和江おばさん      篠原千代
 
 長女に手をとられるようにして、和江おばさんは姉と
私の待っている部屋に入って来た。私は胸が熱くなって
涙が溢れそうになった。五十年ぶりの再会であった。
 意外に元気そうに見えたが、今年八十八歳になった。
一別以来の話は沢山あるのに、何から話しはじめてよい
のか、お互いとまどっていて、ぎこちなかった。
私が五歳位の時、和江おばさんは大阪天満の隣家に嫁
人りして来た人である。その頃のことはよく覚えていな
い。私の記憶に鮮明に浮び上るのは、今いる姉の上に、
もう一人の姉がいて、小学五年生で死んで行った日のこ
となのであった。
 私はどうやら隣家で眠っていたようだ。末っ子の私は
隣家に預けられて、和江おばさんが私を揺すぶって、
 「チヨちゃん、起きなさいよ。啓子姉ちゃんが家に帰っ
て来たんやよー」
 しみじみとした云い方だった。その意味は幼い私には
分らなかったが、異常な意味は何となく汲み取っていた。
北野病院で亡くなった、姉の遺体が家に帰って来たと、
云うことであった。若妻であった和江おばさんに、背負わ
れて家の外に出た。夜空にいっぱいの星が光っていた。
地蔵盆の夜のことであった。
 私が小学校に上って、低学年の頃学校から帰ってくる
と、おやつを持って、和江おばさんのいる隣家に行った。
 和江おばさんは二人の子持ちになっていて、質素だが
きちんと片づいた家で、縫い物をしていた。今の時代と
違って、家族の着るものは、母親が全部仕立てた時代で
あった。子供の着物をセッセと縫いながら、いろんなこ
とを話し聞かせて貰った。決して口数の多い人ではなか
ったのに、話の切れがよくて、子供の私にもよくわかっ
たし、たのしかった。働きものでキビキビとした動作だった。
 和江おばさんは、小学生の頃母親が亡くなったこと
小学校ではいつも優等賞をもらったということ、兵庫県
の山間に伝わる恐い話、一寸した笑い話等も次々に聞い
た。唯一つ覚えている話は、
 「ある日ミヨちゃんは、お母さんにだんごを五つ買つて
くるように云われました。ミヨちゃんは、だんごを五つ
だんごを五つ、と云いながら歩いてゆきました。忘れて
は、いけないと思うてたんやね。どんどん歩いてゆきま
した。道の真ン中に大きな石が落ちていて、その上を<ど
っこいしょ!>と飛び越しました。その時ミョちゃんは、
だんごを忘れて、<どっこいしょ、どっこいしょ>と云
って歩きました。お店屋さんに着いた時に、ミヨちゃん
は<どっこいしょ下さーい>と、云ったよ」
 私は笑い転げて、この話を何度もおねだりして、
 「チヨちゃん、またかいなー」
と云われたことを覚えている。テレビのない時代で、
雑誌は一月に一度買って貰うのを、むさぼるように読ん
でいた時代であった。私の孫が五歳位の頃に、この話を
聞かせてやったら、面白がって喜んだ。
 和江おばさんに四人目の子供が産れた頃、おばさんの
夫が、結核になって、病状は進んで行った。兵庫県の西
脇に近い山村に、引っ越して行った。そこがおばさん夫
婦の故郷であった。和江おばさんは六人の子持ちになっ
ていた。
 姉と私は毎年夏休みになると、その山村に一週間程遊
ばせて貰った。お祖父さんもお祖母さんもいて、和江お
ばさんの夫は離れの二階に寝ていた。お祖父さんは養鶏
場を持っていて、毎朝沢山の玉子を集めるのに、従いて
歩いた。藁草履の作り方も教えてもらった。家の前には
は蒟蒻の畑があり、畑の向うには川が流れていた。川の
水は冷くて、水浴びもして遊んだ。
 和江おばさんは村にある製材所で男の人のような働き
をしていた。大東亜戦争が終る一年前位に夫は亡くなっ
た。夫の両親を抱え、六人の子供との生活は、製材所の
働きで支えられたが、戦後の生活は想像を越えるもので
あった様子で、戦後長女は私の実家で働き、次男は私の
兄の会社で働くようになった。
 和江おばさんの次女の婚家先、柏原の家に車で連れて
来たと、電話があった。姉と私は柏原まで取りあえず、
馳けつけた。少し足が弱っているが、子供たちに労わら
れている生活は、おばさんの表情からよく伝わって来た。
日本の母親なのだと云う思いはして、いろんなことを、
乗り起えて来た人の表情は、思いのほか爽やかで、童女
のように無邪気に見えた。頭もしっかりしている。
 「あのなあ-、孫が十五人に、ひ孫が十三人もいるんや
わあー」
 と笑っている。隣り同志に住んだと云っても、こんな
に深いつながりを持てたのは、気が合っただけでは説明
出来ない思いがする。
 御馳走になって帰る時、和江おばさんが駅まで長女に
手をとられて、送って来た。姉も私も、和江おばさんに、
いつまでも手を振っていた。