晉書
唐 房玄齢等 撰
底本 『晋書』(二十四史点校本 中華書局)
晉書卷三十三 列傳第三
何曾 子劭 遵
本文
えちぜん注
何曾字潁考、陳國陽夏人也。父夔、魏太僕、陽武亭侯。曾少襲爵、好學博聞、與同郡袁侃齊名。魏明帝初爲平原侯、〔七〕曾爲文學。及即位、累遷散騎侍郎、汲郡典農中郎將、給事黄門侍郎。上疏曰:「臣聞爲國者以清靜爲基、而百姓以良吏爲本。今海内虚耗、事役衆多、誠宜恤養黎元、悦以使人。郡守之權雖輕、猶專任千里、比之於古、則列國之君也。上當奉宣朝恩、以致惠和、下當興利而除其害。得其人則可安、非其人則爲患。故漢宣稱曰:『百姓所以安其田里、而無歎息愁恨之心者、政平訟理也。與我共此者、其惟良二千石乎!』此誠可謂知政之本也。方今國家大舉、新有發調、軍師遠征、上下劬勞。夫百姓可與樂成、難與慮始。愚惑之人、能厭目前之小勤、而忘爲亂之大禍者、是以郡守益不可不得其人。才雖難備、猶宜粗有威恩、爲百姓所信憚者。臣聞諸郡守、有年老或疾病、皆委政丞掾、不恤庶事。或體性疏怠、不以政理爲意。在官積年、惠澤不加於人。然於考課之限、罪亦不至詘免。故得經延歳月、而無斥罷之期。臣愚以爲可密詔主者、使隱核參訪郡守、其有老病不隱親人物、及宰牧少恩、好修人事、煩撓百姓者、皆可徴還、爲更選代。」頃之、遷散騎常侍。
〔七〕魏明帝初爲平原侯 舉正:「侯」當為「王」,魏志可據。
何曾は字を潁考といい、豫州陳国陽夏県の人である。父の何夔は、魏の太僕で、陽武亭侯であった(1)。何曾は若くして〔父の〕爵位を嗣ぎ、学問を好み知識も豊富で、その名声は同郡の袁侃と同じくらいであった(2)。魏の明帝(曹叡)が初め平原侯となった時(222)に、何曾は文学になった。〔明帝が〕即位(226)すると、〔何曾は〕散騎侍郎、司州汲郡(3)の典農中郎将、給事黄門侍郎と次第に昇進した(4)。天子に文書を奉り、その内容は以下の様であった。「私が聞くところによりますれば、国を治めるには、天下太平をもって基とし、民衆は優れた役人を手本とすると言います。今、国内は疲弊し、労役に従事する民衆は多くなっております。〔ここで〕多くの民衆を哀れみ養えば、人々を使いながら喜ばせることができ、宜しいかと存じます。郡守の権限は軽いものだとは言いますが、やはり千里の国土を任せるのでありますから、古き時代と比べましたら、〔郡守は〕列国の君主であります。〔郡守は〕上に対しては朝廷の恩を捧げ述べ、それで恵みを尽くすべきであり、下に対しては利益を興して害を除くべきであります。そのような人(郡守)を得られたならば、〔天下を〕治めることができ、そのような人(郡守)でなければ、災いをなすでしょう。漢の宣帝は『民衆は彼らの土地を安定させることで、嘆いたり恨んだりする心を持った者はいなくなり、政治は平等で裁判も正しいものとなった。私と共にこのようである(天下を泰平とする)者こそ、優れた二千石(郡守)(5)であるぞ!』と公言しました。これはまことに政治の根本を知っているということができます。まさに今、国家を挙げて大軍を起こし、新たに租税を徴発し、軍師は遠征を行い、役人から民衆まで苦労しております。そもそも民衆は成功〔という結果〕に付き従う事はできますが、何かを始めるという〔未だ結果が見えない〕事に付き従う事は難しいのです(6)。愚かな者に至っては、ただ目前のわずかな勤めもいやがるだけで、世の中が乱れた時の大きな災いについて考えもしません。ですから、郡守にはますますそのような〔優れた〕人物を得なければなりません。才能は〔もとより〕備えることは難しいものでありますが、〔郡守としての〕威光と恩恵を施す器量があれば、民衆に信頼され敬われるのです。聞きますれば、各地の郡守は、高齢であったり病気であったりしますので、皆〔政務を〕副官へ委ね、諸々の事を憂慮していないとの事です。或いは生まれつき怠惰な性格で、〔政務について〕政治の道理をもって考えておらず、官職に就くこと数年であっても、恩恵を民衆に施しておりません。しかし業績の評価の限りにおいては、その罪もまた降格や罷免になることはないのです。このため、〔郡守は政務を怠っていることが露見する〕歳月を延ばすことができ、罷免する機会を失うのです。愚見を申し上げますれば、主たる郡守に密かに詔書を発し、〔管轄する郡を〕審査・巡察させるのがよいと考えます。郡守が高齢や病気を理由に人物を自ら審査しなければ、郡守として恩恵を施すことが足りないとして、人事を改めることができます。民衆を混乱させる者は、皆呼び戻し、更に〔郡守の〕代わりを選ぶべきです。」しばらくして、散騎常侍に転任した。
張熷『読史挙正』に「「侯」は「王」とすべきであり、陳寿『三国志』魏書に拠るべきである。」とある。 (訳者補)陳寿『三国志』魏書三明帝紀に「〔明帝(曹叡)〕の年齢が十五の時、武徳侯に封ぜられ、黄初二(221)年斉公となり、〔黄初〕三(222)年に平原王となった。」とある。
(1)「父夔、魏太僕、陽武亭侯」 何夔は字を叔龍といい、豫州陳国陽夏県の人。『三國志』魏書十二に「文帝(曹丕)が帝位に就くと、成陽亭侯に封ぜられた」とあり、「陽武亭侯」と相違する。
(2)「與同郡袁侃齊名」 袁侃は字を公然といい、袁渙の子。気高く清廉、大らかで素朴である様は父親に似ていたと言う。尚書となったが、若くして卒去した。(『三國志』魏書十一、『三國志』魏書十一裴松之注)
また『三國志』魏書十一には、「袁覇(袁渙の従弟)の子袁亮と、何夔の子何曾と、袁侃は同じように有名であり、仲が良かった」とある。
(3)「汲郡」 汲郡は晋になってからの地名。三国時代は司州河内郡汲県。
(4)「累遷散騎侍郎、汲郡典農中郎將、給事黄門侍郎」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『文選』の「侍郎曹長思に与うる書」の注は、臧榮緒『晋書』を引用して「弱冠にして散騎常侍に次々に昇進した」としている」とある。
『文選』「侍郎曹長思に与うる書」の注では、「臧榮緒『晋書』に「何曾は字を穎考といい、陳国の人である。何曾は弱冠にして散騎侍郎・給事黄門郎と次々に昇進した。」とある。」としており、『晋書』斠注は引用を誤っている。
