第9章 八月九日
午前二時四十九分、第二発目の原子爆弾ファットマンを搭載した B29 爆撃機ボックスカー(機長スィニー少佐以下十三名搭乗)がテニアン基地を出発し、第一目標の小倉上空に来ましたが、雲が多く、目標の確認が出来なくて小倉投下を断念し、第二目標の長崎に向かうことになり、島原半島の上空を経て、午前十時五十八分に長崎市上空に侵入しました。
が、長崎上空も雲でおおわれ、ほとんど市街地は見えなかったのです。しかし、爆撃手カーミット・ビーハン大尉が照準器から雲の切れ間に三菱長崎製作所をとらえ、浦上上空八、八〇〇メートルから爆弾を投下しました。
投下された原子爆弾は、午前十一時〇二分、松山町上空五〇三メートルで炸裂。熱線、放射線、爆風により、浦上を中心に半径一キロメートル圏内の二十ヶ町全壊、さらに、半径二キロメートル以内の二十数ヶ町も八〇%が倒壊し、全焼しました。学校は長崎医大ほか十九校が全焼、一校が半焼、二校が半壊。
広島に投下された原爆はウラニウム、長崎に投下された原爆はプルトニウム。一発の原爆は爆発の瞬間、大火の玉となり、摂氏数百万度にも達し、すさまじい熱線、爆風、放射線が襲いかかり、人々は一瞬のうちに地に転がり、即死した人、あるいは水を求めて命尽き、髪は焼け、血を吐きながら次々と亡くなっていったのです。また、火から逃れて山に這い登る人々の群れ、大きな怪我をしている人、瀕死の友を引きづり、親は冷たくなった子の屍を抱き締め必死で山に這い上がる。子は命尽きた親を背負い、皮膚は裂け、鮮血にまみれ、誰も皆、真っ裸で迫ってくる焔を振り返りふりかえり助けを求めて叫び、うめき、途中遂に力尽き、こと切れて動かなくなる。草木は燃え、家は倒れ、浦上の地から真っ赤な炎が広がっていったのです。
炸裂直後、爆心地に巨大な雲のような瓦斯体が発生して全体を覆いました。爆心地にいた人はこのためか、一、二分間全く視力を失ったと云うことです(この瓦斯雲は、カボチャの型となり、次第に上昇して夜に入っても上空に止まっていました)。
午後一時頃、天気は依然快晴でしたが、この瓦斯雲の中から大粒の黒い雨がしばらく降ったそうです。
敵機は引き続き偵察に飛来しました。原爆によって殺傷されたのは、軍人・軍属よりも、むしろ一般市民が主でした。戸外にいた生き物は、人間はもちろん、牛馬にいたるまで即死し、浦上天主堂周辺の多くの平和な家庭がすべて消え去りました。
即死を免れた人々も、熱傷、外傷、出血、肺気腫、肝臓、腎臓などの障害で亡くなりました。一命をとりとめた人たちも、ケロイド、失明、脱毛、白血病などの障害になやまされました。
被爆後二週間ほどは至るところで遺体が焼かれ、長崎市が火葬場のようになりました。長崎では原爆投下までに五回の空襲を受け、約一、〇〇〇名の死者を出しています。