2007.8.18 神様になんてなりたくない 2007.8.18

終戦の日も終わり、もう話題に上らなくなった靖国問題ですが、 私にはひっかかっている事があります。
靖国問題というのは、なんだかA級戦犯が合祀されている事だけが問題のようになってますが、 戦死した日本人が靖国神社に祭られているという事自体はいつからOKになったんでしょうか。
私がまだ子供の頃はベトナムに向かって日本から米軍機が爆撃に向かっていた時代で、 この頃は非難の的になっている日教組の組合員である小学校の先生は反戦デモに参加し、 授業では子供たちに戦争の悲惨さを説いていました。 あの当時は20歳台だった若い先生も太平洋戦争まっただ中に生まれた人たちで、 東京大空襲の中を母に背負われて逃げ惑ったり、父が南方で戦死したりしている人たちです。
彼らの話の中で、子供だった私が酷いと思った話の一つは、「死んだら神様にしてやるから 国のために立派に戦って死ねと言われて、年寄と子供以外の男はみんな戦地に行かされた」 という話です。戦死者が軍神として祭られた事を言っていたのです。 神様になれたって死にたくないし、そんな事を言う人はおかしいと、小学生の私は思いました。
そして大人になってからは宗教の自由という観点でも問題じゃないかと考えるようになりました。
私も半世紀近く日本という国で生きてきましたが、今まで自分の家の宗教が神道だという人は 一人しか知りません。 キリスト教の葬式には2回参列し、賛美歌も歌いましたが、他は葬式といえば仏式です。 多分日本人の宗教分布は私が参列した葬式によく反映されているのだと思います。
仏教徒でもキリスト教徒でも真面目に教義を学んだ人なら、 死んで神になることなんて望まないはずです。 それは、唯一絶対の神に信仰を捧げるキリスト教徒にとってはおこがましい事でしょうし、 神に帰依してはいけない仏教徒にとっては禁止事項なのですから。 仏教的に言うと、神というのは見返りを求めたり罰を与えたりするから人間とおなじレベルの存在で、 帰依してはいけないことになっています。人間は神になろうとしてはならず、 菩薩を目指して生きていくべきで、 菩薩となった暁にはこの辛い世の中にまた生まれ変わるという苦しみから解き放たれるのだそうです。
だから、神にされる事は仏教徒にとってもキリスト教徒にとってもありがた迷惑ですから、 日本人の大多数にとって迷惑な話のはずなんです。
仏教というのは寛容な所があって、 「愛想しとかないと災いを降らすような狭い心の神さんなら、可愛そうな人だから、 ちゃんと相手してやりなさい」的な発想で、初詣とか伊勢参りなんかは問題ないわけです。
でも本人が神になるとなると、仏教の教えを逸脱してしまいます。 それなのに、今では大方の日本人にとっての仏教は葬式仏教になってしまって、 仏教の教に関心が無いせいでしょうか、 靖国問題は宗教問題ではなく外交問題だという事になってしまっている。 それが私には解せないのです。
太平洋戦争では、キリスト教徒も、仏教の教えを本当に理解していた仏教徒も、 本物の坊さんも徴兵されて戦死しました。 そんな彼らを神社に祭ったのは、菅原道真を天満宮に祭ったように、 戦争に送った側が死んだ人間に化けて出られないようやった事だという説もあります。
そもそも戦死したキリスト教徒や仏教徒にとって有難迷惑な神社に国の首相が参拝することは、 A級戦犯合祀以前に、 国民の宗教の自由をいまだに踏みにじっていると感じるのは私だけなのでしょうか?