(5)「二千石」 秦漢代、官僚の給与を表すことば。中央官庁の大臣・地方行政長官の年俸に相当。転じて地方行政長官(太守・相)の別称。『漢書』宣帝紀には「二千石」という言葉が、15回現れる。
(6)「夫百姓可與樂成、難與慮始。」 司馬遷『史記』商君列伝第八に、法を変えようとする商鞅(戦国時代秦の政治家。秦を強国とした。)が孝公(戦国時代秦の王。)に対して述べた言葉の中に「愚者は成功した事を理解せず、知者は始まる前に予見する。民衆は何かを始めるという考えには付き従う事ができず、成功した結果に付き従う事ができる。」とある。
及宣帝將伐遼東,曾上疏魏帝曰:「臣聞先王制法,必全於愼。故建官受任,則置副佐;陳師命將,則立監貳;宣命遣使,則設介副;臨敵交刃,又參御右,蓋以盡思謀之功,防安危之變也。是以在險當難,則權足相濟;隕缺不豫,則才足相代。其爲國防,至深至遠。及至漢氏,亦循舊章,韓信伐趙,張耳爲貳;馬援討越,劉隆副軍。前世之迹,著在篇志。今太尉奉辭誅罪,精甲鋭鋒,歩騎數萬,道路迥阻,且四千里。雖假天威,有征無戰,寇或潛遁,消引日月。命無常期,人非金石,遠慮詳備,誠宜有副。今北軍諸將及太尉所督,皆爲僚屬,名位不殊,素無定分統御之尊,卒有變急,不相鎭攝。存不忘亡,聖達所裁。臣愚以爲宜選大臣名將威重宿著者,成其禮秩,〔八〕遣詣北軍,進同謀略,退爲副佐。雖有萬一不虞之變,軍主有儲,則無患矣。」帝不從。出補河内太守,在任有威嚴之稱。徴拜侍中,母憂去官。
〔八〕成其禮秩 魏志明帝紀注引魏名臣奏載曾表「成」作「盛」。
宣帝(司馬懿)が遼東討伐をおこなおうとした時(景初二(238)年)(7)、何曾は魏帝(曹叡)に文書を奉り、その内容は以下の様であった。(8)「聞きますれば、先王は法を制定する時、必ず注意を万全におこないました。このため、官職を設け、その任を受けさせると、〔あわせて〕補佐官を置きました。軍を組織し指揮官を任命すると、その副官を立てました。詔を伝達するのに使者を派遣すると、補佐する者を置きました。敵との戦いに臨み刃を交えるにあたり、天子の右に参って、はかりごとを巡らす功績を尽くすことが、安全が危険に変化するのを防ぐと思われます。こうする(補佐する者を立てる)と厳しい局面に当たると、臨機応変に対応できて成功に向かい、死ぬことを心配せずして、才略を発揮して〔成功を〕継続できるのです。そもそも国家の防衛とはとても難しいものです。漢の時代になっても、また昔の規則に従い、韓信が趙を討伐する時に、張耳が副官となりました。馬援が越を討伐する時には、劉隆が軍を補佐しました。先代の軌跡は、書物に残されております。今太尉(司馬懿)が詔を謹んで受け、罪あるものを討伐するにあたって、精鋭部隊の歩兵・騎兵を数万を率いますが、その道は遠く険しく、四千里を行軍します。天子の威光を借りていると言っても、遠征して戦いが無ければ、盗みや逃亡が起こり、いたずらに月日を費やし、引き延ばすことになります。詔〔を受けたことによる緊張感〕はいつまでも続くものではなく、人は金属や石ではありません。将来を見通して考慮され、備えを慎重に行い、是非とも副官をおつけ下さい。今北軍の諸将は太尉(司馬懿)が指揮するに及んで、皆低い地位となり、その(彼らの)地位も差が無く、もともと分担を定めて統制する指揮官が〔彼らの中に〕いませんので、兵卒が変事を起こしたとしても武力で押さえ込むことができません。存在するときに失うことを忘れなければ、知恵は処置する対象に達します。愚見を申し上げますれば、大臣・名将〔の中〕から厳かで重厚で有名なものを選抜し、その待遇を定めて、北軍に赴かせ、前向きには謀略を同じくさせ、後ろ向きには副官とさせるのです。万一不測の事態が発生したとしても、本軍には蓄えがあれば、心配ありません。」魏帝(曹叡)は聞き入れなかった。河内太守を補佐し、その役職にあって〔すでに〕威厳があった。天子に召されて侍中を拝命したが、母の喪に服する為に官職を去った。
陳寿『三国志』魏書明帝紀第三の裴松之注では、『魏名臣奏』が何曾の表を記述しているのを引用しており、「成」は「盛」となっている。
(7)「及宣帝將伐遼東」 陳寿『三国志』魏書明帝紀第三に、「景初二(238)年春正月、大尉司馬宣王(司馬懿)に多勢を率いての遼東討伐を命じた。」とある。
また、房玄齢『晋書』宣帝紀第一に、「景初二(238)年、牛金・胡遵等歩兵・騎兵四万を率いて、都より出発した。」とある。
(8)「曾上疏魏帝曰」 陳寿『三国志』魏書明帝紀第三の裴松之注に、「『魏名臣奏』は散騎常侍何曾の表を記載している」とあり、表の内容が記述されている。『晋書』の記述と内容はほぼ同じであるが、若干の異同が見られる。
嘉平中,爲司隸校尉。撫軍校事尹模憑寵作威,〔九〕姦利盈積,朝野畏憚,莫敢言者。曾奏劾之,朝廷稱焉。時曹爽專權,宣帝稱疾,曾亦謝病。爽誅,乃起視事。魏帝之廢也,曾預其謀焉。
〔九〕憑寵作威 「作」,各本作「沐」。宋本、殿本及書鈔六一、御覽五九四、冊府五一四皆作「作」,今從之。
嘉平年間(249〜253)の中頃,司隷校尉となった(9)。撫軍校事の尹模が〔天子の〕寵愛を頼りに、おどして従わせようとしていた。不正な利益を多く蓄積していたが、、朝廷も民間も〔彼を〕おそれ、あえて批判するものはなかった。何曾はこれ(尹模の不正)を弾劾し(10)、朝廷は〔彼を〕褒め称えた。そのころ曹爽が思いのまま権力を振るっていたので、宣帝(司馬懿)は病気だと公言し、何曾もまた病気だと公言した。曹爽が誅殺されたので,そこで官職について政務を執り行った。魏帝(曹芳)が帝位を退いた(254)が、何曾はその謀略に参画していた。
「作」は各本において「沐」としている。宋本(商務印書館影印百衲本『晋書』)、殿本(武英殿本)及び、虞世南『北堂書鈔』六一、李昉『太平御覧』五九四、王欽若『冊府元亀』五一四は皆「作」としている。今はこれらに従う。
