未来に輝く月

気がかりなことが残っている。

暮れなずむ京の大路を、紫姫の屋敷に向かって歩く。
折りしも今夜は満月。
陰陽の力も増大していはず。
高名な陰陽師の泰継ならば、時を選ばずとも、その力をいつでも存分に発揮できるのであろうが、
自分のような者には、些細な影響も無視できない。


屋敷へ入ると幸鷹は、紫の取次ぎを通さず、こっそりと中庭へ入った。
もともと親戚付き合いのある家なので、多少の無礼は見逃してもらうことにする。

植え込みの間の小路を巧みに抜け、目的の部屋の近くまで来ると、
部屋から庭へと伸びた階の上に腰掛けて、星空を見上げている人影が目に入った。

すらりと伸びた手足が、昇ったばかりの月の光を受けて白く輝いて見える。

(…っ…!)

神秘的ともいえるその姿に、幸鷹は思わず息をのんだ。

吸い込まれそうな感覚を覚え、身体を支えようと無意識に伸ばした手が木の枝をつかみ、がさりと物音をたてる。

「だれっ?」

花梨の緊張まじりの声が響いた。

その声にハッと我に返った幸鷹は、慌てて彼女の前に歩みを進めた。

「幸鷹さん? こんな時間にどうしたんですか?」

中庭の茂みの中から突然現れた幸鷹を見て、花梨が目を丸くした。

「神子殿、驚かせて申し訳ありません。」

近くで見る彼女は、いつも通りのかわいらしい雰囲気に戻って、こちらを見上げている。

「実は、少しお付き合い願いたいのですが…。」

彼女の手を取ろうと腕を伸ばしかけて、ふと思い留まる。

「今からですか?」

「ええ。今宵は月の美しい夜になりそうですし、お月見にでも出かけませんか?」

本当の目的は別のところにあるのだが、とりあえず彼女を連れ出したい。

「わかりました。じゃあ、紫姫に声かけて…。」

「あ、いえ、このまま参りましょう。」

室内へ戻りかけた花梨を、慌てて引き止める。余計な時間は省きたい。

「彼女には書き置きを残しておけばよいですし。」

そういうと幸鷹は、懐から紙を取り出した。
ここへ来る前に、花梨を連れ出すが心配しなくて良いという旨を書き付けてある。

「幸鷹さん…?」

いつも以上に用意周到な幸鷹に、またしても花梨が目がまん丸にしていた。




「河原まで下りてみませんか?」

幸鷹に言われるままに、土手の比較的緩やかになっている場所を選んで水際まで下りると、豊かに流れる水音が一層大きくなった。
満月に照らされているせいで、辺りの様子が驚くほどよくわかる。

丈の低い草の間から、蕾をつけた小さな花が揺れている。
月光を受けた水面は、時折キラリと幻想的な輝きを見せた。
そして、向こう岸には醍醐へと連なる山並みが続いている。

「幸鷹さん、急にどうしたんですか?」

お月見をするだけならば、こんな遠方にまで来る必要などない。
いつもと違う雰囲気を感じ取った花梨は、水面をじっと見つめている幸鷹を、少し不安そうに見上げた。

「…神子殿。力を貸して頂けませんか?」

「え…?」

唐突にそう言ったまま、幸鷹はまだしばらく川の流れを見つめていたが、やがて何かを決意したようにゆっくりと振り向くと、何も言わずに、スッと花梨の手を取った。

幸鷹の突然の行動に、思わずドキリとする。
だが…。

「─────っ!」

幸鷹の顔が苦痛に歪んだ。

「幸鷹さんっ?」

花梨は反射的に手を振り払おうとしたが、幸鷹は花梨の手をしっかりと握りしめたまま、離そうとしない。

「大丈夫です、神子殿、しばらく…このままで…・。」

やはり、この日この時間を選んで正解だった。
───断片的な思い出や、失っていた知識が流れ込んでくる。

向こう岸に広がる山並みが、月光を反射させ、その力を増幅させている。

(そう、もう少し…。)

