愛しき光
ビルの谷間を縫って落ちてくる日の光が、正面にあるガラス張りのビルの窓に反射して眩しく光っている。
そろそろ夕暮れ時ではあるが、夏至に向かっていくこの時期の光はなかなか衰えそうにない。
(似ているな・・・。)
伊予の海を、海賊船を束ねて駆け回っていた頃に見た、あのきらきらと光り輝く海面を思い出す。
あの頃は、まさか自分がこのような世界に身を置くことになるとは、思いもしなかった。
龍神の神子を守る八葉となり、神子である花梨と心を通わせて、彼女の世界までやってくることになるなどとは・・・。
感慨深げにそのビルの輝き眺めていた翡翠だったが、しばらく見ているとさすがに少々目が疲れてきた。
ジャケットの内ポケットを探ると、茶色がかったレンズのサングラスを取り出す。
(私が、このようなものを掛けることになるとね・・・。)
思わず、自分と同じ白虎の守護を受けたあの堅物を思い出す。
だが・・・願わくば、もう会いたくはないと思う。
仲間として、打ち解けられなかったという訳ではない。
海賊と、それを取り締まろうとした国守としての立場から、そのしがらみが残っているという訳でももちろんない。
要するに・・・・邪魔をされたくないのだ。
やっと見つけた大切な娘。
本気で守りたいと、ずっとこの手の中に留めておきたい、と・・・。
そのような感情が自分の中にもあったのだと気付かせてくれた愛しきもの。
そう。
今日これから訪れる、穏やかでいて心浮き立つであろう時間は、誰にも妨害されることなく二人きりで堪能したい。
これからもずっと。
そのために、彼女とともにこの世界に来ることを選んだのだ。
京では、神子を守る八葉が自分の他に7人もいた。
そしてその多くが、大なり小なり、花梨に心を寄せていた状況では、さすがの翡翠といえど気が気ではない。
(私は、案外、嫉妬深いのかもしれないね・・・。)
そう考えた翡翠が、自嘲気味にくすりと笑みをもらした時、彼の心をくすぐる軽やかな声が響いた。
「翡翠さん・・・・! お待たせしました、ごめんなさい、遅くなっちゃって・・・。実はそこで・・・」
「ああ、会いたかったよ私の姫君・・・。謝ることはない、君を待つ時間は私にとっては至福の・・・・。」
壁にもたれていた身を起こし、声のした方に向き直って、にっこりと微笑みかけた翡翠だったが、
花梨の後ろから現れた人物に、思わず言葉が止まった。
「これは翡翠殿、お久しぶりです。こちらの世界での身のこなしも、ずいぶん板についてきたようですね。」
そう言ってにっこりと微笑む、眼鏡をかけた理知的な青年。
さすがに元々この世界の人間だっただけのことはある。
カジュアルなシャツとパンツを組み合わせただけのラフな出で立ちではあるが、結構サマになっていた。
「そこで偶然会ったんですよ。
・・・ほんとに久しぶりですよね、幸鷹さん。ねえ、翡翠さん、せっかくだから、今日は3人で食事に行きませんか?」
花梨がにっこりと笑って嬉しそうにそう言うが。
・・・・じょ、冗談ではない!
久しぶりなのは、自分と花梨も同じだ。
花梨はここ2週間ほど、定期考査があるからと言って、学校と家を往復するだけの毎日を送っていた。
寂しくないといえばそれは大嘘になるが、彼女はまだ学生であるし、進学への重要な時期も控えている。
ここは、一歩引いて彼女を暖かく見守ってやろう。
そう思って大人の余裕を見せていたのである。
そして今日、晴れてテストが明けた花梨と、久しぶりにゆっくりと過ごすことになっていたのだ。
「それなのに、どうして君が出てくるのかな・・・?」
ともすれば引きつりそうになる頬を、必死で笑顔に保つ。
「おや、つれないお言葉ですね、お邪魔でしたか?」
邪魔だ!と大声で叫びたい衝動を必死に堪える。
しかも、決して同意したわけではないのに、いつのまにか3人揃って賑やかな街の中を歩いていたりする。
「君がこちらの世界に戻って来られたのは、神子殿と龍神さまのお情けだろう?