(9)「嘉平中,爲司隸校尉。」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『三国志』魏書何夔伝〔裴松之〕注は干宝『晋紀』を引用して、「正元年間(254〜255)に司隷校尉となった」としている。」とある。
(10)「撫軍校事尹模憑寵作威姦利盈積,朝野畏憚,莫敢言者。曾奏劾之,」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『世説新語』任誕篇〔劉孝標〕注に「『晋諸公賛』に言う。「心の用い方が非常に厳正であったので、朝廷では彼をおそれた。」と。」とある。虞世南『北堂書鈔』六十一に「王隠『晋書』に言う。「その時、撫軍都尉である尹模は校事であることによって、脅して従わせようとしたので、何曾は奏上して彼を捕らえ、その罪は朝廷内の秩序を乱したとした。」と。」とある。考えるに尹模は『三国志』魏書程暁伝に〔その名が〕見え、また『三国志』魏書三少帝紀の〔裴松之〕注に『魏書』を引用して「大長秋臣模」とあり、この人であると思われる。」とある。
『晋書』斠注の『晋諸公賛』の引用は、本文の「朝野畏憚」に対してつけられた注であると思われるが、『晋諸公賛』は何曾について述べており、尹模について述べたものではないため、引用の誤りと思われる。
時歩兵校尉阮籍負才放誕,居喪無禮。曾面質籍於文帝座曰:「卿縱情背禮,敗俗之人,今忠賢執政,綜核名實,若卿之曹,不可長也。」因言於帝曰:「公方以孝治天下,而聽阮籍以重哀飮酒食肉於公座。宜擯四裔,無令汚染華夏。」帝曰:「此子羸病若此,君不能爲吾忍邪!」曾重引據,辭理甚切。帝雖不從,時人敬憚之。
その頃、歩兵校尉の阮籍は才能に頼って勝手気ままに振る舞い、喪中であっても礼に従わなかった。何曾は文帝(司馬昭)の座所にて阮籍に面会し質問して以下のように言った。「君は勝手気ままに振る舞い、礼にも背いており、風俗を乱す人である。今忠義に篤く賢明な者が政治を執り行い、名称と実際を総合的に検討している。君の官職などは、長くあるべきではない。」(11)そこで文帝(司馬昭)に対して言った。「閣下は今や孝を以て天下を治めておられます。ところが聞くところによると、阮籍は公の地位にありながらしばしば悲しんでは酒を飲み、肉を食べているとのことです。〔このような男は〕遠方へ追放するのが良いでしょう。〔この〕中華を汚させることはありません。」文帝(司馬昭)が言った。「これは先生(阮籍)が疲れて病気になったのでこのようであるのだ。君は我が事と思い、忍ぶことができないのか?」(12)何曾は何度も〔故事を〕引用をし〔説得し〕た。(13)その表現はとても丁寧であったため、文帝(司馬昭)が聞き入れなくとも、当時の人々は彼を敬い畏れた。
(11)「卿縱情背禮,敗俗之人,今忠賢執政,綜核名實,若卿之曹,不可長也。」 この箇所は『世説新語』任誕篇劉孝標注に引用された干宝『晋紀』に、同様の記述があるが、若干の異同がある。
(12)因言於帝曰:「公方以孝治天下,而聽阮籍以重哀飮酒食肉於公座。宜擯四裔,無令汚染華夏。」帝曰:「此子羸病若此,君不能爲吾忍邪!」  この箇所は『世説新語』任誕篇の内容と同様であるが、若干の異同がある。
(13)「曾重引據,辭理甚切。」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『北堂書鈔』六十一は王隠『晋書』を引用して、この句の下に「阮籍が飲み食いをするのは、しきたりに則っているのだ」という一句がある。」としている。
毌丘儉誅,子甸、妻荀應坐死。其族兄、族父虞竝景帝姻通,共表魏帝以保其命。詔聽離婚。荀所生女芝爲潁川太守劉子元妻,亦坐死,以懷妊繋獄。荀辭詣曾乞恩曰:「芝繋在廷尉,顧影知命,計日備法。乞沒爲官婢,以贖芝命。」曾哀之,騰辭上議。朝廷僉以爲當,遂改法。語在刑法志。
毌丘倹が討伐され(255)、子の毌丘甸、妻の荀氏が死刑に処せられようとしていた。荀氏の族兄の荀、族父の荀虞、景帝(司馬師)は〔司馬師の妹が荀霬と〕結婚して親戚となっていたため(??)、共に魏帝に文書を差しだして、彼女の命を乞うた。詔は離婚を聞き入れた。荀氏が生んだ娘芝が潁川太守劉子元の妻となり,また死刑に処せられようとしていた。懐妊を理由に獄に繋がれ、荀氏は訴え出て何曾に会い、恩情を乞うて次のように言った。「芝は獄に繋がれて廷尉に居り,〔自分の〕影を見て命があるのを知る〔ような状況です〕。日数を考慮して法を整備し、没収して官婢とすることで芝の命に贖ってください。」何曾はこれを哀しみ、急いで訴え出て議案を提出した。朝廷ではみな法を定めるものとし、遂に法を改正した。言葉は刑法志にある。(14)
(??)「其族兄、族父虞竝景帝姻通」 陳寿『三国志』魏書十荀彧伝に、「荀霬の妻は、司馬景王(司馬師)・文王(司馬昭)の妹である」とある。荀霬は荀惲の子、荀彧の孫。荀の甥にあたる。
(14)「語在刑法志」 房玄齢『晋書』刑法志にある。中華書局の点校本では、P.926。
曾在司隸積年,遷尚書。正元年中爲鎭北將軍、[一0]都督河北諸軍事、假節。將之鎭,文帝使武帝、齊王攸辭送數十里。曾盛爲賓主,備太牢之饌。侍從吏騶,莫不醉飽。帝既出,又過其子劭。曾先敕劭曰:「客必過汝,汝當豫嚴。」劭不冠帶,停帝良久,曾深以譴劭。曾見崇重如此。遷征北將軍,進封潁昌郷侯。咸熙初,拜司徒,改封朗陵侯。文帝爲晉王,曾與高柔、鄭沖倶爲三公,將入見,曾獨致拜盡敬,二人猶揖而已。
〔一0〕正元年中 「年」字疑衍,通志一二一上無。