戻りきっていなかった記憶の空白部分が、徐々に埋まっていく。

脂汗が滲む。
だが、ここを越えなければならない。
花梨のために。そして、これからの二人のために。

「幸鷹さん、離して!!」

無言のまま、必死に苦痛に耐えている様子の幸鷹を見て、花梨がなんとか離れようと腕を捩った。
だが幸鷹は、振り払われないようにと、彼女を握る手に一層力を込めた。

「……っ!」

だが自分の身体は支えきれず、思わず膝をつく。

「どうして…?記憶は戻ったはずじゃ…っ。」

普段の幸鷹からは想像もできない力強さと、何かを必死で求めようとしている様子に訳がわからなくなった花梨は、涙を滲ませた。

「神子殿、落ち着いてください…。戻りきっていない記憶のせいで、私はあなたに触れようとする度、痛みを感じていました。いえ、それはよいのです、ただ…。」

欠けていたパズルのピースがひとつ、またひとつと戻ってくる手ごたえを感じる。
それと同時に少しずつ、苦痛も和らいできた。

「戻りきってない…?」

「泰継殿に言われました。ここですべての記憶を取り戻さないと、現代に帰った後では、もうあなたに触れても失くした記憶は戻らないと…。」

「それって…じゃあこのままじゃ、現代に帰った後、私が触れるたびに幸鷹さんは苦痛を感じるってこと…?」

「ああ、そうとも言えます。ですが、それより気がかりなことが…。」

和らぎ始めた痛みに、思わず息をつく。
少し間を置いて、また言葉を発しようとした幸鷹を、ふと優しい香りが包み込んだ。

「わかりました、幸鷹さん。大丈夫だから…。」

気が付くと、彼女の柔らかな胸の中に抱かれていた。
そして背には、幸鷹に握られていない方の手がそっと置かれている。

これは、彼女に抱きしめられているのか。

「神子殿…。」

大きく、そして優しく包み込まれる感覚に、幸鷹は次第に意識が遠のくのを感じた。
記憶のピースの最後のひとかけらが、ピタリとはまり込むのを確信しながら──。



豊富に流れる水音に混じって、微かに虫の音が聞こえる。
ふと気付いて目を開くと、煌々と降り注ぐ月明かりが目に入った。

「幸鷹さん、目が覚めましたか?」

視線を移すと、少し心配げにこちらを見下ろしている花梨の顔があった。

「神子殿…?」

頬がとても暖かい。
頭全体も、柔らかく包み込まれているようだ。

まだぼんやりとした意識の中で、どういう状況なのかとゆっくり見回してみると、花梨が膝枕をしてくれていた。更に、両腕で頭を包み込んでくれている。頬に当たっているのは、彼女の手の平か…。

そこまで考えて、幸鷹はハッと意識を覚醒させた。

「あっ、神子殿、申し訳ありません!」

慌てて起き上がる。

「もう、大丈夫なんですか?」

「え? ああ…そう、ですね。」

幸鷹はふと、花梨の顔をじっと見つめた。

「あの…幸鷹さん??」

「…神子殿、ちょっと失礼します。」

視線の意味に戸惑っている花梨にお構いなく、幸鷹は彼女の腕を取ると、その身体を自分の胸の中へグイと引き寄せた。

「ゆ、幸鷹さん…っ?」

いつになく大胆な彼に、花梨の心臓がドクンと音をたてる。

「神子殿、ああ、大丈夫です…。そう、ずっと、こんなふうあなたを抱きしめたいと思っていた。」

大部分の記憶を取り戻した後も、彼女に触れようとする度、小さな痛みに襲われた。
そして、それを知らない花梨が無邪気に触れてきても、あの時のような記憶のフラッシュバックが起こるわけでなく、不快な疼きが残るだけ。

いや、その痛みに歯止めをかけられたわけではない。
ただ、ここで失った記憶はここで取り戻さねばならないと思った。
そして、本当の自分を取り戻した上で、何の憂いもない状態の、まっすぐな心で彼女を抱きしめたかった。

