世説新語

南朝・宋 劉義慶 撰
梁    劉孝標 注
中国   徐震堮 校箋

底本 『世説新語校箋』(徐震堮 中華書局)

徳行第一

14

本文

えちぜん注

王祥事後母朱夫人甚謹。

晉諸公贊曰:「祥字休徴,琅邪臨沂人。」

祥世家曰:「祥父融,娶高平薛氏,生祥。繼室以廬江朱氏,生覽。」

晉陽秋曰:「後母數譖祥,屢以非理使祥,弟覽輒與祥倶。又虐使祥婦,覽妻亦趨而共之。母患,方盛寒冰凍,母欲生魚,祥解衣將剖冰求之,會有處冰小解,魚出。」

蕭廣濟孝子傳曰:「祥後母忽欲黄雀炙,祥念難卒致。須臾,有數十黄雀飛入其幕。母之所須,必自奔走,無不得焉。其誠至如此。」

王祥は継母の朱夫人に仕えてはなはだ謹直だった。

『晋諸公賛』に「王祥は字を休徴といい、徐州琅邪郡臨沂県の人である。」とある。

『王祥世家』に「王祥の父王融は、兗州山陽郡高平県の薛氏を娶り、王祥を生んだ。後妻は揚州廬江郡の朱氏で、王覽を生んだ。」とある。

孫盛の『晉陽秋』に「ちょうどとても寒く氷が張る頃に、継母〔朱氏〕は生きた魚を食べたくなった。王祥は衣服を脱ぎ、氷を割って魚を捕ろうとすると、たまたま氷が小さく割れているところがあって、〔そこから〕魚が現れた。」とある。

蕭廣濟の『孝子傳』に「王祥の継母は急に黄雀の炙りものを欲しがったが、王祥は結局手に入れることができないと観念した。〔すると〕間もなく、数十羽の黄雀がその網の中へ飛び込んできた。継母が求めるものは、必ず自ら奔走し〔て探し〕、手に入れることができないものは無かった。彼の誠実さの極まることはこのようであった。」とある。

家有一李樹,結子殊好,母恆使守之。時風雨忽至,祥抱樹而泣。

蕭廣濟孝子傳曰:「祥後母庭中有李,始結子,使祥晝視鳥雀,夜則趍鼠。一夜,風雨大至,祥抱泣至曉,母見之惻然。」

家に一本の李の木があり、実が見事になっていた。継母は始終〔王祥に〕この木を見張らせていた。ある時、風雨が突然ひどくなり、王祥は木を抱いて泣いた。

蕭廣濟の『孝子傳』に「王祥の継母は、庭にある李が初めて実を付けると、王祥に昼間は鳥や雀を〔近づけないように〕監視させ、夜は鼠を追い払わせた。ある夜、風雨がひどくなると、王祥は〔木に〕抱きついて泣いて夜を明かした。継母はこれを見て不憫に思った。」とある。

祥嘗在別牀眠,母自往闇斫之。値祥私起,空斫得被。既還,知母憾之不已,因跪前請死。母於是感悟,愛之如己子。

虞預晉書曰:「祥以後母故,陵遲不仕。年向六十,刺史呂虔檄為別駕。時人歌之曰:『海沂之康,寔ョ王祥,邦國不空,別駕之功。』累遷太保。」

王祥がかつて別室で寝ていると、継母は闇を忍んで行って彼を斬りつけた。ちょうど王祥は用を足しに行っていたので、空しく布団を斬りつけただけだった。戻ってきてから、王祥は継母がひどく悔しがっているを知り、継母の前に跪き、殺してくれるように頼んだ。継母はこのことで心動かされ非を悟り、王祥を我が子のように慈しむようになった。

虞預の『晉書』に、「王祥は継母が亡くなったことで、体調を崩し仕官しなかった。年齢が六十になろうとする頃、刺史の呂虔が召し文を出して、別駕になった。時に人は歌った。『海と沂水〔のあたり〕の治安がよくなったのも、王祥殿のおかげ。この国が荒れ果てないのも、別駕(王祥)のおかげ。』次第に昇進して太保となった。」とある。

<更新履歴>
2004.06.27:第一版。