
あの日・あの時・あの場所で
初夏の北陸路ソロツーリング(2017/6) 丸谷光昭
梅雨の晴れ間を縫って、泊りがけでは初めてのソロツーリングを計画。幼い頃の修学旅
行宜しく前々日から準備に余念がない。地図アプリでコースを作成しGPSに入れる。
自車位置の確認や山中での分岐点等の判断などで頼りになる。折角の北陸行である、旨
いもん目当てで宿を探すのもまた楽しみである。時に外れもあるが・・・。
6/13 朝のラッシュを避けて遅めのサンダーバードに乗車。芦原温泉で乗り換え、大
聖寺まで車窓の風景を楽しむ。駅頭で「ポール号」を組み立て、14時いよいよスター
トである。確か40年ほど前に両親のお供をしたとの記憶がある吉崎御坊を訪ねる。浄
土真宗中興の祖、蓮如が布教の中心に据えた場所で600年の伝統がある国指定の史跡
だ。次に汽水の北潟湖沿いに「ハミングロード」自転車道を南東に進み、波松の集落を
ぬけて日本海に出た。海沿いに行くと松と奇岩が織りなす独特の風情の越前松島だ。道
を少し下りると丸岡藩が設置した砲台跡があり、下草などが刈り取られ整備されてい
る。陽が傾き出した。西にどっしりと構えた雄(お)島が見える。赤い欄干の橋で陸と結
ばれている不思議な島で、方位磁針を狂わせる磁石岩、冷たい水がわき出る瓜割の水、
柱状節理や板状節理などがあるらしいが見学はしなかった。もうそこに東尋坊のタワー
が見えている。遊歩道を行くことにする。アップダウン、時に階段の担ぎ等があり結構
きつい。今回はサドルバッグにして正解だった。ここから一般道を南下して三国港に着
く。義父が自衛隊在任時、戦後の掃海の仕事をしていた時にこの港で船が座礁し地元の
漁船に助けてもらったと言うエピソードのある場所だ。自然港で九頭竜川、竹田川、兵
庫川が流れ込んでいる。ゆっくりし過ぎて宿には7時近くに着いた。シャワーを浴びビ
ールを一気に飲み干す。旨い・・・。
6/14の朝、外が白んできた。朝焼けの快晴である。早めの朝食を済ませ、8時前2日
目の出発。寝ぼけていたのか九頭竜川を西に渡らず南下して福井市に向かっていること
に気付き、西へ向く次の布施田橋で修正。40分ほどで三里浜に出る。防風林の松林に
囲まれ朝の冷気が残る中、松蔭町に到着。ここもリアス式海岸が続き荒々しい中にも風
情が感じられる。ここから方向は南に変わり変化に富む海岸沿いに快調に進む。また奇
岩が見える。洗濯板のよう見える岩は柔らかい泥岩層が波に削り取られ、硬い砂岩層だ
けが残り凸凹の地形になるようだ。弁慶の洗濯岩と言う。さらに少し走りトンネルを抜
けたところが大味だ。2年前の10月全国クラブラリーの折、福井駅から日本海へ出た
ところがこの交差点である。遠い昔の様に感じられる。南東に方向を変え、足見(たる
み)の滝、そして何とも不思議な大きな空洞が形造られた呼鳥(こちょう)門。越前海岸
の中でも一番の景勝地でもある。礫岩が自然の風と波の浸食作用を受けて出来たと言
う。辺りは遊歩道になっているが門の下は落石が多く現在は通行禁止にされている。名
前の由来は、鳥が羽をひろげて舞い下りてくるのに似ているところ、当時の福井県知事
が、鳥(観光客)を呼ぶ門、「呼鳥門」と名付けたらしい。越前岬はあっと言う間に過
ぎ、長い玉川トンネルを越えたところで昼食。やはり越前、迷わず刺し身定食を頂く。
この時期のイカは何とも美味で最近で一番に感じた。食後、宿には少し早いので先ほど
通り過ぎた越前灯台まで登ることにした。いきなり滑り止めの施した急坂が待ち受け
る。「降りて押そう。」「恥ずかしくない、誰も見ていないぞ。」独り言を言いながら
も上って正解。しんどい甲斐があった。見事な日本海のパノラマだ。人も少ない。そよ
風が心地よい。宿には少し早めに着く。自転車は屋内に入れてもらう。たっぷりの温泉
につかり疲れが吹っ飛び盛りだくさんの魚介料理に満足。
6/15明けて向かいの日本海はオレンジ色の朝焼けが水平線上に帯状に輝いている。早め
の身支度をして7:50出発。北陸地方はまだ梅雨に入っておらず朝風が涼しく爽やか
だ。干飯(かれい)崎を過ぎたあたりから進行方向に敦賀が近くに見え出した。旅館や
民宿が立ち並ぶ街道が続く。北前船の寄港地、河野(こうの)に着き、船主の館跡を見
て廻る。この少し手前、今泉に西街道(馬借街道)入口があり、越前市府中までの15
qで、秀吉はじめ織田方の多くの武将たちがこの街道を通っていたと言う。さてここか
らは普通すんなり海岸沿いの河野海岸道路を行くのだが、山中峠の上りを楽にすべくア
マゴゼ山の稜線を辿ることにした。大良(だいら)へ抜けるコースで最高点は230m
だ。道の両側は梅林が続く。やがて国道8号線(敦賀街道)に合流し、南に若狭湾を一望
できる道の駅がある。トラックの群に挟まれながら急坂をいくつものトンネルを抜け、
最後の大谷第5トンネルを出て700mほど行くと、「ふるさと林道」と言う山中隧道
上部へ出る曲がりくねった道が続き最高点は400mである。隧道の上部で「山中峠へ
700m」の標識があるが草が生い茂り、しかも砂利道。行くのを諦め、坂を下って山
中隧道へ。ここは今庄から来ると最初の隧道で長さ1 1 70m。入口に唯一のスイ
ッチバックの遺構がある。漏水の滴る薄暗い、しかも寒い位のひんやりとした寂しい隧
道をいくつか抜け、杉津(すいづ)PAで北陸道をくぐって上り車線沿いに曽路地谷、
鮒ヶ谷、真っ暗な葉原隧道を無事抜け、ついに敦賀市街に入る。此の街は歴史上大きな
出来事が幾つかあり、古くは南北朝時代に新田義貞が後醍醐天皇の子息を奉じて金ヶ崎
城に立てこもり、戦国時代には信長が朝倉氏攻めの際、後方から浅井軍の攻めに遭って
金ヶ崎城から撤退を余儀なくされ、その折に殿(しんがり)を務めた秀吉が出世のきっ
かけをつかんだ事や、幕末には水戸藩攘夷派の天狗党が志を京都の朝廷に直訴の途中に
この地で幕府に降伏、353名が斬首の刑に処されるという悲劇があり、党首の「武田
耕雲斎等の墓」として気比の松原近くの来迎寺に祀られている。そして「命のビザ」で
有名なリトアニア大使だった杉原千畝が外務省の意向に反してビザを発給、6千名にも
及ぶユダヤ人難民が大陸からこの敦賀に上陸、第三国へと逃れていった。遅めの昼食
後、気比の松原の木陰で一服、旅の余韻に浸りながらJR敦賀駅から新快速で車上の人
となった。

グレートジャーニー号と台湾一周自転車旅(2013/12) 伊東 邦
台湾に行きタイワン。 ということで、行ってきました台湾一人旅。
鉄馬グレートジャーニー号と12/9 〜 23の全行程15日間の長旅です。
前日は不安で吐きそうな程でしたが…。(-_-) 行ってみて良かったです!(*^_^*)
台湾、楽しい所です。 それでは台湾ツアーの紀行文、スタートです!
★1日目 大阪 ⇒ 台北★
早朝発の飛行機で台湾へ。所要時間約3時間。旅行会社からの説明では、手荷物の制限
が厳しいとの事でしたが(カバンのサイズ、重量は規定内。液体はダメ)、実際にはノ
ーチェック。
台北の桃園空港では携帯電話の手続き。
1.4年前に中国で買った携帯電話に、台湾のプリペイド式SIMを入れる。
2.日本から持って行った普段使いのスマホの地域設定を台湾に変更。
3.外国人専用Wi-Fi無料申請。
ネットで予約していたホテルに無事チェックイン。
メールで自転車レンタルを予約していたジャイアントへ確認の電話。
岩井さんにご紹介頂いた台北の方(N様)の事務所を訪ねに外出。
歩いているとやっぱり暑い。でも現地の方々はセーターやダウンジャケット(!!!)を
着ている。
どうもこちらの方の感覚では真冬らしい。
★2日目 台北 ⇒ 新竹の10km手前 走行距離(推定): 60km★
ホテルを早めにチェックアウトし、ジャイアントへ向かう。店内で長旅の相棒・グレー
トジャーニー号と対面!前後照明・空気入れ・パニアバッグ・ボトルホルダーがついて
13日間でNT$3,100−(JP¥12,000)。いざ、台湾一周の旅に出発!
予定では新竹まで行くつもりが、台北市内を出るのに手間取り途中のモーテルに泊ま
る。
★3日目 新竹の手前 ⇒ 鹿港 走行距離(推定): 100km★
ひたすら南下。台湾西部は工業地帯との事で、道路もトラック対応なのか定規で引いた
ような直線ばかり。いくら走っても景色が変わらないので少し飽きる。
台湾の道は大抵二輪専用路か歩道が完備されているのでほとんど危険は感じません。但
し、高架・大きな橋などは高速道路のようなのに車に交じって走らないといけないの
で、最初は面喰いました。道路標識も日本以上に多くあり、迷いにくいです。
鹿港は古くからの貿易港で、戦前からの建物が多く残っており、レトロな街。
★4日目 鹿港 ⇒ 台南 走行距離(推定): 100km★
鉄馬站(=自転車サービスステーション)発見。が、空気はほとんど減っていない。さ
すがグレートジャーニー号! 萌えバイクも発見!
★5日目 台南 ⇒ 高雄 走行距離(推定): 60km★
台南は大都会。高雄までは距離が短いので、午前中は台南観光。
サイクリング途中でジャイアントの橋頭店を見掛けたので立ち寄り、サイクルメーター
の使い方を聞いてみる。
高雄では六合夜市を散策。途中で蛇料理屋を発見。
★6日目 高雄 ⇒ 墾丁 走行距離: 111.2km★
この辺から天気が怪しくなる。そしてここから海岸線沿いの道に。土曜日だからか自転
車乗りが多い。が、皆団体でソロ活動者は余りいない模様。
★7日目 墾丁 ⇒ 大武 走行距離: 104.9km★
朝一瞬だけ晴れていた!台湾最南端のビーチはとってもきれい。最短コースの海沿いの
道は不通のため山道に。どれだけ登っても頂点が来ない。しかも雨はひどくなる一方。
物音に横を見ると2mのところに猿が・・・。
★8日目 大武 ⇒ 知本温泉 走行距離: 53.6km★
温泉の看板を発見し予定変更。予算オーバーのホテルだけど、部屋の風呂も温泉で贅沢
気分。
★9日目 知本温泉 ⇒ 寧埔 走行距離: 96.6km★
朝から雨が降ったりやんだり。宿の向かい側の食堂で「昨日も日本人が来たよ」と言わ
れる。その人が書いた住所を見ると…鶴見緑地!なんと私の家のすぐ近く。しかも自転
車旅の女性。会ってみたかった。この辺から自転車専用路が出現。東部は風光明媚な観
光地が多く、台湾では自転車が国を挙げて推奨されているため、東部では自転車専用路
と鉄馬站が至る所に。ここで北回帰線を通過。
★10日目 寧埔 ⇒ 寿豊 走行距離: 89.7km★
山道を登り、頂上では2.7kmの大トンネル。が、雨で逆にトンネルが嬉しい。トン
ネルを抜けると、温泉街。加賀屋の看板も。雨と日没で少しでも早くゆっくりしたいの
に、なかなか宿が見付からず。そんな時にリゾートホテル発見。予算オーバーだが他の
宿を探す気力もなく決定。ここも温泉が有るので、今思うと結構お得。
★11日目 寿豊 ⇒ 宜蘭 走行距離(推定): 50km + 電車移動★
花蓮まで走ってから電車で移動。改札も、列車内も、自転車はそのままで入られる。車
内が混んできても誰一人「自転車邪魔やねん!」など言わない。台湾人はとってもゆっ
たり。
車中で休む"グレートジャーニー号の勇姿"
★12日目 宜蘭 ⇒ 礁渓温泉 電車移動のみ★
この日も雨で走る気を失う。礁渓は温泉街。
宿の内湯も温泉だが、せっかくなので公衆浴場へ。
入り方も清潔度もほとんど日本と同じ。温泉サイコー!
★13日目 礁渓温泉 ⇒ 基隆 電車移動のみ★
雨。電車を一度乗り換えたが、乗り換え後の車両は本来自転車持ち込み禁止だった。車
掌さんが来た時に「この人日本人だから!許してあげて!」と車内の全員がかばってく
れた。
なんて優しいの、台湾!
★14日目 基隆 ⇒ 台北 ほぼ電車移動、走行距離: 10km★
この日も雨。最後くらいは走ろうと思うも、天気予報の降水確率70%にくじけて列車
で移動。自転車可能列車は夕刻出発の為、街をブラブラ。台北駅は自転車持ち込み禁止
らしく、隣の萬華駅で下車、台北市内まで走る。やっぱりサイクリングは走らなきゃ。
正午から雨が上がっていたため、基隆から走ってくれば良かったと強く後悔。ジャイア
ントに自転車を返却し、夜にホテルにチェックイン。 さよなら、私のグレートジャー
ニー号。(^_^)/~~
★15日目 台北 ⇒ 大阪★
飛行機の出発時刻は午後2時だが、何かあっては!と思い、早めにチェックアウト。空
港には早めに着きすぎたようで時間が余る。もう少し台北を満喫すれば良かった。
【感想】
台湾人は本当に親切。フレンドリーで誰でも話し掛けてきます。
日本人である事による不利益は全く有りません。
交通に関しては、今回は大通りをメインに走ったため、自動車と自転車が同じ車線を走
る事は余りなく、日本より走りやすいです。但し、放し飼いの犬が多いのでそれだけが
怖かったです。
物価は全体的には日本の2/3程度。1日の費用は宿泊費込みで6千円。
知らずにどの列車にも自転車をそのままで持ち込んでいましたが、持ち込み可能な列車
は決まっています。輪行袋に入れればどの車両にでも無料で乗れるそうです。
航空券はLCCで往復3万円。列車を多用すれば、6日間でも十分楽しめます。
まだまだ地震の傷跡の残る台湾。
世界一の親日国家・台湾を微力ながら支援できる様、又行きたいと思っています。
謝謝、台湾!(*^_^*)

しらびそ峠から秋葉街道を北へ(2013/8) 谷口俊司
今年の夏休みは信州に行き、しらびそ峠(1,833m)を起点にして自転車を楽しむことを計
画。
8/1 6宿泊している「ハイランドしらびそ」から矢筈トンネルまで下り、折り返して登
ることにした。5時半に下りをスタート。夜明けの山々は白い空を背景にして濃い紺色
に見える。雲海の中を矢筈トンネルまでひたすら下る。矢筈トンネルは標高800m、わず
か30分で約1,000mを下ったわけだ。途中、鷹の家という宿を過ぎ、大平高原オートキ
ャンプ場を過ぎる頃にやっと調子が出てきた。自転車メーターをチェックすると30分
くらい、5qは登ったのだろう。やがて地蔵峠への分かれ道が見えてきた。明日はここ
から分杭峠に向かう。下ってきた時の記憶では、この場所で大体半分の行程かなと思
う。誰もいない山の中で、休もうという誘惑と戦うのはなかなか辛いが、ひたすらペダ
ルを回す。そのうち坂も少し緩やかになりこれはいけると感じ始めるとやがてしらびそ
峠の看板がある展望台。最後の急坂を過ぎ無事ゴールイン。標高差約1,000m、走行距離
30qで所用時間は約2時間。まだまだ出来る!翌1 7日はしらびそから大鹿村、高
遠を抜け白樺湖に向かう。走行距離は約100q。昨日と同じように朝5時半に出発
し、地蔵峠への分かれ道に向かう。山は本当に綺麗というか荘厳さを感じる。下り始め
て30分で地蔵峠(1,314m)に到着。峠といっても本当に何もない。ハイキングコースの
入り口に地蔵さんがあるのでこの呼び名がついたのか?更に下るとすぐに大鹿村の中心
に到着。大鹿村は昨年、大鹿村騒動記という映画が作られ一躍有名になった村だ。映画
でも出てきた歌舞伎に関する看板がそこかしこに立っている。町役場を過ぎた所から本
日最初の分杭峠(1,424m)への登りが始まる。分杭峠は秋葉街道の難所の一つと本では
読んではいたが、宿の支配人の「しらびそに比べれば大したことはない」との説明で軽
く考え過ぎていた。日差しが強くなる中、初めての道は地図もないので心細く、昨日と
同じ15`程の登りを何回か休憩しやっと峠に到着した。時刻は8時半。峠の上で地元
諏訪の自転車ライダーに遭遇し話を交わす。今日の行程を話すと、「これから杖突峠と
諏訪湖周辺に2つの登りがあり、かなりハードですよ」との事。分杭峠を越えると後は
又ひたすら下り、道路標示にある長谷を目指し、すぐに美和湖へ到着。ここから高遠は
すぐそこだ。高遠は桜の名所で20年ぶりの訪問、本当に懐かしい。高遠城址でまだ9
時半だし後は余裕か? ところがここから杖突峠(1,247m)までは結構距離があり暑さと
交通量の多さでくたくたに疲れ果てることになってしまった。しらびそ峠、分杭峠より
も高度の無い杖突峠で疲れ果てるとは思いもよらなかった。峠手前のゴルフ場が高さの
ピークで杖突峠の看板を見つけた時は既に下り始めており、停車する気力もなくそのま
ま茅野の町へ。峠を過ぎる頃から眼下に諏訪盆地の街が見えだし、下りきったところが
諏訪大社上社前宮。茅野駅前の蕎麦屋に到着したのが正午だった。休憩も兼ねてゆっく
り食事をしてから店を出る。白樺湖は普通なら2時間くらいと見当をつけてR152を
走る。この辺りまで来ると休暇を過ごす観光客の車で交通量が半端じゃなく、しかも気
温が高く何とも暑い。蕎麦屋を出て1 時間、この頃になるとちょっとした店を見つけ
ると冷たいものを食べる様になり完全にダウン寸前。諏訪湖まで残り10qのところで
今度はチェーンが外れ、車体とチェーンホイルの間に食い込むトラブル。結局これが最
後のダメージとなり諏訪湖まで残り5qを残してツアーを終え、近所で観光している女
房に連絡して車のヘルプを頼んだ。秋葉街道は本当に景色の素晴らしい道。今回秋葉街
道の北半分を走っただけだが、チャンスがあれば茅野から浜松まで走破したいと思う。

