第一話

 

 天知三月はその昔吸血鬼に噛まれたことがある。
 なんてことを公然の前で言えるほど三月は馬鹿ではないが、それでも今となってはそう叫んでもいいのではないかと思い始めてきた。どうせあと一年の命であり、後悔することもないのではないかというのが三月の出した結論だった。
 人の人生はプラスマイナスゼロである、というのを聞いたことがある。
 人生っというものは波であり、苦しみを噛み締めた分だけ幸福もあるという。不幸のどん底に落とされた人は、そのあとに一筋の光明が差み、かんだたのように地獄から這い登るのだ。いや待て。たしか、かんだたの蜘蛛の糸は上っている途中で切れたのではなかったか。ということは、いくら努力しても無理なことは無理だと言われているようではないか。
 ならば、プラスマイナスゼロというのはどういうことか。
「ああそうか。きっと皆含めてのことだ」
 きっと幸福と不幸の絶対量は決まっていて、バーゲンセールの洋服を取り合うおばさんたちのように、幸福を取り合って生きているわけだ。
 つまり、だ。
 自分が不幸であるのは誰かが幸福であるための礎ということになるのか。逆に言えば、誰かが不幸になれば俺に幸福が廻ってくるのだ。きっとそうだ。そう違いない。
 だから、回し蹴りを力いっぱいに隣のやつにぶちかましてやった。
「ぐぶっ!?」
 延髄に見事に決まり、同級生の少年が昏倒する。
「これで俺にも幸福が」
 しみじみと三月は言った。
「なにとち狂ったこと言ってんだ、おい!」
「おおもう目覚めたのか。さすがはゴキブリ並の生命力だな加賀」
「てめえこの場で殺してやろうか!?」
 泣く子がさらに泣いちゃうような殺気を送ってくるこの少年は、加賀勇斗(かが ゆうと)と言う。親同士が知り合いという幼少のころからの腐れ縁だ。
 この峯野高校の天知と加賀といえば、しょっちゅう殴り合っていることで有名だった。
「大体、なんでいきなり回し蹴りなんだよ?」
「いつも階段の上からとび蹴りをしてくる馬鹿に言われたくない。たまにはこっちからやらないと身がもたん」
「やっても身はもたんと思うが?」
「ならこれからは普通にやるか?」
「無理だろ。俺とお前だぞ」
「そりゃそうだ」
 しみじみと頷く。
 なんせ、むかつけば上級生にさえ喧嘩を売る二人である。渾身のクロスカウンターを至上の挨拶としている二人ならではの意気込みだ。そのうち殺し合いになるのではないかと周囲から避けられている気がするというのは、最近になって気のせいではないと分かった。なんせ、中学のときに怪我をしている後輩に話しかけただけでその後輩が泣き出したぐらいだ。なんでもいじめられると思ったらしい。三月本人は気遣った行為であったがためにかなり傷ついた。
 まあ、それほどの噂が流れていたということだ。
「お前、なんかピリピリしてないか?」
 加賀は妙なところで鋭い。
「いや、これがな」
 首筋のあたりをぽんぽんと叩いてやる。
「駄目だったんだと」
「ふーん」
 興味なさげに加賀がそっぽを向いた。
「何時だ?」
「一年後」
「そっか」
 一限目の始まりを告げるチャイムが鳴った。
「それまでに、一度本気でやりたいな。お前と」
「俺は嫌だね」
「そういうなよ」
 にやりと加賀が笑う。どうもこいつはリアルファイトが好きのようだ。
 三月は無視して英語の教科書を鞄の中から取り出した。おどおどと新米の教師が入ってきた。
 授業内容が頭に入らない。
 聞こえてくるのに、脳が理解しようとしてくれない。かちかち、とシャーペンの蓋を押す音だけが耳によく届いていた。頭の中が真っ白だ。
「次はサボろう」
 言葉通に天知三月は二時間目をボイコットした。
 行きかう人が、怪訝そうな顔で学生服の三月を見ていた。まるで見下したようないらいらする目だ。気に入らない。むかつく。きっとこのもやもやした苛立ちはこの先死ぬまで纏わりつくんだろうなと三月は内心でため息をついた。
 いや、八つ当たりはよくない。
