魂の記憶 7

「飲んでください。少しはラクになると思うから…。」

「千尋…せっかくだがそれは遠慮しておく。痛み止めは眠り薬でもあるんだ。そんなものを飲んで熟睡してしまったら、不測の事態に対処できない。」

「起こるかどうかわからない不測の事態より、今は忍人さんの体を一番に考えないと。」

千尋が、有無を言わさぬ態度で薬湯を忍人の目の前に差し出す。

「……っ。」

「大丈夫です、ちょっとしたトラブルなら私がなんとかしますから。私が忍人さんを守りますっ。」

自信たっぷりにそう宣言するが。

「それでは本末転倒だろう…っ。」

忍人は少しでも逃れようとしたが、もともと狭い洞穴の奥に背を預けているのだ。逃げ場などない。

「いらんっ。」

「そうですか……わかりました。」

精一杯そっぽを向いて言い放つと、諦めたのか、千尋が薬湯を持っている手をおろした。

「心遣いは感謝する。天鳥船に戻ったら…。」

ホッとしてそう言いかけたとき。

「飲んでくれないなら、無理やりにでも飲ませます。」

そう言った千尋は、持っていた薬湯をくいっと飲んだ。

「……は?」

意味を図りかねている間に、千尋の手が伸びてきて忍人の頬を捉えた。
彼女の顔が近づいてくる。
それをスローモーションのように感じながら見ていると、次の瞬間、唇が柔らかく塞がれた。