しまなみ海道夫婦旅(2012/10) 福元博通
9/20の夜、南港発のフェリーで出発し9/21〜23 2泊3日の日程で「しまなみ海道のサ
イクリング旅」を夫婦で楽しんできました。「しまなみ海道」へは2年前のGWに続い
て2度目の旅行となりますが、前回は長距離サイクリングの経験も無く、しまなみ海道
のコースについての予備知識もないままに橋の上から瀬戸内の絶景が楽しめると言うだ
けの軽いノリで行ったものでした。折りからのGWの混雑もあってレンタル自転車も直
ぐに借りることができず、ようやく借れたチェンジ無しのママチャリではアップダウン
の多い「しまなみ海道」のコースを走るのには大変厳しいものがあり、途中でギブアッ
プし完走せずにバスで帰ってきたという苦い想い出の旅行でした。それでも橋から観た
瀬戸内の絶景の魅力は忘れがたく、6月に「もう一度行って今度は完走したいね」と意
見がピッタリ合っての今回の旅行です。とはいっても私もサイクリングは初心者レベル
ですが、妻にいたってはママチャリで近所を走り回るぐらいの経験しかなく、チェンジ
のついたスポーツ車でサイクリングすることには不安がいっぱいという状態でした。そ
こで休みごとに少しずつスポーツ車でチェンジを使って走る経験を積み重ねると同時
に、通販でサイクルグローブや女性ならではの日焼け防止用マスク・サングラス・自転
車ウェア一式などを購入して着々と旅行準備を進めていきました。完全装備の勇姿が左
の写真です。9/20 22:30定刻通りフェリーは出航して一路東予港へ。昔のフェリーと比
べると船内設備も豪華になって動くホテルという感じで、夫婦で船内をあれこれ散策し
終えると妻は早々と寝る体勢に・・・。私はせっかくだからとサウナと風呂を楽しんだ
後に就寝ですが、やはり興奮しているのか耳なれない船のエンジン音も気になってウト
ウトとした浅い眠りのまま定刻6:10に東予港に接岸。船内のレストランで朝食後、7:
00の連絡バスでJR壬生川駅まで送ってもらい、JR予讃線で今治駅へ更にバスで展
望台前まで行って出発地点のサイクリングターミナル(サンライズ糸山)へ9:00前に
ようやく到着です。平日の時間が早いせいかレンタル自転車がズラーと並んでおりGW
時の混雑がウソみたいです。受付で手続きを済ませると8段変速のクロスバイクを2台
選んでもらい、持参したペットボトル用のホルダーをハンドルに取り付けて出発準備O
K、緩やかな登りの連絡道路を少し走ると直ぐに最初の「来島海峡大橋」です。3連の
橋からはいきなり瀬戸内の絶景が広がっています。よく観ると流れの違う潮と潮がぶつ
かって白波が立ち、所々で渦を巻いているのが観られます。サイクリングでなく車で通
り過ぎるような旅行ではこの光景を観る事はかないませんね。景色を楽しみながら走る
うちに「大島」に到着、ここからは島の中央部分を横断するアップロードの道が延々と
続きます。妻もチェンジを効かしてゆっくりではあるけれど走り続けています。特訓の
成果が出ているようでホッと一安心。次の「伯方・大島大橋」を渡り「伯方島」に入る
と一転して海岸沿いの平坦路となり、景色を楽しみながらの快適なサイクリングロード
が続きます。途中の道の駅で小休止、「伯方の塩ソフトクリーム」を3ケ買って味わ
う。ほんのり塩味がする濃厚な旨みに大満足して次の「大三島橋」を目指して出発。
「大三島橋」を渡って本日宿泊予定の「大三島」に到着、お腹も空いてきたので「多々
羅大橋」手前の道の駅を目指してひた走ります。ふっと後ろを見ると妻が自転車を降り
て歩いていたので慌ててUターン。ここまで順調に走ってきたのですが、エネルギーが
尽きた様子。しばらく木陰で休憩の後、ゆっくりと歩いて道の駅へ到着。時間は13:
00約4時間近く走った勘定、妻の頑張りを褒めながら昼食を楽しむ。「マハタ」とい
う白身魚のお造り定食が歯ごたえよくて美味しかった。何でも漁獲量が少なくて、ほと
んど市場には流通していない幻の高級魚との事、その地ならではのものが食せるのも旅
の楽しみの一つです。食事・休憩の後、ネットで下調べして予約しておいた道の駅から
程近い料理旅館『富士見園』に到着。笑顔の素敵な娘さんに案内されて部屋に入る。窓
を開けると気持ちのよい潮風が入って、明日渡る「多々羅大橋」も遠くに見えます。昨
夜の睡眠不足と疲れで枕を並べて少し昼寝のつもりが、気がつけば1 時間半ほど爆睡
していた。海水を沸かしたという「潮風呂」で汗を流し、しばらく夫婦で談笑している
といよいよ待望の夕食です。母屋とは別棟のお食事処での懐石料理です。創作料理風の
小鉢が一通り出るとメインの大皿盛のお造りです。伊勢海老・鯛の姿造りの周りに地元
産のウニや貝類などが豪華に盛り付けられています。伊勢海老が恨めしそうに足をバタ
バタと動かしていますが、合掌してありがたく頂きました。気がつけば生ビールのジョ
ッキを3杯も飲んでいてすっかりご機嫌さんです。私たちよりも少し年配の団体客がお
られたので、聞けば従兄弟同士の集まりで、この宿の料理が気に入っていて毎年ここで
従兄弟会をしているとのお話でした。確かに料理は納得するものがありました。翌2日
目、朝風呂の後、朝食を済ませると9:00に出発です。昨日の「多々羅大橋」手前の道の
駅まで一旦戻ってお土産売り場で買い物です。毎度の事ながらお土産をどっさり購入
し、帰宅した日に着くように宅配便で送ってもらう手配をして買い物も無事終了、よう
やく4つ目の「多々羅大橋」を渡るべく出発です。どの橋も眺めは最高ですが、私はこ
の「多々羅大橋」からの眺めが一番好きです。途中の橋の橋脚部分に「多々羅鳴き龍」
と言う看板があります。拍子木を叩くと橋脚部分にこだまして、龍の鳴き声に聞こえる
という趣向です。「多々羅大橋」を渡り終えるとスロープ状に道を下っていくのです
が、あまりに綺麗に舗装されているので思わず「ヤッホー」と叫びながら一気に下って
いきました。今日は祝日で連休なので、昨日に比べると若いサイクリストのグループと
すれ違うことが多くなってきました。「こんにちは」と互いに挨拶を交わしてすれ違う
と清々しい気分になります。「生口島」も海沿いの平坦なコースを走るので、快適なサ
イクリングロードが続きます。途中、瀬戸田の町には「平山郁夫美術館」「耕三寺」な
どの観光スポットがありますが、前回の旅行で観ているのでパスして、瀬戸田で有名な
手作りジェラートの店「ドルチェ」で、ユズとレモンのジェラートを食べて小休止、次
の「生口橋」へ向かって出発。「生口橋」を渡って「因島」に入ると又アップダウンの
多いコースになります。ここへ来るまでの途中、石切り場が何箇所かありましたが良質
の石が多く産出されるのでしょう。「因島」は立派な石垣の門構えを備えた庄屋造りの
屋敷が目立ちます。「村上」と言う表札がかかっているお屋敷がありましたので、もし
かして「村上水軍」の末裔かと? 勝手な想像をしながら通り過ぎました。「因島」周辺
は海峡の幅が狭いので、潮の流れもまるで川の流れのように速いところがあります。か
つて「水軍」がこの潮の流れを利用して縦横無尽に大活躍した姿が思い描かれます。そ
して最後の「因島大橋」が見えてきました。「因島大橋」は他の橋のように、自転車道
が高速道路と平行して走るのではなく、上下2段の造りになっています。自転車道は下
を走るので、橋桁が邪魔してせっかくの景色が観づらくて残念。横風も強くて少し煽ら
れるような感じなので早々と通過して最後の「向島」に到着です。「向島」に入ると道
路幅が狭くなり自転車道と車道の区別のない区間が多くなってきます。時間は13:0
0を回っていますので、ゴールの尾道を目指してひた走ります。やがて最終地点、尾道
への渡し船乗り場に到着、数分の短い船旅の後、尾道側の桟橋に到着してゴールです。
二人で手をタッチしあって完走を喜びます。時間は予定をかなりオーバーして14:0
0を過ぎていました。渡し船に乗り合わせていた上品そうな年配のご婦人3人組に尾道
で美味しいお店を教えて欲しいと尋ねる。自転車で今治から「しまなみ海道」を走って
きたと聞くとビックリしながら親切に教えて下さった。結局、尾道ラーメンが良いとい
うことで駅前のラーメン店を紹介いただき、なんとラーメンの食べ方の指導まで頂い
た。「尾道の人は親切だというのがよく判りました。」と丁寧に礼を言って遅い昼食に
向かう。ラーメンは澄んだ瀬戸内海のいりこ出汁と鶏ガラスープに白い背脂が浮かんだ
濃厚そうな風合いだが、アッサリしていてダシの旨みがよく出ていて美味しかった。昼
食後、本日宿泊の『グリーンヒルホテル尾道』にチェックイン。夜、レストランで食事
をしながら尾道水道の夜景を楽しむ。観光用に造船所ドックのクレーンが、色とりどり
にライトアップされていて、昼間とは違う情景を楽しみながら2日間の行程を振り返っ
た。この日も心地よい疲れに包まれて爆睡。翌朝、尾道観光をする予定だったが完走の
目的を達成したので気が抜けたのか、明日の仕事のことも考えて午前の新幹線で早々に
帰阪した。今回のサイクリングツアーはバス旅行では味わうことができない達成感に大
満足の旅行でした。

蜜蜂号と北海道つまみ食いの旅 (2012/7) 川中健次郎
1.prologue
私にとっては、2台目のオーダー車、田川デモンタに乗って30年位になるかな?寄
る年並には勝てず手元シフトとローギヤー重視の10速化の高齢者仕様に改造に出して
3年。完成したら初乗りは北の大地でという事で今回の蜜蜂号とチャリ健号・北海道さ
まよい旅となった。狙いは2点、釧路湿原・阿寒自転車道と釧路〜厚岸〜根室までの海
沿いの道"北太平洋シーサイドライン"である。特に北太平洋シーサイドラインは20年
程前に仕事で数回釧路に行った折、レンタカーでついでに遊んだ際に見たそのワイルド
でダイナミックな風景に圧倒され、いつかは自転車でと思い温めていた。
蛇足ながら、銀輪庵に引き取りに行ったら竢o版社が別の取材に来ており、小生の自転
車もついでに取材され、その後田川サンも取材されて「旅する自転車の本 Vol.4」に一緒
に掲載という事になった次第だ。
2.いざ出発〜初乗り
所謂キャンピングカー約6台、今はやりの車中泊タイプのワンボックス等をわんさか、
乗用車パラパラ、相変わらずの仮面ライダーをわんさか載せて7/1 の午前1 時、敦賀
港を就航10日目のピカピカフェリーが出て行く。20代に東北を縦横に走った頃、十
三湖から竜飛岬を廻った。その思い出の岬の通過は夕刻であったが、今日は濃霧で真っ
白。ああ残念なり・・・。
苫小牧港も濃霧で、これからの天候を暗示するが如くである。近くの道の駅に泊り、翌
日は晴れ。先ずはチョロッと走ろうと襟裳岬に向かう。途中にある新冠町はサラブレッ
ドの故郷とパンフにあり、お馬ちゃん巡りをする。途中で雲行きが怪しくなりショート
カットして約35q程の初乗り。襟裳岬は強風と濃霧の為街中で泊まる。翌日は晴れ、
岬からぐるっと廻るつもりで行くと、相変わらずの濃霧で何も見えず。走るのを止め、
帯広を目指す。様似〜えりも〜黄金道路は海沿いには珍しくアップダウンが少ない快適
そうなコース、いずれ走って見たい。天気予報では明日、釧路地方は晴れそうなので、
コース変更して釧路に向かう。
3.釧路〜網走〜厚岸
釧路湿原自転車道の釧路市内のスタート地点近く、鶴野パーキングを出発。湿原沿い
の丹頂鶴ならぬ単調な登り基調の自転車道を阿寒のサイクリングターミナル"赤いベレ
ー"に向かう。途中牛ちゃんの家が点在、少々気になる臭いを嗅ぎながらのんびりと往
復約45k走る。阿寒町の自転車道入り口の案内板から実際の入り口まで少々判りづら
い。天気予報では釧路・根室は明日以降曇り又は雨の下り坂、網走は晴れの予報で、そ
っちに向かう。青空の中を原生花園〜JR斜里駅まで約45q走る。運悪く"オホーツ
クインターナショナルサイクリング"と云う、やたらデッカイタイトルの行事とぶつか
る。集団が「お先に」と云いながら抜いて行く中で、「オッサンどけ」と云う罵声。振
り返ると子連れのオッサンが怒鳴っている。何様のつもりか知らんがこっちはのんびり
走っているのに雰囲気ぶち壊し。途中、実行副委員長の腕章したサイクリストがいたの
で苦言を呈しておく。原生花園付近は丁度花盛りで云う事無し。釧路地方晴れの予報で
厚岸に戻り、明日いよいよシーサイドコースを走れる。厚岸の町を過ぎるといきなりの
坂道、延々約6q、標高差150mをひいひい云いながら登る。途中あやめヶ原の看板があ
り、寄り道する。海沿いの丘陵一面、少しピークは過ぎた様でも一面のヒオウギアヤメ
の群落、見事なものである。その後今日の見所、琵琶瀬展望台に昼頃到着。湿原の中を
琵琶瀬川が大きく蛇行する雄大な景色を堪能する。おぼろ昆布を削っている昆布娘さん
の話ではほんの30分前までは霧で何も見えなかったとの話でオレも行いが良いのか
な?と1人ガテン。太平洋側は霧でダメ。そこから霧多布まで一気に下り、岬に着くも
霧でまったくダメ。JR浜中駅まで約45qを走る。駅にはなぜかルパン三世の立ち絵
やらポスターが、作者のモンキーパンチさんの誕生地とあった。翌日、残りの浜中〜根
室のつもりが予報は曇りか雨で延期する。
4.Mさんからのメールで富良野・美瑛に
突然「10日から20日まで北海道に行くんで、どっかで会おうや」とMサンからのメ
ール。13日の朝再度、「雨が上がったので富良野に向かう」とのメール。ところがそ
の直後私の携帯がぶっ壊れ、Mサンに連絡とれず。直営店がある帯広に行き、店の携帯を
借りて夕方JR富良野駅で合流する事にし、その間に運よく動いたのでアドレス等をS
Dカードに落として代替え機種の手配をして、富良野に向かう。駅頭には既にMサンの
姿。翌日、曇り空の中、広告で有名になったツリー巡り約35qを走る。吹上の天然露
天風呂には期待したネーチャンは見当たらず。次の日は青空の中、丘巡り約35q走
り、眺めの良かった新栄の丘で泊まる事にしたが、夕方、まあー観光バスが来るわ来る
わ。それもニイハオ・ふんにゃらでにぎやかな事、せっかくの夕日もぶち壊し、しかし
Mサンの目はギャル認識モードの追尾フォーカスで忙しそうだった。
翌日、富良野駅でMサンと別れる。3日間、エロ話をアテ(肴)にしての宴会が続き、
少々呑み疲れ。Mさんはその後、富良野で韓国のネーチャンと仲良くなり、さらにスX
キノで何やら楽しみ、積丹半島一周100qを走ったそうだ。しかしあの脚力、急な登
りでもグッグッと加速して見る見る登ってしまうバワーには脱帽。携帯受取に帯広に戻
り、天気が良いので摩周湖に寄り道、吸い込まれそうな摩周ブルーは最高だぁ。
5.超寒い天気に悩まされ、道東を彷徨う
オホーツク高気圧が寒気を連れて南下、最高気温13、4度が3日間程続き、シーサイ
ドの続きはお預け、再度網走へと逃げ出す。途中、多和平に立ち寄るがホンマ360度
水平線が見渡せる素晴らしい所。青空の中、多和平の周囲約30qをのんびり走って網
走に。翌日も晴れの中、能取岬〜網走湖沿い約60qを走る。途中で前の変速機がシフ
トせずシングルで走るハメに。おまけに国道を迂回したら標高230mの山越え、ホンマ死
にそう、それでも登りきる。
6.再びシーサイドラインに
曇り空ながら晴れ間も覗くとの予報でJR浜中駅からスタートするがその前に前の変
速機の修理をする。Wレバーを初めてびくびくしながらいじる。どうもワイヤーのタイ
コが溝から外れているのが原因の様。輪行袋に入れる時に外れたか?途中でバスの運転
手さんが手伝ってくれる。聞くと昔買ったロードを今も乗っているとの事。1 時間程
ロスしての出発、曇り空のJR中落石駅まで約45q走る。ロスタイムが無ければ根室
まで走れたかも? 出来ればこのコースは青空の中を走りたかったな。
7.epilogue
この後も天候は良く無さそうで、これで切り上げ28日の船で大阪に帰る事にする。
サイクリングは延べ9日間、約375qのつまみ食いの旅でした。しかし北の大地はど
こでも絵になる。
少々俗ぽっいが日本ばなれした風景、病みつきになりそうです。

