手のひらの曙光3
山の端を離れて昇り始めた朝日が、池の水を光らせる。
同時に、景色を包んでいた靄が溶け出して、辺りは鮮やかな色彩を取り戻しつつあった。
時間が早いせいか、いつもは賑わっているこの泉の周りも、今はまだぽつりぽつりと人影があるだけだ。
その静けさが逆に、不安を募らせる。
彰紋は、ぐるりと辺りを見回した。
ここに彼女がいるという確証は何もない。
早朝からひとりで、このような場所まで出かけてくるとも考えにくい。
だが自分の心が、ここだと感じ取っているのだ。
そして・・・彼女が龍神に会おうとするのなら、ここ神泉苑しかない。
「花梨さん・・・どこですか・・・!」
まさか、入れ違いになってしまったのか。
もう既に彼女は自分の世界に帰ってしまったのではないか・・・そんな不安に捕らわれながら、
彰紋は泉の周りを、急ぎ足で回った。
「花梨さん・・・・っ・・・。」
視界の開けた場所で立ち止まり、泉のほとりをざっと見渡してみるが、
相変わらず、まばらな人影の中にそれらしい姿はない。
その静けさに泣きたくなり、彰紋は思わずその場に膝をついた。
泉の周りに生えている木の根が、地面から浮き出てごつごつとした木肌を見せている。
「・・・・・っ・・。」
明け方の冷え込んだ空気が身にまとわりつく。
その冷たさが、愛しい人を失ったのではないかという虚脱感を膨らませた。
そのとき、ふと、町の民らしい少女が近づいてくるのが目の端に映った。
さほど貧しくはないのだろう、あるいは下級貴族の女童でもしているのか、
決して華美ではないが、清楚ですっきりとした印象の衣を纏っているようだ。
彰紋は涙で曇りかけた視界を、慌てて拭った。
何か用があるのか・・・。
いや、ただ通り過ぎていくだけなのだろうが、
どちらにしても、このような姿を間近で見られるわけにはいかない。
彰紋は、膝についた砂を払い、さりげなく立ち上がると、
薄衣を被り直して顔を隠し、伏目がちのまま、会釈だけしてやり過ごそうとした。
だが何ゆえか、近づくにつれその少女の歩みは次第に遅くなり、彰紋を覗き込もうとしているようだった。
「あの・・・あなたは・・・。」
しばらくして、遠慮がちな声が聞こえた。
「・・・・ぇ・・・・。」
その声に、頭で考えるより先に心臓が反応して、ドクンと波打った。
確かめたいのに、どうしたことか体が動かない。
「あ・・・いえ、人違いです・・・ごめんなさい。」
一瞬様子を伺っていたらしい彼女は、相手がこれといった反応を示さないので、そのまま通り過ぎようとした。
「・・・・・あ・・・・。」
なぜすぐに気付かなかったのだろう。
「・・・待っ・・・て、ください・・・!」
この気───清らかで、邪なものを寄せ付けない気高さを持ちながら、それでいてあたたかく優しい。
触れたくて、でも届かなくて、ずっと求め続けていた温もりだ。
「・・・・行かないで・・・・!」
彰紋は、金縛りにあったような体を必死の思いで振りほどき、通り過ぎようとする彼女を振り返った。
反動で、頭から被っていた薄衣がふわりと落ちる。
驚いて振り向いた彼女が、その姿を捉えて目を丸くした。
「・・・・彰・・紋・・・くん・・・?」
彰紋は、そんな彼女を改めて正面からみつめた。
「花梨さん・・・っ・・。」
頭上に広がる木の葉が、朝日の輝やきを受けて、先端を光らせている。
やっと瞳に映すことができた、その愛しい姿。
その姿を捉えることができた喜びと、懐かしさと、一握りのせつなさが交錯する。
「良かった・・・・。」
花梨に一歩二歩と歩み寄った彰紋だったが、
安堵したせいか、ふっと体の力が抜け、再びその場に膝をついてしまった。
思えば、夕べから一睡もしていない。
「彰紋君、どうしたの!? まだ体調が・・・?」
花梨が慌てて近寄ってきた。
彰紋の肩にそっと手を置き、横から心配そうに覗き込んでいる。
「いえ・・・それはもう大丈夫ですから・・・。
ああ、あなたがご自分の世界へ戻ってしまうのではないかと思って、生きた心地はしませんでしたが・・・。」
彰紋は、彼女の衣の辺りに目をやりながら答えた。
そういえば、なぜこのような格好をしているのだろう。
「元の世界に・・・・? どうして・・・・??」
「え・・・だって・・・龍神様にお願いに行くと・・・・。」
彰紋は答えながら、改めて花梨に向き直った。
町娘のような衣も、意外とよく似合っている。
裾も行き丈も短めなのか、衣から伸びた手足が、白く眩しい。
だだ、彼女も腰を下ろしているので、その短めの裾からのぞく素足は、少々目のやり場に困る。
