平成20年度

 

松 燈 だ よ り


 
                                

NO.120   2008年  12月

寛容(赦すということ
 テロや戦争など、年を追うごとに世界中いろんなところで衝突が起こっています。
国内でも、ちょっとした我慢や自制があればと思うような事件も多々あります。また、
連日テレビのワイドショーでは人を批評したり非難する番組が茶の間をいつもにぎ
わしています。私たちは少しずつ寛容の精神(慈悲のこころ)を失いかけているの
でしょうか。
 11月27日(木)NHKのテレビで「ルワンダ 償いと赦(ゆる)しの家造り」という番
組がありました。ルワンダはフツ族とツチ族の長い内戦がありました。内戦はもと
もとヨーロッパ人の人種差別を助長する植民地政策に端を発しています。1994年
フツ族の大統領が暗殺されたとの報道から、抑圧されてきたフツ族によるツチ族への
大虐殺が行われました。隣人が隣人を虐殺するジェノサイド(集団殺戮)です。80万
から100万人もの住民(人口の約10%)が殺されたといわれています。その年の7月
ルワンダ愛国戦線(FRP)が全土を制圧し、新政権が発足して紛争は終結しました。
 そして、虐殺に荷担した者は捕らえられて裁判が行われました。あまりに多くの戦
争犯罪人に対し政府が実施したのは、懲罰ではなく罪の告白と謝罪そして償いを求め
ることでした。その償いの一つが、家族と家を失った被害者に新しい家を造るプロジェ
クトです。これは現地NGO・REACHで働く佐々木和之さん(42)が発案したものです。
(REACHは教派をこえたキリスト者の非営利組織で、佐々木さんも日本バプテスト連盟
国際ミッションボランティア 洋光台キリスト教会員です。)
 番組では被害者のユディトさんが家造りの現場に足を運びます。そこには両親を虐
殺した隣人エリアブさんを含む受刑者達が黙々と働いています。当初ユディトさんは
複雑な気持ちだったでしょう。しかし勇気をもって彼らに話しかけ食事や飲物などを
差し入れました。そのうちエリアブさんから心からの謝罪の言葉を聞くようになり、
エディトさんは徐々に赦しの気持ちが芽生え、彼らを受け入れることができるように
なったのです。家が完成したときには隣人とともにエディトさん達を食事会に招いた
のです。
 これはプロジェクトが成功した一例に過ぎません。最愛の肉親を目の前で惨殺され
た被害者にとって、その加害者を赦すというのにはまだまだ厚い壁がありま
す。このプロジェクトは和解に向けてのほんのちいさな一歩でしかありませんが、
                 (2)
かすかな光りであることは間違いありません。
 キリスト教のこういった活動に対して、仏教は残念ながら遅れています。しかし、
慈悲の精神は仏教において最も大切な眼目です。
 法句経(ダンマパダ)には次のよく知られた詩偈があります。

怨みは 怨みによって果たされず
忍を行じてのみ
よく怨みを 解くことを得
これ 普遍の真理なり


 (怨みは、仕返しでは決して解決できない。ただ“忍”の実践でのみ、怨みを
  解くことができる。)

 昭和26年(1951)、サンフランシスコ講和会議において対日賠償請求権をめ
ぐって最初から激しい日本攻撃があったといいます。そのような状況の中で仏教国セイ
ロン(スリランカ)のジャヤワルダナ元大統領は上の詩偈を引用し、対日請求権を放棄
することを演説しました。そのおかげで日本は早期に国際復帰できたともいわれていま
す。
 無条件に相手を赦すということは難しいことです。しかし争いを止め和解に進むた
めにはこれしかありません。私たちは仏教徒なのですから。気の遠くなるような時間
が必要かも知れませんが。
 (参考:http://rwanda-wakai.net/ 佐々木さんを支援する会ホームペ-ジ
     NHK宗教の時間「ダンマパダをよむ」片山一良著)


NO.119  2008年  11月

梵網経(ぼんもうきょう)
 梵網経は融通念佛宗でも大切にしているお経のひとつです。その中では仏教徒の規範となる戒律を説いています。伝法で行者さんに授けられたのもこの「大乗菩薩戒」です。
 梵網経では、盧舎那仏(るしゃなぶつ)が無数の世界に戒師として釈迦如来を使わし、その世界の衆生に戒律を説くという設定になっています。
 奈良の大仏様はこの盧舎那仏で、宇宙の中心となる仏様です。梵網経にはつぎのようにあります。

 我今盧舎那(がこんるしゃな)    我、今、盧舎那
 方座蓮華台(ほうざれんげだい)   まさに、蓮華台に座す
 周帀千華上(しゅうそうせんげじょう)周りにめぐる千華の上に
 復現千釈迦(ぶげんせんしゃか)   また、千の釈迦を現ず
 一華百億国(いっけひゃくおっこく) 一の華に百億の国あり
 一国一釈迦(いっこくいっしゃか)  その一国にひとりの釈迦がおわす
 各座菩提樹(かくざぼだいじゅ)   おのおのの釈迦は菩提樹に座して
 一時成仏道(いちじじょうぶつどう) あるとき仏道を成(な)した
 