稚内から東京まで1500`の旅(2011/7-8) 森 一志
さて、この夏の思い出を徒然なるまま心に映る、由無し事を書き綴ってみようと思いま
す。
☆由無し事(よしなしごと): たわいもない事、益のない事(謙遜的表現)
7/5暑い大阪を脱出。神戸空港からジェット輪行で新千歳空港へ。スカイマークは安
い、早い、安全? スッチーによるコーヒーサービスはありませんが120分で北海道
の大地に降りたちます。これからの長旅に期待いっぱい。札幌泊。
7/6高速バスで稚内へ。お風呂屋さんが経営するライダーハウス泊(\1000)ここは全国の
ライダー、チャリダーが寄ってきて色々情報交換。夜は反省会。昔は沢山のライダーが
来ていましたが、今年は震災の影響か?少な目です。
7/7フェリーで利尻島へ。カモメが船を追いかけて餌をもらいにやってきます。
島では利尻昆布の収穫に追われています。島を一周の後、昨日の情報で
食堂経営のライダーハウスへ。(\500)ここでは日本一周のチャリダーが3人。
カナダでのワーキングホリデーの話とか楽しそうにしていました。
7/8フェリーで礼文島へ。桃岩展望台に登り、花の島を満喫。桃岩タイムトンネルを抜
けてYH桃岩荘へ。ここでは羞恥心、知性を外して皆で大騒ぎ。歌や踊りで夜は更け
て・・・。
7/9 タイムトンネルを抜けて港へ。港ではカモメとカラスで餌の取り合いバトル。フェ
リーで稚内へ。宗谷線に沿って南下、誰もいない抜海駅に到着。駅舎は築70年程です
がまだまだ現役、今夜はお世話になります。
7/10 きょうは朝から小雨模様。途中、豊富町の郷土資料館で雨やどり。案内のお姉さ
んとしばし話し込む。過疎化で商店も病院も遠く、TPPで酪農や農業もあぶなくなっ
てきたなど切実な話を聞きました。この日は更に南下、中川町営の無料バンガロー泊。
7/11 宗谷線に沿って走行。このあたりの駅舎は
古貨車利用の、無人駅が多く昼寝や食事に利用。
1人旅の気楽さでお構い無しです。名寄YH泊。
7/12この日はYHの車で自転車と共に高山植物の松山湿原へ。帰りはダウンヒルの楽勝
コースで、途中トロッコ王国に立ち寄り。今は廃線となった美深線をエンジン付きトロ
ッコで往復。なかなか楽しめましたよ。名寄YH連泊。
7/13名寄から塩狩峠を越えて比布まで。塩狩峠記念館で三浦綾子旧宅見学。執筆活動の
部屋を見学、文学の薫りに触れてきました。町営のライダーハウス泊。(\300)
7/14朝から雨模様。蝦夷梅雨なのか今週いっぱい天気が悪いという情報有り。旭川ま
で、電車で美味しいものを探しに出発。結局、夜遅くなり旭川泊。
7/15大事件発生。旭川から帰ってくると自転車にくくりつけていた荷物が盗難。今、日
本が人と人の絆を大切にと言っている時に許せません。オレのパンツ返せ!荷物の管理
が甘かったと反省。比布ライダーハウス泊。
7/16今日も雨。仕方ないので近くの"ゆうゆう比布"という温泉施設で1日過ごす事に。
比布ライダーハウス泊。
7/17近くの町営図書館で旅の情報を取ったり、新聞、ビデオを見て過ごすことにしまし
た。だんだん怒りも収まってきました。天気も回復。比布ライダーハウス泊。
7/18今日は早起き。3:30 a.m.なでしこジャパンのテレビ中継が始まり、ライダーさん
と応援。粘りと集中力でPK戦勝利。よく頑張りました。旭川まで走り、高速バスで札
幌へ。サイクルショップでポンプ、タイヤレバー、チューブ、パンク修理セットなどを
入手。100円ショップでタオル、手袋、靴下、下着、食料、工具など買い出し。札幌
泊。
7/19今日も買い出し。アウトドアショップでガスバーナー、ボンベ、コッヘル、シュラ
フカバー、防水バッグなどを新調。これでようやく旅の準備が整いました。明日からの
旅に想いをはせながらジンギスカンとビールで乾杯。札幌泊。
7/20札幌から支笏湖へ。天気も上々、夏休みに入り旅人も増えてくるかな?支笏湖の樽
前荘で年配のバイクおじさんに遭遇。この人、よくできた人で人には想像力があるので
話の落としどころを見つける。感情をコントロールしなから事にあたる。などおっしゃ
っていました。我が輩は気ままな猫、反省会で盛り上がる。
7/21支笏湖から美笛峠を越えて洞爺湖へ。洞爺湖ではこの時期毎夜の花火大会。しかし
ホテルも旅館もガラガラ、外国人観光客も今年は少ないようです。旅館のライダー部屋
(\1300)泊。
7/22洞爺湖から大沼まで。台風の影響か?向かい風に悩まされる。バス停でしばし休
憩。北海道のバス停はしっかりした造りで扉付き。雨よけ、風待ち、自炊場、いろいろ
利用させてもらっています。大沼公園YH泊。
7/23大沼公園から函館へ。途中、野菜無人販売コーナーでキュウリ入手。5本\10
0。トマトやキャベツも激安。北海道開拓時代、函館は大いに賑わったようです。ドミ
トリー宿\1000)泊。
7/24函館朝市は観光客相手のぼったくり価格。その後、宿主さんと車で
ドライブ。牛しゃぶしゃぶ4人前無料に挑戦。
しばらくは栄養たっぷりの旅人になりました。ドミトリー宿連泊。
7/25函館から青春18切符で津軽海峡縦断。トンネル部分は特急(特急券不要)に乗り
換えます。青森に出て八戸まで電車の1日。そろそろ夏祭りの季節、笛や太鼓の音色が
聞こえてきます。八戸泊。
7/26八戸から盛岡へ。青い森鉄道に沿って走ります。ここは元南部藩領で昔は冷害でた
びたび一揆があったようです。金田一温泉で足湯につかりながら休憩。盛岡泊。
7/27朝から雨模様。宮古災害ボランティアセンターを目指して途中まで電車。
昼前から晴れてきたので自走に切り替えました。雨上がりを走るのはいい気持ち。
被災地ではガラスでパンク、早速やられました。宮古山田公民館泊。
7/28きょうは宮古で災害ボランティア。9時集合、高校生、大学生、社会人、
無職、米軍など合わせて120人程。10人ぐらいのグループに別れて家
の側溝の泥出し。時速5メートルぐらいしか進みません。みんな日焼け、
泥だらけ。地元の方やボランティア同士の絆ができてきました。
宮古山田公民館泊。
7/29今日も泥出し、草刈のボランティア。街はだいぶ復興が進み、コンビニ、スーパー
も平常営業。地元の方も落ち着いた様子です。大工さん、工事関係者、ダンプは大忙
し。ただ観光客、海水浴客はほとんどおりません。経済復興はこれからの様です。宮古
山田公民館泊。
7/30宮古から釜石へ。三陸海岸を上ったり下ったりの繰り返し。原始力サイクルには堪
えます。時々木陰で冷却、ペットボトルでの注水作業が必要です。南へ行く程津波の被
害が大きく、山田町、大槌町では町全体がなくなっていました。今夜の宿は津波で不通
の三陸鉄道無人駅。
7/31釜石から気仙沼へ。三陸海岸南下、相変わらず登ったり下ったりの連続。プレハブ
の仮設コンビニで一息。陸前高田で野花を集めているママチャリのばあちゃんに遭遇。
おばあちゃんは小学校校庭の仮設住宅住まいで、震災時は裸足で逃げて助かったようで
す。2人でしばらく被災地をサイクリング。おばあちゃんの色んな話を聞きながら、な
んだか絆ができてきました。けっぱれ東北!
8/1 気仙沼から仙台へ。石巻まで上り下り、観光地の松島はたくさんの島が防波堤の役
割をして、被害は少なかった様です。原始力エンジンもそろそろ定期検査で休養か?仙
台のカプセルホテル泊。
8/2長旅の疲れで休養日。町の公園で自転車の掃除、点検。空気入れ、油さし、
靴の洗濯等。お昼は仙台名物牛たん焼き、市内のあちこちに店があります。
七夕祭りが近づいて、吹流しの飾り付けが賑やかです。夜はゲストハウス泊
(\2500)で旅人と交歓会。
8/3仙台から山形へ。作並温泉を目指して走り出します。だらだらと登り。
県境のトンネル部分は輪行で突破。トンネルをぬけると山形の紅葉川渓谷。
誰も来ない渓谷を気持ちよく下っていきます。山形では車の車線を一つ
潰してECO自転車道にしていました。全国に広がらないかなぁ?山形泊。
8/4山形は盆地で朝から気温上昇。旅も終盤、青春18切符で白河まで移動。こちらは
標高も高く涼しい。宇都宮まで空冷サイクルで下り快走。ここは餃子の町、あちこちに
お店があります。王将の方が口にあうかな?宇都宮泊。
8/5 宇都宮から大宮へ。だんだんと車も多く、気温も高くなっていました。できるだけ
田んぼの中や裏道を探して走ります。大宮泊。
8/6大宮から東京へ。浅草にでて来年5月完成予定の
スカイツリー見学。観光地で人の多さにびっくり。
夜は旧友宅で旅の反省会。
8/7東京から青春18切符で大阪に無事帰ってきました。9時間の長旅でした。
稚内から東京まで手元のメーターで1500`。たくさんの人に出会い、人の暖かさを
感じました。
有り難うございました。次なる放浪を計画中。 To be Continued!

越中八尾の"おわら風の盆"前夜祭(2011/8) 岩井春隆
8/26 大阪駅を10:15に発った敦賀行き新快速には飯田サンと小生が乗っていた。これか
ら延々6時間21分かけて富山へ向かう。一昨年だったか高橋 治の"風の盆恋歌"を読
んで富山県八尾の"おわら風の盆"に興味を持っていた。丁度そこへ富山CCの高田 敏サ
ンから合同ランのお誘いがあった。富山CCは今回お世話頂いた三橋サン、高田サン以下6
名。夕凪CCからは飯田サンと小生。NCTC京都の岡島サンと表サン。奥美濃CCの河村サ
ン、CCウインディの河原サン、浦和CCの菅沼サン。夕刻の富山駅前は雨上がりらしく気
温25℃で秋の様。さっそく宿舎に向かったが、歩道脇に見慣れない自転車が並んでい
た。シクロシティー社が富山市内に15ヶ所のステーションを展開、150台の自転車をシ
ェアリングしているという。駐輪方法がユニークであった。夕食は富山の海の幸を河村
サンの従兄弟サンの案内で堪能、〆は流行のブラックラーメン。翌朝は7:45に富山地方鉄道
の富山駅に集合。ここからサイクルトレインというサービスで自転車を無料で列車内に
持ち込んで立山駅に向かう。標高485bの立山駅前は曇りがちで結構涼しく感じた。立
山カルデラ砂防博物館を見学後、らいちょうバレースキー場へ移動、岡島サン等を待つ。
昼食は美味しいチキンカレー。全員が揃い、昼食も済んだところでいよいよ八尾町を目
指して出発。スキー場から一旦常願寺川に架かる立山大橋まで下り、芦峅寺(あしくら
じ)を通って川沿いに下って岩峅寺(いわくらじ)駅へ。ここは映画「劔岳 点の記」
の中で旧国鉄富山駅の撮影に使われた由。富山地方鉄道立山線にはこの他にも味わい深
い駅が多い。ここからは北アルプスの北麓を西へ移動、熊野川の支流に入り、224b
程標高を稼ぐ。軽4輪1台がやっとの真っ暗なトンネルが3つもあったが出口の明かり
を頼りに歩いて通り抜けた。本音は息が上がって、ライトを出す気力も無かった。ここ
で神通川右岸の笹津に到着。新笹津橋を渡り、左岸を最後の頑張り。ここも北アルプス
の北麓で、回り込むように八尾の町へ。道の両脇にはボンボリ(行灯)が立ち並び、今
夜の"おわら風の盆"前夜祭に期待が膨らむ。八尾の町は南西に向かって上る坂の町。今
夜の宿は老舗の宮田(みやだ)旅館で女優柴田理恵の母親の実家という。今夜も富山の
海山の幸に舌鼓を打ち、昼間かいた汗の水分補給に励む。前夜祭は午後8時から東と西
新町通りであるとの事で一同ボンボリの点る夜道を急ぐ。前夜祭といっても相当な人出
で、本番の9/1-3は30万人が訪れ町中身動きが取れないという。やがて小さな男の子の
一団を先頭に町流しが始まり、次ぎに女子中学生か高校生位か?その次はもう少し年上
のお姉さん?最後に地方(じかた)が唄い、三味線、胡弓が雰囲気を盛り上げる。編み
笠を被っているため手や身体の動きが強調され、幽玄の極みだ。しばらくして輪踊りで
再開。今度は編み笠を被らず、ゆっくりしたテンポで輪が回っていく。最後は道路の上
での舞台踊りだろうか、ピンクの年長グループの踊りが艶めかしい。翌朝は更に北アル
プスの北麓の坂をいくつか越えて富山湾を目指す。北陸自動車道を潜った辺りから完全
に平地になり、涼しい北風を受けながら富山新港へ。ここには初代帆船"海王丸"が係留
され、又々刺身定食に舌鼓を打った後、海岸沿いに東進して北前船の回船問屋が残る岩
瀬へ。ここで楽しかった富山の旅もゴールイン。富山CCの方々やクルマで帰る高田サ
ン、河村サンの見送りを受けて富山駅行き"富山ライトレール"に乗り込んだ。今回お会い
した皆様、有り難うございました。

有田から熊野まで紀伊半島横断 (2011/5) 谷口俊司
瀞八丁のプロペラ船の中で家族が写っている写真を見たことがある。写真の私はまだオシメを
していた。瀞八丁から更に湯の峰温泉に行ったことをお袋が話していたのは数十年前も前で
ある。昭和30年代初めのセピア色の瀞八丁は私にとって、とても印象的な場所で一度は行っ
てみたいとずっと思っていた。(正確に言えば、一度は行っているのだから、もう一度と言うべ
きか?)今年の4月に本当に何気なく「そうだ高野山に自転車で登ろう」と思いつき、今回の紀
伊半島横断の検討を始めた。「思い出の瀞八丁も行けるな」と気付く頃には思いつきもワクワ
クする様なプランに変わりだした。4/28、朝6:12 JR天王寺発和歌山行きに乗車。和歌山で
湯浅行きの電車に乗り換える。熊野街道を歩いていた頃には週末によく乗った電車であるが、
あいにくと28日は平日で通学の学生たちに囲まれ、冷たい視線を浴びながら藤並駅で下車。
駅前で自転車を組み立てる。駅前の観光案内所のおばさんと話が弾み励ましを受けいよいよ
出発。スタートは8時半。1日目は高野山を登るだけなので約70qの行程である。藤並から清
水までアップダウンを繰り返しながらも徐々に高度を上げていく。あらぎ島の棚田は少し本道を
逸れ脇道を登る必要があるが一見の価値あり。逆Ω型に蛇行する有田川の半島状斜面に見
事な扇状の棚田が作られている。高野山はまだまた遠く、清水で行程のほぼ半分である。途
中には巨大壁画があったりするがひたすら登りは続く。花園中南で休憩するがこの頃には息
も絶え絶え、だんだん弱気になる。最終的には花園中南から高野山大門まで一気に登ったの
だが、高野山に自転車でという達成感は格別であった。高野山は子供の頃に林間学舎で行っ
て以来であったが、大人の目で見ると本当に素晴らしい所でなるほど世界遺産だと合点。2日
目の出発前、朝6時に静かな高野山を金剛峯寺から奥の院入り口、一の橋まで歩いてみたが
ちょうど桜も満開で身も心も清められる様な気になれた。2日目の4/29は当初の予定では高
野山から龍神温泉を経由、十津川温泉の予定であったが、前日に観光案内所のお姉さんから
悪魔のささやきがあり、桜峠、天狗木峠を越えて国道168号を目指すことにした。曰く「龍神温
泉から十津川を目指す国道425号は大変よ、168号を行く方がだいぶ楽よ。」確かに国道16
8号は谷瀬の吊り橋も楽しめたし、正直言って何よりも体が楽、14時には予約していた民宿の
到着した。川沿いにある庵の湯(公衆浴場)で十津川を眺めながら至福の時を楽しむ。目に若
葉、山ホトトギス、悦楽至極といった風情であった。最終日の4/30はいよいよ瀞八丁を目指
す。十津川温泉から南下し熊野大社を経由して瀞八丁から熊野市へ約100qの山岳コース
である。最終日だし疲れが出たら熊野に着けないと考え朝8時には民宿を出発。熊野大社は
熊野街道を天満橋から歩いた2年前のちょうど今頃ゴールインしたが、まさか自転車で来よう
とはその時には夢にも思わなかった。熊野大社から瀞八丁へ。登りも結構きつかったが、それ
以上のご褒美が待っていた。かつてのセピア色の風景をカラーで見ることができたのだ。そこ
から北山峡、七色峡と続く北山川沿いの急峻な谷間の美しさ。七色ダムを過ぎると3日間の楽
しい旅もあとわずか。最後の小坂峠を越えると後は文字通り一気(本当に長い急坂で車の通
行量も多い)の下りで14時過ぎJR熊野市駅に到着。JR熊野市からは松阪で近鉄に乗換え、
約5時間もかかって上本町駅まで帰り着いた。"みずほ"に乗れば4時間半で鹿児島に着ける
時代、熊野は鹿児島よりも遠いと改めて思った。