何曾は司隷校尉を長く務めたのち、尚書に転任した。正元年間(254〜255)に鎮北将軍、都督河北諸軍事、仮節になった。ちょうど軍隊駐屯地へ向かおうとする時、文帝(司馬昭)は武帝(司馬炎)と斉王の司馬攸に別れを告げさせ、数十里を見送らせた。何曾は盛んに客人となったり、主人となったりしながら、牛・羊・豕(ぶた)がそろったごちそうを準備していた。侍従や役人、馬の手綱を引くものに至るまで、酔って満腹にならないものはなかった。武帝(司馬炎)が帰途につき、何曾の子何劭の前を通り過ぎた。何曾は先に何劭を戒めて言っていた。「客人は必ずおまえの前を通る。おまえはあらかじめ威儀を正していなければならない。」何劭は冠も帯もしていなかったので、武帝(司馬炎)をしばらくの間引き留めた。何曾は深くこのことで何劭を責めた。何曾が尊重されることは、このようであった。征北将軍に転任し,昇格して潁昌郷侯に封じられた。咸熙年間(264〜265)の初め,司徒を拝命し(264)(15),改めて朗陵侯に封ぜられた.文帝(司馬昭)が晋王となった時(264)(16),何曾は高柔、鄭沖と倶に三公となった。ちょうど謁見しようとした時、何曾は一人拝礼をし敬意を表したが、〔ほかの〕二人はまだ略式の挨拶をしたのみであった。(17)
「年」の字は誤って書き足されたものと思われる。鄭樵『通志』一二一上には、〔この字は〕無い。
(15)「拜司徒」 陳寿『三国志』三少帝紀に「咸煕元(264)年・・・三月丁丑(17日)、・・・、征北将軍何曾は司徒となった」とある。
(16)「文帝爲晉王」 房玄齢『晋書』文帝紀に「〔咸煕元(264)年〕三月己卯(19日)、文帝(司馬昭)の爵位を進めて、王とした」とある。
(17)「曾與高柔、鄭沖倶爲三公,將入見,曾獨致拜盡敬,二人猶揖而已。」 陳寿『三国志』三少帝紀に「咸煕元(264)年・・・三月丁丑(17日)、司空王祥を大尉とし、征北将軍何曾は司徒とし、尚書左僕射荀顗は司空となった」とあり、何曾と共に三公(太尉・司徒・司空)となったのは、王祥・荀顗であるので、高柔・鄭沖は誤り。王祥と荀顗が晋王司馬昭に謁見する話は王祥伝にもあるが、王祥伝では王祥のみが略式の挨拶をしたことになっている。
陳寿『三国志』三少帝紀によると、高柔は景元四(263)年九月に薨去している。
ちなみに陳寿『三国志』三少帝紀によると、高柔・鄭沖が三公となったのは、甘露元(256)年八月のことである。
武帝襲王位,以曾爲晉丞相,加侍中。與裴秀、王沈等勸進。踐阼,拜太尉,進爵爲公,食邑千八百戸。泰始初,詔曰:「蓋謨明弼諧,王躬是保,所以宣崇大訓,克咸四海也。侍中、太尉何曾,立コ高峻,執心忠亮,博物洽聞,明識弘達,翼佐先皇,勳庸顯著。朕纂洪業,首相王室。迪惟前人,施于朕躬。實佐命興化,光贊政道。夫三司之任,雖左右王事,若乃予違汝弼,匡奬不逮,則存乎保傅。故將明袞職,未如用乂厥辟之重。其以曾爲太保,侍中如故。」久之,以本官領司徒。曾固讓,不許。遣散騎常侍諭旨,乃視事。進位太傅。
武帝(司馬炎)が王位を継ぐと、何曾を晋の丞相とし(18)、侍中を加えた。裴秀・王沈達は〔武帝(司馬炎)に〕帝位に就くことを勧めた。〔武帝(司馬炎)が〕帝位に就く(265)と、〔何曾を〕大尉に任命し、爵位を進めて〔朗陵〕公とし(19)、食邑は千八百戸となった。泰始年間(265〜274)の初め、武帝(司馬炎)は言った。「思うにはかりごとが賢明で、よく補佐される(20)から王の体はこの通り保たれ(21)、’宣崇大訓’の故に、広く天下に勝つことができたのである。侍中・大尉である何曾は、徳が優れ、忠信に篤く、広い見識を持ち、判断力があって、先皇を助けた功績は顕著である。朕は帝業を継ぎ、王室の者を大臣の首席としたが、〔これは〕ただ先祖〔の栄光〕を朕の身に施すためである(22)。〔何曾は〕まことに帝業を助け変化を起こし、政道を補佐した。そもそも三司の務めは、ただ帝業を助けるだけであるが、もし私が誤ったのならば、君〔何曾〕が正せ(23)。正すに〔権限が〕及ばないのであれば、太保・太傅に位せよ。そもそも三公の職務を明らかにしようとするには、登用してその役職の重きを管理するのが一番である。何曾を太保に任命する。侍中職は現状のままとする。」これよりしばらくして、本官のままで司徒を兼務させた(24)。何曾はかたく辞退したが、〔武帝(司馬炎)〕は許さなかった。散騎常侍を派遣して説得し(25)、実務を行わせた。位を進めて太傅となった。
(18)「以曾爲晉丞相」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「武帝紀に「咸煕二(265)年九月戊午(7日)、魏の司徒である何曾を丞相とした」とある。」とある。
(19)「進爵爲公」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『三国志』魏書何夔伝の裴松之注に「『晋諸公賛』に「朗陵県公に封ぜられた」とある。」とある。
(20)「謨明弼諧」 『書経』皐陶謨第四 虞書に「曰,允迪厥コ,謨明弼諧」とある。
(21)「王躬是保」 『詩経』大雅 烝民に「王命仲山甫 式是百辟 纉戎祖考 王躬是保」とある。
(22)「迪惟前人,施于朕躬。」 『書経』君奭第十八 周書に「非克有正,迪惟前人光,施于我沖子」とある。本文中は「光」の文字がないが、『書経』を踏まえて「光」にあたる訳を補って訳した。
(23)「予違汝弼」 『書経』益稷謨第五 夏書に「予違汝弼,汝無面從,退有後言」とある。
(24)「以本官領司徒」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『北堂書鈔』五十一に王隠『晋書』を引用して「以太傅領司徒」としている。考えるに〔王隠『晋書』の〕「傅」は「保」の誤りである。思うに「進位太傅」が後にあるからである。」とある。
(25)「曾固讓,不許。遣散騎常侍諭旨」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『太平御覧』二百八・『北堂書鈔』五十二に王隠『晋書』を引用して「太保のままで司徒を兼務させた。何曾はかたく辞退したが、詔は言った。「司徒は昔の丞相の職であり、昔から今に至るまですべて人物や政治・教化の基本を論じて君子の道を広くするのである。故に皆から選ばれたのであって、いたずらに先延ばしをする事は聞き入れることはできない」」とある。」とある。