 ちなみに奈良の大仏様の蓮華台には無数の蓮華の花びらがあり、その一つ一つに無数の国に使わされる釈迦如来が描かれています。
 経典は次のように続きます。

 如是千百億(にょぜせんひゃくおく) かくの如きの千百億の釈迦
 盧舎那本身(るしゃなほんじん)   盧舎那を本身とす
 千百億釈迦(せんひゃくおくしゃか) 千百億の釈迦
 各接微塵衆(かくしょうみじんしゅう)おのおの微塵の衆に接し
 倶来至我所(くらいしがしょ)    倶(とも)に我が盧舎那の所に来至して
 聴我誦仏戒(ちょうがじゅぶっかい) 我が仏戒を誦するを聴きて
 甘露門即開(かんろもんそっかい)  甘露の門、即ち開きぬ

 このあと千百億の釈迦はそれぞれの国(世界)に還り、菩提樹の下に座して盧舎那仏の仏戒を多くの菩薩を前にして説かれます。そして、この戒をまた多くの衆生に授けるよう指示されます。それは十の波羅提木叉(はらだいもくしゃ 菩薩が堅持しなければならない戒律)です。もし菩薩がその戒を犯したなら、波羅夷罪(はらいざい)という最も重い罪になり、菩提心を失うだけでなく地位や徳などすべてを失って、三悪道(畜生道、餓鬼道、地獄道)をさ迷うことになるといいます。
  (2)
 その十の戒律はつぎのとおりです。

  一、不殺生戒(ふせっしょうかい)  生命あるものを尊重し、ことさら殺してはいけない。
  二、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)  盗みや不正をはたらいてはいけない。
  三、不邪淫戒(ふじゃいんかい)   愛欲にこころ奪われ、夫婦の道を乱してはいけない。
  四、不妄語戒(ふもうごかい)    自らの言葉に責任をもち、嘘偽りを言ってはいけない。
  五、不飲酒戒(ふおんしゅかい)   酒におぼれて他人に迷惑をかけない。
  六、不説罪過戒(ふせつざいかかい)  他人の罪や過ちを言いふらしてはいけない。
  七、不自讃毀他戒(ふじさんきたかい) 自分をほめ、他人をそしることはいけない。
  八、不慳貪戒(ふけんどんかい)     利を他人に与えず、自分の財産だけを貪ってはいけない。
  九、不瞋恚戒(ふしんにかい)      いかりや憎しみをもち、自分を失ってはいけない。
  十、不謗三宝戒(ふぼうさんぽうかい)  仏の教えを疑い、修行者をそしってはいけない。

 梵網経はいいます、
    衆生受仏戒(しゅじょうじゅぶっかい) 衆生、仏戒を受くれば
    即入諸仏位(そくにゅうしょぶっち)  即ち諸仏の位に入る
 そして経典の最後には、「敬心(きょうしん)をもて奉持(ぶじ)すべし」(敬いつつしみの心でもって、戒をたもちなさい)とあります。

 この大乗菩薩戒の特徴として、すべてについて他のものを意識しており、他を利するという側面をもっています。それは私たちは他との関わり合いの中で生きており、生かされているからです。戒律とは他との関係の中で自分自身を律する規律です。他を利することが回りまわって自分を利することになるのです。
 ところが、人を見たら疑わなければならないような世の中になって、ますます人を敬う心も薄れ、誰でもまず自分の利のことを優先するようになりました。十の戒律の当たり前のようなことが、一笑に付される時代かもしれません。
 しかし、これを「絵に描いた餅」にしてはいけません。私たちにはなかなか難しい菩薩の境地ですが、この世相だからこそ「敬心奉持(きょうしんぶじ)」の心を忘れてはなりません。




NO.118  2008年  10月

お十夜
 「十夜会」の行事は、室町時代より全国の多くの寺院で催される晩秋の行事です。そのもとになってい
るのは、「無量寿経」というお経の次の一節です。
(「浄土三部経 上」岩波文庫 訳注:中村 元、平島 鏡正、木野和義より )

    汝等よ、ここに、広く徳本を植え、恩を布き恵みを施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心
    ・智慧、うたた教化し、徳をなし善を立てよ。心を正し意を正しくして、斎戒清浄なること、一日一夜
    すれば、無量寿国にありて、善をなすこと百歳するに勝れり。所以はいかに。かの仏の国土、無為
    自然して、みなもろもろの善をつみて一毛髪の悪もなければなり。また、この世において善を修す
    ること、十日十夜すれば、他方の諸仏の国土において、善をなすこと千歳にするに勝れり。所以は
    いかに。他方の仏国、善をなす者多く、悪をなす者少なく、福徳自然にして、造悪の地なければな
    り。ただ、この世間のみ悪多く、福徳自然なることあることなし。ゆえに勤苦して求欲し、うたた欺紿
    し、心労し形困しみ。苦を飲み毒を食ろう。かくのごとく?務して、いまだかつて寧息せず。

