風光る野に出でて2

「誰もいないが?」

「…え?」

「先ほど遠夜が離れたときに、そのまま皆の気配も遠ざかったな。気づかなかったのか?」

「うそ…なんで?」

「君の剣幕に恐れをなしたんじゃないのか?」

千尋に逃げられた忍人は、所在なくなった腕を組んで苦笑いを浮かべる。

「そんな…。…って、それより皆とはぐれちゃったらまずいじゃないですか。忍人さん、どうして知らん振りしてたのっ。」

「皆の気配などすぐに辿れる。それより、君をなだめる方が先だったからな。」

忍人が柔らかな笑みを向けてくる。

「落ち着いたか?」

その言葉に、千尋は彼の唇の感覚を思い出して、頬が更に熱を持つのを感じた。

「お、落ち着き…ました…けど…。」

「けど?」

こんなふうに問いかけてくる彼は、以前と何も変わらないように見える。だが。

(さりげなく抱き寄せたり、キ、キスしたり…って。)

その所作にそつがないだけに、余計にドキドキしてしまう。

「なんていうか…大人の余裕っていうか…。」

俯いて頭から蒸気を出している千尋を見て、忍人はフッと笑みを浮かべた。以前なら、彼女が何を言おうとしているのか理解できなかったが、今は千尋が何に困っているのかなんとなくわかる。

「確かに俺は君より年長だが。それは関係ないな。」

彼女を愛しく想う、その気持ちから出る素直な行動、それだけだ。

「誰もいないとわかったなら、拒否しないでもらえるとありがたいのだが。いくら俺でも多少は傷つくからな。」

「ご、ごめんなさい…っ。えーと、その…。も、もう一回ってこと…?」

千尋が顔を赤くしたまま、神妙な顔で忍人を見上げる。それを見た忍人は一瞬動きを止めたが、すぐに苦笑いを浮かべた。

「冗談だ。」

「な…っ。忍人さんが言うと冗談に聞こえないのっ。」

千尋が頬を染めてプイと横を向く。そんな仕草が愛しく、また彼女を抱き寄せたくなる。
だがその時、忍人は不意に動きを止めた。なにか妙な気配を感じる。

「忍人さん?」

怪訝そうに見る彼女に応えるように、忍人は千尋の腕をぐいっとつかんで引き寄せた。



「やべっ、見つかったか?」

「ほら見ろ、だから止めようって言ったのに。なんで僕まで…うわっ?」

のぞき見していたサザキが慌てて、後ろにいた那岐の襟元をつかみながら木陰に引っ張り込んだ。

「痛ってぇ。」

「シーッ。」

「ったく、何しに来たんだよ。別行動で偵察に行くんじゃなかったのか。」

柊にそう告げて皆と行動を別にしたサザキに無理やり同行させられた那岐だったが、彼が一直線に向かったのは、先ほど忍人たちと別れた場所だった。

「偵察だぜ。あいつらがちゃんと仲直りしたかどうか確認しとかないとな。」

「あのさぁ、それってただの覗きじゃないの? てか、人のラブシーンなんか見て、何がおもしろいんだか。」

那岐は尻もちをついた格好のまま、そっぽを向いた。

距離があるとはいえ、キスシーンを目の当たりにしたせいか、心なしか顔が赤い。
そんな那岐の反応をからかいたくなるサザキだったが、今は向こうの二人の方が気になる。

「面白いじゃねぇか。相手はあの忍人だぜ? 不愛想の塊みたいな奴だぞ、あんなのがどうやって女を口説くんだ?」

「さっきは仲直りの確認って言わなかったか? ま、どっちでもいいけどさ。」

「その通り、そんなこたぁどっちでもいい。それより、おい。あれって抱き合ってるよな!?」

木の陰から半分顔を出したサザキが興味津々な様子で覗くと、それにつられて那岐もひょいと顔を出した。

「ま、まあ、そうなのかもしれないけど…。」

那岐の目にも、確かに二人は寄り添っていて、皆の前で言い争っていた時の険悪な雰囲気はなくなっているように見えた。
だが、抱き合っているというほど甘い様子でもないように思える。
なにか違和感を感じて、那岐は首をひねった。



千尋を腕の中に引き寄せたまま、忍人は動きを止めている。

「あの…忍人さん?」

それを訝しんだ千尋がそっと顔を上げると、忍人は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「どうしたんですか?」

最初は緊迫した雰囲気で殺気さえ放っていた忍人だったが、いま漂わせているのは何故か脱力感に近いものだ。

「千尋、悪いが君の弓を貸してくれ。」

そう言うなり忍人は、千尋の返事を待たずに彼女の背からその弓をスッと抜いた。
千尋を自分の背に隠すように後ろへ押しやると、矢をつがえ一気に弓を張る。

「すごい…っ。」

千尋はその様子に思わず目を見張った。
彼が弓を引く姿は初めて見たが、その動きや姿勢には全く無駄がない。
忍人はその弓をなぜか空へ向け、何かを計るようにしばらく張っていたが、次の瞬間、一気に放った。続けて2本3本と同じように放つ。