曾以老年,屢乞遜位。詔曰:「太傅明朗高亮,執心弘毅,可謂舊コ老成,國之宗臣者也。而高尚其事,屢辭祿位。朕以寡コ,憑ョ保佑,省覽章表,實用憮然。雖欲成人之美,豈得遂其雅志,而忘翼佐之益哉!又司徒所掌務煩,不可久勞耆艾。其進太宰,侍中如故。[一一]朝會劍履乘輿上殿,如漢相國蕭何、田千秋、魏太傅鍾繇故事。賜錢百萬,絹五百匹及八尺牀帳簟褥自副。置長史掾屬祭酒及員吏,一依舊制。所給親兵官騎如前。主者依次按禮典,務使優備。」後毎召見,敕以常所飮食服物自隨,令二子侍從。
〔一一〕侍中如故 「侍中」下原有「公」字。斠注:丁丙善本書室藏書志曰,宋刊大字本晉書不衍「公」字。按:殿本亦無「公」字,今據刪。
何曾は年老いたので、しばしばその位を譲ることを願い出た。武帝(司馬炎)は言った。「太傅(何曾)は、その人格は明らかではっきりしており、高潔で正しい。忠信に篤く、度量が大きく意志が強い。昔からの良いおこないが年老いて立派な徳として体得された言うべきであり、国家の重臣である。しかもその志は高く(26)、しばしば官職を辞退する。朕はわずかな徳しかないので、〔彼の〕補佐に頼るのみで、〔彼の〕上奏を省みると、本当に役立つことばかりで〔そう思うと〕がっかりする。学問や道徳を兼ね備えた完璧な人間の誉れを望むといっても、どうしてその高尚な心がけを遂げて、補佐の利益を忘れるであろうか!また司徒が管轄すべき職務が煩雑であり、長くご老人を疲れさせてはならない。そこで、〔何曾を〕太宰に昇進させ、侍中はもとのままとする。参内する際、剣を帯び、履物を履いたまま、輿に乗って昇殿すること(27)、漢の相国蕭何(28)・田千秋(29)・魏の太傅鍾繇(30)の故事の如くせよ。銭百万、絹五百匹、及び八尺のねやのとばりとたかむしろのすのこをを与える。自己(何曾)を補助する者として(31)、長史掾属祭酒及び員吏を置く。すべて旧制度に従って、与えた親兵官騎は以前のままとする。つかさどる者は順序に従って礼典を検討し、十分に備えをさせる。」後に呼び寄せて会う毎に、敕は常に飲食する所に自ら従い、二人の子を付き従わせた。
「侍中」の下に元来「公」の字があった。呉仕鑑『晋書』斠注によると、「丁丙『善本書室蔵書志』に「宋刊大字本『晋書』は「公」の字を書き足していない」とある。」とある。考えるに殿本(武英殿本)もまた「公」の字はなく、ここではこれらに拠って削る。
(26)「高尚其事」 『周易(易経)』蠱に「上九。不事王侯。高尚其事。」とある。
(27)「劍履乘輿上殿」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『北堂書鈔』一百三十九に王隠『晋書』を引用して「詔を出して車に乗って殿門に入らせた」とある。」とある。
(28)「蕭何」 前漢、沛の人。前漢の相国。高祖が帝位に就いたとき、蕭何は功労第一として、剣を帯び、履物を履いたまま昇殿することができる特権を与えられ、皇帝に謁見する際も小走りしなくてもよいとされた。班固『漢書』巻三十九に伝がある。
(29)「田千秋」 前漢、長陵の人。車千秋とも言う。前漢の丞相。昭帝の時、小車に乗って宮殿の中に入ることができたので、「車丞相」と号した。班固『漢書』巻六十六に伝がある。
(30)「鍾繇」 鍾繇は字を元常といい、豫州潁川郡長社県の人。 魏の太傅。膝を患い、参内する際は輿車に乗り、勇士が輿を担いで昇殿した。陳寿『三国志』魏書第十三に伝がある。
(31)「賜錢百萬,絹五百匹及八尺牀帳簟褥自副。」 「自副」は自己を補助する意(漢語大詞典)。この意味だとするとこの断句は不自然である。「自副」は次の文章「置長史掾屬祭酒及員」にかかるものと考えて、「賜錢百萬,絹五百匹及八尺牀帳簟褥。自副置長史掾屬祭酒及員,」とするのがよいと思われる。
咸寧四年薨,時年八十。帝於朝堂素服舉哀,賜東園祕器,朝服一具,衣一襲,錢三十萬,布百匹。將葬,下禮官議諡。博士秦秀諡爲「繆醜」,帝不從,策諡曰孝。太康末,子劭自表改諡爲元。
咸寧四(278)年薨去した。享年八十歳(32)。武帝(司馬炎)は朝堂にて素服(葬儀の際着る白色の着物)で挙哀の礼(死者のために声をあげて泣く礼)を行った。東園の秘器、朝服一具、衣一襲、銭三十萬、布百匹を賜った。まさに葬儀をおこなおうとした時、下礼官が諡を検討した。博士の秦秀(33)は諡を「繆醜」としたが武帝(司馬炎)は採用せず(34)、試問して決定した諡を孝とした。太康年間(280〜289)の末に、〔何曾の〕子である何劭が自ら上奏文を奏上して、諡を改め、元とした。
(32)「咸寧四年薨,時年八十。」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「『三国志』魏書何夔伝〔裴松之〕注は『晋諸公賛』を引用して、「年八十余りで薨去した。」とある。『寰宇記』二に「何曾の墓は太康県の西北二十里にある」とある。」とある。
(33)「博士秦秀」 秦秀は字を玄良といい、并州新興郡雲中県の人。咸寧年間に博士となる。房玄齢『晋書』巻五十に伝がある。
(34)「博士秦秀諡爲「繆醜」,帝不從」 呉仕鑑『晋書斠注によると,『太平御覧』五百六十二に干宝『晋紀』を引いて、秦秀が「名目と実質を誤ったので『謬』、権力に頼ってほしいままに振る舞ったので『醜』、あわせて何曾の諡を『謬醜』するのがよい」としたとある。
曾性至孝,閨門整肅,自少及長,無聲樂嬖幸之好。年老之後,與妻相見,皆正衣冠,相待如賓。己南向,妻北面,再拜上酒,酬酢既畢便出。一歳如此者不過再三焉。初,司隸校尉傅玄著論稱曾及荀曰:「以文王之道事其親者,其潁昌何侯乎,其荀侯乎!古稱曾、閔,今曰荀、何。内盡其心以事其親,外崇禮讓以接天下。孝子,百世之宗;仁人,天下之命。有能行孝之道,君子之儀表也。詩云:『高山仰止,景行行止。』令コ不遵二夫子之景行者,非樂中正之道也。」又曰:「荀、何,君子之宗也。」又曰:「潁昌侯之事親,其盡孝子之道乎!存盡其和,事盡其敬,亡盡其哀,予於潁昌侯見之矣。」又曰:「見其親之黨,如見其親,六十而孺慕,予於潁昌侯見之矣。」