伊勢本街道をお伊勢さんへ (2011/5) 岩井春隆
毎年暮れの大阪、ニュースになるのが昔のお伊勢詣りを再現する"伊勢迄歩講"(あるこう)が
6日かけて歩くという歩き旅。いつかは行きたいなと思っていたら、今回奥美濃CCの河村サン
から、伊勢本街道を辿って途中2泊で伊勢神宮まで走りませんかとのお誘いを受け快諾。同
行者は河村サン以下、5日前一緒に走った岡島サン、田サンと今回初対面の足利市から来られ
た柏瀬サン。出発日は13日の金曜日。しかし神道の聖地へ行くのに差し障りは無い。5/13 朝
から天気は良好、待ち合わせの玉造稲荷神社へと向かう。神社では旅の安全を祈り、お賽銭
も奮発した。奈良で合流する田サン以外の3名も到着し、9時少し前に出発。すぐ東成区に入
り、密集する住宅地の中をうねるように続く暗越奈良街道(伊勢本街道の一部)を東進。この
辺りは今までに何度も通ったところ。東大阪市に入り、府道702/15号に付いたり離れたりし
ていると生駒山が間近に迫ってくる。さあここからが最初の難所暗越だ。これでも国道(308
号)か?いきなりの急坂だ。河村サンは抵抗を試みるが、やがて全員黙々と押していく。振り返
れば大阪平野が垣間見られるが、柏瀬サンには市街地が間近に見えるのが不思議だったそう
だ。約1時間たっぷり押して我々は石畳の暗峠(455b)を踏みしめた。峠の茶店で休息の
後、一旦急坂を生駒市まで下る。生駒山が黄砂に煙っている。榁木峠を越え尼ヶ辻で田サン
と合流。ここからは今夜の宿、桜井までは奈良盆地を南下するだけ。猿沢池から奈良町を通り
抜け、奈良上街道で帯解寺や天理の丹波市の名残、大和神社、大神神社に立寄り、慈恩寺
追分けまで行って桜井駅前の老舗宿に入った。翌朝は慈恩寺追分けまで戻って昼飯を調達し
長谷寺へ向かう。小休止の後、初瀬街道(R165)の西峠(353b)に挑む。榛原の旧市街も
なかなか味わいのある街。"あぶらや"を過ぎ、初瀬街道とも別れ、墨坂神社の赤い橋を渡れ
ば、いよいよ伊勢本街道が始まる。とたんに人家もまばらな往古の世界が広がる。高井から
脇道に入り、伊勢本街道の最高地点石割峠(695b)をめざすが大きな石(岩)を避けるよう
に担ぎ上げるというのがピッタリの峠だった。少し下った分岐で昼食。地図を見ると13年前に
正田サンと訪れていた所。次は杉林の中を行く比較的楽な山粕峠。その次ぎに鞍取峠があった
が、時間がかかりそうなのでR369を迂回した。岡島サンは年齢を感じさせず常に先頭をキー
プ。伊勢本街道は桜峠、牛峠、佐田峠とR369と付かず離れずに東進を続け美杉町の奥津
へ。稲森酒造に立ち寄り般若湯を仕入れ、鬱蒼とした飼坂峠を越える。下りた所が上多気の
集落。何とこんな山の中で河村サンの顔見知りとバッタリ出会う。だらだらした上りの果ては櫃
坂峠(435b)。今朝、西峠からはるばる越えてきた山塊の終わる所。ここからはもう上りは終
わりで下る一方、細い急坂を思い切り下り上仁柿から横野。今夜の宿はリバーサイド茶倉。翌
早朝、櫛田川沿いに下っていく。この辺りはのどかな田園風景でやがて相可の椋の大木。ここ
は高校生レストラン"まごの店"で有名な相可高校がある。高校生と話したがいい子達だった。
宮川の流域に入り更に行けば田丸を過ぎ、遂に宮川を渡り外宮に着いた。参拝と昼食を済ま
せ、古市の街並みを通り抜け内宮へ。総距離179`、2日半の旅だったが中身の濃い一生の
思い出になった。同行者の皆さん有り難うございました。それと毎日背中を押してくれた西風サ
ンにも・・・。

雨に降られたの後のメインテナンス指南(2009/9) 岩井春隆
しまなみ海道ツアーでは台風並の風雨にやられました。人間には雨具がありますが大事
な愛車は水浸し。雨に降られた後の私流メインテナンス法を以下ご紹介します。
1.チェーン/マルチフリー 乾いた古タオル等木綿の布で水分を拭き取ります。チェ
ーンやフリーは泥水を被っているので細かい砂が付着しています。2-3日以上経
って乾燥したらステンレスボウル(\100ショップに有り)にガソリン(灯油でも良
いが乾燥しづらい)を2cm程入れ、古歯ブラシで洗います。フリーやチェーンホイ
ルも同様古歯ブラシにガソリンを含ませて、汚れを掃きとります。フリーやチェー
ンホイルが外せる人は歯の部分をチェーン同様洗います。自転車店に行けばチェー
ンの洗浄器やスプレー式のものがありますので便利かも知れません。チェーンを洗
ってステンレスボウルの底に砂金の様に溜まった砂等の汚れを見るとゾッとするこ
と請け合いです。チェーンと歯車は金属同士が直接こすれ合っています。そこに磨
き砂(砂等の汚れ)を付けてこすればどうなるか? 注油は以上の掃除が終わっ
て、チェーンを乾燥させて最後に行います。油も色々ありますが、簡単なところで
はKURE5-56が安くて良いでしょう。濡れた当日に注油をしてしまうとチェーンのピ
ンとローラーの奥に入り込んだ水分が抜けない内に油で覆うことになり、乾燥しづ
らくなってピンとローラーが錆びたり、油が染み込まず滑りが悪くなります。その
為結果的にチェーンの伸びやフリー、チェーンホイルの摩耗の原因になってしまい
ます。
2.フレーム(車体) 雨の中を走って水が入るのはシートチューブ(縦パイプ)から
です。簡単にいうとサドルの刺さっている部分です。私の自転車も外してみるとや
はりシートポストに水滴がついて浸水していました。一番良いのはボトムブラケッ
ト(B.B.)バラしてグリスの入れ替えですが、なかなか面倒なのでシートポストご
とサドルを抜き、自転車を上下逆さまにして浸水のチェックをしてみて下さい。も
し水が出てきたら暫く天地逆で置いておくのが良いでしょう。その後も次に自転車
に乗る迄、できるだけシートポストを抜いたままにしておくのが良いと思います。
泥除けのない自転車の場合、後輪の跳ねた泥水が掛かっていますので余計に浸水し
やすいものです。B.B.の部分から水がポタポタと滲みでてくるほどであれば、中に
相当水が溜まっていますので即バラして下さい。アルミフレームはともかくクロモ
リの場合はパイプの内側から錆びてきますので危険です。雨の前にKURE5-56を軽く
吹いておくと水をはじきます。
3.ヘッド/ハブ ここも必ず浸水するところですが自然に乾くので問題ないでしょ
う。上記B.B.と同様、1年に1回は定期メインテナンスでグリースを入れ替えて下
さい。
4.ハンドルステム ヘッド部分に取り付けられていますが、ここも必ず浸水します。
材質はほぼ100%軽合金ですが、クロモリフレーム(鉄)の場合、アルミと鉄で異種
の金属が触れ合う部分ですので電位差が生じ、水分があると腐食していきます。こ
れを異種金属接触腐食と呼びます。
http://www.sofutemu.co.jp/page3.html http://www.valtech.to/photo/
36112/fusyoku.htm
正田サンの例ですが長期間ハンドルステムを抜かなかったため、アルミのステムとス
テアリングコラムが固着して抜けなくなった事がありました。予防法は雨に遭った
後は必ずハンドルステムを抜いて乾燥させる。また差し込む場合は、絶縁と錆び防
止で薄くグリースを塗っておくのが良いでしょう。ここも雨の前にハンドルステム
にKURE5-56を軽く吹いておくと水をはじきます。
5.サドル プラスティックのものは自然に乾燥するので何もしなくて良いですが、革
製のブルックスやイデアルのものは雨が降る前にビニール袋等を被せて防水対策を
します。不幸にも濡れてしまった場合はできるだけ早く水分を拭き取り風通しの良
いところで陰干しをします。(直射日光はダメ)型崩れしている場合、タオル等を
丸めて詰め込み、形を整えてひも等でしばって乾燥させます。乾いてきたらブルッ
クスの保革油やミンクオイルを塗っておきます。昔はサドルの裏側から塗るのが常
識でしたが、最近のブルックスの説明書には表側から塗るようになっています。但
し塗りすぎは禁物で柔らかくなりすぎ、自分の体重で型崩れしてしまいます。

「旅とサイクリスト」 岩井春隆
先日ローマン・サイクリスト・ツーリング・クラブの西本サンから「載ってるで」と
懐かしい「旅とサイクリスト」1967年(昭和42年)5,6月号を見せて頂いた。
今は雑誌の殆どが東京で発行されるが、当時大阪には「旅とサイクリスト」というサイ
クリングの専門雑誌があった。昭和42年といえば今から39年も前で、私が働き始め
る数ヶ月前。何とも懐かしいものとの再会。5月号には私が投稿した明日香村の石舞台
や亀石、益田の岩船などの石像物めぐりを綴ったもの。6月号は大阪城や中之島で開催
された第7回全日本ユース・ラリーに自転車班で参加した際の紀行文。
この号には川中健次郎サンもサイクリング班のリーダーとして参加され、同じく文章を寄
せられている。このラリーの為にホステラーが全国2千数百人以上も集まったり、フォ
ークダンスや大阪市内の提灯行列、夕食券はわずか250円。2日目は会場を服部緑地
に移し、サイクリング班や徒歩班、バス/電車で移動したとあった。新十三大橋の自転
車道もできて間がなく、四つ橋筋も新装なったところだった様子。すっかり遠い記憶と
なってしまった青春の一コマ。 定年を目前にしてただただ懐かしいのみ。(^_-)

太平記の世界へのいざない 其の五 岩井春隆
2回ぐらいで終わるつもりがなかなか複雑で進まず、何とか今回で終わらせたいと思い
ます。さて1350足利尊氏の実弟、直義が南朝、後村上天皇に降伏を申し入れる前、尊氏
は九州で挙兵した子の足利直冬討伐のため高師直と都を離れていましたが、1351直義と
南朝方が京を占拠した報で急遽もどってきました。しかし寝返りがあったため丹波を経
由して西国に逃れました。その際高師直、師泰兄弟が武庫川で上杉能憲に伐たれ、同
年、尊氏と直義が和睦しましたが再び対立、今度は尊氏が南朝側に下り天下は三勢力が
相争い、いよいよ混乱の極みとなります。身の危険を感じた直義は斯波氏を頼り越前・
金ケ崎城から鎌倉に向かいますが、追撃してきた尊氏に破れその後鎌倉で毒殺されま
す。足利の軍勢が義詮を残し京都を留守にしたのを好機ととらえ、北畠親房は後村上天
皇を奉じ男山を行在所にして南朝の軍勢に京を攻めさせます。この頃の楠木党は正成の
三男正儀(まさのり)が率いていました。兄正行のような一途さは無いものの作戦にた
け、最後まで南北朝合一を目指したのは父正成ゆずりのようです。義詮はあわてて逃げ
だし、光厳・光明・崇光院と直仁親王は南朝側の保護下に置かれます。しかし足利勢も
体勢を立て直し、寝返った赤松則祐が京へ攻め上ると南朝側はわずか25日間で都を明
け渡し男山に立てこもります。義詮は三井寺や興福寺を味方につけたり攪乱工作を行
い、南朝側は50日ほど持ちこたえますが、5月11日の夜、三種に神器を持った後村
上天皇は命からがら賀名生に逃げ帰ります。北朝側の天皇が南朝に連れて行かれて困っ
た義詮は光厳院の皇子を後光厳天皇に据えます。九州にあった足利直冬は養父足利直義
の宿将吉良満貞、石塔頼房等を頼り南朝方に下り、文和2年(1353)これに呼応して斯
波、桃井、山名氏も寝返り八幡に集結、2回目の入京を行います。この8日後北畠親房
は62歳で病死し南朝側は混乱、今回もわずか40日で足利勢に都を追われます。それ
から約1年半後足利直冬が京をうかがい、斯波、桃井、山名、石塔氏が呼応すると、尊
氏は後光厳天皇を奉じて近江八幡・武佐に逃げ争いを避けます。翌年1355年旧暦正月1
6日、南朝方は3度目の京都奪回を果たします。これだけでもいかに乱れた世であった
が分かると思います。翌月6日、但馬から戻ってきた直冬は現高槻市の神南で直冬をは
じめ南朝方の大群を破り、尊氏も入京、またも南朝方の京都奪回は50日ほどで終わり
ます。1357年旧暦2月、光厳・光明・崇光院と直仁親王は金剛寺から東大寺、宇治平等
院経由で5年振りに京に戻りますが、20余年に亘る兵乱でさしもの京の都も見る影も
なかったとあります。翌年旧暦4月30日、戦乱の世に生きた足利尊氏も病魔には勝て
ず、54歳で死去しました。尊氏の死から百余日後の8月22日、義詮に男子が生まれ
ます。この子が足利幕府3代将軍の義満で後に南北朝の動乱を終息させることになりま
す。南北合体を目指す楠木正儀に対し、後村上天皇の後を継いだ長慶天皇は強硬路線
で、和平交渉を反対され正儀は北朝・足利幕府に下ってしまいます。当然南朝側から猛
反発を受けます。その後、南朝も長慶天皇から和平派の後亀山天皇に移り、楠木正儀は
参議として南朝へ帰順し和平を模索しますが報われず、1391年旧暦8月22日に河内赤
坂で没、享年62歳でした。翌年、懸案の南北朝の和平が合意され、太平記50余年の
物語が終わったのでした。

太平記の世界へのいざない 其の四 岩井春隆
1347年8月10日楠木正行は北朝方の細川顕氏を藤井寺で破り、ついで山名時氏の
援軍をも天王寺で破り、壊走する軍勢が渡辺橋から淀川に転落するのを500名も助け
上げたと「太平記」に書かれています。四條畷の合戦の8日前の同年12月27日、楠
木正行は一族郎党143人を率いて吉野朝に後村上天皇に謁見したあと(現在の吉野神
宮)如意輪堂に詣で、壁に過去帳として姓名を連ねた後、矢じりで歌を残したといわれ
ています。「かえらじとかねておもへば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」1348年
正月2日、わずか3000騎と共に四條畷に、四條中納言隆資は2万騎を率い飯盛山に
向かいました。これに対する高師直、師泰兄弟が率いる軍勢は6万騎。とても太刀打ち
できる相手ではありません。正月5日早朝から始まった合戦は実に8時間余、南北2余
りの狭いところで繰り広げられました。奮戦するも多勢に無勢、どんどん損失が出て敗
色が濃くなりながらもひるまず、「ただ、師直に寄り合いて勝負を決せよ」と執拗に追
いますが、四国出身の須々木四郎が射った矢が正行の右頬、左目尻、左右の膝と命中
し、弟の正時も喉笛に矢を受け兄弟差し違えて息を絶えてしまいます。従う兵士32人
も自害し、兄弟の上に折り重なって守ったとあります。JR四條畷駅の北西に「小楠公
御墓所」があり楠の老木と大久保利通の筆になる高さ6.5bの大きな石碑がありま
す。この墓所から真東の飯盛山麓には四條畷神社があり楠木正行をはじめ25柱が祀ら
れています。「太平記」には「すべて今日一日の合戦に、和田・楠が兄弟四人、一族二
十三人、相従う兵百四十三人、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無雙の功に残せ
り」と称賛しています。さあ、いよいよこれからが世の中が千千に乱れる下克上の世界
へと展開していきます。足利尊氏の執事である高師直は楠木正行を四條畷に破った後、
南朝方の皇居を目指し大和に入り、吉野へ攻め込みます。後村上天皇はすんでのところ
で脱出し、高野山領の阿瀬河城に逃れますが(賀名生に移るのは同年九月頃)、高師直
軍の放火のため宮殿や寺院はことごとく灰燼に帰してしまいます。高師直はまた「執事
の宮廻りに手向けを受けぬ神もなし」(宮と神をかけている。つまり高師直を恐れて姫
君たちは受け入れてしまうということ。)といわれたように無類の好色漢で片っ端から
よんどころなき姫達を我が物にしたそうです。また婆娑羅大名として知られている佐々
木道誉も天台宗の門跡寺院、妙法院の紅葉の枝を家来に折らせ、寺といざこざになると
火をかけて焼き尽くすという暴挙に出ました。その後も婆娑羅を通し、南朝側についた
り幕府側についたりしましたが、茶の湯や花、聞香、田楽や能、連歌をたしなむ一面も
あったということです。高師直、師泰兄弟が傍若無人な振る舞いをするのに業を煮やし
た足利尊氏の弟、直義は高兄弟を排斥しようとしますが味方する者が少なく、逆に高兄
弟に圧迫されてしまいます。一方足利尊氏も我が子の義詮に後を継がせるため直義を退
けようと図ります。これは尊氏が高師直と謀って仕掛けたという説もあります。これに
対し直義は巻き返しを図るため、南朝方に降伏するというとんでもない手段に打って出
ることになります。

