星の降る夜は 3

「那岐…?」

那岐の言葉の意味がわからないまま千尋は、真剣な表情を見せる彼に、戸惑いのまなざしを向けた。

そのとき、不意に空気が変わった。
二人がハッとした瞬間、凛とした声が響いた。

「そのくらいにしてもらおうか。中つ国時代の側近とはいえ、我が妃を惑わそうとするとは、いい度胸だ。」

弾かれたように二人が声の主を見る。

「アシュヴィン?」

「な…っ。」

一瞬、虚をつかれた那岐だったが、惑わすという言葉にムッとした彼はすぐにアシュヴィンを睨み返した。

「今更こんなとこへ何しに来たんだ。あんたはあの女とよろしくやってたんじゃないのか?」

「なんだと…?」

「今、千尋とも話したけど。この戦が終わったら、千尋は中つ国へ連れて帰るよ。あんたの傍にいたって幸せになれるとは思えないからね。」

「ちょっと待って、那岐。わたしは…。」

アシュヴィンの出現に呆気に取られていた千尋が、ハッと我に返った。

「僕はこの国へ来てから、千尋が心から笑ってるのを見た覚えがない。いつも寂しそうな顔してるじゃないか。それならいっそのこと僕が…。」

「お前が? 彼女をどうすると?」

それを聞いたアシュヴィンが、那岐に鋭い目を向ける。

「貴様がどう思おうと、千尋は俺の妃だ。その彼女を無理やり連れ去るというのなら、新たな戦の火種を作ることになるぞ。」

「簡単なことだろ、あんたが結婚を解消するって言えば済むことじゃないか。さっきみたいに平気で他の女を連れ込むなんて、この世界じゃ普通かもしれないけど、僕たちにとっては理解しがたい行為だ。」

「……。」

「僕はそんなの認めない。千尋を悲しませるなんて許さないっ。」

攻撃的な言葉をぶつける那岐を、アシュヴィンが黙ったまま睨み返す。

一発触発の空気が流れたそのとき。

「那岐、そのくらいにしておいた方がいい。」

回廊の先から穏やかな声が聞こえた。
弾かれたようにそちらを見ると、風早がゆっくりと近づいて来るのが見えた。

「風早…。」

出鼻をくじかれた那岐は、彼を見て小さく眉を寄せた。

「アシュヴィンだって、あの娘を喜んで連れて来たわけじゃないと思うよ。なにか事情があったんじゃないかな。現に彼はすぐここへ、千尋のもとへ現れたじゃないか。」

アシュヴィンをちらりと見た風早は、彼の前を通り過ぎて那岐の前に立った。

「もし…もしそうだとしてもっ。千尋を泣かせたことにかわりはないだろ。風早はそれでもいいのか、あんたなら真っ先に連れて帰るんじゃないのか?」

珍しく感情を顕にした那岐が、鋭く突く。

「……千尋が望んでいないから。」

風早は、彼の言葉にほんの一瞬、目を伏せたが、穏やかな表情のままそう答えた。
だが那岐に向けられた瞳の奥には、彼を制するだけの威圧感が漂っている。

「…っ…。」

那岐はその視線から目を逸らすと、グッと黙りこんだ。
それを見た風早がアシュヴィンに向き直る。

「あなたが千尋のことを一番に想ってくれているのはよくわかります。うまくいきそうだったので、少しイタズラ心を起こしてしまったのは申し訳なかったけれど…。」

「……?」

「あ、いや。」

余計なことを言いかけて、風早は慌てて笑みを浮かべてごまかした。

「それはさておき。そうは言っても今宵のあなたを千尋に近づけるわけにはいかないな。」

「なに?」

「いつからあの娘にまとわりつかれていたのか知りませんが、あなたからは彼女の付けていた香りが惜しみ無く漂って来ますよ。」

「…む。」

「そんな香りを纏ったまま近づくなんて、千尋に対する最大の侮辱だ。」

アシュヴィンは口を真一文字に結んだまましばらく風早を睨んでいたが、やがてスッと視線をそらせた。
その先には千尋の姿がある。

「あ…。」

その視線に気づいた千尋は、居たたまれなくなって、彼から逃れるように目を伏せた。

「……。」

アシュヴィンは視線を合わせようとしない彼女をしばらく見ていたが、やがて小さく息をついてから口を開いた。

「妃との逢瀬を臣下が邪魔するなど、不敬にもほどがあるな。しかしながら貴様らの言うことにも一理ある。」

那岐の言う「他の女を連れ込む」については大いに反論があるが、その女の香りを纏っているのでは言い訳できない。

「僕らはあんたの臣下のつもりはないぞ。」

那岐がムッとして反論したが、それを無視しアシュヴィンは再び千尋へ目を向けた。

「妃殿の不興を買うのも心外だからな。ここは一旦引くとしよう。」

「アシュ…。」

その言葉に千尋が慌てて顔を上げた。
その瞬間、アシュヴィンは彼女の頬に涙の跡を見つけて目を見開いた。

「千尋…?」

無意識に一歩踏み出し、彼女へと手を伸ばす。

「そうして貰えると助かります。」

だが、風早の言葉がそれを遮った。




「そーっとですよ。起こすと面倒ですからね。」

遠夜の煎じた眠り薬ならそう簡単に目を覚ますことはないだろうが。
念には念を入れるに越したことはない。

リブは使用人たちを指揮して領主の娘を部屋から運び出し、離れの客室へと運ばせていた。

その横を、カツカツと靴音を響かせたアシュヴィンがやって来たかと思うと、何も言わずに大股で通り過ぎていった。

「……え、あれ?」

虚を突かれたリブが慌てて振り返ると、彼は自室へ入り、振り返らないまま後ろ手でバタンッとドアと閉めた。

「アシュヴィン様…?」

彼が通った回廊には、その主が去って尚、殺気が漂っている。

「や、これは…しくじりましたかね。」

やはり千尋のもとに那岐が居たのはまずかったようだ。
リブはアシュヴィンが消えたドアを見ながら、思わず額に手を当てた。


















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