彼女が選んだのはこの私なのだがね・・・。」
幸鷹は、現代人としての記憶の断片を取り戻してからずっと、こちらの世界に帰りたいと思っていたらしい。
そして、それに気付いていた花梨は、龍神に「彼も一緒に連れ帰らせて欲しい」と願った。
こちらに戻ってしばらく幸鷹は、
何年も行方不明となっていた人間が忽然と現れ、しかもその間の記憶はない(ということにしたらしい)ということで
かなり騒がれたようだが、あれから既に半年。
彼の身辺もずいぶん落ち着いてきたらしい。
それはさておき、とにかくそういう事情なので、一緒にこちらの世界へ来たといっても、
花梨をめぐる立場は天と地ほどの違いがあるのだ。
「はあ・・・仰るとおりですが、それが何か?」
翡翠が暗に「帰れ」と言っているのが本当にわかっていないのか、
それとも気付かないふりをして邪魔をしようとしているのか・・・。
いや、よく考えてみれば、この男にそんな器用な真似ができるとも思えない。
現に今も、何が言いたいのかわからない、という顔でこちらを見ている。
「ああ、そういう男だったね、君は・・・。」
国守だったころも、別当の役職についていたときも、その手腕は冴え渡っており、翡翠も一目置いていたのだが、
事が一旦、男女関係に傾くと、途端にその目は曇ってしまうらしい。
そう、いま自分が掛けているようなサングラスが、多くの光を遮断してしまうように。
「こういう場合、そのような眼鏡は外して見た方が良いと思うがね。」
あくまでも比喩としての言葉だったが。
「眼鏡・・・・・? 翡翠殿、私の眼鏡と今あなたが掛けているものとは、全く意味合いが違いますよ。
私の場合、外してしまっては逆に何も見えません。」
「・・・・・。」
もう何も言う気が起こらない。
☆
「そうだったんですか。さすが幸鷹さん、すご〜い!」
花梨の無邪気な声が響いている。
洋風居酒屋、とでも言うのだろうか、割にシックで落ち着いた感じの店に腰を落ち着けている。
その窓際の席に陣取り、ゆったりと腰掛けた翡翠は、そこに映る夜景を見るともなしに眺めていた。
デパート最上階のレストラン街にあるこの店からは、下方を走る車のライトが光の帯となって流れていくのがよく見える。
「翡翠殿、どうかなさいましたか?」
話し相手になっていた花梨が席を立ったので、手持ち無沙汰になったのだろう。
幸鷹が声をかけてきた。
「あなたにしては珍しく、言葉数が少ないようですが・・・。先程から花梨殿が気にかけておられますよ。」
誰のせいだ、と思いつつ、窓の外へ向けていた身体を戻して、幸鷹の方へ向き直る。
「君と花梨がとても楽しそうに話しているので、邪魔をしては悪いかと思ってね。
私はいつでも彼女に会えるが、君はこちらへ帰ってきてから初めて会ったのだろう?
積もる話もあるというもの・・・。」
心にもないことを言っている。
いつでも会えるというのは建前上はそうだが、実際にはそれぞれ社会的立場上の生活を抱えているので、
おのずと会える時間は限られる。
京で、同じ目的を持って動いていた時のように、いつでも一緒というわけにはいかない。
今回にしても、電話で声は聞いていたが、会うのは2週間ぶりなのである。
「そうですか、お心遣いありがとうございます。
まあ、全く初めてという訳ではないですが、こうしてゆっくりとお話するのは久しぶりではありますね。」
幸鷹がにっこりと笑う。
全く、どこまでも鈍い男だ。
不機嫌ゆえに口を閉じているということがわからないらしい。
尤もいつもの翡翠ならば、冗談まじりに嫌味のひとつやふたつ口にし、
その言葉にくそ真面目に反応してくる幸鷹をからかっては、その反応を愉しむところだが。
今日はどういうわけか、そんな気さえ起こらない。
花梨との久方ぶりの逢瀬を邪魔されたのが、よほど堪えているらしい。
「それにしても、あなたらしくもないですね。
花梨殿があなたを気にして、ちらちらと見ているのは気付いているのでしょう?」
幸鷹は、笑顔の中にほんの少し探るような視線を含ませて、翡翠を見た。
もちろん、彼女のそんな様子に気付かないはずがない。
わざと素知らぬふりをしているのだ。
愛しの君の興味が目の前の男ばかりに向いているのは、はっきり言っておもしろくない。
彼女なら幸鷹と違って、翡翠の様子がいつもと違うことにずいぶん前から気付いているだろう。
だが、わざと態度を変えないことで、彼女の気がかりの種をそのままにしておけば、彼女の心の何割かは自分が占めていられる。
「おや・・・それは気付かなかったね。ゆっくりと君との会話を楽しめばよいものを・・・。
