モアイとアフ


倒れたモアイ
モアイ立つ
モアイ工場
謎のなぞ


倒れたモアイ

普通に転がっているモアイ  イースター島(島の言葉ではラパヌイ)には千体のモアイがあると何かで読んだが、 人によっては八百だと言ったり2千だと言ったり、 果たして誰か本当の数を知っている人がいるのだろうか。
 それと言うのも、モアイはほとんどみんな倒れている。 しかも大方は顔を下にしてうつ伏せに倒れているのだ。 そして「これがモアイですよ」と言われなければ、 ただの岩だと思って通り過ぎてしまうほど風化している。
 右上はハンガロア村に隣接したタハイ遺跡のあたりに転がっていたモアイだが、 私はこのあたりを何度も行き来していたのに、その存在に気付いたのは4回目に通った時だった。

モアイを踏むなという看板が立っている  こんなふうに看板が立っていて、「このモアイを踏むな」と書かれている。
 と言うことは、これを見てもモアイだと気付かないのは私だけではないって事だ。

 それでも、こんなふうに人が行き来する野っぱらの上にモアイが直接倒れているのを見るのは稀だ。

アフの上で倒れているモアイ  本来、モアイはアフという石積みの上に乗っているものだ。アフはモアイの台ではない。 墓だ。モアイは墓の上に乗っている。
 だから多くのモアイは右の写真のように石積みの崩れた墓の上でうつ伏せになって倒れている。
 アフとモアイについては、先ずアフありきでいつの頃からかモアイが上に乗るようになったらしい。 故人を偲び似せて作った石像を置いたのが始まりだと言う人もいる。 しかしアフは集落ごとの墓であるから、 その集落の象徴や守り神としてモアイは次第に巨大化していったのではないかと言うのだ。

アフの上に立つモアイ  アフは通常海岸べりに海岸線と平行に細長い形で作られている。 その前(と言っても100メートルくらい内陸に入った所)に集落の長の家があって 今でもボート型の基礎石が残っている。 平民の家には基礎が無く、集落の長の立派な家より更に内陸にあったそうだ。
 つまり集落はアフを中心に形成されていて、モアイはその人々を見守っていたわけだ。 確かにモアイの前に立ちモアイに見つめられていると幸せな気分になってくる。
 そのモアイがなぜ倒されたのか。 ちょうど海側から強い力を受けたような倒れ方をしているから、 超大型台風にでもやられたのかという感じだが、イースター島に台風は来ないそうだ。
 モアイは人の手により倒された。 島の東西の部族間で内戦が起こり、敵のモアイを倒しまくったらしい。 モアイの目から放たれるマナの力を恐れ顔が下になるように、うつ伏せに倒した。 だからモアイはみな内陸側に倒れているそうだ。
 マナを説明するのにラパヌイトラベルのガイド、アンドレアは、 Spirits、日本語で言うところの「チ」だと言った。 なんで血なんだよと思ったけど、よく考えたら「気」じゃないかと思って確かめると、 「そうそう、気よ。気ね」と笑っていた。 珍しく日本人がいたから、彼女はサービスのつもりでうろ覚えの言葉を使ってしまったのかな。 でもマナは気というよりも、むしろ超能力とか神通力と言った方がいいのかも知れない。

バイフの倒れた八体のもあい
アフ・バイフ 八体のモアイが倒れている姿は壮観

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モアイ立つ

アナケナビーチのモアイ  では今現在アフの上に立っているモアイは戦禍を免れたものなのかというと、そうではない。 近年になって立て直したものだ。
 左のモアイはアナケナビーチに、七体並んで立っている刺青入りのモアイとは離れて 一人佇んでいる。
 小さいものでも高さ5メートルはある石像を昔の人はどのように運びどのようにして立たせたのかは、 誰だって不思議に思うだろう。 1956年ノルウェー人のトール・ヘイエルダールは島の人達をたのみ、モアイを起こす実験をした。 試行錯誤の後、結局はロープで吊って このモアイを起こすことに成功した。復活第1号のモアイというわけだ。
 このビーチは伝説の王ホトゥ・マトゥアが上陸した場所だと言われていて、 このモアイもホトゥ・マトゥア王の像だということになってるらしい。


アフ・トンガリキ  右の写真はアフ・トンガリキ。 日本の企業「タダノ」が大型クレーンの提供と技術指導を行って復元した事で有名だ。
 十五体のモアイが並ぶアフはかなり大型のものだ。このアフは内戦でモアイが引き倒された後、 1960年のチリ沖地震による大津波により、モアイは100メートル以上、 アフの石に至っては1キロメートル以上も内陸に向かって流された。
 だからタダノの大型クレーンがあるからって言っても、 モアイをクレーンで吊るす段階までたどり着くのに相当な苦労があったようだ。
トンガリキのモアイ  発掘に参加した猪熊兼勝さんの文によると、玄武岩が散乱しモアイが転がっている現場を 6メートル四方の区画に分けて石を拾い集め、津波以前に撮影された写真と照らし合わせて 石の位置を決めていったという事だ。想像するだけで気が遠くなるような作業だ。
 アフとモアイの台座が復元された後、素材が脆くなったモアイは、 あらゆる石の性質を知り尽くした日本の石工佐野勝司さんの指揮のもと、 タダノの50トンクレーンを器用に操る島のオペレーターによって吊り上げられた。