何曾の性格は孝にすぐれ、女性関係についても厳格であった。若い頃から年を重ねるに至っても、音楽や妾を好むことは無かった。年老いて後、妻と会うのに、衣冠を正し、客人を接待するかの如くであった。何曾は南に向き、妻は北面し、二度お辞儀をして酒を奉って杯を交わし、すべて終わってから出かけた。一年中このように〔儀式をおこない〕して、誤らないことがほとんどであった。その昔、司隷校尉の傅玄(35)は論を著して何曾及び荀について論じた。「文王(姫昌。周の文王)の道に基づいて親に仕えた者は、潁昌の何曾殿であろうか、それとも荀殿であろうか。古くは曾・閔(曾子・閔子騫)と称し、今は荀・何(荀・何曾)という。内はその心を尽くして親に仕え、外は礼・譲を尊び天下と接する。親に仕える子としては、史上第一である。徳の完成した人であるのは、天から与えられたものである。孝の道を行うことができる者は、君子の手本である。詩経に『高山仰止,景行行止。(高い山は仰ぎ、大道を晴れやかに往け)』(36)とある。徳を二人の立派な行いに従わせない者は、偏らない公正な中正の道を楽しまないのである。」また、「荀・何(荀・何曾)は君子の第一人者である。」と言い、また、「潁昌侯(何曾)が親に仕えた様は、孝子の道を尽くしただろうか。〔親が〕存命中は和(仲の良さ)を尽くし、〔親に〕仕えては敬愛を尽くし、〔親を〕喪うと哀悼の意を尽くす。私は潁昌侯(何曾)にこれらを見るのである。」と言い、「親族を見るのは、親を見るのと同じであり、六十歳になっても親族を親のように深く思っている。私は潁昌侯(何曾)にこれを見るのである。」と言った。
(35)「傅玄」 傅玄は字を休奕といい、雍州北地郡泥陽県の人。泰始五(269)年司隷校尉となる。房玄齢『晋書』巻四十七に伝がある。
(36)「詩云:『高山仰止,景行行止。』」 『詩経』小雅・車舝篇に「高山仰止,景行行止。四牡騑騑,六轡如琴。(高い山は仰ぎ、大道を晴れやかに往け。馬車のたづなさばきも琴糸のように)」とある。訳は白川静著 『詩経 中国の古代歌謡』(中公新書)より採った。
然性奢豪,務在華侈。帷帳車服,窮極綺麗,廚膳滋味,過於王者。毎燕見,不食太官所設,帝輒命取其食。蒸餅上不坼作十字不食。食日萬錢,猶曰無下箸處。人以小紙爲書者,敕記室勿報。劉毅等數劾奏曾侈忲無度,帝以其重臣,一無所問。
しかし、性格は贅沢でおごっており、務めも派手で贅沢なところでおこなった。陣幕や車、服に至るまで、美しさを究め、食事も美味なるものをとり、〔その贅沢な様は〕王者を越していた。燕を見る毎に、太官(37)が用意した食事をとらなかったので、武帝(司馬炎)は命じてその〔太官が用意した〕食事を取らせた。〔またある時は〕蒸し餅の上に十字の形をした裂け目ができていなければ〔まずいものとして〕食べなかった(38)。食事〔にかける費用〕は日に万銭であり、それでも箸を置くことはなかったという。ある人が細い紙を使って手紙を書いたが、天子は書記(39)に命じて返答させなかった。劉毅(40)達はしばしば何曾の贅沢は限度を越えていると弾劾し奏上したが、武帝(司馬炎)は彼(何曾)が重臣であるとの理由で、すべて不問とした。
(37)「太官」 宮中の食事を担当する官。
(38)「蒸餅上不坼作十字不食。」 蒸餅はその上に十字形の裂け目ができていればうまい蒸餅とされた。
(39)「記室」 官名。書記・秘書官の類。
(40)「劉毅」 劉毅は字を仲雄といい、青州東莱郡掖県の人。房玄齢『晋書』巻四十五に伝がある。
都官從事劉享嘗奏曾華侈,以銅鉤紖車,瑩牛蹄角。後曾辟享爲椽,或勸勿應。享謂至公之體,不以私憾,遂應辟。曾常因小事加享杖罰。其外ェ内忌,亦此類也。時司空賈充權擬人主,曾卑充而附之。及充與v純因酒相競,曾議黨充而抑純,以此爲正直所非。二子:遵、劭。劭嗣。
都官従事の劉享(41)はかつて何曾が贅沢であると奏上するにあたり、銅製の鉤(かぎ)の形をした縫い取りのある紐で車を引いたり、牛の蹄や角を磨きあげたりした。(??)後に何曾は劉享を招聘し椽としようとし、常に勧めるが〔劉享は〕応じなかった。劉享は公平を極めることについて説き、私怨を持たないとして、遂に招聘に応じた。〔ところが〕何曾はいつも小事によって劉享に杖罰を加えた。彼(何曾)の外に寛大で内に妬むのはこの類である。司空の賈充(42)がしばらく天子のまねをした時に、何曾は賈充にへりくだり彼(賈充)に付き従った。賈充と庾純(43)が酒の飲み比べをするに及び、何曾は皆に図って賈充におもねり、庾純を抑えた。このことで、ありもしないことが正直であるとされた。二人の子があり、何遵・何劭と言う。何劭が跡を継いだ。
(41)「劉享」 何曾伝では都官従事とあり、巻七十一の陳頵伝に太守(恐らく陳頵の出身地苦県がある豫州の太守)としてその名が見える。巻八の西海公紀に見える散騎侍郎の劉享は時代的に別人と思われる。伝はない。
(??)「以銅鉤紖車,瑩牛蹄角。」 「鉤」は金属製の曲がったもので、釣り針やフックのように引っかけることができるもの。「」は礼服に施される縫い取り(模様)のこと。「紖」は「引」に通ずる。「瑩」は磨き輝かす意味。車を引く紐に必要のない派手な模様を施したり、すぐに汚れる牛の蹄や角を磨き上げるという無駄なことをおこなう事によって、何曾の贅沢ぶりをパフォーマンスで示したものと思われる。
(42)「賈充」 賈充は字を公閭といい、司州平陽郡襄陵県の人。武帝(司馬炎)の時、佐命の功により司空・侍中・尚書令であった。房玄齢『晋書』巻四十に伝がある。
(43)「庾純」 庾純は字を謀甫という。房玄齢『晋書』巻五十に伝がある。
劭字敬祖,少與武帝同年,有總角之好。帝爲王太子,以劭爲中庶子。及即位,轉散騎常侍,甚見親待。劭雅有姿望,遠客朝見,必以劭侍直。毎諸方貢獻,帝輒賜之,而觀其占謝焉。咸寧初,有司奏劭及兄遵等受故鬲令袁毅貨,雖經赦宥,宜皆禁止。事下廷尉。詔曰:「太保與毅有累世之交,遵等所取差薄,一皆置之。」遷侍中尚書。