やはり私のことは、忘れることが出来ないらしいね。」
翡翠は長い髪をかきあげながら、ふっと微笑んで見せた。
「目の前にいる人間を忘れろという方が、難しいかと思いますが・・・。」
幸鷹が呆れ顔で何事か呟いているが、聞く耳は持たないことにする。
要は、花梨はどんな時でも翡翠のことが気になって仕方がないらしい、ということを幸鷹に印象付けられれば良いのである。
翡翠の心の中を「勝った!」という文字が躍った。
「あのう、つかぬことをお伺いしますが・・・。」
なぜか満足げに頷いている翡翠に、幸鷹は遠慮がちに声をかけた。
「翡翠殿・・・・。花梨殿とはどのあたりまで進んでおられるのですか?」
「ふ"っ・・・!」
「つかぬこと」の極致のような問いに、思わず、飲みかけていたワインを吹き出す。
「い、いきなり何を言い出すのかな・・・・?」
直撃ではないが額にかけられたワインを、大して表情も変えずにハンカチで拭きながら、幸鷹は続けた。
「いえ、少し前にお会いした時にお伺いした限りでは、どうも抱擁以上のことは、なさっていないご様子でしたので・・・。」
「な・・・・!」
今度はゲホゲホとむせかえる。
「大丈夫ですか?」
さほど心配してる様子もなく、そのひとことで済ませた幸鷹は、更に続けた。
「花梨殿がそのことを気にかけて、不安そうにしておられたのですよ。
それで、私も気にかかっておりまして・・・その後進展があったのかな、と。」
進展も何も、そのままである。
まだあどけなさが残る花梨の笑顔を見ていると何故か、おいそれとは手が出せないのである。
そして、そのような自分が、実はとても不思議だったりする。
だが────。
「・・・・・?」
しばらくむせていたが、なんとか落ち着いた翡翠は、聞き流しそうになった幸鷹の一言にふと気付いた。
『不安そうに・・・』
それは意外な言葉である。
いや、それ以前に『少し前にお会いした』・・・?
そのような話は一言も聞いていない。
つまり彼の言葉を信じるならば、花梨が自分の知らない所で幸鷹と会い、彼に相談事をしていたということになる。
「・・・・・・・・・・。」
「翡翠殿・・・?」
ガタンと音をさせて立ち上がった翡翠を、幸鷹が驚いて見上げた。
「悪いが幸鷹殿、今宵はこれで失礼させていただくよ。」
デートの邪魔をされた上にそのようなことまで聞かされては、我慢もここが限界だ。
「は・・・・?」
呆気に取られている幸鷹に構わず、上着を片手に歩き始めた翡翠だったが、ふと思いついて立ち止まった。
「そうそう、今度会う時までには、その眼鏡をよく磨いておいてくれたまえ。
色恋ごとに関する君の瞳は曇りすぎているようだ。では。」
化粧室から戻ってきた花梨が歩いてくるのが見える。
「あ、翡翠さんも行くんですか? ここの化粧室、とっても綺麗で・・・」
花梨がにこやかに微笑みかけてくるが、翡翠は何も言わずに彼女の手首を掴むと、そのまま出口に向かった。
「翡翠さん!? え?え?? 幸鷹さん?」
花梨が困惑しながら、幸鷹のほうを振り返っている様子が伝わってくる。
無意識のうちに彼女の腕をグイッっと引っ張りながら出口を出ると、
すれ違ったウエイターが何事かと驚きつつも、『ありがとうございました』と言っているのが聞こえた。
彼女の腕を掴んだまま、人ごみの中を掻き分けていく。
先程まで必死に、一体どうしたのかと問い掛けていた花梨だったが、何も答えない翡翠に半ば諦めたのか、
今はおとなしく付いてきていた。
鴨川に架かる大橋に出たところで左に折れ、河川敷を見下ろしながら歩くと、やがて人影もまばらになった。
そこまで来てやっと歩みを止めた翡翠が、細い手首を離して振り返ると、
花梨は、掴まれていた手首をもう一方の手で押さえながら、不安げな瞳でこちらを見つめていた。
「花梨、ひとつ聞きたい。幸鷹殿と会っていたというのは本当かい。」
単刀直入な問いかけに花梨は一瞬目を丸くしたが、翡翠の不機嫌の原因がわかったのか、微かに安堵の表情を見せた。
「会ってたって・・・・。翡翠さんが思ってるようなんじゃありません、今日みたいに偶然街で会っただけで・・・・。」
「なぜ黙っていたんだ?」
下手な邪推をしているわけではないが、隠されていたのかと思うと、気分の良いものではない。
ひとこと彼に会ったと言ってくれれば、それで良かったのだ。
「それに、何か悩みごとを打ち明けていたらしいね?」
どちらかというと、こちらの方が引っかかる。
「そういうことは私に言うのが先じゃないか? それとも、私では役不足か?」
幸鷹は何と言っていたか・・・・。そうだ、花梨が翡翠の行動に対して不安がっているとか言っていた。