太平記の世界へのいざない 其の参 岩井春隆
1336当時、楠木正成には久子夫人の間に12歳の正行(まさつら)、10歳の正時、7
歳の正儀(まさのり)がおり、帰ってきた父の首級を見て正行は刀を手に自害を図るも
母親に「汝いかなれば各血迷いたる。桜井の駅にて父の教訓忘れ足るか。汝成長の後、
義旗をひるがえして河内、和泉の一党をひきい勤皇の忠誠を貫徹せよとは、父の遺命に
てあらざらしか」と諭したとあります。湊川の戦で敗れた新田義貞が京都に逃げ帰ると
聞いた後醍醐天皇は三種の神器を奉じて近江の坂本に避難、足利尊氏は東寺を陣地にし
て比叡山を味方にした新田軍と戦いました。この戦いで新田軍は千種忠顕と名和長年等
が戦死。同年8月、三種の神器がないまま光明天皇が誕生し一天両帝の時代が始まりま
す。足利尊氏が都に攻め上って百日ほど経った頃、講和が整い後醍醐天皇は都に戻りま
すが、その際新田義貞一門の堀口貞光が後醍醐天皇の輿にとりついて涙ながらに諫め、
同年10月、後醍醐天皇は恒良親王に帝位を譲り、新田軍7千余騎と共に越前に向かわ
せます。都に戻った後醍醐天皇は幽閉され、偽の三種の神器を光明天皇に渡しますが、
同年11月、本物の三種の神器を持ち女官に変装して都を抜け出した後醍醐天皇は賀名
生(あのう)に逃れ、翌月吉野・吉水院を御在所として吉野朝廷を開きました。これに
ていよいよ57年間の南北朝が始まることになります。後醍醐帝のもとには12歳の楠
木正行を大将とする楠木一族や河内、和泉、紀伊の豪族がはせ参じました。新田軍は同
年10月、雪の木ノ芽峠を越えて敦賀・金ヶ崎城に向かいましたが、翌年正月には高師
直を総大将とする10万余騎に攻められ、落城してしまいます。しかし新田義貞は逃れ
て杣山城に移ります。義良親王を奉じて奥州にいた北畠顕家は南下、鎌倉の斯波家長を
破り、30万の軍勢で青野原(今の関ヶ原)において足利勢8万と戦い勝ちをおさめま
した。しかし奈良・般若坂では逆に破れ河内に逃れます。1338の5月、北畠顕家は僅か
な手勢で吉野を目指しますが、阿部野で戦死。(堺の石津という説もあり)付近には北
畠公園や、先日クラブランで行った阿部野神社があります。1339の8月頃から発病した
後醍醐天皇は1週間ほどで亡くなり、「玉骨はたとい南山の苔に埋もるとも、魂魄は常
に北闕の天を望んと思う」といった後、左手に法華経5巻を持ち、右手には剣を持って
すさまじい臨終であったと言われています。日本が南北朝に別れて相争う事になった主
人公が亡くなったといっても、まだまだその後55年間も混乱した下克上の時代が続く
事になります。後醍醐天皇亡き後は義良親王が後村上天皇として即位し、北畠親房、洞
院実世、四條隆資の三卿がわずか12歳の後村上天皇を助けて政を行ったと「太平記」
には記されていますが、大きな柱を失ったために南朝に見切りをつけようとした人々が
いたようです。そこへ吉野朝廷の警護のため楠木帯刀(正行)、和田和泉守らが警護に
駆けつけたことで人々皆退散を思いとどまったとあります。新田義貞の弟の脇屋義助も
2年後に新帝の綸旨に応えて吉野に来ましたが、手勢はわずか73人しかいなかったと
いわれます。足利尊氏は後醍醐天皇の崩御に対し、夢想国師の勧めにより暦応資聖禅
寺、のちの天龍寺を建立しました。1344北畠親房が吉野に戻ってくると、楠木正行らに
倒幕軍を出すよう盛んに督促し、いよいよ四條畷の合戦に向かうことになるのです。

太平記の世界へのいざない 其の弐 岩井春隆
建武3年(約1336)2月10日、摂津の西宮浜で楠木正成と足利尊氏の軍勢が対戦した
際、突如楠木軍が兵を引いたといわれています。前号に書いたように既に武家政治の時
代に律令制を復活させようとした後醍醐天皇に対し、北条家に代わる新たな武士階級の
頭領として頭角を現した足利尊氏では上手くいくはずもありません。楠木正成としては
武士の一員ながら、無名の自分を引き立ててくれた恩を忘れられなかったのかも知れま
せん。又、足利尊氏という人物の器量に惚れ込み、後醍醐天皇との仲介をしようとした
ことが梅松論に見ることができます。筑前(福岡県)の葦屋に上陸、3月2日には後醍
醐天皇派の菊池武敏軍と多々良浜で戦い、圧倒的不利をはねのけ勝利、翌日には太宰府
に入り戦いに味方した諸将への論功行賞を行い九州での足掛かりを強固にしていきま
す。都に攻め上るために九州在住の豪族に武器や兵員の挑発を行い、4月3日に博多か
ら12艘の船で出発しました。5月5日には備後の鞆の津、5月15日には備前の児嶋
と都に近づくに従って足利尊氏に味方する軍勢が増える一方、播磨の赤松円心が守る白
旗城を攻めていた新田義貞が退却するなど情勢は足利尊氏有利に変わっていきます。新
田義貞は後醍醐天皇に援軍を要請し、楠木正成が一旦比叡山への避難をすすめたにも拘
わらず出撃命令が下り5月23日、戦いの地になる兵庫へ赴くため都を出発します。西
国街道、桜井の駅での息子正行(まさつら)との別れは有名ですが、世の中が後醍醐天
皇に失望した今、足利尊氏の勝利は決定的なものであり兵庫が彼の終焉の地となる事は
十分予測していたのでしょう。12歳の正行には「この世にて父の顔を見るのは最後と
なるだろう。正成が討ち死にしたとなれば足利の世になるだろう。命を惜しむな。忠義
の志を忘れるな」と諭し、かなりの兵をつけて河内へ帰しました。彼一流の判断で自分
は死を選ぶが、何も楠木の血筋を絶やす必要はない、いずれ誰かが自分の意志を継ぐだ
ろうと。死ぬ気であったのを物語るように僅か500騎程の手勢だけであったと太平記
には書かれています。24日、尼崎で召集をかけた遊軍を待ちますが予想通り集まりが
悪く、後醍醐天皇に最後の上申書をしたためました。「今度の戦は必ず負ける。勝敗の
帰趨は人心にある。元弘の変は国中の人が後押しをした。今は守護職にある自分が命令
しても、一族の者でさえ付いてこない。天下があなたに背を向けたのは明らかであり、
正成が生きていても無益であり、真っ先に死にましょう。」 翌25日、足利尊氏は大
小五千隻の船団を率い須磨沖に停泊。尊氏の弟、直義の率いる陸上軍は15万で一ノ谷
方面から攻め上る。辰の刻(午前8時)ついに戦いが始まり、和田岬で新田軍が地上戦
を始め、船団の一部が東に移動するのにつられて新田軍は三宮辺りまで移動してしま
い、紺部(神戸)に上陸した別部隊に楠木勢は包囲されてしまいました。楠木勢は二万
を越える足利勢の中を縦横無尽に駆けめぐり、一時は直義を追いつめるがついにこれま
でと湊川の北の集落で一族28人が腹を切り家に火を放って自害しました。その際正成
が弟正季に今の願いは何かと聞くと「七生まで人間に生まれ変わり、朝敵を滅ぼした
い」と言ったと伝えられています。しかし頼山陽が作ったこの台詞が後に軍部に利用さ
れ、先の大戦でどれほどの人が死に至ったか分かりません。後に尊氏は正成の首を郷里
河内に送り届けさせたということです。

太平記の世界へのいざない 其の壱 岩井春隆
太平洋戦争が終結するまでは天皇家は万世一系、神武天皇から今日まで血筋は絶えたこ
とがないと教えられていました。しかし実は継体天皇の時代や天皇家が南朝と北朝に別
れた鎌倉末期に大きな疑問が残るのです。その時代を描いた「太平記」を辞書で引いて
みると「南北朝時代の軍記物語、40巻、小島法師作と伝えられる、応安年間(14世
紀)に作られ鎌倉末期から南北朝中期までの約50年間の争乱を和漢混交文で描く」と
説明されています。40巻は3つのパートに別れ、第1巻―第11巻は後醍醐天皇誕生
から鎌倉幕府の滅亡まで、第12巻―第21巻は建武の新政から後醍醐天皇の死まで、
第23巻―第40巻は楠木正行の戦死から足利義満の将軍就任までが描かれています。
第22巻の欠落は昔からの謎です。時代の変化を背景に武士集団が幕府という一大勢力
を作り、天皇/公家支配に代わって日本を実質的に支配していた時代に後醍醐天皇は古
代の律令制に戻し、天皇親政の時代を再現しようとしたのが混乱の始まりでした。そも
そも天皇家が南北両朝に別れることになったのは、後醍醐天皇の曾祖父である88代の
後嵯峨天皇が、三男の後深草天皇(89代・持明院統)から七男の亀山天皇(90代・
大覚寺統)に皇位を譲らせその後の事を決めずに崩御したことに始まります。その後兄
弟の孫の代までは交互に天皇になっていましたが、後醍醐天皇の代になって正中の変
(1324)、元弘の変(1331)で鎌倉幕府に対しクーデターを企てます。正中の
変は未遂に終わり、元弘の変では笠置山に立てこもって倒幕勢力を募り、その時、「南
木の夢」といわれる紫宸殿で南側の枝が茂った常盤木の夢を見て、笠置山の南方に楠と
言う名の武士がいないかを探したと太平記には書かれています。ここで楠木正成の登場
となるのですが、河内で生まれた以外もう一つ出自がはっきりせず、父親は橘入道正遠
といわれていますが定かではありません。現在千早赤坂村が誕生の地となっており、河
内の散所・玉櫛庄といわれる物流の拠点を支配していた家系だったようで、また能の創
始者観阿弥、世阿弥親子とは親戚筋になるようです。後醍醐天皇が隠岐に流されその子
の大塔宮(護良親王)は吉野で、楠木正成は千早城を中心にゲリラ戦で鎌倉幕府軍を悩
ましました。そのうち後醍醐天皇が隠岐を脱出し、伯耆(鳥取県)の名和長年や播磨
(兵庫県)の赤松円心のように各地で呼応する勢力も出始め、後醍醐天皇を討ちに来た
足利高氏までもが丹波で寝返り、鎌倉幕府は滅んでしまいます。しかし後醍醐天皇が天
皇親政の時代に戻そうとした狙いと裏腹に、北条氏から実権を奪い返したかった源氏の
末裔の足利尊氏(後醍醐天皇から名前を賜る)とは上手くいくはずもなく、北条氏の遺
児北条時行を担いだ勢力が尊氏の弟足利直義が守る鎌倉を奪い返し、尊氏が直義の救援
に駆けつけその際征夷大将軍に任命されたのを良いことに鎌倉に居座ります。足利尊氏
が後醍醐天皇をないがしろにした挙動に出たため、もう一つの源氏の末裔である新田義
貞、北畠顕家、楠木正成を始めとする後醍醐天皇派との争いに発展します。この頃には
時代背景を無視した天皇親政が破綻を来たし、各地で足利尊氏に寝返る勢力が相次ぎま
した。足利軍は都に攻め上り、後醍醐天皇は近江・坂本に逃れ、京では市街戦が繰り広
げられましたが結果的に足利尊氏は敗北、京を逃れ丹波から播磨を通って九州へ落ちの
びます。その時手助けをしたのは忠臣のはずの赤松円心でした。

第12回三洋琵琶湖サイクルマラソン 岩井春隆
未明の大阪の街を自動車でサポーターをしてくれる家内と後にする。後部座席には
ロードレーサーが1台。昨年度は参加者数が少なく、本年の開催が危ぶまれたが一回抜
ければ再開が難しいとの声もあり辛うじて日帰りを基本として続行となった。ところが
蓋を開ければ参加者はサポーター9名を入れ35名の大所帯。参加者の約半数が近くの
国民休暇村に泊まる等予想と大きく異なった。2時間少々のドライブで明け方近江八幡
に到着。晴れの予想にかかわらず小雨模様で北風が強い。サポーターリーダーの角田サン
は既に店開きをし、走者は予定を早め6:40第一陣が出発。(既に2名は5時半に出たら
しいが…)スタート直後に上りがあり、下りから平地に出るあたりから北風がまともに
吹き付ける。日本海に寒気があり今日は風が強そう。30年振りにお会いした元国体選
手の神矢サンは先頭交代と言いながらそのまま視界から消えてしまった。その後は風に逆
らっての単独行。彦根(7:30)、長浜(8:00)。余呉川沿いの道を走っていると後ろか
ら声をかけられた。振り返ると良く手入れされたクラシカルなロードレーサーが2台。
後の人の顔を見るなり「芥サン!」小生ヘルメットを被り、サングラスをしていたので気
がつかなかったみたい。暫く話しながら走り、塩津の第1チェックポイントで別れた。
(9:00)今日は調子が悪く、脚に力が入らず尻が痛い。今津(10:30)、白髭神社(11:
15)かなり疲労してきた。対岸に沖島が見えゴールはまだまだ。今日はどこかのチーム
が50人ほど練習をしているのか時々3−5名の集団が抜いていく。やっとペースの合
う二人を見つけ付いていく。琵琶湖大橋の第3チェックポイント(12:30)で中井サンが
出迎えてくれ、10分ほど座り込む。例年6時間半で回れたのに今年は遅れている。あ
と約30`。意を決して愛車にまたがり琵琶湖大橋を越え、ひたすら北上するが北風が
又もまともに吹き付けてくる。スピードメーターは時速23`程を示しているが腿はパ
ンパン。もっと練習しておけばなんて後悔先に立たず。長命寺の前でコーラを買いボト
ルケージに入れる。例年ゴール後はビールなのだが、運転する前は自重しコーラで乾杯
しよう。さて国民休暇村を目指して最後の上りにかかろうかという時にH君が通りかか
る。併走し話しながら山道を行くとやがて「国民休暇村まで3`」の標識。例年この3
`が気の遠くなるほど長く感じていたが、無理をせずに来た為か今日はなんだか脚が軽
い。そのまま回転を上げゴールを目指して最後の追い込みをかける。H君はついて来な
いようだ。国民休暇村を過ぎればあと600bぐらい。人間とは不思議なもので火事場の
クソ力か、全速力で家内を始め仲間の待つゴールに飛び込んだ。今日、目一杯ペダルを
踏んだのは最初で最後のこの時だけ。星野監督ではないが「アー疲れた!」。所要時間
は7時間16分。決して満足できるタイムではなかったが、今年も完走できた事に喜び
を感じた。しかし58歳の神矢サンは完全に琵琶湖を一周して7時間1分。歳は口実には
なりませんね。脱帽です。

創部50周年事業について 岩井春隆
1999年、滋賀県湖北で創部45周年を祝ってからはや5年近く、来年度いよいよ
我らの夕凪サイクリングクラブは創部半世紀を迎えます。
この記念すべき時を有意義なものにしたい、年間を通じて何か参加者の記憶に残るイベ
ントができないか。
多くのクラブが招待者を集め盛大に記念パーティを行っているが、何事にもシンプル、
地味を標榜する我々には似合わない。そこで次の提案をしてみたい。
来年のクラブ行事に何かテーマを持たせる。混沌した世の中は何も今に始まった事では
ない。あの「太平記」の時代、後醍醐天皇と暗闘を繰り広げた足利氏と室町幕府。野心
家の後醍醐天皇に愚直なまでに従い、最後は兵庫の地を死に場所とした河内の悪党、楠
木正成(注:悪党とは悪人ではなく、力を持った土豪の意味)等の足跡を1年かけて訪
ねるのも面白いのではないかと思います。
以下試案(私案)ですが…。
1月 OCA初詣
2月 大阪市内・四天王寺方面
3月 笠置方面
4月 五番関隧道・天川村方面
5月 西国街道・桜井の駅跡・八幡市四季彩館で記念懇親会(希望者前泊可)
6月 河内・四條畷方面
7月 隠岐の島方面
8月 高野山・大塔村方面
9月 千早・赤坂方面
10月 吉野・賀名生方面
11月 京都市内方面
12月 神戸・湊川方面
記念品についてはやはり何かあった方が良いでしょうね。
前回45周年のオーストリッチの小銭入れ、色つやも良くなって調達してもらった故西
本サンの思い出と共にあの日がよみがえります。
旅に持って行けて、使う程に味の出るもの。何かありませんか?

