おつかい   篠原千代

 私が育った昭和初期には一家に子供の数は多かった。
私も五人兄弟であった。その頃の母親はよく働いた。洗
濯機などなかったので、盥で「ゴシゴシ」が普通の事で
あった。子供の着る物も母が縫っていた。そのために子
供はよくお使いに行かされ、私の小学校低学年の頃には、
夕方になるとよく
 「おとうふ買いに行って来てー」
 母の言いつけで、小さな鍋を持って近くの豆腐屋に行
った。昔の豆腐屋のおばちゃんは、優しい笑みを見せて
 「おとうふは木綿か、絹ごしにするのんか」
と聞いてくる
 「木綿を一丁、奴に切って」と言う
 水を張った大きな木製の箱に、沢山の豆腐が浮んでい
て、おばちゃんは上手にすくい上げて、渡してある横板
の上に豆腐をおくと、真鍮色の大きな豆腐用の庖丁で、
手早くチヨン、チヨン、と一丁を十切位の大きさに切っ
てくれる。
 「おつゆにして」と言うと
 小さな角に切って、持って行った鍋に少し水を入れ、
切った豆腐を入れてくれる。
 「おばちゃん、薄揚も二枚」と言うと
 新聞紙を切って吊してあるところに、手を伸ばしてパ
ッと一枚とって、三角の薄揚げを二枚くるくると新聞紙
に巻いて渡してくれる。
 お金を渡しながら、豆腐屋のおばちゃんの手は、きれ
いやけど何だかふやけている気がすると思っていた。
 ある日兄がお使いを言いつけられて、何故か私もつい
て行くことになった。今もある源八橋近くの、このあた
り一帯の地主の家ではなかったらうか。風呂敷に包まれ
た四角なものを届けにゆく用事であった。兄は五年生位
だった気がするのだが、三つ年下の私は、兄を見上げる
ように大きく思えた。お使い先では「こんにちは」と挨
拶をはっきり言うこと、行儀よくすること、何度も言い
聞かされて、子供心はいやが上にも緊張していた。私の
家から歩いて二十分はかかる、子供にとっては、遠い道
であったようだ。
 立派な玄関に入った。出て来た身綺麗なおばさまに、
兄が教えられた様に、風呂敷包みを渡すと、
 「ちょっと待ってて、おくなーれや」
.身のこなしも、しとやかに奥に入って行った。暫く待
って持って行った風呂敷を折りたたんで、おばさまが出
て来た。風呂敷の上には白い半紙に包んだお菓子らしき
ものが乗っていた。兄と私の手に一つずつ手渡してくれ
た。
 「おおきにー」と「さよなら」を母に言われた通りに言
って、玄関の外に出た時兄は私の顔を見て二ーツと笑っ
た。役目を無事に終えたことと、お菓子を貰った喜びと、
緊張感は一気にほぐれて行った。
 あの頃天満紡績と言う会社があった。赤い煉瓦造りの
建物の見える塀の外を歩きながら、兄は貰った半紙包み
を開いて、パクパク食べはじめた。
 「ちょっと食べてみい、おいしいでえ」
 と言ったが私は
 「お母ちゃんに見せてから食べるー」
 と言ったような気がする。私も半紙を開いて見た。今
の時代で言うと、かわみち屋の蕎麦ぼうろに似た、形は
違うが上品なお菓子で、子沢山の我が家では仲々、買っ
て貰えないようなものだった。私一人のものだ。大事に
したかった。中味を何度もたしかめた。
 その頃の兄は育ち盛りだったようで、自分の包みを食
べ終ると、ヒヨイと私の包みに手を伸して、一つ取って
自分の口に入れてしまった。私は泣いた。
 私の通った小学校は、大阪市北区同心町にあった。そ
の昔大阪城に登城する武士たちが住んだのは、今の造幣
局のあたりであったと聞くが、小学校のあたりは与力町
同心町と並んでいて、与カ、同心、が住んでいた所と、
学校の先生に教わったことがある。今は戦災で焼き払わ
れ私の通った小学校はなくなり、ビルが立ち並んでいる。
 その与カ町に小山薬局があった。よくお使いに行った。
私が高学年になった頃には、私が末っ子だったこともあ
り、今にしてわかるのだが、母は更年期になっていたの
だと思える。私はよく小山薬局にサフランを買いに行か
された。母に持たされた五十銭玉を渡して、薬袋に干し
たサフランの花を入れてくれる。きれいな色の花だナ、
と思ったものだが、今は料理のパエリアの色付けにも使
っていると聞いた。あの頃その花を煎じて、母は頭痛薬
として飲んでいた。時代の物価と考え合せて、高いもの
だったように思われる。
 小山薬局の前は、天満公設市場で、衣料品店や、うど
ん屋、文房具屋、菓子屋等立並び賑やかな下町風景で、
薬袋を持った私は、商店街を抜けて淀川の支流に出る。
川の柵の頭を一つ一つ叩きながら家に帰ってゆく頃、夕
陽が斜めに射して、長い影を引いていたかもしれない。