何劭は字を敬祖と言う。幼い頃は武帝(司馬炎)と同い年であることもあって、竹馬の友であった。武帝(司馬炎)が王太子となると、何劭を中庶子とした。武帝(司馬炎)が即位すると(265)、何劭は散騎常侍に転任し、大変厚遇された。何劭は常に姿があって、遠方より客人が朝見する際には、必ず何劭を宿直させた。各方面より朝貢がある毎に、武帝(司馬炎)はその貢ぎ物を与え、それらを観賞して文書によらず口上で礼を述べた。咸寧年間(275〜279)の初め、官吏が、何劭及びその兄の何遵等がもと〔冀州平原郡〕鬲県の長官であった袁毅(44)から賄賂を受けたと劾奏し、罪を許されたといえども、皆禁止となった。下廷尉に仕えた。詔は「太保は袁毅と長年に渡る付き合いがあり、何遵等が受け取ったものとの差はほとんどない。ひとまず皆そのままとする。」侍中尚書に転任した(45)
(44)「袁毅」 伝はないが、その名が巻四十三山濤伝、巻四十四鄭默伝・華廙伝、巻九十三王恂伝に見える。山濤伝に「陳郡の袁毅嘗て鬲の令と為り」とあることから、豫州陳郡の出身。冀州平原郡鬲県の長官であった時、有力者に賄賂を贈っていたらしい。
(45)「遷侍中尚書」 呉仕鑑『晋書』斠注によると,「『北堂書鈔』五十八に「晋の起居注(天子のそばで言行を記録する官)は記している。「武帝(司馬炎)は太康四(283)年詔して次のようにいった。「何劭は既に朝位を歴任し、学問を広く修め、天子の過ちを諫めたり、意見を聞いたりする才能があるので、何劭を侍中とする」」とある。」とある。
惠帝即位,初建東宮,太子年幼,欲令親萬機,故盛選六傅,以劭爲太子太師,通省尚書事。後轉特進,累遷尚書左僕射。
惠帝が即位する(290)(46)と、初めに東宮(太子の宮殿)を建てた。〔恵帝は〕太子が幼いころから,天子の政治に親しませようと望んだので、よく六傅(47)を選び、何劭を太子太師(太子の指導役)、通省尚書事に任命した(290)(48)。後に特進に転任し、尚書左僕射に昇進した(297)(49)
(46)「惠帝即位」 房玄齢『晋書』恵帝紀に「〔太煕元(290)年〕四月己酉(20日),武帝が崩御した。この日、皇太子は皇帝の位に就き、大赦を発し、改元して永煕とした。」とある。
(47)「六傅」 六人の太子の守り役。太子大師・太傅・太保・少師・少傅・少保のこと。
(48)「以劭爲太子太師,通省尚書事。」 呉仕鑑『晋書』斠注によると,「『北堂書鈔』六十五に「王隠『晋書』に次のようにある。「本官を以て太子大師を兼務した。・・・賈后は子がなく、遂に遹を太子とし天子の政治に親しませようと望んだが、まだ若かったため、六傅を選び何劭を大師と通省尚書事を兼務させた。」労格『晋書校勘記』には、「何劭は大煕年間(291)の初め、中書令となり、元康元(291)年八月太子大師から出て、都督豫州諸軍事となり、許昌を鎮めた。何劭伝では、皆載せていない。」とある。房玄齢『晋書』恵帝紀に「〔永煕元(290)年〕秋八月壬午,(中略)中書監何劭を太子太師とした。」とある。
(49)「累遷尚書左僕射。」 呉仕鑑『晋書』斠注によると,「『文選』の游仙詩注に「臧栄緒『晋書』に「その昔、相国の掾となり、尚書左僕射に転任した。」」とある。」とある。思うに本伝はに相国の掾となったというのを採用しなかった。 房玄齢『晋書』恵帝紀に「〔元康七(297)年〕九月,(中略)太子太師何劭を尚書左僕射とした。」とある。
劭博學,善屬文,陳説近代事,若指諸掌。永康初,遷司徒。趙王倫簒位,以劭爲太宰。及三王交爭,劭以軒冕而游其間,無怨之者。而驕奢簡貴,亦有父風。衣裘服翫,新故巨積。食必盡四方珍異,一日之供以錢二萬爲限。時論以爲太官御膳,無以加之。然優游自足,不貪權勢。嘗語郷人王詮曰:「僕雖名位過幸,少無可書之事,惟與夏侯長容諫授博士,可傳史册耳。」所撰荀粲、王弼傳及諸奏議文章竝行於世。永寧元年薨,贈司徒,諡曰康。子岐嗣。
何劭は博学であり、よく文章を書いた。近い時代の事柄を述べる様は、掌を指すように容易に知ることができた。永康年間(300)の初め、司徒に転任した(300)(50)。趙王倫(司馬倫)が帝位を簒奪した時、何劭を太宰に任命した(301)(51)。三人の王が争い合うに至っても、何劭は礼装にて車に乗ってその(三人の王の)間を行き来したので、彼(何劭)を恨む者はなかった。驕り高ぶり横柄な様は、父(何曾)に似ていた。衣服や身の回りの品々は新しいものから古いものまでたくさん積まれていた。食事は必ず四方の珍味を尽くして、一日の食事は二万銭を限度としていた。時の人は、太官となって膳を給仕したとしても、(何劭の食事に)加えるものがないと論じた。しかしのんびりと過ごして満足し、権勢を貪ることはなかった。嘗て〔何劭が〕語っていたのを同郷の王詮(52)が次のように語った。「僕(何劭)は名誉や地位が不相応なまで高いが、幼いころは書き残すべきことはなかった。ただ、夏侯長容(53)と博士を諫授したことがあって、記録に伝えられているだけだ。」と。荀粲伝・王弼伝や諸々の奏議や文章を編集したり、世の中におこなった。永寧元(301)年薨去(54)。司徒を追贈された。諡は康という。子の何岐が跡をついだ(55)
(50)「永康初,遷司徒。」 房玄齢『晋書』恵帝紀に「〔永康元(300)年〕夏四月(中略)丁酉(7日),(中略)左光祿大夫何劭は司徒となった。」とある。
(51)「趙王倫簒位,以劭爲太宰。」 房玄齢『晋書』恵帝紀に「〔永寧元(301)年〕春正月乙丑(9日)、趙王倫(司馬倫)帝位を簒奪した。」とあり、司馬光『資治通鑑』晋紀六には「〔永寧元(301)年〕春,正月,(中略)丙寅(10日),(中略)何劭は太宰となった。」とある。
(52)「王詮」 不明。
(53)「夏侯長容」 伝はないが、列伝第十七傅玄伝に「(夏侯)長容は、夏侯駿である。」とあり、陳寿『三国志』魏書九夏侯淵伝の裴松之注には「(夏侯威の)男子、駿は并州刺史。」とある(夏侯威は夏侯淵の子)。列伝第十七傅咸伝に「豫州大中正夏侯駿」、列伝第二十庾旉伝に「尚書夏侯駿」とあり、武帝(司馬炎)の頃はこれらの官職に就いていた。帝紀第四恵帝紀には、「恵帝(司馬衷)の元康六(296)年十一月、安西将軍として氐族の斉万年を討伐した」とある。この戦闘を題材とした潘岳の「関中詩」が『文選』にあり、「誰其継之夏侯郷士」と謳われている。