宙に向かって放たれた矢は、大きな放物線を描いて、林の中へ落ちた。




ヒューっと空を切る音がしたかと思うと、次の瞬間、立て続けに矢が降ってきて、周りの草木にドスドスと物騒な音を立てて突き刺さった。

「ひ…っっ?」

草むら隠れていた那岐の左右に落ちてきた矢は、地面に突き刺さってなお、羽をビーンと細かく揺らしている。

「な、なっっ!?」

「うっわ〜、さすが将軍様だな。容赦ってもんが微塵もねぇ。」

忍人が弓を引くのを見て咄嗟に後ろに下がったサザキが、隠れた木の陰から那岐を見て、感嘆混じりにそう言った。

「じょ、冗談じゃない! ちょっとずれてたら僕は蜂の巣にされてたじゃないかっっ。」

「まぁまぁ、そう興奮するなって。要するにあいつなりに照れ隠しだろ?」

「照れ隠しってなんだよ! こんなところでコソコソしてるから、気づかれて敵だと思われたんだろ!?」

「敵だと思ったなら、まっすぐ打ち込んでくるだろ。それに空から落ちてきた矢なんか大した威力ないさ。」

サザキはひょいと肩をすくめてみせたが、そんな言葉で納得できるわけがない。

「これ!これ見なよ、この矢!まだ細かく揺れてるぞっ。これのどこが『大した威力ない』んだよ!」

味方だと気づいていながらこんな矢を打ち込んできたなら、ジョークでは済まない。

「いいじゃねぇか、どこも怪我してないんだし? 多めに見てやれよ、姫さんといちゃついてたトコ見られてバツが悪いんだろ。」

「誰のせいだよっ。」

那岐は怒りに任せて立ち上がると、くるりと踵を返した。
見たくもないラブシーンを見せられた上に、矢の的にされかけるなんて、とんだとばっちりだ。

「帰る!」

「あ、おい待てよー。」

振り向きもせずスタスタと歩き去る那岐を、サザキが慌てて追いかけた。



「あの、忍人さん?」

忍人の取った行動の意味がわからず、千尋が首をかしげた。

「破魔矢だ。」

「え?」

「悪しき気配があったので、矢を打ち込んで祓っておいた。」

「え、それって荒魂ですか!?」

「そのような大層なものではない。大丈夫だ。」

弓矢を千尋に返しながら、忍人はボソッと呟いた。

「全く、煩わしい。」

よく聞き取れなかった千尋が、少し首をかしげて目で問いかけている。その仕草が可愛くて、また抱き寄せたくなる。

「なんでもない。」

彼女の大きな瞳に笑顔で答えると、忍人は空を見上げた。

青い空に、ところどころ白い雲が浮かんでいる。穏やかな日和だ。
今の一矢で、覗き見していた連中は慌てて撤収したようだ。偵察行動の方も、柊に任せておけば問題ないだろう。

「いい天気だな。」

ふと気づくと、二人きりの穏やかな時間が手元に舞い降りてきていた。

「散策にでも行くか?」

「え?」

春爛漫にはまだ時期が早いが、探せば春の気配は少しずつ芽吹いていることだろう。

「あの…。偵察行動は? 早くみんなに追いつかないといけないんじゃ…。」

突然の忍人の提案に、千尋が目を丸くした。

「そちらは彼らに任せておけばいい。君は頑張りすぎる傾向があるからな。たまには息抜きも必要だろう?」

視線を彼女に戻すと、千尋は呆気に取られた表情で忍人を見上げていた。

「ええと…忍人さんと二人で?」

「……不服か?」

忍人が、任務を途中で放棄して息抜きをしようと言い出すなど、思ってもみなかったのだろう。
だが、ここまであからさまに驚かれると、誘ったことを少しばかり後悔してしまう。

「なにかあっても、君一人を守るくらい、造作ないことだと自負しているんだがな。」

彼女がそこを気にしているわけではないと分かっていながら、忍人はあえて論点をずらした。

「しかしながら、この状況で皆と離れるのは得策ではないか。やはり彼らに合流して…。」

「行きます!!」

さりげなく撤回しようとした忍人を千尋が勢いよく遮った。

「行きたいです! わたしも忍人さんとデートしたいっっ。」

「でー…と…?」

「あ、ええと…そうじゃなくてっ。忍人さんは息抜きが必要だって言ってくれてるだけですよねっ。散策ですね、普通の散策…うんっ。」

千尋は、ほんのりと赤くなった頬を隠すように、両手を顔の前でブンブンと振った。
その様子から忍人は、先ほど彼女が発した単語が何を意味していたのか、なんとなく理解した。

「わかった。」

忍人は小さな頬笑みを浮かべながら、千尋が振っている手を片方つかんだ。

「…っ? あ、あの…。」

「君が期待していることくらいは、させていただこう。」

「き、期待って!? わたしはそんなつもりじゃっっ。」

それを聞いた千尋が慌てて、忍人から飛びのくように離れた。

「そうか。では言い直そう。俺が君と二人きりのときに期待することを、だ。」

「え。」

その言葉に、千尋がピキッと固まる。

「心配するな、花を見に行くだけだ。デート、するのだろう?」

「…あ、はい…。」

苦笑いをしている忍人に、千尋もバツの悪そうな表情を浮かべつつ頷いた。

おずおずと伸ばされた手が忍人の袖に触れる。だが忍人は手首をするりと返すとその手を引き寄せ、指を絡ませた。

「……っ?」

それはあっという間の出来事で、千尋がハッと気付いたときには彼女の体は忍人にぴったりと寄り添っていた。

「…いやなら、離れてくれていい。」

「いえ…このままで…いいです。」

千尋は赤らんだ顔を隠すようにうつむいた。そんな彼女の様子に、忍人は小さく笑みを浮かべると歩き出した。

「この近くにいい場所がある。まだ何も咲いていないかもしれないが。」

桜が咲き誇り、木々の葉が萌えいづる季節になったら、また彼女を誘えばいい。
今日はその下見だ。

「その頃には、全てが片付いていると良いな。」

「え?」

「…なんでもない。」

見上げた空は青く、陽差しも力を増している。
春はもう、すぐそこまで来ているのだろう。


〜fin〜












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