親子鷹しまなみ海道を渡る 今泉敬二
8月11日(月)朝、長男晶久の前タイヤのパンクが見つかり、JR星田駅まで押すはめ
になる。電車の中でパンク修理し、晶久、次男の圭太そして僕の3人で青春18切符を
使って尾道に着いたらそこは雨。まあ仕方ないかと自転車を組み立て記念撮影。子供達
は自転車、そして僕はキックボード。正月に長男と来て以来考えていたキックボードで
のしまなみ海道80kmのキャンプ旅行。20km程走って因島のスーパーで食材を買い2つ目
の橋の手前でキャンプ。丁度良い東屋があったのでテントは張らずに済む。雨が強くな
って来たところで順二さんというロードレーサーのサイクリストが雨宿り。日系二世カ
ナダ人で三菱自動車勤務の彼はこれから1週間かけて東京まで帰るそうだ。日本語は殆
ど話せない様子。ディナー?に誘ったが尾道のホテルを予約しており先を急ぐ。名刺を
交換して「Take care, Junji! 」 僕達は食事を終えて就寝。翌朝は曇り空の下で朝食
を済ませ出発。正月に焼き芋をもらった生口島瀬戸田港のスーパーにスイカを期待し
て?寄るが今回は何も出てこなかった。伯方島の道の駅で「伯方の塩アイス」そして昼
食に牛丼、カレーライスを用意したが、それらには目もくれず軽くラーメンを食べ、今
年初の海水浴を30分程楽しむ子供達。残った全てをお腹に納めた父親は重くなった体で
テント、米、ストーブなどで重いリュックを背負って再出発。キックボードで長距離走
るのって思っていた程楽しくはないんだ。最後の来島海峡大橋で"今治市"の看板を見て
「やったー、愛媛県だ!」と3人で歓喜。しかし帰りにパンフレットを見ると実は広島
と愛媛の県境は数個手前の島だった。でも僕らにとっては絶対にあの場所こそが県境だ
ったと今でも信じて疑わない。サイクリングターミナルのサンライズ糸山でアイスを食
べスーパーで食料を仕入れて、その夜は無人の波止浜駅でビバーク。自転車を袋に詰め
最後のディナーは焼きそば。食事の後は花火を楽しみ、駅のベンチで休む。翌13日
(水)は始発で松山に行き道後温泉で汗を流し、仕事で同行できなかった女房に土産を
買って帰途に着く。テントが不要だった今回の旅で子供達にとって「あずまや」と言う
言葉は生涯忘れられない響きとなった事だろう。父は思う「腕白でもいい。逞しく育っ
て欲しい」と…。

バードカーヴィング展に寄せて 正田俊夫
始めに、今回の展示会には多くの方に来場頂き、ありがとうございました。会場が改装
なった中ノ島央公会堂に決まった時点から、広いスペースとのことで以前から一度つく
ってみたかった写真集野鳥記にあった、スズメ達が餌台に群れる図がとても印象的だっ
たのでチャレンジする事に…。五羽ともなると数だけでも大変なので、入門時製作した
ものに手を入れ取り敢えず一羽を片づけ、先生の助けも受けそれぞれポースの違ったス
ズメを四羽仕上げました。以前は一羽作成するのに半年も掛かっていたのに今回は集中
力を高め、NHKの深夜番組「ラジオ深夜便」を相手に3時、4時と夜なべの連続。今
回違ったのは目玉の作り方。出展されていた殆どが出来合いのガラスの目玉だが、私は
浮かし彫りしたところに樹脂を落とし表面張力で表現して来たが、今回は誰もやったこ
とのないマニキュアを使うことを思いつく。これがねらい通りのヒット。透明感があり
山の高さも重ねることで自然な感じが出しやすい。そこまで見てくれたかな?さて、次
は出来るだけの方に来て頂くための案内状だ。バードカーヴィングの会ではポスターに
金をかけ過ぎたのか安っぽいハガキしか支給がない、それではとポスターを切り張りし
てカラフルに自作し、コンビニに持ち込んでコピーする。A店は色も悪く値も高い、B
店は色がきれいで値も安く、印刷屋としては複雑な心境。かくて願いを掛けてポストに
投函、お陰で沢山の人に参加頂き大盛況だった。会の10周年であったり、大阪市の協
力もあったが、それにもまして自然や野鳥のことに関心を持って頂く様になったのだな
あと、つくづく思っております。会場では角田さんと山本さんが「何処かでお見かけし
ましたか」なんておしゃべりされたとか。高橋夫妻にも来ていただき、奥様とは20年
振りかな、お元気なご様子に嬉しくなる。日曜日の会場とあって、雨にもかかわらず2
時以降だったが矢継ぎ早に、日頃お会いできない方や珍しいお方と、お相手もままなら
ぬまま時間のみが過ぎ、なかなか案内も出来ずじまいでしたが、ありがとうございまし
た。後日知り合いのお孫さんに、無理を言って来てもらった御礼というか約束だったの
で、1羽のスズメをプレゼントする事に…。お化粧直しも済んで立派な台にセットし、
お嫁入りをまっています。女の子で以前プレゼントした野鳥ハンドブックを持って会場
を走りまわってた事、今も楽しく思い出されます。
皆さん、ありがとうございました。

ミニベロと遊ぶ 岩井春隆
昨年7月に完成したブリジストン トランジット改はその後、改良を重ね振り返ればク
ラブランにも再々登場しています。理由は二つ、@分解・組立が非常に簡単、Aミニと
いうものの一般車と比べ性能に不便を感じない。伊藤元サンが分解・組立が非常に簡単と
言って同じBSの折り畳みを愛用するのが分かってきました。分解・組立って結構億劫
ですもんね。
3頁のクラブランにも連れていきましたが、結構走ってくれました。
当然と言えば当然ですが、後輪(動輪)の径が小さいほど支点から作用点までが短いた
め、大きなトルクが発生します。つまり登りに強いといえます。ただ前輪が小さいた
め、下る時は相当な恐怖感がありますが・・・・・・。
1.ちょっと伏見まで昼ご飯を食べに
5/2予定が急遽キャンセルとなり、できた時間で昼ご飯でも食べるかと伏見までひと
っ走り。出発は家の横の淀川堤。相棒は勿論ミニベロ。淀川左岸から八幡で宇治川の右
岸へ。途中京阪電車に行く手を阻まれたりしながら3時間もかかり伏見に到着。黄桜カ
ッパカントリーの日替わり定食と日本酒酵母菌のビールで昼食。ウインディーの谷口さ
ん夫婦に出会ったり、純米酒の玉乃光酒造を探したり…。楽しい一日でした。
2.大和の西国三十三カ所めぐり
5/4 またもやミニベロを引っぱり出し、汗をたらたら流しながら西国第六番、壺阪
寺の急坂を登る。目的は西国三十三ヶ所巡りの再開。今年開創1300年の壺坂寺は久
しぶり。その昔、鮫島サンが目を患ったときにクラブランで訪れ、目薬を買ったこともあ
ったなんて思い出しつつ大きな観音様の周りを歩いてみる。奈良盆地は遙か下の方だ。
次に七番岡寺へ向かうべく明日香の人混みを掻き分ける。シャクナゲは盛りを過ぎてい
たが岡寺の佇まいは旅人をホッとさせる。(中略)八番長谷寺は丁度ボタンが満開とか
でさながら門前町は心斎橋筋の様。人波に流され気が付いたらお参りを済ませ帰途につ
いていた。
3.急に思い立ってぶらりと京都へ
5/13 有休の締めが迫り、あすの天気予報は雨。急に思い立って京都市内の西国三
十三ヶ所を巡ることにした。会社で昼食を済ませ急いで帰ったが、出発に手間取り京
阪・丸太町駅に着いたのが3時半。先ず十九番革堂を目指す。佐川急便の運転手さんに
道を尋ねると配達用の地図で説明してもらいすぐに判明。町中にひっそりと佇むこぢん
まりとした革堂。「姉・三・六角・蛸・錦」と口ずさみ南へ下れば十八番六角堂。新旧
が同居する不思議な空間。修学旅行生があふれていた。幽霊が出そうな柳が印象的。次
に六波羅蜜寺を目指すが、5時15分、目前で扉を閉められ敢えなくタイムアウト。八
坂の塔まで登り、にわか舞子の写真を撮ったりしてミニベロを肩に夕刻迫る五条駅から
京都を後にした。

輪行袋はサイクリングを冒険でなくしたか? 岩井春隆
今のサイクリングは電車に乗って郊外へ、車の少ない道を楽しんで帰りも電車で最寄
りの駅まで帰ってくる、というのが定番になっています。
確かに時間が有効に使え、途中で故障などしても家に帰ることができます。
その反面、容易に帰れることが約束されている故、余程山の中に入り込まなければもは
やサイクリングは冒険ではないという見方ができるかもしれません。
私がサイクリングを始めた昭和40年は、まだ自転車を持って電車に乗るなんて一般的
でなく、競輪選手でなければ乗れないとか、改札を通せずにバラした自転車を別に放り
込んだなんて話もありました。輪行袋も一般的でなく夕凪CCには貸し出し用が2個あ
りました。これが競輪のトラックレーサー仕様だったので小さく、ファスナーが閉まら
ず困りました。私が夕凪CCに入った昭和40年当時、大阪には「旅とサイクリスト」
というサイクリング誌があり、「歴史を走る スタンプサイクリング 第一回南北朝時
代」という企画がありました。締め切りが翌年1月だったと思いますが、走り始めたの
が11月、夕凪CCに入ったものの、親しい人もなく、すべて単独行で走り廻りまし
た。当時の常識ですが、一旦家を出ると完走できなければ家に帰れないという一種の悲
壮感がありました。私はここに惹かれたのかも知れません。当時の集印帳が出てきたの
で日にちを追うと結構強行軍でした。
昭和40年11月 1日 四天王寺
11月11日 田尻・観音寺
11月14日 建水分神社、楠妣庵、観心寺、千早城趾、金剛寺
11月21日 四條畷神社、桜井驛阯、離宮八幡宮、石清水八幡宮
11月23日 根来寺、粉川寺
12月19日 湊川神社
12月22日 東大寺、般若寺
昭和41年 1月 1日 信貴山・朝護孫子寺
当時は住吉区に住んでいたので南の方は行きやすかったのですが全て実走です。
勿論年齢も交通の環境も違いますが、今なら半分くらいは電車利用でしょう。
当時あまり自転車に対する知識がなく、輪行袋もなく走っていましたが、思い出に残る
のは11/4のそろばんの様な地道を登り下りした南河内と11/23和歌山の根来寺、粉川寺
へ行くために越えた風吹峠です。荒涼とした誰もいない峠道で、野犬が遠吠えしている
のを聞いて震え上がった事を思い出します。
いくつになっても冒険心は失いたくないものですね。

夕凪サイクリングクラブ創部50周年記念事業
来年、2004年に夕凪サイクリングクラブは50周年を迎えます。
1999年5月に滋賀県の湖北、杉野の長治庵で45周年を祝ってから、はや4年が経
ちました。 多数のゲストが参加し、パーティー形式で祝うクラブが多いのですが、わ
れわれ夕凪サイクリングクラブは元々家族的な雰囲気の集まりです。 こぢんまりと水
入らずというのが夕凪サイクリングクラブらしくていいのかも知れません。 45周年
は1回だけの集まりでしたが、次の50周年は何か記念に残るテーマを1年間にわたっ
て繰り広げては如何でしょうか。 例えば歴史的な出来事をテーマに順次クラブランで
訪ねて見るのも面白いと思います。時間はたっぷり、これから1年間ありますのでいろ
いろ意見を出し合ってみましょう。

入会して初めての昆陽池ラン 越内 昇
2/9 朝6時30分に自宅を出発、集合場所の大阪市役所に向けてペダルを漕ぐ。
夕べは初めてのランに緊張していたのか、夜中の3時ぐらいから眼がさめ今日は寝不足
ぎみだ。8時前に集合場所に到着、まだ誰も来ていない。しばらくすると、松本さんが
来たので、とりあえずホッとする。4、5人ぐらいと思っていましたが、岩井さん、正
田さん、伊藤さん、香西さん、他4名(名前がわからなくてゴメンネ)小生を含めて1
0名の参加に楽しそうな予感が・・・。全員が揃っていざ出発。昆陽池へ一直線?とい
うよりも、一人では絶対に走れない路地や川沿いの土手道をくねり、くねりとひた走
り、着いた所は伊丹の清酒メ−カ−小西酒造のイベント会場。全員が清酒の試飲を楽し
んでいるのを見て、みんな酒好きなんだと思い、より親しみを感じ参加してよかったと
私も酒をおいしく頂いた。作り酒屋の古民家を見学した後、昼の食料を買い込み一路昆
陽池に向かう。水鳥の舞う昆陽池は、カルガモ、オナガガモ、ユリカモメ、ペリカン?
じゃなくて白鳥などが乱舞している様子を見ていると、心が癒される思いだ。お腹も癒
される時間となり、昼食の準備をする。天気予報では暖かい陽気のはずが、肌寒い気温
になったので、温かい麺類は最高でした。心も体も満足になり、お昼のひとときを楽し
んだ後、大阪市内に向け帰路についた。輪行の予定が全員自宅までランになり、改めて
皆さんの元気さに脱帽! 途中それぞれの帰路に分かれ、解散になる。私も北区付近で
皆さんと分かれ、ひたすら堺の泉北に向けて漕いでいるが、一人になると疲れが出たの
か、スピ−ドがダウン。やっと6時30分に自宅に無事到着した。初めてのツ−リング
でしたが楽しい一日をメンバ−の方々と共有できたことが参加してよかったと思う。今
後も時間の許す限り、参加しますのでよろしくお願いします。

しまなみ海道再び 今泉敬二
1月12日(日)の石上神宮初詣ランを終えたその夜に小学5年生の長男、晶久と二人
で青春18切符の残り2枚を使いきる為に13日0時15分大阪駅発「ムーンライト松
山」で今治に向かう。思いのほか乗客が多く空席に寝床を構える事ができず晶久に2席
のスペースを譲り、僕は床でリュックを枕に就寝。我が子の為に自らが犠牲になる、父
親の鏡。ところが意外な程心地良い。座席下の暖房噴出口の熱が直接体を暖めてくれて
「やっぱりこれからはこれかなぁ。」と借家住まいを忘れて"大阪ガスヌック床暖房"の
予算を考えてしまった。今治で乗り換え、波止浜で下車。自転車を組み立てているとお
婆ちゃんが飴玉をくれた。午前8時サンライズ糸山でパンを食べて出発。曇りだが風は
なくサイクリングには丁度良い。橋の上から見える瀬戸内の無数の小島に長男も感動し
た様子。連れて来て本当に良かった。伯方島の道の駅で前回12月のソロナイトランで
食べる事が出来なかった塩アイス、お土産そしてインスタントカメラを買いコーンスー
プを沸かして記念撮影。しまなみ海道唯一の天然温泉、大三島多々羅温泉に電話を入れ
たが誰も出ない。月曜日が休みである事は事前に調べて知っていたが祝日なので営業日
だと思っていた。お風呂は諦めて生口島瀬戸田のスーパーで昼食の材料を仕入れる。昨
年5月のクラブランでも寄った店だがその時と同様にご主人が島のパンフレットを片手
に説明し始めた。いつの間にか子供の手には焼き芋が。このご主人に貰ったらしい。と
ても美味しかった。ついでにわがままを言って卵は4つだけ欲しいと頼むとパックをば
らして特製4個パックを作ってくれた。お礼を言って瀬戸田港で焼飯、餃子、鶏の唐揚
を食べる。時計は1時半を回っていた。このまま走ると尾道で4時前の電車に間に合わ
ない。瀬戸田は夕凪メンバーにとっては"越すに越せない箱根の関"の様。関所破りでは
ないが、やはり昨年5月と同様に橋2つを残して船に乗る事にした。但し行き先だけは
違って三原ではなく尾道。3時頃に尾道に着きJR電車を乗り継いで帰阪。「今回は走
り足りなかったけど、またいつか、しまなみ海道を走りたいね。キャンプもやりたい
ね。」電車に揺られスキットルの焼酎で振り返った。本当に楽しい旅だった。
ふと思った。「今日は成人の日なのにしまなみ海道では振袖一人も見なかったなぁ。」
こんな田舎も悪くはないね。