(54)「永寧元年薨」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「労格『晋書校勘記』に「本紀に「永寧元(301)年十二月、司空何劭薨去した」とあるが、これは太宰から司空に転任したのである。注に「この年梁王肜(司馬肜)は太宰となり司徒を兼務した。」とある。考えるに『資治通鑑』晋紀に「永寧元(301)年十二月、穎昌康公何劭が薨去した」とあるが、何劭は朗陵公を嗣いで封ぜられたので穎昌とあるのは誤りである。」とある。
(55)「子岐嗣」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「魏志何夔伝裴松之注に『晋諸公賛』が「子の蕤が嗣ぐ」としている。『太平御覧』五百六十一に「王隠『晋書』に「養子の岐を後継とした」とある。」『芸文類聚』五十一に『晋中興書』に「泰元二年、興滅継絶何曾の後何闡が朗陵侯となる」とある。石勒載記に「朗陵公襲」とある。考えるに襲・闡の名は本伝には見えない。岐の子孫であろう。魏志何夔伝が蕤としたのは、文章の誤りである。」とある。
劭初亡,袁粲弔岐,岐辭以疾。粲獨哭而出曰:「今年決下婢子品。」王詮謂之曰:「知死弔死,何必見生!岐前多罪,爾時不下,何公新亡,便下岐品,人謂中正畏強易弱。」[一二]粲乃止。
〔一二〕人謂中正畏強易弱 「中正」,各本作「忠正」。王懋讀書記疑七云:「忠正」當作「中正」,袁粲時為其州中正。按:王説是。今依殿本、御覽五六一引王隱晉書、冊府八八五改。
何劭が薨去した時、袁粲が何岐のもとへ弔問に訪れたが、何岐は病を理由に辞退した。袁粲はひそかに一人泣いて次のように言った。「今年中に婢子の品を下げてやる。」と。王詮はこれについて言った。「死を知って死を弔うのに、どうして生を見るのか?何岐は以前より罪が多く、その時に〔品を〕下さず、何劭殿が亡くなってから、何岐の品を下げたのでは、人々は中正の法は強きものを畏れ、弱きものを侮るものだと言うだろう」と。袁粲は〔これを聞いて〕止めた。
「中正」は各本では「忠正」となっている。王懋пw読書記疑』七にによると、「「忠正」は「中正」とすべきである。袁粲は当時その州の中正となっている。」とある。考えるに王懋рフ説が正しい。今は殿本(武英殿本)・李昉『太平御覧』五六一で引用されている王隠『晋書』・王欽若『冊府元亀』八八五によって改める。
遵字思祖,劭庶兄也。少有幹能。起家散騎黄門郎、散騎常侍、侍中,累轉大鴻臚。性亦奢忲,役使御府工匠作禁物,又鬻行器,爲司隸劉毅所奏,免官。太康初,起爲魏郡太守,遷太僕卿,又免官,卒於家。四子,嵩、綏、機、羨。
何遵は字を思祖といい、〔何曾の妾が生んだ子で〕何劭の異母兄である。幼くして才能があった。招聘され官職に就くと、散騎黄門郎・散騎常侍・侍中・大鴻臚と昇進していった。性格はまた贅沢が過ぎ、天子の倉の職人に禁制の物を作らせ、また、旅行の器具を売った。司隸の劉毅に弾劾の奏上をされ、罷免された。太康年間(280〜290)の初め、招聘され魏郡太守となり、太僕卿に転任するも、また官職を罷免された。家で卒去した。四人の子があり、〔名を〕何嵩・何綏・何機・何羨という。
嵩字泰基,ェ弘愛士,博觀墳籍,尤善史漢。少歴清官,領著作郎。
何嵩は字を泰基といい、心が広く他人に親切で、聖賢が残した書籍を広く読み、最も『史記』『漢書』に詳しかった。若くして清官に就き、著作郎を兼任した。
綏字伯蔚,位至侍中尚書。自以繼世名貴,奢侈過度,性既輕物,翰札簡傲。城陽王尼見綏書疏,謂人曰:「伯蔚居亂而矜豪乃爾,豈其免乎!」劉輿、潘滔譖之於東海王越,越遂誅綏。初,曾侍武帝宴,退而告遵等曰:「國家應天受禪,創業垂統。吾毎宴見,未嘗聞經國遠圖,惟説平生常事,非貽厥孫謀之兆也。及身而已,後嗣其殆乎!此子孫之憂也。汝等猶可獲沒。」指諸孫曰:「此等必遇亂亡也。」及綏死,嵩哭之曰:「我祖其大聖乎!」
何綏は字を伯蔚といい、位は侍中尚書に至った(56)。その家柄を継いで、驕り高ぶる様は過度であり、性格は常に物事を軽んじ、手紙においても驕り高ぶっていた。城陽郡の王尼は何綏の文書を見て、人に次のように言った。「伯蔚(何綏)は世が乱れているのに、豪奢を誇ることはこのようである。どうして許されるであろうか!」と。劉輿・潘滔はこのことを東海王越(司馬越)に訴え、司馬越は遂に何綏を誅殺した。その昔、何曾が武帝の宴席に侍っていた時に、退室して何遵達に告げて次のように言った。「国家は天命に応じて禅譲を受け、創業した国政を後世に伝えるのである。私は常に宴を見るが、未だ嘗て国家統治の目標を聞いたことがない。ただ普段のできごとを述べているだけである。これは子孫に残すものがないというはかりごと(滅亡)の兆である。〔わが〕身に及ぶのみで、跡継ぎは危ぶむであろうか!これは子孫の憂いである。おまえ達もやはり没落することになるであろう。」と。孫達を指して次のように言った。「この子達は必ず乱に遭って滅ぶであろう。」と。何綏が死ぬと、何嵩は泣いて言った。「我が祖父は最高の聖人であった!」と。
(56)「位至侍中尚書」 呉仕鑑『晋書』斠注によると、「魏志夔伝裴松之注に『晋諸公賛』が「永嘉年間(307〜312)に位は尚書に至った」としている。」とある。
機爲鄒平令。性亦矜傲,責郷里謝鯤等拜。或戒之曰:「禮敬年爵,以コ爲主。令鯤拜勢,懼傷風俗。」機不以爲慚。
何機は〔青州済南郡〕鄒平県の長官となった。性格はまたおごり高ぶり、郷里の謝鯤等に拝礼するように命じた。或る人はこれを戒めて言った。「年齢と爵位を敬うのは、〔相応の〕徳が備わっているかどうかにかかっている。謝鯤を拝礼させることが、風俗を乱すことを懼れる。」と。何機は恥じ入ることはなかった。
羨爲離狐令。既驕且吝,陵駕人物,郷閭疾之如讎。永嘉之末,何氏滅亡無遺焉。
何羨は〔兗州済陰郡〕離狐県の長官になった。常に驕り高ぶり、かつけちけちしていており、人々を圧倒していたので、村里では何羨を敵のように憎んだ。永嘉年間(307〜313)の末,何氏は滅亡し、残ったものはいない。
<更新履歴>
2005.01.25:第一版。