 現代訳

    (そなたたちはこの世において広く福徳の根を植えなさい。恩恵を布き、与えることをし、道に違背
     せず、忍耐と、努力と、精神集中と、智慧とをもって、次々に教化し、徳を積み、善を実行しなさい。
     正しい心、正しい意志で一日一夜の間、戒を守り清浄であったら、<幸あるところ>という世界に
     あって百年の間善をなすよりもその方がすぐれているのだ。それはなぜかというと、かの仏国土
     では、なんとなく自然に皆が、さまざまな善を実行していて、毛筋ほどの悪もそこにはないのだ。
     この仏国土で十日十夜のあいだ善を実行すれば、他方の諸仏国土において千年のあいだ善を
     実行するよりもその方がすぐれているのだ。それはなぜかというと、他の方角にある諸々の仏国
     土は、善をなす者が多く、悪をなす者は少なく、自然に福徳が積まれ、悪を犯すことがない所なの
     だ。ところが、この世にだけは悪が多く、自然に善をなすなどということはなく、人々は苦しみ求め
     て次々に偽り欺き、心も体も苦しんで、苦を飲み、毒を食している。このようにあわただしく生きる
     ばかりで、安らかさというものは全くないのだ。)

 現代訳の後半をみれば、あたかも今の日本社会が映し出されているようです。
「偽り欺き」、「心も体も苦しんで」、「苦を飲み」、「毒を食している」。
建築偽装、振込詐欺、貧困を生む格差問題、食の安全を脅かす食品偽装などなど。
もう将来が絶望的になってしまいます。
 しかし、どんな人でもまだ心のどこかに「一日一善」の気持ちはあるように思います。先月号の上野千里
 さんの詩に次の一節がありました。

    どこかに不幸な人がいたら
    どんなことでも力になってあげよう
    もしすっかり自分を忘れてしてあげたら
    もうそれできっと嬉しくてたまらないだろう


 「情けはひとのためならず」ともいいます。利益や見返りのことなど考えず、自分のことを忘れて人に尽
くすことができたら、きっと自分自身がすがすがしい気持ちになれるでしょう。自然に善を行うことは自分
自身のためになるのです。
 お十夜は、お念仏を通じて善を行います。現在では一日のお十夜ですが、たった一日でもその気持ちを
持つということは、その他の364日も変わってくるということです。

NO.117  2008年  9月

みんなに
 今月は上野千里さんの詩「みんなに」を紹介します。
 上野さんは栃木県矢坂市出身の海軍中佐でした。あるとき、墜落して負傷した米兵のパイロットを手術していました。再びアメリカ軍が爆撃してきたので、上官はその兵隊を殺せと命じました。上野さんはその命令を聞かず一時待避しましたが、手術再開のため戻ると、すでに誰かに殺されていたのです。
 上野さんはその罪を自分が背負うことにしました。何人かを日本に帰すためです。そして、昭和24年3月31日、上野さんはグァム島において戦犯として処刑されました。「みんなに」はその獄中でつくった十三節からなる詩です  (「金子みすずの詩と仏教」酒井大岳著 大法輪閣より)

悲しみのつきぬときこそ
かすかな喜びの芽生えがある
熱い涙のその珠にこそ
あの虹の七色は映え宿る

人の世の苦しみに泣いたおかげで
人の世の楽しみにも心から笑える
打たれ踏まれて唇を噛んだおかげで
生まれて来たことの尊さがしみじみわかる

醜い世の中に思わず立ちあぐんでも
見てごらん ほら あんなに青い空を
みんなが何も持っていないと嘲(あざけ)っても
みんな知っている
もっと美しい本当の尊いものを

愛と誠と太陽と時々雨さえあれば
あとはそんなにほしくない
丈夫な体とほんの少しのパンがあれば
上機嫌でニコニコ歩きたい

それから力いっぱい働こう
そうして決して不平を言わずに
何時も相手の身になって物事を考え
いくら辛くても決してひるまずに

どこかに不幸な人がいたら
どんなことでも力になってあげよう
もしすっかり自分を忘れてしてあげたら
もうそれできっと嬉しくてたまらないだろう

うつむいていればいつまでたっても暗い空
上を向いて思いきって笑ってごらん
きびしくてどうしても自分が惨めに見えたら
さあもっと不幸な無数の人々のことを考えてごらん

道はどんなに遠くても お互いいたわりあい
みんな手をとりあって歩いていこう
悲しいときは共に泣き 楽しいときは共に笑い
肩をくみあって 神のみ栄をたたえよう

朝お日さまが昇るときはあいさつに
今日もやりますと叫びたい
夕べお日さまが沈むときは
夕焼雲をじっと見つめて座っていたい

心にはいつもささやかな夢を抱いて
小鳥のようにそっと眠り
ひまがあったら古い詩集をひもといて
ひとり静かに思いにふけりたい

幸せは自分の力で見出そうよ
真珠のような涙と太陽のような笑いの中に
今日もまた明日も進んでいこうよ
きっといつの日か振り返って静かに微笑めるように

偽って生きるよりも偽られて死に
偽って得るよりも偽って得ずに失えと
天国からじっと見守っているお父さんに
手を振ってみんな答えておくれ「おう」と

何度ころんでもまた起き上がればいい
なーんだこれしきのことでと笑いながら
さあ、みんな朝から元気いっぱい
さわやかな空気を胸いっぱい
大きく吸いながら

 先日、アフガニスタンで農業支援のため活動されていた伊藤和也さんが拉致殺害されました。和也さんがNGOペシャワール会に入られたのは、「アフガニスタンは忘れ去られた国である」と聞かされ、その復興をすこしでも手助けをし、現地の人と一緒に成長したいと思われたからです。少しでも現地で活動している和也さんの写真を拝見すると、「みんなに」の詩がぴったり重なるように思います。