青春18切符を使い倒す(*^_^*)
しまなみ海道はお昼に 今泉敬二
尾道駅に着いたのが12月22日午後4時。LOOKのロードレーサーでしまなみ海
道を渡って今治へ。それから松山まで電車に乗って道後温泉で坊ちゃん風呂を浴びてム
ーンライト松山で翌早朝帰阪。しかもしまなみの途中では瀬戸内のサンセットを楽し
み、伯方の塩アイスを食べ、しまなみ終点のサンライズ糸山でお土産を買って、道後温
泉の後は居酒屋で美味しい肴で一杯やって、ほろ酔い気分で夜行列車に乗って夢心地。
目が覚めたらもう大阪。夜明けの大都会大阪もいいもんだ。本当に充実した一日だった
なぁ。いやぁ、サイクリングって本当に心を癒してくれる特効薬ですね…。実はこの夢
のような一日が夢じゃなかったのは午後4時に尾道に着いた事だけ。しまなみ海道は曇
り。そして5時を過ぎると真っ暗。ライトはLEDの小型ヘッドライトだけ。がむしゃら
に走ってお腹が空いて、ローソンでカップヌードルを食べ、伯方島の道の駅は既に閉ま
っていてアイスなんてどこにもないし誰もいない。7時半くらいにサンライズ糸山に着
いたが宿泊客だけが少人数で食事をしているだけで売店の電気も暗い。もう閉まってい
るみたい。受付の人に聞くとJRは松山行きは1時間に1本だけだって。ほか弁買って駅
に着いたら「事故の為遅れています。」。やっと松山に着いたらムーンライト松山は後
15分で発車するところ。乗り遅れたらどうしようと冷や汗たらたらで73kmのしま
なみ海道ファーストラン?の余韻なんてどこに行ったのやら。今回、唯一笑ったのは
多々羅大橋のあの場所に差し掛かった時。5月のキャンプの時に出会ったあのデロー
ザ、キャノンデールのおじさま達を思い出して「おつとめご苦労様です。」と独り言。
大阪駅から交野の自宅まで走った夜明けの22kmが一番サイクリングとして充実して
いた。やっぱり自転車は夜走るもんじゃない。
フクを求めて関門海峡23時間の一人旅 岩井春隆
12月のクラブランで余った「青春18切符」を持って12/23 0:15大阪駅発
の「快速ムーンライト山陽」に乗り込む。相棒は赤いミニベロ1台。座席指定は買って
いるし豪華な特急車両。米朝や音楽CDを聞いたり麦酒で喉を湿したり翌朝、約9時間
後に下関駅に降り立った。ゴンちゃんのメールでは今朝帰阪した様子。天気は上々、こ
こ下関は35年振り。大阪から走ってきたあの頃は若かったと感慨ひとしお。但し、帰
りの出発時刻は13:10で4時間13分後には下関を離れるという過激スケジュー
ル。少し走ると海が見え、九州・門司は手が届くよう。海岸沿いに「唐戸市場」があ
り、土日祝は一般向けに開放している。ミニベロを縛り付け、何か朝飯でもと脚を向け
ると、さすが下関だ、フク(河豚)が沢山並んでいる。観光客向けの寿司のバイキング
やテッサ(河豚刺)を求め、九州を眺めながら麦酒で舌鼓。大分から来たという散髪屋
サンがさかんに「青春18切符」とミニベロの組み合わせを関心している。燃料を補給し
たら壇ノ浦の戦いに敗れた安徳天皇や平家一門を奉っている赤間神宮へ。目前の壇ノ浦
は潮流が速く、さながら川の様だ。お参りした後いよいよ関門トンネルで九州へ。20
円を払いエレベーターで海底へ。通行人は少なく、中心部に向かって下っていくトンネ
ルにあの日の私がいた。門司側で暫く潮流に逆らう貨物船を見ている内に、源平の紅白
の旗指しものを立てた小舟が入り乱れる幻想を見た。再度海底トンネルで下関側に戻
り、あとは出発時間まで下関市内をポタリング。定刻に上りの「快速 山陽シティーラ
イナー」岡山行きで下関を後にしたが、大阪まで乗り継ぎ2回、延々10時間の昼旅
だ。千客万来、地域ごとに乗客が増えたり減ったり。景色を楽しんだりCD、MDを聞
いたり舟を漕いだり、23:14ようよう24時間以内に大阪駅にたどり着いた。

錦秋の湖東三山を訪ねる 岩井春隆
今年3月に行き損ねた湖東三山だったが、三洋・本社CCからお誘いがあったので11/
16参加してきた。JR彦根駅から一路多賀大社へ向かう。御大の角田サン、サンデー毎
日に仲間入りした中井サン、はるばる淡路島からの新田サンと平均年齢59歳のおじさんば
かり4名。いつまでも自転車で遊べるのを喜ぶべきだろう。少し肌寒いが久しぶりの好
天ですがすがしい。5`も走れば体温も上がり、路肩の公園でモーニングティー。今日
は気温が高くフリースなんか着ていられない。多賀大社は観光客が一杯。石の太鼓橋を
渡りお参りするが、この橋が大変急でまかり間違えばけが人が出そう。7`ほど走れば
湖東三山最初の西明寺。観光バスが一杯とまり観光客もゾロゾロ。時間は丁度お昼時。
中井サンの案内で精進料理を食べにお店に入る。蒟蒻や生麩が主体で田楽も蒟蒻。食事を
楽しんだ後、いよいよお参りに行く。上にも駐車場があるらしく、われわれも自転車で
名神を越え登っていく。なんと!太陽光を反射して紅葉が燃えるように輝いている。そ
れも半端な数ではなく、十重二十重の綾錦。今年は異常気象で酷暑だったが、一転して
の急冷凍がこの結果をもたらしたのであれば、喜んでばかりはいられない。しかしなん
と表現して良いか言葉が見つからないほどの美しさだ。(写真見て下さい)充分堪能し
て次は金剛輪寺。寺の入り口までは大した登りではなかったが、自転車を置いてからが
大変。延々とそれも自然石でできた階段が20分ほど続き、歩きにくいこと甚だしい。
しかし困難さゆえにここの紅葉も素晴らしかった。最後は百済寺(ひゃくさいじ)。近
江三山は南へ下るほど標高が高く、百済寺は遙か山の上。かなり登ったのに、寺へは更
に枝道を700bの距離があった。ここも素晴らしかった。太陽が傾きだし、秋の想い
出を胸に4人は能登川駅に向かって山を下った。

タケノコのはなし 正田俊夫
編集長から、マサやん、タケノコを書いてくれる?と話しがある。マサやんとは、大
政、小政のマサやんなるか…。タケノコ、つまりは、今は面影もない外装変速機のリア
部のデレイラーの事と知って愕然、確かに小生ども自転車に乗りかけた頃内装変速機は
シマノ、外装マエダ、三光舎というごとく住み分けかあったかどうかは知らぬが、そう
であった。タケノコのことではもうひとつ話題がある。関西クラブラリーの席上であっ
たか北大阪の田中俊太郎氏とタケノコの話しに花が咲き、なら、「俺のところに来い」
とその年のシーズン、季節は無論春だ。今はクラブを離れた武智さんと彼の輪友の西田
兄弟と小生、そんなメンバーが向日町の俊太郎さんの家に朝から二人して西山の竹林を
軽く流してタケノコを用意してくれた俊太郎さんのお二階へ。お目当てのものより先に
見せられたのは彼が全国ラリーに参加した折の記念のピンバッジをブランケットに、そ
れはそれは星がきらめくように見事な数がそろえられておりそれが「わしの自慢や」あ
の厚い胸板をドンとたたいてみせたものだ。さてその後タケノコのフルコース。木ノ芽
和えに始まり、ワカタケ、天ぷら、タケノコご飯、とまあ他にもあったが鱈腹よばれ。
玄関においてあったミニより小さいおもちゃに近い二輪車、酔った勢いでサーカスみた
いなことをして大の男たちがゲラゲラ騒いだことを覚えている、10年も前の話だ。そ
の俊太郎さん、今はご病気で愛する自転車にも乗れなくなり心配だ。ラリーのピンバッ
ジ集めもピリオドかと思われる。一日も早いご快癒を。さて、本番のタケノコに戻そ
う。そのタケノコも思い出のはるかかなたに、そこで1960年頃(昭和35年)の
「旅とサイクリスト」誌のほこりを落としてみると、ロードレースにHI型デレイラー
をと三光舎、日本唯一の日本サイクリング協会推薦外装変速機サンツアーエイト、世界
一小さい内装三段変則ハブ島野工業などなど、キャッチコピーとともに頁を飾っている
本の価格が50円とあるからいよいよ隔世の感がある、面白いことに三光舎のデレイラ
ー写真が逆になっているのがこれまた発見だ。果たせるかの城東輪業1965パーツブ
ックが見つかりほとんどがパンタグラフに取って代わられている。スライドタイプとし
てサンツアーI型、ユ−レーEC-01型が見られる。ここでいうスライドタイプがすなわち
タケノコなのである。フレームから出たアームに中空シャフトが固定され、その中にワ
イヤーによって左右に移動するシャフトがあり、コイル状のばね、それを保護するため
に外部にタケノコ状の鋼で覆っている。これをして通称「タケノコ」と称しているので
ある。テンションのとり方も、チェーンステイにつけるなどスマートなものではない
が、一部愛好家においてはえもいわれぬ愛着があるのだそう。それにしてもワイヤーの
引っ張り加減でガリガリと思ったポジションが得られず、それがいいとするのも自転車
に乗る楽しみを倍加させているのかも知れない。

我が永遠のカンパニョーロ 岩井春隆
先日、懸案だったリムを交換する際、これ又懸案だったカンパ・レコード、ラージフ
ランジハブのグリスアップを行った。なんせ確実に15年はさわっていない。精度が悪
く、制動性の良くないリムが不満で交換しようと思いながら海外勤務やら、帰ってから
も10年程も無精を決め込みそのままになっていた。今回やっと踏ん切りがついて交換
することになったが同時に研磨とグリスアップを行った。ニューモデルは知らないが私
のはアルミを研磨しただけのもの。だからすぐに錆びて曇ってくるが、青棒でもつけて
研磨し直せば又新品だ。スポークをはずした後にシャフトを回してみるとゴリゴリ感が
ある。おまけに前輪はグリスも灰色気味。こりゃいかん!焦りながら玉押しを外し、ベ
アリングと椀を布で磨いて、最後はガソリンでゴミが残らないように洗って仕上げ。ベ
アリングは分からないが、椀の方の玉当たり部分は虫食いもなくきれいだった。グリス
はカンパの純正といってもいつ買ったのか不明の品。おそらく15年は経っているとい
う賞味期限切れ。しかし、流石カンパだ。あの薄クリーム色は変わっていなかった。グ
リスとベアリングを入れ、慎重に玉当たりを調整すると、あのヌルッとした感じが甦っ
た。初めて自転車を誂えたのが確か働きだした翌年の1968年。まだ自転車も良く分
からなかった時期だが自転車屋のオッちゃんがカンパのハブを一生もん(物)としきり
に奨め、そのときは少し安い、ヌーボレコードを買った。その後ラージフランジのレコ
ードを3セット買ったが、その全てが現役で使用中だ。他にもロードレーサーには5ア
ームのクランク&チェーンリングとヌーボレコードのFD&RD、スポルティーフにも
ヌーボレコードのハブとFD&RD。ペダルは知人から頂いた鉄クイルを愛用。確かに
カンパは高価だが私のように30年余も使い続けると、年数で割ると充分に元を取った
といえる。いやいやまだまだ使い続けるので更にコストは下がり続けることになる。
磨けば永遠に再生するカンパ。気に入った物を長く使い続ける。これぞ本当に一生もん
だ。

新しい道、それは原点から始まる 北畠 昭
ある若い女性の声を聞いた。彼女はスポーツ・タイプの自転車を持っている。とはい
うものの、どういうわけか自転車で走るのにキッカケが得られないという。彼女はさら
に続けて「中高年のサイクリスト達が、活発に走り回っているのは、うらやましい」と
か。そして彼女が走り出すためには「エイッ、ヤッ!」の気勢が必要ともいう。いうな
れば彼女は、自転車に初めて乗ることが出来たうれしさを忘れてしまっていることに気
づいていないだけである。あの初心があれば「エイッ、ヤッ!」なんて必要があるはず
はなかろう。初めて自転車に乗ろうと挑戦し、練習をしていて、体のバランスがとれる
ようになって、走り出せるようになった時は、「ヤッタ!」があったはず。たいていの
人は、次の瞬間から、さらに1メートル先の地面を目指していたはず。それが10メー
トルになり、100メートルになっただろう。いうなればそこに基点がある。そこから
新しい基点、新しい道を探れるかどうか、それは個々の資質なので、とやかくは言えな
い。もがいてでも何かを求めようとする人と、そこまでを無意識に必要としない人たち
もいるのは否めない。まず、自転車に乗ることが出来たことで、この感覚は一生、忘れ
ることはない。次の日も次の年も、自転車を手にすれば容易に乗りこなすことができよ
う。それでいい。それが原点だ。ところが、それだけで満足できない人たちがいる。自
転車に乗ることが出来た地点から、次の地点へと自転車を進めたくなる人たちだ。現在
の存在にあきたらず、何かを求めようとする意識、つまり、自転車で走り出した自分の
地域から、次の地域を求める人たちだ。例えば、自分の町から隣の町へ、そしてさらに
隣の町へ。そこに旅人(たびびと)としての素養があれば、永遠の旅人になれよう。あ
るサイクリング・クラブのリーダーは、そのクラブが主催した全国クラブラリーの席で
「サイクリストの老年化」を語り、嘆いていたと聞く。つまり、若いサイクリストたち
が育っていないことを指摘したのだろう。これは一面、日本の現代社会が利便さを求め
るあまり、原点からの派生を疎外してしまっている。例えば、かつてのサイクリストた
ちは、A点からB点への移動に際して、当時の基本図であった「5万分の1」地形図で
道筋をさぐり、たどった。地形図から、この道の状況(舗装など)はどうか、この峠道
は、どちらから攻めれば……など、原点からの派生に満ちていた。ところが現在は、日
本全国殆どの道は舗装され、道の難易度がなくなるとともに、自動車用の交通標識が整
備し、道筋を間違えることもなくなった。おかげで現代のサイクリストたちは地形図の
存在も意識していない。やがて、原点からの派生を失い、旅人の素質もなくしてしまっ
た、とも言えよう。「サイクリストの老年化」は、旅としての自転車の存在を失った帰
結でもあろう。いまでは多くの場合、自転車は単に走る道具になってしまっている。残
るのは自転車を楽しむためではなく、分秒を競うスポーツの一分野になってしまってい
る。オリンピックが悪い例であろう。元来、「遊び」「楽しみ」であったものを、数字
を争うスポーツにしてしまえば、自己の限界を知った時には、原点に戻らない人が多
い。自転車も同じで、自転車遊びは消滅する可能性もある。もし、1時間の余裕しかな
ければ、1時間のコースを常にもっていればいい。それをホームグラウンドという。そ
れを基点にしていれば、新しい道は見いだせるし、「エイッ、ヤッ!」がなくても走り
出せる。
北畠 昭さん発行の「遊」Vol.5 No.10 通巻58号から転載させて頂きました。

ブリジストン トランジット・ライトの改造 岩井春隆
列車内に自転車持ち込みが無料となった先鞭をパナソニックがチタン製の14インチ
のトランクルでつけたが、最近やたら折り畳みのミニサイクルが幅をきかしている。私
も4年前にホームセンターで買ったミニをドロップに変えたりして愛用していたが、何
せ値段が値段、もっと軽く小さくするために折り畳める物と思っていたら、ブリジスト
ンサイクルから発売されている軽合金フレームでカタログ重量が9.4sのトランジッ
ト・ライトを見つけた。かねがねマウンテンバイクのトップチューブの下がったフレー
ムを見苦しいと思っていたが、1本フレームながら水平一文字のフレームが気に入っ
た。限定2000台のイタリア製マッドガードがキュートで私を誘った。丁度ボーナス
シーズン、気がついたら買っていた。買う以前から、変速機を付けて、ハンドルはブル
ホーン、チェンジのレバーはその先にとあれこれ思い浮かべていたが、買ってからフリ
ーがハブと一体型ではずれないことが判明。途方に暮れて田川サイクルに相談に行くと
特別に28穴の穴を開けたスズエのハブがあり早速交換してもらうことに。フリーは7
段でディレイラーはサンツアーのシュパーブプロ。ついでにヘッド小物もレビンに替え
てもらった。そのほかチェンホイルをT.A.に、クランクもプロダイ旧型、ハンドルは田
川サンのお古、ブレーキレバーはマファックの旧型ギドネット、シーピラーもヤグラ式か
ら一体物に変え、サドルは家内から返してもらった25年前セライタリア。ペダルは吉
川の折り畳みの新製品。アウターケーブルを銀色に変えたら結局残ったのはフレームと
タイヤ、リム、マッドガード、ブレーキ本体くらい。
こんなことして、門外漢には理解できないでしょうね。
p.s.アクセントにハンドル左側の穴を清酒「剣菱」の栓で塞ぎました。