 人の視線なんて、生まれてこの方気にしたことがない三月である。このそこはかとない絶望感は、もっと具体的ではっきりとした――そう、己の死に他ならない。こんな心情だから、へんな被害妄想にまで陥ってしまった。
 らしくない。
 ――俺はもっと悠々としてるはずなのに。
 今だってそうだ。
 世界が憎たらしくてしょうがなかった。
 自分のなかの気力という概念が抜け落ち、空気が抜けていく風船のように空をどんどん降下している気分だった。体がへんに重く感じる。逃れようのない睡魔が、蛇のように絡み付いてくる。
 ああ、いらいらする。
 喧嘩でもすれば、すっきりするだろうに、こういうときに限って手ごろなチンピラが見当たらない。別に、勝てなくてもいいのに。ただ、殴り合えあえればいい。大量に分泌されたアドレナリンが、高揚感を呼び、苛立ちを忘れさせ、目の前の恐怖を布で覆い隠してくれる。ただの殴り合いでの痛みは慣れてるし、痛みはそれはそれで興奮剤にもなる。誰だっていい。
「誰でもいい、俺に殴らせてくれよ」
 空を仰いだ。
 憎たらしいほどの蒼穹。叫びたくなるぐらいのいい天気だった。
 ――そして、妙な寂しさを覚えた。
 人一人が死んだところで――世界は何も変わらないのだ。
 そりゃ、少ないとはいえ親友と呼べるやつはいる。
 父親はすでに他界しているが、今まで愛情を注いでくれた母親や、さんざい人を馬鹿にしてきた姉の弥生だって、三月の死を嘆き、悲しんでくれるだろう。
 クラスメイトの奴らだって、知人が死んだからという偽善的理由から、あいつはあれでいい奴だった、と生前は心にも思わなかったことを口走るかもしれない。
 でも――それだけだ。
 忘却とは、神様が人間に与えた最大の慈悲である。
 どんなに大きな存在であっても、無くなればその影響力も時間とともに磨耗していくのは当然だ。もちろん、三月を忘れないでいる人間だってたくさんいるだろう。でも、その感情は、希薄だ。人は忘れる。三月がいたことを覚えていても、三月がいなくなった悲しみという「感傷」は消えていき、いなくなれば悲しかった、という「感慨」に置き換えられる。
 それは、意志を持つものの自己防衛システムだ。
 ずっと、悲しみを背負う事はできないから、人は忘れることを覚えた。
 逆にいえば、忘れないということは、永遠に苦しみ続けるということに他ならないのだ。
 滑稽だった。
 つまるところ、三月は自分という存在をずっと心に刻んでいてほしいということは、ずっと苦しみ続けてほしいと同意義なのだ。だから、これは矛盾。自分のことを覚えてほしいと願う相手は、同時に、自身の幸せも追い求めてほしいと願う人なのである。
 心のなかの葛藤が、いっそう激しくなる。
 醜いのか、と自分に問うた。
 答えはない。
 そもそも、答えを出すのは自分ではない。それは、母が、姉が、友が、三月が死んだ、三月が知らないところで導かれるそれぞれの「答え」にすぎないのだ。
 沈黙、ため息。
 三月が、吸血鬼に襲われたのは、もう三年も前のことである。べつに、小説の主人公のような、目まぐるしい騒動のもと、吸血鬼と相打ちになった、というわけではなく、ただ意味が分からず襲われているところを、気づけば助かっていた、というような状況だ。吸血鬼を追っ払った男だって、化け物じみた実力と慄然とした存在感を併せ持つ、あたかも「主人公」風な男だったし、それに比べれは自分なんて、序盤で襲われた名も無い被害者Aぐらいの役割しかなかったのだろう。小説風に言うならば。
 そもそも、三月は主人公という柄ではないのだ。
 人の幸せより、自分の幸せを追求する。
 気に入らないやつは所構わず喧嘩をふっかける。
 その癖して、将来は安全性を考えて公務員を目指しているという面白みの欠片もない人生のレールを突き進んでいた。
 それでも、いいと思っていた。
 自分から危険に飛び込む「主人公」より、ある程度の幸福を感じられる「脇役」でよかったのだ。人狼という血筋も、べつに「狼化」しなければ一般人と変わらない。普通でいいのだ、と思っていた。面倒ごとはごめんだと、その日暮らしの生活が好きなのだと、思って“いた”。