彰紋は、微妙に顔が赤らむのを感じて、さりげなく目を逸らした。
「龍神様に・・・・? ああ、手紙読んだのね、・・・・・届いてたんだ・・・。」
それを聞いて、花梨もふと視線を逸らせた。
「もしかしたら届いてないのかも・・・って思ってたんだけど・・・。
そっか・・・帰っちゃうかもしれないと思って、引き止めに来たのね。
そうだよね、神子が仕事を投げ出して帰っちゃったら、八葉としては困るものね。」
「花梨さん・・・?」
彼女は何を言っているのだ・・・彰紋はその真意を測りかねて、花梨をみつめた。
「あ、安心して。帰りたくても帰れないから・・・。
そういうお願いを聞いてもらえるんなら、最初、この京に来たときに真っ先に頼んでるもの。」
そう言って花梨は、スッと立ち上がった。
「泰継さんはああ言ってたけど、やっぱり体調が良くないのかなと思って・・・。
彰紋君が早く良くなるように・・って、お願いしに来たの。ここなら龍神様に届きやすいだろうと思って。
・・・・・・・・・・・・・元気そうで良かった。」
にっこり笑ってそう言うと、花梨は背を向けて、朝日に照らし出された神泉苑を見渡した。
「・・・花梨さん・・・。」
彰紋は、その背に言いようのない遠さを感じた。
彼女は、彰紋が自分からの文を読んでいたにも拘らず、無視していたのだと受け取ったようだ。
「違うんです・・・・。」
ほんの数歩の距離なのに、このまま花梨が消えてしまいそうに思える。
「・・・・・・・あ・・・きふみ・・・くん・・・・!?」
ふいに聞こえた、驚いたようなその声に、彰紋はハッと我に返った。
いつのまに抱きすくめてしまったのか・・・。花梨の体が、自分の腕の中にある。
「・・・・・・・・ぁ・・・・・・っ。」
慌てて離そうとしたが、彼女の背から伝わってくる温もりと、柔らかなその香り・・・、
そして微かな息遣いが、彰紋の理性を封じ込める。
「すみません・・・少しだけ、このままで・・・。」
彰紋は、花梨を改めて背中から抱きしめた。
「辛い思いをさせてしまい、申し訳ありません・・・。
気付かなかったとはいえ、貴女の心を千々に乱した責任はすべて僕にある・・・。
でも、僕はいつも・・どんなときも・・ずっと貴女のことを想っていました。」
「彰紋・・君・・・?」
花梨の戸惑いが微かに伝わってくる。
突然の彰紋の行動と告白に、どう反応していいのかわからないのだろう。
だが、今ここで言っておかねばならないことがある。
「花梨さん、僕の前から消えないで────。
あのとき貴女に伝えた言の葉は、決して嘘偽りではありません。
貴女は・・・僕にとってただひとりの女性です。
こんな僕を許してくれるなら・・・どうか貴女のことを護らせて欲しい・・・。」
彼女がこの言葉をどう取るのかは、わからない。
もしも、神子と八葉の関係において・・という意味で理解するなら、それでもいい。
今の彰紋にとっては、腕の中にいる彼女に、自分の想いを伝えるということこそが、重要なのだ。
彰紋は、花梨を抱きしめたまま、その肩に顔を埋めた。
彼女の柔らかな髪の毛先が、時折、頬をくすぐる。
「彰紋君・・・・。」
どのくらいそうしていたのか、自分の名を呼ぶ花梨の声が、微かに震えているのを感じて、
彰紋はふと顔を上げた。
彼女を抱きしめている腕の袖に、ポタッポタッと雫が降ってくる。
驚いて腕を解き、その顔を覗き込むと、伏せた瞳から頬を濡らした花梨が途切れ途切れに呟いた。
「わたしも・・・護るから・・・。あんな迷惑、もう二度とかけないから・・・。
だから、そばにいて・・・。ずっと、わたし・・・だけの・・・そばに・・・。」
「花梨さん・・・。」
先ほどの笑顔よりも、とめどなく落ちるこの涙の方が、心にしみるのは・・・・。
じわじわと湧き上がってくるような喜びを感じるのは、なぜだろうか。
彰紋は、花梨の肩にそっと手を置いて、自分の方を向かせると、
そのまま彼女を抱き寄せた。
「ありがとう・・・・。」
がさっ・・・。
そのとき、ふと木の幹が揺れ、葉が擦れあうような音が聞こえた。
せつない甘さ(かな?)を目指してみました。 1話・2話と彰紋君側のみから書いてきましたが、 ああいう状況下にあった花梨ちゃんの方も、相当葛藤があっただろうと思うのですよね。 彼女側からも描き甲斐がありそうなのですが・・・・ それを始めると、とってもしつこくなりそうなので、ここは彰紋君側のみに留めておきました(^^; 描写としてはほんのワンシーンですが、彼女の複雑な心境が表現出来ていたら良いのですが・・・(><) ( 2005.11.24 ) |