NO.116  2008年  8月

手のひらの餅
 人間の煩悩は燃え出すと止まることを知りません。それは他人からみると狂気と思えるほどになります。
 信州上田の太郎山に次のような民話があります。(講談社現代新書「民話の世界」松谷みよ子著)

 昔、ある山の村に一人のいとしげな娘がいた。あるとき、山を五つ越した先の祭りに招かれて、村の若者と知り合った。
 漆のように暗い山あいに、そこだけがぱっとあかるく、かがり火はあかあかと燃え、夜もすがらうたい、踊り、やがてしらじらと夜が明けたとき、娘と若者はたがいに忘れられんようになっていた。
 しかし、祭りが終わってみれば、娘と若者は会うこともない。
 娘はぼんやりと山を見ている日がおおくなった。あの山さえなかったら、あの山さえなかったら・・・・・娘は山をみつめつづけた。
 ある夜のことだった。娘はちらちらと一つの火が山を越えて行くのをみた。
娘はあっと思った。
「そうだ、山を越えて会いに行こう。そしてその夜のうちに戻ってくれば、誰にも知れはしない。」
 娘はその夜、こっそり家をぬけ出すと、山道を走った。
 一つ山を越え、二つ山を越え、三つ山を越えると、胸ははりさけそうに苦しく、膝はふるえ、足はもつれた。けれど娘は火のような息を吐いて走り続け、四つ目の山を越し、五つ目の山も越え、ようやく若者の家までたどりついた。
 ほとほとと戸をたたく音に戸を開けた若者は娘を見て驚いた。
「どうしてここへ・・・」
「お前に会いたくて、山を越えて」
「山を、五つも越えてか」
 娘はこくんとうなづくと、若者の前に両手をさしのべて、ぱっと開いて見せた。
 そこにはつきたての餅が一つずつ、のっていた。
 その夜、ふたりは仕合わせであった。
 それからというもの、娘は毎晩のように若者をたずねてくるようになった。真夜中、戸をたたく音に若者が出てみると娘が立っている。その手には必ずつきたての餅がにぎられていた。
 眠らずに、娘と語り合う日がつづき、若者はしだいに痩せ、顔色も蒼ざめていった。
「いったい、どうしただ」
 仲間の者に問いつめられて、若者はとうとう娘の話をした。
 「そりゃ魔物じゃ、魔性のものじゃ。人間の女じゃねえぞ。女の身であの山を一つ二つならともかく、一夜のうちに五つも越えて通えるものか」
 嵐の夜が来た。
 今夜は来るまいと思ってはやばやと眠っていた若者は、人の気配に驚かされた。そこには髪の毛も、身体も、ずっくりと濡れた娘が立っていた。その目はきらきらと激しい光をたたえ、手にはつきたての餅がにぎられていた。
 若者はぞっとした。
 「おら、お前が魔性のものではないかと思うようになった・・・」
 若者はぽつりと言った。
 娘は泣いた。
 「お前に会いたい一心で、わたしは山を越えてくるだけなのに・・・。普通の、ただの娘なのに・・・」
 涙が娘のほおを伝った。
 「家を出るとき、餅米を一握りずつにぎって、お前に会いたい、ただそれだけで山を越え、山を越えて走り続けるうちに、いつのまにか手のひらの米は餅になっているのです。どうかお願いだから、魔性の者などと、そんな恐ろしいことをいわないで・・・」
 けれどもその夜、若者ははじめて餅を食べなかった。
 若者はしだいに娘が恐ろしくなった。それはいとわしさに変わった。
 「魔性のもんだ。生かしてはおけねえ」
 ある夜、若者は娘のやってくる山へ出かけていった。そして刀の歯と呼ばれる険しい崖の上で待ち伏せをした。
 やがて、娘の姿がぽっつりと見えてきた。両手をにぎりしめ、髪を振り乱し、風のように走ってくるそのありさまは、月の光に照らされてもの凄く、若者の目にはてっきり魔性のものとみえた。
 「おのれ、魔ものめ、おもいしれ!」
 若者はいきなり飛び出すと、娘の足をすくった。
 娘はまっさかさまに崖から落ちていった。
 哀れな娘の血が滴ったのか、やがてそのあたりには、真っ赤なつつじの花が咲き乱れるようになったという。(『つつじむすめ』あかね書房 昭和49年)

 娘の恋は、手の中の米が餅になるほど、必死だったのです。その煩悩に身を焦がされればされるほど、その火は強くなり消すことができなくなりました。その形相は魔性そのものだったのかも知れません。己の心の中の地獄が現れていたのでしょう。
 愛欲は煩悩の一つです。仏教では煩悩を静めなさいと説いています。しかしこの娘のような悲劇の主人公を私たちは、「バカな人」と一言で片付けてしまうでしょうか。むしろ娘のやるせない悲しい思いに心ひかれます。昔からこのような悲劇は歌に唄われ、物語や小説になってきました。 梅原猛氏は「地獄の思想」(中公新書)のなかで、愛欲の世界を題材にした近松作品の主人公について次のように述べています。
 「罪悪深重、煩悩無尽にして横様の死をとげるしか生きる道のない人間の救い。そしてその救いの条件は、彼らの愛欲の純粋さである。その純粋な愛欲と悲劇的な死こそ彼らの免罪符なのだ。彼らこそもっとも極楽へ行くにふさわしい人だと近松は信じていたかにみえる。・・・」 