「……っ!?」

温かい液体が流れ込んでくる。

あまりの出来事に、目を見開いたまま思考が止まり、気がついたときには薬湯を飲み込んでいた。
それを確認したように、千尋の温もりも離れていく。

「……っ……。な、な、なにを…っ。」

頬に一気に熱が集まるのがわかる。

「……ごめんなさい、イヤでしたよね…。でもこれでゆっくり眠れるから…。眠ったら今のは全部忘れてください…っ。」

同じように顔を赤くした千尋は、そう言うと顔を背けた。
彼女のその様子に、逆に冷静さが戻ってくる。

「全く、君という人は…どこまでも予想外な姫君だな。」

同時に、彼女の唇の柔らかさもありありと甦ってきた。
忍人は、彼女の腕を引いてもう一度自分の方へ引き寄せた。

「嫌なわけ、ないだろう。」

「……っ。」

囁くようにそう言うと、彼女の頬は更に赤みを増した。

「だが、男心を翻弄しすぎだな。こういうことは男に任せておくものだ。そうだろう?」

「な、なに言って……。」

傷の痛みのせいなのか、或いは無理やり飲まされた薬湯のせいなのか。
はたまた、闇に閉ざされた森の中に二人きりという状況のせいか。

これまで忍人自身も意識してこなかった感情が、一気に体に広がった。

さきほど荒魂を退けたあと、千尋が必死に抱きついてきたときの様子がふと脳裏に甦った。

「千尋…俺も君のそばにいたい…この先もずっと。」

そっと囁きながら、今度は忍人から唇を重ねる。
 
「……っ。」

その一瞬、千尋が息を飲むのが伝わってきたが、後頭部を支えて逃げ道を塞ぐと、やがて彼女の体から力が抜けた。

「……ん……っ…。」

彼女の吐息に体の芯が熱くなるのを感じながら、更に深く口づける。

「千尋…。」

谷の水音だけが微かに響く静寂の中、薬湯の苦味が残る唇が混ざり合い、やがて甘さへと変わっていった。





「見つけたぜ、あっちの方角だ。微かに煙の余韻が残ってる。」

空を飛んでいたサザキが、急降下して皆の前に降り立った。
一夜明け、山の端からは朝日が上り始めていた。

「わざわざ迎えに行く必要なんかあるのか?忍人がついてるんだろ。」

夜明け前に無理やり連れ出された那岐が、あくびを噛み殺しながら、不服そうな目を向ける。

「那岐、あのお二人は昨日、お世辞にも仲が良いという状態ではなかったのだ。そんな状況に姫をおいておくのはお可哀そうだ。一刻も早くお助け…あ、いや。」

布都彦が慌てたように口を閉じて、サザキの示した方角へ歩き始める。

「おまえ今、助けるって言いかけたよな?」

「言ってない。」

スタスタと歩いていく布都彦に絡みながら那岐も続く。

そんな彼らを追いかけながら、風早が口を開いた。

「それにしてもサザキ。君、千尋ひとりなら抱いて飛べたでしょう?なんで彼女だけでも連れ帰らなかったんですか。」

「あー、言われてみればそうだなぁ。」

「人気のない場所に二人きりにするなんて…しかも一晩も…。」

間違いでもあったらどうする、とかなんとかぶつぶつ言っている。

「相手はあの忍人だぜ、それはないだろ。俺はむしろいい機会だったんじゃないかと思うけどな。」

一晩もあれば、忍人も説教するだけでなく、二人で腹を割った話もできただろう。

「それにあんた、あの二人をくっつけたがってんじゃないのか?カリガネがそんなことを言ってたぞ。」

「それはまぁ…。今度こそ幸せになってくれたらとは思ってますよ。」

「今度こそ?」

サザキが首を傾げたとき、先頭を進んでいた布都彦が声を上げた。

「サザキ殿、本当にこの先なのですか?」

「ほんとにこっちだってんなら、ちょっとヤバいんじゃない?」

二人が立ち止まって先に続く道を示した。
その道は大きく曲がっており、サザキが示したのとは逆方向へ延びている。

「こっちは崖だよ。」

一方、千尋たちがいると思われる方向は十数メートルある崖下だ。

「うーん、でもこっちの方から、微かだけど煙のにおいがしますね。これはなにか不測の事態でも起こったかな…。」

「そうですか、では…っ。」

それを聞いた布都彦が、躊躇なく飛び降りた。

「あ、おい…っ。」

那岐が驚いて覗き込んだが、布都彦は立ったまま滑るように谷底へ降りていく。

「悪いが俺は空から行かせてもらうぜ。」

一方、それを見ていたサザキはニッと笑って羽を広げた。

「那岐、俺達も行くしかなさそうですね。」

「ああ、もうっ。ついて来なきゃ良かったよ。」




「布都彦、みつかりましたか?」

嫌がる那岐を引っ張ってなんとか谷に下りた風早が、少し先で突っ立っている布都彦に声をかけた。

布都彦は、なぜか直立不動に近い姿勢で、前を凝視している。

「あ、あの…。いらっしゃった…のですが…。」

その様子に、他の三人に動揺が走る。

「……なんかあったのか?」

風早に続き、那岐とサザキも駆け寄る。
……が。

「え…。」

「あれ…。」

動きを止めた風早と那岐の後ろで、サザキは面白そうにその光景を眺めた。

「ほ〜お、なんだかいい感じじゃねぇか。」

彼らの視線の先では、忍人が千尋の肩を抱き寄せ、互いに寄り添って幸せそうに眠っていた。

「あの…これは一体どういう…。」

布津彦が混乱した顔で呟いた。
昨日の二人の様子と、今見ている光景が全く繋がらない。

「布都彦、男と女ってのは理屈じゃないんだぜ?一晩を共にすれば大概はああなる…っ…いてっ。」

「サザキ、おかしな言い方はやめましょうね?」

風早が笑顔のまま、彼の足を踏んだ。

「…それはともかく、葛城将軍ほどのお方が、我らの気配に一向に気付かず眠り込んでおられるのですが…。」

布都彦は忍人たちを凝視したまま続ける。

「確かに変だよな。千尋はともかく忍人が目を覚まさないなんて。」

相変わらず固まったまま突っ立っている布都彦の横から、那岐が覗き込んだ。

「忍人はあちこちに怪我してるみたいだけど。……あ。」

「まさか、深手を負われて意識不明とかっ?」

「違うよ。」

慌てたように言う布都彦を軽く遮る。

「ねぇ風早。あんたも、もう腹くくったほうがいいんじゃない?さっきサザキが言ったこと、当たらずとも遠からずだよ。」

軽く首を傾げる風早に、那岐は忍人の顔を指差した。
正確にはその唇を。

「そういえば、微かに赤いようにお見受けするが…唇も切られたのだろうか。」

「おまえ、ほんと根っからの武人だな。」

血の跡か何かだと考えている布都彦に那岐は呆れ顔を向けた。

「僕は先に帰らせてもらうよ。アホらしくてバカップルなんかに付き合ってらんない。」

「そうですね、さっさと帰りましょうか。この辺りには敵がいる様子もないし、大丈夫でしょ。」

風早が珍しく那岐に同調した。
が、その笑顔は微妙に引きつっている。

「え、このまま放って帰っちまうのか?でも天鳥船は場所を変えちまってるぜ。どこにいるかわかんねぇだろうからって迎えに来たんじゃ…。」

「大丈夫です、この竹簡に地図を書いて置いて行きますから。あ、そうだサザキ、千尋だけ先に連れて帰ってくれませんか?」

首をひねるサザキに、風早がしれっとそんなことを言う。

「はぁ!?」

「あんた、いくらなんでも舅根性丸出しだよ。」

「那岐の言うとおりだぜ。そんなことしたら、あとで忍人に殺されるだろーがっっ。断る!!」

全力で拒否するサザキに、今度は布都彦が首をひねった。

「サザキ殿、葛城将軍も姫の安全を第一に考えておられるのでは?風早殿の言うとおり姫を先にお連れした方が良いかと思いますが。」

「んじゃ、おまえは忍人が起きるの待って一緒に帰ってくるんだな?言っとくが、今のこいつにそんなことしたら超〜〜っ不機嫌になるぜ。知らねぇからなっ。」

「はぁ。は……?」

布都彦は、サザキの言うことの意味が理解できず、更に首をひねった。

「ほら、行くよ。おまえがいると話がややこしくなる。」

「待て那岐、風早殿の言われることの方が正論…。」

「今は風早の言うことなんか聞いてるとロクなことにならないよ。」

那岐が軽く流しながら布都彦を引っ張って行く。

「はは…ひどい言われようだなぁ。」

サザキに全力で拒否された風早も、諦めたようにそれに続いた。
それを見たサザキが二人に向き直る。

「んじゃな、忍人。もうしばらく姫さんと二人きりにしてやるぜ。」

サザキは、相変わらず眠りこんでいる忍人の胸元に竹簡をねじ込むと、バサッと翼を広げた。

「がんばって帰ってこいよ。」















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