は堪えた。堪えた理由は分からない。
「ちょっと見せてください。あんまり酷いようには見えませんでしたけど、一応ということもあります。私、これでも歯医者の知識があるんです」
 咲はえっへんと胸を張った。
「あーん」
 咲が言う。
「あーん」
 つられて三月は口をあけた。
 とたん、咲の口がくすりと勝利を確信したように笑ったのは見間違いではない。まるでビデオを早送りにでもしたような神速を持って咲は適度の温度になったシチューを口にねじ込んできた。溢さずに、しかも口に当てることなくやってのけたのは神業と称すべき偉業である。
 ぱくり。
 口を閉じ、スープを舌に浸らせる。濃厚で、とろけて広がっていくような旨みを名残おしく思いながら、ごくりとシチューを飲み込んだ。なかなか旨かった。
「・・・・・・嵌めやがったな?」
 しかし、出てきたのは負け惜しみの言葉だった。
 咲は得意げににっこりと笑っている。嫌味に見えないのが救いだった。
「はい、嵌めました。あ、でも虫歯は本当ですよ。まだ酷くありませんから、今のうちに歯医者さんに早く行くことをお勧めします」
「この野郎」
「野郎じゃないです。私、女の子ですから。それに、一回やられちゃったらもう二回も三回も同じですよね? だから大人しく食べてください」
「・・・・くそ、勝てば官軍か」
「はい。負ければ賊軍です。簡潔に言いますと私がルールということですから、三月さんは素直にあーんしてください」
「分かったよ」
 観念して三月は口を開けた。
 ふーふー、と冷まされたシチューが口に運ばれていく。
「おいしいですか?」
「ああ、旨い」
「あれ、素直ですね。私、てっきり不味いとか罵倒されるかと思って、心構えしてから言ったのに無駄になっちゃいました」
「他人の評価はきっちりとすることにしてるんだ」
「そうですか。でも、よかったです。私、味見とかできないから心配だったんですよ。本の通りにはやったんですけどね」
 咲はさり気無く爆弾発言をした。
「・・・・・・・・・・・・・・・待て、そんなものを必死になって食べさせようとしたのか?」
「だって、私は食べられないからもったいないじゃないですか。吸血鬼になると、消化器官がほとんど機能しなくなちゃって食事ができないんです。それが関係するかどうかは知りませんがなんか感覚的にも変わってきてるみたいで、よくこんな不味そうなものばかり載せるんだろなって思いながら献立を見てたんですよ。じゃあ仕方ないからって人間だったころ好きだったもの選んで、本に書いてある分量とかしっかり量って頑張ったんですよ。三月さんは私が初めて手料理をごちそうした人です。私も食べたことないですから、この世界でただ一人、私の味を知っている人ですね」
 本の通りに作ったのだから本の味だと思えるのだが、野暮なので口に出すのはやめておく。
 というより、本人すら知らない料理の味を知っているというのはかなり危なげな気がしてならない。咲が不器用でなくてよかったと心から思う。
 シチューも食べ終え、咲はまたどこかへ消えていった。
 廃棄された病院に水が通ってるとは思えないが、どうやって皿を洗うつもりなのだろうか。
「あの食べ物も不可解だよな。まさか、盗んだ?」
「そんなことしてません!」
「じゃあ、あれどうしたんだ? このベッドもけっこう綺麗だような。備考すると、ここは一年前から廃墟と化してる」
 ぷんすかという擬音がよく似合うように咲が歩いてきた。憮然とした表情で、濡れ衣を着せられた犯人がアリバイを宣言するように咲は言った。
「ちょっと暴走族の皆さんから頂いただけです」
「待てやおい!」
 こいつはやっぱり吸血鬼だ。
 三月はしみじみ思った。