そう、こんなふうに。

「神子殿、すべてが終わったら現代へ帰りましょう。ふたりで…。」

柔らかな髪に頬を埋めながら囁く。

幸鷹の胸の中で、花梨がそっと頷いた。




「紫姫、心配してるかな…。」

屋敷の門の横で牛車を降り、小さな木戸を開け、ふたりでそっと中に入る。
出かけた時には、地平に姿を現したばかりだった月が、すでに天頂を過ぎようとしていた。

「あ、そういえばさっき、気がかりなことが残ってるって、言ってませんでしたか?」

”勝手知ったる庭”とばかりに、迷わずどんどん歩いていく幸鷹に向かって、花梨が小さく声をかけた。

「ああ、そのことなら、もう解決しましたよ。現代での記憶は全て戻りましたから。」

歩きながら肩越しに振り返った幸鷹が、にっこりと微笑んだ。

「そうですか、よかった! それならあちらへ帰っても、もう何の心配もないですね。」

無邪気に笑う花梨。
だが幸鷹はふと立ち止まると、花梨を振り返った。

「神子殿、そのことですが…。私がどうしても全てを思い出したかったのは、あなたを抱きしめたい、という理由とは全く別のものですよ?」

「え…?」

別の理由…?
自分を想ってくれる以上に、もっと重要な何かがあるというのだろうか。
花梨は、心の片隅がチリっと痛むのを感じた。

だが幸鷹は、花梨の憂いとは全く関係のないことを言い出した。

「こちらでは、あなたは偉大な神子様ですが、あちらへ帰ればただの学生。そうですよね?」

「え? ええ、まあ…。」

何だか嫌なことを言われそうな予感がする。
花梨は無意識のうちに、1〜2歩あとずさりした。

「泰継殿に聞きました。神子殿、英語が苦手だそうですね。」

「……。」

「これからの時代、それでは困ります。私の妻となって下さるのなら尚更。。」

「つ、妻…っ?」

さりげなく重大なことを言われてる気がするが、幸鷹はお構いなしに続けた。

「明日から毎日、私が教えて差し上げます。もうバッチリ思い出しましたから!」

「え、ええ〜〜!?」

思わず涙目になる。
だが、それをどう勘違いしたのか、幸鷹は力強く言った。

「神子殿、大丈夫です。今からやれば、まだいくらでも挽回できますからね、安心して私に全てを任せてください!」

「全てを…。」

任せたいのはやまやまだが、意味合いが違うように思うのは、気のせいだろうか。



「神子殿、着きましたよ。」

その声に花梨がふと前を見ると、いつのまにか自分の部屋へ続く階の前にいた。

「では神子殿、今宵はこれで…。明日は是非、私を供に付けて下さいね。道すがら、まずは英単語の勉強から始めましょう。」

「はあ…。やっぱり苦手なままだとまずいですか?」

ため息をつく花梨とは裏腹に、幸鷹は生き生きとしている。

「だめというわけではありませんが、私がいる以上、あなたのためになる事は何でもしてあげたいと思うのですよ。」

幸鷹がふと、優しく包み込むようなまなざしで花梨を見つめた。


そうは言われても、何も現代へ帰るだけが二人の取るべき道ではないのでは…。
いやそれ以前に、そんなことを考えてしまう自分は、本当に幸鷹にふさわしいのだろうか。

幸鷹の視線に気付かないまま、下を向いて思わずそんなマイナス思考に逃げてしまう花梨。

「神子殿。」

そんな花梨を見つめていた幸鷹は、一歩彼女に近づくと、その顎に手を伸ばしてそっと引き上げた。

「あなたは私にとって唯一の、大切な女性ですからね。いつの時代でも。」

「ゆ、幸鷹さん…。」

戸惑い気味に見つめる花梨の、その愛らしい唇にそっと口付ける。
だが軽く触れただけで、すぐに耳元に口を移した幸鷹は、そのまま小さく囁いた。

幸鷹の丁寧でゆっくりとした発音は、花梨の耳にもしっかりと意味を残した。

白く輝く満ち足りた月の光が、二人の影を緩やかに包み込んでいた。


〜 Good night my dearest princess, you are my destiny.

                      ....And Lovin' you. 〜


☆ fin ☆











アクセスカウンター