廿二史考異
清 錢大昕 著
底本 『廿二史考異(附 三史拾遺 諸史拾遺)』(錢大昕 上海古籍出版社)
卷二十一 晉書四
王祥傳
本文
えちぜん注
漢末遭亂,扶母攜弟覽避廬江,隱居三十餘年。
案:祥以泰始五年薨,年八十五,上溯漢建安九年,祥始二十歳,即使避地更在其前,距為徐州別駕之日,祇二十餘年耳。此「三十」當為「二十」之誤也。
漢の末に争乱に遭い、母に寄り添い弟の王覧の手を引いて、廬江へ避難し、三十年あまり隠れ住んだ。
以下のように考える。:王祥は泰始五(269)年に亡くなり、年は八十五歳。昔に遡り漢の建安九(204)年、王祥は二十歳である。たとえ乱を避け廬江に身を寄せたのがその(王祥が20歳の時)前であったとしても、徐州の別駕となった日から隔たること二十年あまりだけとなる。この「三十」は「二十」の誤りとするべきである。
徐州刺史呂虔檄爲別駕,祥年垂耳順,固辭不受。覽勸之。
案:魏志,呂虔爲徐州刺史,在文帝時。計文帝黄初元年,祥纔三十有六耳。即被徴在黄初之末,亦止四十餘,何得云耳順也。王隱晉書云祥始出仕,年過五十,蓋據舉秀才、除温令而言,非指爲別駕之日也。
徐州の刺史呂虔が召し文を発して、〔王祥を〕別駕としようとした。王祥は年齢が耳順(六十歳)になろうとしていたので、固辞して受けなかった。王覧はこれ(別駕となること)を勧めた。
以下のように考える。:魏志(『三国志』魏書十八呂虔伝)には、呂虔が徐州刺史となったのは文帝(曹丕)在位の時とある。文帝(曹丕)の黄初元年(220)から数えると、王祥はおよそ三十六歳である。仮に黄初年間の末(226)に招聘されたとしても、四十歳あまりである。どうして耳順(六十歳)と言えるだろうか。王隠の『晋書』にいう、「王祥は初めて出仕したのが、年が五十歳を過ぎてからである」。思うに、秀才として登用され〔司州河内郡〕温県の長官の官職を授けられたことを言っていて、別駕となった日をさすのではない。
虔委以州事,於時寇盜充斥,祥率厲兵士,頻討破之。
案:魏志,呂虔請祥爲別駕,民事一以委之,討利城叛賊,斬獲有功,此傳云寇盜充斥,即謂利城叛賊也。劉知幾以爲漢建安中、徐州未靖時事,蓋未考魏志耳。
呂虔は徐州の仕事を任せた。その頃、盗賊が蔓延っていたので、王祥は兵士を率いて、しばしば盗賊を討ち破った。
以下のように考える。:魏志(『三国志』魏書十八呂虔伝)には、「呂虔は王祥に別駕となるよう要請し、民事の一切を彼に任せた。利城の叛乱軍を討伐し、敵将の首を刎ねたり、生け捕りにしたりして功を立てた」とある。この伝の「盗賊が蔓延っていた」というのは、利城の叛乱軍のことを言っている。劉知幾はこのことを漢の建安年間のこととしており、徐州の混乱はまだ平定されていないとしているが、思うに魏志について検討していないだけである。
泰始五年薨。
紀在四年四月。
泰始五年薨去した。
『晋書』巻三武帝紀に四年四月とある。
<更新履歴>
2005.08.20:第一版。