 日本人の平均寿命は女性が85.99歳(世界第一位)、男性が79.19歳(世界第三位)であることがつい最近発表されました。いろいろ難しい問題もありますが、多くの日本人は恵まれた環境にあり、身内や親しい人たちに見守られながら死をむかえられているということの証(あかし)かも知れません。
 しかし、いつの時代も世界のどこかで戦争があり、天災があり、また不慮の災害があります。そしてこの国では、社会の目立たないところで、毎年三万人以上の自死があるといいます。そのような悲しい死をむかえた霊に対しても、静かに思いを致してみるのがこの8月ではないかと思います。



NO.115    2008年   7月

もういちど色即是空、空即是色
 東京台東区に谷中(やなか)というところがあります。ここは太平洋戦争でもあまり大きな被害を受けず、昔ながらの町並みや建造物が残されています。そして二、三十年前から外国人旅行者の人気スポットになっています。
 谷中でいつも満室の旅館は普通の旅館と変わりがありません。外国の宿泊客が多いにもかかわらず、部屋は畳の和室、寝具は蒲団でゆかた付き。また急須とポットでお茶の用意もしてあります。ただし、英語などの詳しい説明書きがあるなど、旅館のご主人のいろんな面での心遣いがうかがえます。ですから訪れた方からの礼状もたくさん寄せられています。なかには一生懸命日本語で書かれたものもあるそうです。(http://www.tctv.ne.jp/members/sawanoya/
 そのほか谷中には、お寺や食堂、豆腐屋さん、せんべい屋さんなど、日本の下町の生活がそこにあります。人気の秘密は、日本の庶民の暮らしを実際に体験し、そこにとけあった人々の飾り気のない暖かさに触れることができるからではないでしょうか。
 また、いま日本各地で再開発が行われています。疲弊した地域の再生と活性化を目的としています。しかし、安易な計画で巨大商業施設を建設すると、人の生活に結びつかないで、結果的に借金だけが残るということも少なくありません。
 そのなかで注目されている商店街が高松市の丸亀町にあります。当初商店街は規制緩和による大型スーパーの進出、バブル期の地価の高騰などで維持がますます困難になりました。そこで住民が主体となって20年がかりで再開発を研究し、その構想をねりました。それがマンションを併設した再開発ビルです。オープンさせて一年半順調に人が集まっています。その成功にあやかろうと全国各地から視察団が訪れますが、「自分の欲のため、自分の店の繁栄ための再開発では失敗する。」と聞かされて、ショックをうけて帰られる団体もあるそうです。
 丸亀町ではテナントを厳しく審査し、お客本意の店作りができる業者に開放しています。そして人が暮らす商店街に生まれ変わるべく、その挑戦が始まったばかりだといいます。そのホームページ(http://kame3.jp/)には次のようなコンセプトが書かれてあります。
   「小さくて住みやすい町。高齢者にとって、女性や子供にとって、就業・
    文化活動・買い物・病院通いなどにも便利な町。そんな町になれば、本
    当に豊かな生活が実現できると思います。そんなコンパクトシティの実
    現を目指して、町の住民が自ら動く。それが、丸亀町商店街の伝統であ
    り、スタイルなのです。」
 二つの町の例を紹介しました。いずれも利益だけ、成功そのものを目的としたものではなく、人と人とのつながり、その地域に根ざした生活を大切にしています。それがおのずと人を集め、そしてまた新たな人と地域のつながりを生むのでしょう。
 今月からガソリンは180円/L台になるといわれています。その影響は食料をはじめ他の生活必需品にも及びます。
今までのような大量消費に支えられた社会を持続することはできません。低消費になり、本当の豊かさが求められる時代になるでしょう。
 世の中のすべてのもの(色)は、実体が無くうつろうもの(空)です。(色即是空) そこで思考がとまってしまうと、「この世は価値のないもの」という虚無主義、絶望の思想になってしまいます。 しかし、私たちが現に生きている世界がどんなに空なる世界であっても、それをつくっているのは現実のいろんなもの(色)とそのつながり(自然)です。(空即是色) そのような中でそのおかげで私たちは生かされているのです。 
 多田富雄さんの助言をもう一度思いおこして下さい。
「・・・この辺で経済至上主義、成長神話を考え直して、新しい価値観を構築しなければなりません。・・・自然(生命)と伝統を生き方の原点に据えたらどうでしょう。」

        (その他参考:朝日新聞 窓の欄「心の再開発」、
                 NHKテレビ 「小さな旅」より)
 