ECC NEWS 200号に寄せて
正田俊夫
200号のこと先ずはおめでとう。その都度方法に違いがあるとは
いえ、毎月のプレッシヤーや体力的なもの並たいていのことではない
と思う。新しいメデイアを駆使してカラフルな機関誌楽しく読ませて
頂いている。ありがとう。スポルテーフのことなど思い巡らせている
うち、古いニユーサイなど読み返していると'81 4月号にクラブ便
りとしてNo.143,144号のことが記されている、1/18槙尾山施福寺、2/
15なにわの名所めぐり、雪のバカ・JUDY他とある、きっと年木君の
であろう。ニユーサイに送っていたのだ。また別の所からはよれよれ
になったNo.113号が見つかった、ちよっと覗いて見よう。表紙は現在
のものとレイアウトは同じで、'78.1.1発行。カットの部分には、二
十四の瞳岬の分教場とある、リヤーランプの頁からすると、始めての
輪行で小豆島に行きトラブルばかりを楽しく書かれてある、次の頁に
はクラブランOCA合流・石上神宮となっている1/7新年会源ちや
ん、2/4ミーティング上中宅、更に名簿には、岩井さんはUSAと成
っていて上中、橘、陶山、長尾、西村、平島と懐かしい人達が並ぶ。
リヤーランプにはサンヨーのソフトボールに参加が記され、クラブ費
自由、カンパ、輪行袋貸し出し1日/150円など,おかしくも懐か
しい。猫のイラストがあり彼のマスコット年木君の労作だ。小生の場
合、なんと言ってもガリバンのニユースは北大阪の森本さん抜きには
語れそうにもない。レイアウト、特に独特の一級の見出し、鉄筆がき
っちりヤスリを捉えており、全てがお手本だった。今はもうペンダコ
が無くなっているが、長い間勲章のようにあった。そのガリ版も岩
井、伊藤、年木さんとバトンが渡り、やがて輪番制になり、やがて悲
しく灯は消えてしまったのである。時代には合わぬが手づくりの暖か
みが感じられ、ほのぼのとするものがある。先日、その森本さんに会
いそんな話をすると、まだ愛着のガリバンのセットが二台有り大事に
しまっているとのこと。再登板なんてあるのだろうか、インキまみれ
になっていた頃が懐かしく思われる。
岩井春隆
私が夕凪に入会したのが高校3年生の秋、全くの飛び込みでの入会
だった。その翌月からECC NEWSが郵送され、正田サン編集の内
容に心を躍らせたものだった。そのうち伊藤サン、高橋サン共々ニュース
の印刷を手伝いに正田サンの家に出かけた。もちろん当時はガリ版全
盛。色々テクニックを教えてもらい、私が引き継いだのは'70ごろだ
ったか。当時のニュースを綴じたファイルが行方不明でかろうじて出
てきたのは'71の6月号。当時は写真にも興味があったのでこの号は
モノクロ写真で表紙を作っていた。翌月父を亡くしたが、5月に単独
行した余呉湖の黄昏を使っている。ガリ版は一字入魂、本当に一字一
字の手書きは字の下手な私には結構負担で題字など毎回手書き、その
うち原紙を切り取っての使い回しを覚えたが毎月大変だった記憶があ
る。
4年前に西宗サンからバトンタッチしたが、パソコンとデジカメを駆使
する今は楽チンそのもの。ただ一度休むと癖になるので、ミーティン
グのある週の火曜日朝の投函は必達目標。ニュース作りを負担と思わ
ず、良い経験をさせてもらっていると楽しんでやっていきたい。ニュ
ース作りで何かアイディアがありましたら何なりとご連絡を。

夕凪サイクリングクラブに入会して 伊藤広之
本年2月より新しく入会させて頂きまして早くも4ヶ月経ちました。
以前より元同僚の岩井さんより機会あるごとにサイクリングクラブに関しての活動を
詳しく伺い、会員の皆さんも明るい楽しい人ばかりですよとの事でした。丁度私自身も
三洋電機(株)を定年退職しましたが、健康にも恵まれており、いまだに会社勤めをし
ております。年齢的にもそろそろ仕事と関係なく気軽に楽しく話ができる新しい友達と
健康にも良いサイクリングを無理しない程度にしたいとの気持ちになり、岩井さんにお
願いし入会しました。
早いもので入会より3回同行しましたが、サイクリングになれない私に対して気軽に声
をかけてもらったり、乗り方に関すること(調整、ギヤー切り替え、乗車姿勢、ペダル
の踏み方等)、参加者による楽しい食事と会話、自動車では味わえない景色、コースで
皆に遅れる私をフォローして頂く気持ち等、皆さんと楽しくサイクリングができまし
た。一日でも早く技術面で皆さんに少しでも近づけるよう、時間を作り近場を走りたい
と考えております。今後とも私に適したコースには積極的に参加していきますので、末
永くお付き合いできればと思っております。皆さん、今後とも良きアドバイスをお願い
致します。

日曜午後の市内散歩 西宗幸一
4月は5月連休の工事準備の為、予定していた御嶽、開田方面ツアーも渋々中止。その
甲斐あってか連休の工事は無事完了。
心の余裕が出たので5/12(日)p.m.より市内散策に出かけた。行き当たりバッタリで進路
は気分任せ、高級住宅街帝塚山より日雇い労務者の町あいりん地区を抜け、なにわ筋を
北上。いちょう並木の緑が目に優しい。
うつぼ公園に出たのでバラ園で休憩。バラ園のベンチに座る若いカップルはいいもので
す。バラより若いカップルに目ガ移る。オッサンには場違いの雰囲気なので今度は中之
島公園に向かう。中之島公園のバラ園はうつぼ公園より大きく人も多い。ドイツ、フラ
ンスで品種改良されたバラもあり、色、香りともすばらしいものであった。
きれいなバラに満足し最後に大阪城公園に着く。公園はよく整備され都会のオアシスに
なっているのはいいが、ホームレスの仮設テントには閉口する。
仕事のこと、定年対策、子どものことなど色々考えながら家路についた。
こころよい疲れでストレスを解消できた一日であった。

自由サイクリングクラブの印田さん
正田俊夫
「今中時代の思い出と言えば勤労奉仕時代の空襲だろう。」で始まる冊子"道学燦々"が手元
にある。2年前に元祖FCCの印田さんから送られてきたもので、他にも知人に回覧され各人の
生き方と重ねて感想が多々寄せられていると伺います。
そう、今回は自転車を通じ、仲間作りを通して常々尊敬している印田さんの事を紹介しよう。
夕凪で知っておられるのは岩井サンか伊藤サンぐらいなものか。自由サイクリングクラブ(FC
C)、なかなかネーミングも他に見られないおおらかなもので、小生が出入りするようになった
のは、夕凪会員で新聞配達の後輩に二つ下の弟分みたいな山田忠男君が居て、これが人な
つっこい人物、そんなどこにでも憶面もなく出入りする彼が面白い人がいると、紹介してくれた
のが自由クラブの印田さんだった。OCAの事務局に沢田サンが居たころの話で、その山田君
は東京に就職、その年に相模湖でダンプと接触、この世の人で無くなった。18歳だったろう。
生前に地蔵さんというニックネームをもらっていた。印田サンはアルプスの車をこよなく愛さ
れ、何台も乗り換えられ、そのうちの1台などオシャカになったクロモリのフレームをラグに近い
部分でカットして卓上用のディスプレイにされていた。小生がアルプスのマッドカードが欲しいと
いった折にもちゃんと手当てをして頂いた。未だに社主の萩原さんとは懇意だそう。
クラブランは20人位が走っていただろう。とにかく小生がまだ自転車を始めて間もない頃だっ
たのでメンバーが乗っている自転車がすごい。クラブも大阪の北部に位置するのか会風も実
に都会的だった。さらに年上の方ばかりで、皆さん大人だったみたい。OCAのリーダー会のメ
ンバーも4、5人いた。そう、今北大阪CCで走っておられる石川さんもFCCでおなじみになった
人だ。印田さんは脚の強い人で、コースはいつも健脚向きだった。ナイトランで篭坊や琵琶湖
途中越え、若狭へのドライビングサイクなどなど幾度か連れて行って頂いた。
さて、失礼ながら印田さんの人物像。小柄でメガネ小ぶりといったところ、現在は豊中の服部
にお住まいだが、今中の頃までは、大阪の西区で乾物商だったとか。大きな商家だったが没
落の後、服部に。今回の冊子によって今まで知らなかったことが一度に埋まった様。
昭和4年8月の生まれで、今中に進むほど優秀な人だった。
自由クラブの元祖を自認しておられるだけであって、いつもメンバーの中心にいて人を呼ぶの
である。小生にあっても18、9の時代だったのとお連れがもっと欲しかった年頃、なぜ個人に
あれだけの人が集まるのか不思議で仕方がなかった。
ご自分では冊子の中で「ビートたけしなみにピョコピョコとシニカルな発言をするので」と書いて
おられる様に、どんな時にも口から機関銃のごとく言葉が飛び出し相手をとりこにてしまうので
あろう。小生もその一人で毎月ではなかったがミーティングの折、お宅の部屋に入り切れない
数で終電もなくなり天下茶屋の家まで車で送って下さったことも。
今まで本当に良くして頂いた。面倒見のいい人と覚えた。自分にも出来ることからと、ハガキを
書くことを身に着けたつもり。先にもあったアルプスのマッドガードをお願いした折などは届い
た、はよ来いやれ来いと週のうちに3通ものハガキ、とにかく多くのハガキを頂いた。時には世
の中の時評であったり、人生はこうだとか、車はマツダが一番だとか旧知のサイクリストが亡く
なった訃報もあった。数えると鮫島さんが10年生まれだから更に6つも上でますますお元気、
今もマウンテンバイクを乗り回している素敵な方。一歩でも近づいたならと思いながらつい最近
もらったはがきの返事も出来ずにいる。そんなFCCは小生にとって今でも折々ほのかに思い
出す青春時代の大切な一頁なのです。
注)文中の今中とは旧制今宮中学で現在の今宮高等学校の前身です。

我が青春のサントリー
岩井春隆
ロンボンビロン シュビダデー オデエーエエーヨー……………
今、このアップテンポの曲(人間みな兄弟〜夜がくる)を聴きながら原稿を書いている。
小林亜星が1967年にサントリーオールドのCM用に作曲したもの。懐かしい!
なぜこんな事を書いているかと云えば、最近入会された伊藤広之サンの練習を兼ね、前週クラ
ブランに参加できなかった正田サンも一緒に3/24高槻から旧西国街道沿いに嵐山まで走った
際の出来事。その日の天気は回復するとの予報であったものの、朝7:45家を出る頃から小雨
が降りだし、ポンチョを被って淀川堤を遡る。枚方大橋付近で雨が上がり、定刻にJR高槻駅
に着くと伊藤サンが待っていた。しばらくして正田サンも到着、旧西国街道を北上する。歴史の詰
まった道で楠木正成の兵庫出陣、羽柴秀吉の大返し、明智光秀との山崎の合戦、忠臣蔵の
早野勘平が早駕籠にしがみついて通ったのもこの道である。歴史に酔いしれて「櫻井の驛跡」
で小休止。ここは楠木正成、正行親子の別れの地。しばらく行くとサントリーの工場がある大山
崎だ。左手に天王山が迫り、淀川の向こうには男山が。ここでJR東海道線の下をくぐり抜ける
小さなトンネルを見つけた。首をすくめて通るのがやっとという本当に小さなトンネルをくぐり、
線路の向こうに渡るとサントリーの山崎蒸留所。見学者とおぼしき団体が歩いているので、受
付へ行ってみると予約しているかと聞かれる。もちろんしていなかったが3名ならOKとの事、
急いで申込書を書き見学者の列に加わる。案内はチャーミングなS嬢でなにを聞いても「あり
がとうございます」で始まり答えが返ってくる。残念ながら工場は止まっていたがおびただしい
数の樽が熟成を待っていた。確か山崎だけでも20万樽とか。見学後は試飲をさせて頂き、楽
しく歓談の時を過ごした。その後は「山崎ウイスキー館」で記念品を買ったり、更に有料だが百
円で70度もあるニューポットという樽詰め前の透明な搾り立て?を飲んだり、熟成の比較サン
プルを飲んだり、いやはやすっかりサントリーファンが誕生した。ここで買ったのが先ほどのロ
ンボンビロン シュビダデー。なんでCMソングのCDをと云う無かれ、なんと19種のヴァージョ
ンがあり結構楽しめる。私の1967年は働き始めた年でやっと酒の味も判ってきた頃でもっぱら
白札を愛飲していた。今はマグナムドライが一番。大阪人にとってサントリーは地酒かな? 地
域振興でもっと飲んであげましょう。山崎を後にし長岡天神付近でお好み焼き屋で昼食にした
が、流石にビールの注文は出なかった。その後町はずれで夕立に逢い小さなお社で雨宿り。
雨の後の陽に輝く菜の花畑は今までの人生で一番素晴らしかった。桂付近からは最も山寄り
の道を辿り嵐山・渡月橋の畔でティータイム。桜はまだちらほらで人出も大したことはなかった
が来週あたり一杯だろう。今日は雨にも大して濡れず、裏道をあてもなく走る楽しさを実感して
もらい楽しい一日だった。

自転車リニューアル作戦苦戦せり
岩井春隆
今から思えば季節を誤った。冬だから余り自転車に乗らないだろう。この機会に気になってい
た塗装を塗り替えようと、今年の初詣サイクリング後にバラしてしまったのが運の尽きだった。
この自転車は三洋電機OBのT氏の作で自宅の物置で誕生したもの。氏が独学の技術で作
り、私の依頼を随所に織り込んでもらっただけに余計に愛着が湧く。車齢は18年ほど経った
だろうか。当初、輪行袋に納める方法を思考錯誤した際、あちこち傷をつけてしまっていた。親
元で剥離剤を塗ってはしばらく置き、水道の水を掛ながら歯ブラシでこするという作業を繰り返
した。ところが寒さのためかなかなか塗料が浮いてこない。石油ストーブを持ち出してフレーム
を暖めるという方法も採ったが遅々として進まず。剥離材も少なくなってきたのでホームセンタ
ーに行くとカンぺ社製のがあったので使ってみる。以前のSペイント社製よりは性能が良い。そ
の後は家で作業を続行、ベランダで剥離材を塗りつけてはゴミ捨て場の共同水道で剥離材と
浮いた塗料を洗い流す作業を続けた。何度階段を上がり下りしただろうか。また、作業をしよう
と意気込んでいるのに休日になると北風が吹きがっかりした事もあった。なかなか取れない下
地をナイフでこすり取り、正田サン推薦の「べっぴんさん」みたいなスポンジで磨き、やっと塗装
をはがし終えた。田川さん所に持ち込んだのは既に2/11、バラしてから塗装を剥ぐのに約1月
近くを費やした事になる。2/22に休暇をもらい田川さん所へ受け取りに行くとなかなかきれいに
仕上がっていた。2/22-23で組立にかかり、元の状態に戻ったのは日付も24日に変わる頃。明
日は関西友好クラブラリー、ようやく間に合った。以前と同じ紺色に塗ったため気がつく人はい
ないと思うが、きれいになった愛車を見ると我ながらご満悦だった。今度はアルミ部品にバフ
掛けしてリムも交換しよう。

親子三人 赤穂なぎさ海道を行く
今泉敬二
2002年1月20日(日)は青春18切符の使用期限。毎度のことだが2回分余ってしまい何とかし
て使い切ろうとJR西日本が企画する「駅からはじまるハイキングマップ」で播州赤穂をチョイ
ス。そして今回もまたキックボードでの挑戦となった。しかも二人の息子、晶久10歳、圭太8歳も
道連れに専用輪行袋で130km/hの新快速に揺られて9時半に播州赤穂駅に到着。天気はぼ
ちぼち。女房は不参加。これには正当な理由があった。決して夫婦喧嘩してついて来なかった
訳ではない事を物語りに入る前に読者の皆様にご承知頂きたい。バイクフライデーよりも数倍
コンパクトなキックボード3台を1分足らずで組み立ててスタート。忠臣蔵で有名な赤穂浪士のい
た元禄時代にタイムスリップしてしまうような街並みを感慨深く廻ろうと思ったのだが…。子供
達にはお昼ごはん、温泉、お土産、それしか頭にない。息継井戸、格子の家、赤穂城跡公園と
ただ通過するだけ。「ここは昔、偉いお侍がいて、殿様の仇を…。」と説明しようとしても「お父さ
ん、お昼ごはんはどこ?何作る?近い?」。全然会話が噛み合わない。仕方なく短時間でせっ
かくの城跡を通り過ぎて赤穂御崎に向かう。11時を過ぎたのでスーパーを探したが会員制のコ
ープしかなく、小さな個人商店の八百屋に入ってうどん、とうふ、ザーサイを購入。ここのお店
のおばちゃんは気さくな韓国人でキックボードを見て「どこから来たの?大阪からキックボード
で?」みんなで笑った後「ちょっと乗せて!」。少し貸してあげると大喜び。MSRガソリンストーブ
に使うライターを忘れてきていたのでおばちゃんに頼むと「たくさんあるよ。」と3本もタダでくれ
た。瀬戸内海を見ながら海岸線を登っていくと東御崎展望台に着き、そこで昼食。煮込みうど
んを作って美味しくいただいた。満腹になったら次は温泉だ。1時を回っていたので少し急がな
ければと子供達に「勝手に地図見てどんどん先に進めー!」と昼食の後片付けをしながら檄を
飛ばすと逞しい彼らは本当に二人だけで出発して見えなくなった。10分程してちょっと心配にな
って追いかけて行くとたった200メートルくらい進んだところで地図を見ながら何やら二人で相談
中。地図を必死になって読みながらコースを調べている模様。兄弟愛、息子達の成長を微笑
ましく思いながら「お前達えらいぞ!ちゃんと地図見てやってたな。」誉めてあげた。すると「お
父さん、僕地図って何の事かぜんぜんわからん。」たった一本しかない道なのに地図で場所が
分からない?? しかも地図って何の事すらわかっていない?? 親父37歳がっくり! 辺りを見
回すとすぐ上に「かんぽの宿」発見。大人800円、子供500円でなかなかリーズナブル。自動販
売機で券を買って塩サウナ、大浴場、露天風呂を楽しんだ。海が見える露天風呂はお勧めで
す。たっぷり1時間汗を流して2時半に「かんぽの宿」を出発、JR赤穂駅へ。次男圭太がやけに
汗をかくと訴える。駅に着いてもまだ汗が乾かない。帰りの新快速電車に乗っても乾かない。
すると座席から妙な匂い。実は汗と思ったのは汗ではなく昼食に食べて残ったザーサイの汁が
ビニール袋から漏れてリュックサックから着ている洋服に染み出ていたのだった。赤穂の粗塩
の香りの代わりにザーサイの臭いを付けて6時半に帰宅。たった12kmのポタリングだったが本
当に楽しかった。女房も子供からの砂時計のお土産でにっこり。
でも、おかげでこの兄弟、今はザーサイ恐怖症。ホント美味しいのにねぇ(笑)


|