「だって・・・翡翠さんに言えるわけが・・・・。」
いつものように口調は穏やかだが、決して笑ってはいない翡翠を目の前にして、花梨は涙目になった。
「翡翠さんこそ、私のことどう考えてるんですか・・・。いつまでたっても子供扱いしかしてくれないし、
勉強が忙しいからって言ったら、全然会ってくれないし・・・。」
要するに、『あの翡翠』がいつまでたっても自分を、彼と対等な一人の女として扱ってくれないことに不安を覚えたらしい。
肩を抱かれたり抱きしめられたりということに、初めのうちこそドキドキさせられていた花梨だったが、
そこから先へ一向に進もうとしない翡翠の様子に、本当に自分は彼の恋人といえるのだろうかと、密かに悩み始めていた・・・。
時折しゃくりあげながら、切れ切れに話す花梨の言葉を総合すると、そういうことになるようだ。
「・・・・まいったね・・・。」
長いストレートの髪をかきあげる。
どうやら、彼女を大切に想うがゆえに自制していた態度が裏目に出たらしい。
「まさか君が、そのようなことを気にしていたとは・・・。」
ふと、横を流れる鴨川に目をやると、対岸に並ぶビルや街灯の灯りを映した水面がゆらゆらと揺れていた。
京の街では、夜の川に映るものといえば月明かりくらいのものだったが、
この世界では川の輪郭までもがくっきり浮かび上がって見えている。
「光が・・・多すぎるね。」
ゆらりと輝く川面を見つめたまま呟く。
「こうも明るくては、たったひとつの大切な光が霞んでしまう。」
翡翠は、花梨に一歩近づくとその肩に手をかけ、彼女を胸のうちに抱き寄せた。
こちらの世界に慣れるために多くのエネルギーを使っていたとはいえ、
彼女のそうした様子に気づくことが出来なかったとは、不覚である。
(そういえば・・・・)
ふと幸鷹の顔が浮かんだ。
彼は、この明るすぎる光を遮ってくれる、格好のサングラスなのかもしれない。
色恋ごとに疎い・・・そんな彼だからこそ、花梨も安心して相談できたのだろう。
本来なら、そのような人間に相談したところで、どうにもならないのだろうが、
結果的には、今日翡翠が彼に出会ったことで、花梨が自分の気持ちを話すきっかけとなった。
『よく磨いておきたまえ』とそう言い捨ててきたが、案外あのままでよいのかもしれない。
「今度会ったら、にこやかに礼のひとつも述べることにするかな。」
「え・・・・?」
翡翠の胸に、安心しきったようにひっついていた花梨が、不思議そうな表情を浮かべて顔を上げた。
「花梨、大人扱いして欲しいと思うのなら、そのように無防備でいてはいけないね・・・。
男はいつ豹変するかわからないのだよ?」
「え"・・・・////」
意味深なそのセリフに、顔を赤らめた花梨が離れようと身じろぎするが、そうはさせない。
「今宵は、さんざん我慢を強いられたからね・・・・。簡単には離さないよ。」
翡翠は、花梨の細い顎に手をかけた。
「それと・・・そうだね、姫君がお望みのようだから、ひとつステップを登ってみることにしようか・・・。」
「翡・・翠さ・・・」
大きく目を見開いた花梨が、戸惑い気味にこちらを見つめながら名を呼ぼうとする。
翡翠はその声を聞き終わらないうちに、半開きにされた彼女の唇をそっと塞いだ。
川面に映る夜景が、ゆらゆらと幻想的な輝きを見せながら揺れていた。
一方、こちらはひとり残された幸鷹。
「一体、どうしたというんだ? 私は何か彼の気に触ることを言ったのだろうか・・・。」
さっぱり訳がわからない。
「そういえば、眼鏡がどうとか言っていたが・・・・。ん・・・?」
ふと視線を移すと、テーブル脇に挟まれたままになっている伝票が目に入った。
「・・・・・・。」
一応、財布の中身をチェックする。
京にいたときは、金銭には何不自由ない上流貴族の御曹司だったが、ここでは自立したばかりの一社会人である。
今度会った時は、眼鏡を拭いておく代わりに (その意味がイマイチよくわからないが)、
ここの代金の半分はきちんと請求させてもらうぞ、と心ひそかに誓う幸鷹であった。
〜fin〜
初書き翡翠さんでした(^^; まずは・・・土下座! 『あの翡翠さん』が半年以上も唇さえ奪えないなんてことがあるのでしょうか(大汗) そして幸鷹さん・・・。 いろんなことにこまめに気の付く彼が、ここまで鈍感でいいのか・・(すでに逃げの体勢//) そして、『甘くせつなく唇を奪うお話』ということでリクを頂いたのですが、 これはもう、笑ってごまかすしか・・・・・(^^; (智雅さん、こんなのですみません〜><) 8888キリリク創作でした/// (2004.5.31) |