NO.114    2008年   6月

 私たちは仏教徒?
 日本では、お葬式のほとんどが仏式であり、家の宗教を問われたら多くの人が「仏教」と答えるでしょう。そういう意味でいえば、日本は仏教国といっても差し支えないかもしれません。しかし、どれだけの人が仏教を心から信仰し「わたしは仏教徒である」と言えるでしょうか。仏教を信じるということはどういうことなのでしょうか。
 日本の仏教には三つの側面があるように思います。一つは仏教の教えを生活に実践すること、二つ目は先祖や故人の供養、三つ目はこの世の安穏を願い、死後の来世または極楽往生を信じること。
 多くの経典にはブッダの智慧が書かれてあります。人生は「苦」であるとみなして、その苦を克服していくための考え方です。それを実践しながら生きていくのが一つ目の側面で、教訓的です。また、インドから中国そして日本に伝えられてさらに哲学的、心理学的な方面にも発展してきました。
 二つ目の側面である死者の供養は日本で独自に発展したようです。最初は亡霊や死霊の(タタ)りを鎮めるための法会であったのが始まりではないかと考えられています。「タタル」はもとは神の出現を意味していたそうですが、奈良時代の政争によって社会不安が増大し、疫病などの流行も手伝って死者が増え、「死霊が危害をくわえる」という考えが生まれました。いつしか「タタル」は「祟る」となったのです。
 また、古代の日本人は「死」を「ケガレ」と考えたそうです。(「日本人の死者の書」大角修著) ケとは食物のことでエネルギーのもとです。「ケガレ」はそのエネルギーが「枯れる」ということです。おそらく疫病は次から次へと死者を増やしました。死は「不浄なもの」=「ケガレ」をもっており、それが近くの人にうつると信じられたのでしょう。ですから死者となった直後の霊魂は荒れているとし荒御霊(あらみたま)と呼ばれたのです。
 平安時代の『延喜式』(律令の施行細目)には死の「ケガレ(穢れ)」の期間が四十九日と規定されています。この期間を「」としました。「忌」の期間は死者の穢れによって祟ると考えられましたから、遺族は穢れをまき散らさないよう他者との接触を禁じられ、穢れを落として祟りを鎮めるべく法会が行われたのです。 それがインドの輪廻転生の霊魂観とあいまって、日本の中陰の法要の原型になったと考えられます。ですから法会はもともとは鎮魂を目的としたものでした。現代になって穢れや祟りは現実的なものではなくなりました。まだ一部には残っているものの、多くの仏教寺院では死者の冥福祈願や、先祖の報恩感謝を目的の一つとして法要が営まれています。
 さて、第三番目の側面は来世を信じること。仏教だけに限らず、キリスト教やイスラム教その他の多くの宗教でも同じようなことを考えています。これが一番宗教的な側面かも知れません。それは霊魂を信じることにつながりますので、場合によっては非科学的な考え方だと受けとめられがちです。
 近年、特に生命科学の進歩はめざましいものがあります。そしてそれは、人の脳の働きを調べて思考や感情の仕組みまでを明らかにしようとしています。宗教や芸術さえも科学の立場から解明しようという試みです。そのこと自体に異論を挟むつもりはありません。しかし一般の人が、宗教や芸術さえも脳の中の物質の反応にすぎないと解釈してしまうと、いわゆる「感じる」ことを停止してしまうのではないかと危惧します。なにも超常現象やまがいものの宗教を信じなさいと言ってるわけではありません。科学と宗教は棲む世界が違うということです。科学で論じるものではないのです。
 私たちはいつかこの娑婆世界から去らなければなりません。精神的に強い人はその不安に打ち勝つことができるでしょう。でも世の中のほとんどは弱い人間です。そのとき、行き先が分かっている人と分からない人と比べたら、その心の持ち様は歴然と違うはずです。仏教徒であれば行き先がお浄土であると分かっています。次は阿弥陀経の一節です
   若有善男子善女人、聞説阿弥陀仏、執持名号、若一日、若二日、若三日
   若四日、若五日、若六日、若七日、一心不乱、其人臨命終時、阿弥陀仏、
   与諸聖衆、現在其前、是人終時、心不顛倒、即得往生、阿弥陀仏、極楽国土。
 
   「もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くことを聞き、名号を執持せ
    んに、もしは一日、もしは二日、・・・もしは七日の間、一心不乱なら
    ば、その人命終る時に臨んで、阿弥陀仏、もろもろの聖衆とともに、
    現じてその前に在さん。この人命終わる時、心、顛倒せず。(命終わる
    や)すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することをえん」

 その時に臨んで、心乱れることなく、極楽浄土に往生することができると説いています。「往生」とは「往(ゆ)きて生まれる」ということです。
 ふだんは「南無阿弥陀仏」と声をだして称えることは、気恥ずかしいことかも知れません。もしその時が来ましたら、すこし声をあげて称えましょう。それが仏教を信じるということであり、仏教徒なのです。
(参考と引用:「お葬式をどうするか」  ひろさちや著 PHP新書
         「仏教とはなにか」   山折哲雄著 中公新書、
         「日本人の死者の書」 大角修著 生活人新書 、
         「浄土三部経(下)」  中村元ほか訳注 岩波文庫 )