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モアイ工場

モアイの向こうには

 トンガリキのモアイが見つめる先にはラノララクの山がある。 ラノララクの山肌はモアイの製造工場だ。 驚いた事に、モアイは切り出された石を削って作られたのではなく、 岩山の斜面を直接削って作られている。

製作途中のモアイ  左の写真、山の岩肌にモアイがいる。輪郭と前面だけ彫られているが、 これから背骨あたりに梁のような感じで地面との接合部を残して後ろ側を彫り進め、 その梁を最後にはずすとモアイは山の斜面を滑り落ちていく。 あらかじめ斜面の下に掘った穴の中に落ちたモアイはその勢いで直立するというわけだ。 それから細部を仕上げる。

埋まったモアイ  右のモアイは穴の中に立っていたのだろうが長年の間に土が堆積して下半身が埋まってしまっている。 つくりが荒いところを見ると仕上げ前の状態か?




 このあたりになると細部も仕上げられているようだ。首に刺青まで彫られているものもある。

 ラノララクのモアイを見ていてふと気付いた。ここに半分埋もれて立っているモアイは 今まで私がイメージしていたモアイだ。顔ばかりで小さく窪んだ目をしている。 それがモアイだと私は思っていた。 しかしラノララクのモアイはあくまでも製作途中であって完成形ではない。
タハイ 目が復元されている  アフに立てられたモアイとラノララクのモアイの決定的な違いは目にある。 ここから、遠い所では20キロメートルも離れたアフまで、 どうやって運んだのかは正確には分かっていないが、兎に角モアイは運ばれた。 そしてアフに立てられた時、初めてモアイに目がはめ込まれる。
 タハイにはちゃんとプカオ(帽子のようだが、最近の説ではモアイの髪だということになっている)を かぶり、珊瑚と黒曜石で作られていた目もはめ込まれた完成形のモアイがいる。
 アフの上に立てられてから、用意された目の大きさや形に合わせて眼窩が深く削られる。 だから一度でもアフの上に立てられた事のあるモアイは下の写真のように目のくぼみが大きいそうだ。

 モアイは目を入れられた段階で魂を持つ。目を入れる作業は開眼供養みたいな儀式だったんだろう。
トンガリキの発掘時、あのアフは増築を重ねて継ぎ足し継ぎ足しして あれだけの大きなものになっていることが分かったのだが、 その増築の資材として目を外されたモアイが使われていた。目を外したモアイにはもはや魂はなく、 ただの石だという解釈らしい。日本流で言えばしょうねを抜いたという事だろう。
 モアイは口を閉じ、目を見開いている。口を開くとマナが逃げていくからしゃべらず、 見開いた目からマナを発しているのだそうだ。なんとなく分かる気がした。 昔は日本人も一度発した言葉には魂が宿って勝手に飛び回ってしまうと考えていたし、 「目は口ほどにものを言い」なんて言ったり、眼力で敵を倒したなんて話があるくらいで、 目力を重要視してきた。
 勝手な推測だが、東南アジアの島から南海の島々に移り住んだポリネシアンと 大陸から移住者が来る前はマレーシア起源の民族だったとも言われる日本人の間には 昔、共通の考え方があったのかも知れない。


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謎のなぞ

 内戦でモアイがことごとく倒されてしまったのが18世紀のことだとすると、 まだわずか3世紀前の話だ。日本で言うと江戸時代。 それなのにモアイとその時代については考古学的仮説でしか語られない。記録が無いのだ。
 アイヌのように文字を持たなかったのかというと、そうではない。 文字を読める人がいなくなってしまったのだ。
 19世紀、奴隷狩りに遭い島の人口の3分の1とも半分とも言われる1000人以上の島民が ペルーに連れ去られた。肥料用の鳥の糞を集めさせるためだ。
 連れ去られた人の中には王族、僧侶、学者が含まれていて、 彼らこそロンゴロンゴに刻まれた象形文字を読むことができる人たちだったのだ。
 日本の感覚では偉い人が先に捕まるなんておかしいと思うが、 この島では偉い人が平民より海に近いところに住んでいたからそうなったんだろう。 ラパヌイはそれまで外敵に攻められた事がなかったのだろうか。
 やがて彼らを奴隷として働かすことが非人道的だという声が上がり、 イースター島へ返されることになった時にはもう半分以上の人が死んでいた。 生き残った人たちも帰途、天然痘と結核を発症し次々と倒れ、 島に帰り着いたのはわずかに100人ほど。
 そして帰還した人達により島に病気が持ち込まれ、島の人口は激減した。 その時わずかに残っていた象形文字を読むことができる人間は死に絶えたということだ。
 勿論、口承によっても島の歴史や神の物語は語り継がれてきた。 字の読めない人達も自分たちの島のことはよく知っていたはずだ。 しかしキリスト教の宣教師たちは彼らの神を奪い、象形文字が書かれた板をほとんど燃やした。 そしてキリスト教に改宗したラパヌイの人達は世代を重ねるごとに島の歴史と神の物語を忘れて いったのだ。
 こういう時、一神教というのは偏狭だ。 日本人と同じくポリネシアンも多神教の民族である。 いくらキリスト教の神が唯一絶対の神だと言ったって、極端なこと言ったら、 私らカマドの神さんまで否定されるんかいな。

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RAPA NUI イースター島への旅