 死にたくねぇよ。

 生まれてはじめて、「主人公」になりたいと思っている自分がいた。
 ありえない奇跡を信じる自分がいた。
 生きたい、と。
 まだ、やりたいことはたくさんあった、と訴えかける自分がいた。
 知らず知らずに泣いている自分がいた。

 

 

 気がつけば、もう夕暮れだった。
 こんなときでも時間を浪費する人間の心理に、どれほどの意味があるのか問いただしたい。いや、問いただすこと自体、時間の浪費のような気もするからしないが。
 ぼーとした頭で、まるで現世に未練がましく漂っている幽霊のように商店街を彷徨って、すれ違う人々をなんの苦労もしらないやつと決め付け、蔑ろに素通りしていくこと繰り返す。よっぽどおっかない顔をしているのか、自然にできていくぽっかりと空いた空虚のような人の裂けた道を通った。
 夕日が血の色に見える。
 なんか空虚だ。
 ガラスに映った自分が、蝉の抜け殻と重なった。
 もう五時間は歩き続けている。
 不思議と疲れはなかった。
 町は人で溢れている。何処へ行こうと、必ず一人は人は存在したのだ。もともと、人狼である三月は感覚神経が常人より優れていた。それは、「狼化」していないときであれ、凡人の二、三倍はある聴覚のよさが、人の鼓動を気づかせる。
 ただ、一人になりたい。
 そんなそこはかとない渇望に突き動かされて、三月は町を彷徨う。もう、たしょう空気が悪いところでも構わない。目指したのは、不良でもあまり近づこうとしない裏路地だった。
 つんとくる臭いに顔を顰める。
 ぬめぬめとした地面が癇に障った。
 けど―― 一人になれた。
「はは、はははは」
 意味のない笑いが零れる。
 何かが見えるのに――何も分からない。40℃を超える風呂にずっと浸かり続けていたみたいだ。頭がぼーとして、何も分からない。
 知覚できない世界。
 何処にいるのか判らない自分。
 二つを隔離する境界線はなく、
 ただいるだけの自分。
 空っぽの俺。
 空っぽの世界。
 そこに、
 圧倒的な存在感を持つ、
 化け物じみた誰かが、いることに気づいた―――。
「・・・・・・・え?」
 とたん、衝撃。
 何が起こったのか分からない。ただ、胸の辺りをとてつもない衝撃が襲った。衝撃は体内に伝わり、肺を圧迫して、意識を剥ぎ取ろうとする。
 誰だ、と思うまえに、
 三月は涎を撒き散らしながら吼えた。
 呼吸を拒否する肺に無理やり渇を入れた。
 心が高揚する。
 血が沸騰する。
 体の細胞一つ一つが、燃えて、焼け落ちて、そして新しく再生されていくような感覚。服が溶かされて、それすらも己の一部となり初めて、刹那の間に、三月は銀の毛皮に覆われていた。
 ――上!
 狼となってなお鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が告げる。
 一閃の影が見えた。
 速い。
 知覚したときには、すでにこの身はこの世にはいないだろう。普通ならば。
「――ちっ」
 全身全霊の力を籠めて、横に跳ぶ。一気に五メートルを跳躍し、三月はぎろりと「金色」の眸でその影を見た。影の正体は、少女だった。三月よりも、一回り小さいショットカットの少女だ。三月の身長が175であるから、150弱といったところか。
 ――赤毛に赤目。
 小さく舌打する。
 ボロボロになって擦り切れた黒いマントは、かなりの年季が入っている。しかも、あの息遣い。肩が激しく上下しているということは“耐えている”のか。
 たく、穏やかじゃねぇ。
 なんで吸血鬼がこの町にいやがる。
 考えてる暇はなかった。
 まるで瞬間移動でもしているかのような瞬発力。この眼がなければとっくに狩られている。右へ左へ。ときには壁すらも利用して真上から攻めてくる姿は、さながら獣だ。いや、縦横無尽に駆け巡り襲い掛かる獣がいるのだろうか。踏み込んだ足が、アスファルトにめり込み、五ミリほど伸ばされた爪は鋭く鉄だって粘土みたいに安易に切れそうだ。
「・・・・加減は、できないぞ?」
 ぎろりと金色の眸が少女を捕らえた。
 銀の毛皮を煌かせ、三月は吼えた。
 ただ力任せに、爪を一閃する。くるり。少女は身を反転させてそれをかわし、さらに懐に爪を突き出してきた。渾身の力を振り絞って真上に跳躍した。
「――やべ」
 思わず口を開いたときには、すでに遅かった。
 少女が、さらなる神速をもって飛び掛ってくる。空中では身動きがとれない。がしりと、羽交い絞めにされて身動きがとれない。爪を少女に食い込ませて引き剥がそうとするが、少女の力が尋常じゃなかった。ぎしぎしと骨が悲鳴を上げている。
 ふと。
 少女の顔が眼に入った。
「・・・・・ごめんなさい」
「なっ」
 反則だ。
 なんで、なんでそんなに悲しそうな眼をしてやがんだ。これは殺し合いだったから。お前は生きるための狩りを、こっちも生きるために全力で相手をしただけだから、お前が謝る必要なんてどこにもないんだ。
 そんなこと言われたら、死ぬまで足掻けないじゃないか。生に、しがみ付けないじゃないか。
 ただ、我武者羅に暴れられないじゃないか。
 そして、
 三月は首筋に激しい痛みを感じて、気を失った。