NO.113    2008年   5月

死を思う
このひと月、硫化水素による自殺が毎日のように報道されています。加えて多くの近隣住民も巻き込まれています。悩み抜いたあげくのことなのでしょうが、私たち一般人からすれば、ひとりよがりであまりにも命を粗末にしているようでなりません。             
 「人身受けがたし」という言葉があります。すなわち「人としてこの世に生を受けることは非常に難しいことである。その命を大切にしなければならない。」ただ、そのことに気づくまでに時間がかかります。人生のいろんな試練を乗り越えて、自分が家族、学校、実社会の一員であり、周りの多くの人たちと共に生きていることを実感できるまで。
しかし近年の日本社会は人間関係が希薄になっています。電子ゲームやネット社会が急激に進み、顔と顔を向き合わせて話すことが少なくなっています。支え合うことを忘れがちな社会では、抱かれてぬくもりを感じることも難しくなります。追い詰められれば、「それでは自ら人生をリセットしよう」と考える人も出てくるでしょう。自死を選ぶ人の増加はこのような社会を反映しているようにも思えます。
 さて、28歳の死刑囚が遺した次のような歌があります。
    執念と多情を持ちて生まれしが吾が過ちの初めなりしか

 先に刑死した同房者の爪痕をみて
    房壁に誰が書きしか爪の文字「妻よ許せ」と薄く記しあり

 そして最後の歌
    刑場に果てる命を嘆きつつ蟲(むし)になりても生きたしと思う

 おそらく自らの罪過を悔い、死をもって償うことしかないと頭では思えたのでしょうが、いつか分からない刑の執行を前にして、虫になってでも「生きていたい」という生への執着は抑えられなかったのでしょう。
 どんな形であれ「死を思う」ことは人間にしかできません。しかし「死」とはどんなものであるのか生きている者には死ぬまでわかりません。自分という存在が全く無くなってしまう、「無に帰する」と考えると、怖くて逃れたくなるのです。
 今から数十万年ほど前、ネアンデルタール人は遺体に花を添えていたそうです。
死者を弔うということ、すなわち「死を思う」心をすでにもっていたと考えられます。人は「死を思う」ことから自然に「死後の世界」を考えるようになったのでしょう。世界のどの民族も死の後には別の崇高な世界があると考えています。それはいろんな行事の中に現在でも生きています。私たち日本の諸行事、儀式だけでなく、文化、芸術に至るまでほとんどがそういう世界を意識して作りあげられてきました。それをただ知識や理屈だけで理解しようとすると生きていくために必要な「感じる心」を失ってしまいます。
 宗教評論家の大角修(おおかど おさむ)さんは、現代社会の死生観の貧困化を問題にされています。
 「人は生まれ、人は死にゆく。どこから来て、どこへ去るのか。
  そう考えられたときに、過去、現在、未来の三世をつなぐ久遠の時のなが
  れも認識される。                  
     仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあわれなる
        人の音(おと)せぬ暁(あかつき)に ほのかに夢に見え給ふ


  これは『梁塵秘抄』のなかでも、よく知られている歌である。仏は常にいる
  にはちがいないのだが、現実には見えるわけではない。静かにひとり心を澄
  ませば、ほのかに夢に見えるという。
   死後の世界も形のない冥漠のかなたにあるが、そこには永遠の時の流れが
  イメージされ、個々の人間の生と死も意味づけられてきた。必要なのは「人
  生観」ではなく、「死生観」である。生と死は一体であることを忘れて、
  「命は大切だ」というだけでは空疎に響くし、「自分らしく楽しく生きるこ
  と」を強調するだけでは、生き方の底が抜けてしまう。・・・略
   そのほか、いろんな事情で人生の節目が希薄になり、死生観が貧困化して
  いる。葬儀などの儀礼を否定し、仏教を形而上の「思想」として理屈だけで
  とらえようとすることも死生観の貧困につながるだろう。釈迦の戒めにある
  ように、死後の世界をあれこれと論じてはいけない。それは「感じる」もの
  であり、詩歌や儀礼の形に表されてきた。」

 チベット仏教のダライ・ラマ14世は東京で開かれた講演会で語られたそうです。
     「わたしは仏教徒ですから来世を信じます。
             そしていつでも希望をもっています
」と。
 来世は科学で論じるものではありませんし、論じることは無駄でしょう。仏と同じように静かに「感じる」ものなのです。大原のお礼参りに参加された方は、みなさん有り難かったとおっしゃって下さいました。おそらく不思議なもの、即ち仏の世界を感じ取られたのではないでしょうか。
 (参考と引用 「日本人の死者の書」大角修著 NHK出版生活人新書より)