「だって、散歩してたらいきなり後ろから襲われたんですよ? そのまま裏路地――そういえば、三月さんと出会ったのもあそこですね。あそこに連れてこられて。夜だし声も聞かれないだろうし。それで怖いなって暴れたら・・・・その手が顔に当たって、その、まあ予想以上に私の力が強かったわけですね」
「レイプされかけて返り討ちにしたわけか」
「・・・・・・・恥ずかしながら」
 咲は真っ赤になって俯いた。
 どちらが恥ずかしかったのかは聞かないでおく。それぐらいの配慮は三月にもあった。
「でもですね。相手はすでに社会のルールを破ってるわけです。そんな人が社会のルールに縋るなんて言語道断じゃないですか。慰謝料とかも含めたら、まあこれぐらいはいいかな、と」
 笑顔でそんなことを言った。
 まあかなり引きつっている顔なのは言うまでもない。
 三月はあからさまに肩を竦めた。しゅんと咲が小さくなっていくのが分かった。
 そういえば聞いたことがある。
 中学三年のときにの鬼神の話だ。
 なんでも、警察でさえ手に負えない暴走族や暴力集団を手当たりしだいボコボコにしている小鬼がいる、という話だった。ホラ吹きの子供が遊び半分で作ったような都市伝説であるが、現に我が峯野町ではそういった不良グループが絶対的に少なくなってきている。しかも、
「その根源がここにいるわけだ」
 呆れる。
 警察でさえ見つけられなくて、伝説と化したはずである。なんせ相手は吸血鬼なのだ。並みの人間が捕まえられるはずがない。
「・・・そんな眼で見ないでくださいよ」
「無理だ」
 半眼になって見られることに耐え切れなくなったのか、咲も上目遣いに三月を睨んだ。
「む。三月さんは気遣いがない唐変木ですね。いつも本音トークです。あんまり友達がいるタイプじゃありませんね?」
 事実なので言い返せない。
「・・・・お前も十分本音トーク炸裂してると思うがね」
「何を言うんですか。三月さんがそんなんだから私も遠慮なく言ってるんです。普通の人には普通に対応します」
「ああ、そう」
 遠まわしに変人とか言われてるような気がした。
 いや、たぶん気のせいじゃない。
 三月はあからさまに話題を逸らした。
「そういやいま何時だ?」
「えっと」
 咲は、月へと視線を移した。こくこくと頷く。と、また三月に視線を戻した。
「星の位置から察するに十時過ぎですね」
「・・・・・・・・」
 嘘を言っているようには見えなかった。
 空を見る。
 時間の流れどころか、星座ですらちんぷんかんぷんだった。えっと、とりあえずあれとあれがベガとアルタイルか。それぐらいの知識しかない。
「帰るか」
 授業をボイコットしたうえに、こんな時間まで行方知らずときたら、あの過保護な親が心配しすぎて死にかねない。普段がアバウトな性格をしている母だが内心ではセンチメンタルなのもまた母である。
 これから親孝行ができないぶん、あまり迷惑はかけたくなかった。
 と。
 裾を持って、引き止める咲の姿があった。
「えっと、なに?」
「あの、帰りは気をつけてくださいね。夜だし、人気も少ないですし、せっかく助けたのに事故にでもあったら全部無駄になっちゃうじゃないですか」
「ああ、それなら大丈夫だ」
 三月は、真摯に告げた。
「吸血鬼以上の化け物がこの町にいるとも思えない」
「む。なんですかそれ」
「言った通りだ」
 と、三月は不適な笑みを浮かべた。
「じゃあな、また会えたら会おうぜ」
「はい。では、よい夜を。あ、でも、本当に気をつけて帰ってくださいね。もう真っ暗ですし、この町、街灯がなかったりすることもありますから、ちゃんと眸を強化させたほうがいいですよ。どうせ暗くて金色になってるとか分からないでしょうし」
「おう。ご忠告ありがとよ」
 言って、三月は割れた窓から外に出た。
 夏のじめじめとした空気は、なぜか気にならなかった。