NO.112    2008年   4月



花まつり
 もともとは灌仏会(かんぶつえ)とか降誕会(ごうたんえ)などといわれています。旧暦の4月8日にお釈迦様が誕生されたという故事にもとづく行事です。花で飾った小さな御堂をつくり、その中に誕生仏を安置します。参拝者はその誕生仏に甘茶を灌(そそ)ぎ、お釈迦様の誕生をお祝いするのです。花祭りと言われるようになったのは、明治以降で浄土宗の寺院がはじまりだそうです。
 さて、お釈迦様が誕生されたのは、紀元前5、6世紀と言われています。場所はネパールのルンビニーというところですが、インドの国境に接しています。
 お釈迦様はシャカ族の王子として生まれました。その誕生については、多くの聖人と同様、神話的な物語が伝えられるようになりました。
 母マーヤー夫人は身ごもったとき、白い象に乗ったゴータマブッダが右の脇下から胎内に入ったという不思議な夢を見ました。これを占い師達は聖なる男子が授かった証であるとし、彼が出家すればブッダとなって世の人々を救うであろうと預言したのです。マーヤーは臨月になったので里帰りをしました。その途中、ルンビニー園で休んでいると、急に産気づいて近くのサーラ樹に身を寄せその枝につかまったとき、右の脇下からお釈迦様が生まれたと言われています。
 また、お釈迦様が誕生してすぐに、北に向かって七歩あるき、立ち止まって右手は
天を指さし、左手は地に向けて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそ
ん)」と声をあげられたというお話は有名です。「この世の中で私ひとりが最も尊い」
とおっしゃったということですが、あまりにも思いあがった、お釈迦様とは思えない
お言葉です。おそらく尊いお方だったので、後の人々がこのようなエピソードをつくった
のでしょう。この時のお姿が誕生仏です。
誕生して7日目、母マーヤー夫人は亡くなります。まだもの心がつかないときのことですが、成長していく過程で、どこか悲哀に満ちた感受性の強いものをもつようになったのではないでしょうか。
 それを連想させる「四門出遊(しもんしゅつゆう)」というエピソードがあります。シャカ族の王子として生まれたお釈迦様は、お城の中で学問をはじめ物質的なものは何不自由なく与えられて暮らしていました。毎日楽しいことばかりでした。あるとき、東の門から外に出てみるとみすぼらしい人間に遇いました。それは腰が曲がり杖をつきながらやっとのことで歩いている老人でした。歳をとればだれでもあのような老人になると教えられて、王子の心は動揺し、すぐに城内に戻りました。また、あるとき南の門から出てみると、そこに病に苦しむ人が横たわっていました。体は骨と皮だけで、息は激しく時々咳き込みます。 その喘ぎ苦しむ様をみて、ご自分の境遇との違いに驚き、心を痛めつつ城内に戻りました。 また別の日に今度は西の門から外出しました。すると葬送の列に遭遇しました。みんな涙を流し嘆きながら歩いています。王子は大きな悲しみを肌で感じずにはいられませんでした。やはりその場にいたたまれなくなり城内に戻りました。
 そしてあるとき北の門から外に出ました。すると質素な身なりをした青年に出遭いました。きらびやかなものを身につけているわけでもないのに、その人は明るく神々しく見えました。供の者から出家僧だと知らされました。王子は物質的には恵まれた環境に育っていましたが、日頃何か物足りなさを感じていたのです。それは実の母を早くに無くしその心の穴を埋めるべきものが無かったからかも知れません。そして城の外に出て、どんなに裕福でも、老・病・死から逃れることはできないという世の無常を知り、それを克服する方法は出家ではないかと思いを巡らすようになったのです。出家は娑婆世界から目をそらすのではなく、その中に入り現実を直視することからはじまります。王子からお釈迦様への思想的な変遷がそこから生まれたのではないでしょうか。
 私たちはテレビの前でいろんな事件を好奇心をもって見ています。しかし、外に出て現実に直面すると無関心になり目を背けることが多いように思います。世の中のIT化は生活が便利になる反面、一方通行のコミュニケーションが多くなり、触れ合うことの大切さを失っているように思います。「外に出る」「手にとって見る」のも出家のワンステップかもしれません。
(参考と引用:山折哲雄著「仏教とは何か」中公新書、
       前田專学著「ブッダを語る」NHK出版)



NO.111   2008年     3月

痴呆を生きる

 おいとまをいただきますと戸をしめて
             でてゆくやうにゆかぬなり生は

                        斎藤 史(ふみ)

 この歌は、「痴呆を生きるということ」(小澤 勲 著 岩波新書 )の冒頭に
紹介されていました。
 (以下「認知症」とすべきところですが、著作に従って「痴呆」と表現させていただきます。)
 斎藤史さんの父は斎藤瀏といい歌人で軍人でした。2.26事件のとき少将でしたが、連座して位階を剥奪され下獄されました。そのとき彼女の幼なじみも処刑されたそうです。その後長い間世間から逆賊の娘とみなされながらも、歌人として活躍されました。史さんは平成14年93才で亡くなられましたが、その人生はそれだけではありませんでした。夫は病床、お母さんは目が不自由で痴呆がかかっている。その二人の介護に明け暮れて、このような歌を詠まれたのです。
 また、夫の死後、さらにお母さんの痴呆が深まります。そのときの歌、

 老い不気味 わが母そはが人間(ひと)以下の
                  えたいの知れぬものとなりゆく


 老い果てて盲母(はは)が語るは鬼語ならむ 
                  われの視えざるものに向かひて

 老い呆けし母を叱りて涙落つ 
            無明無限にわれも棲みゐて


痴呆がさらに重度になると、痴呆を病む人も、その人と向き合って生きる人もどちらも悲惨なたいへんな世界、無明無限の世界にすむことになります。
ところで、私たちはよく次のような会話をきくことがあります。
 「ぼけてしまえば、本人は何も分からなくなるのだから幸せですよね、まわりは大変でしょうけど」
 介護者する人の心身の負担はもっとも大きくなりますから、当然の言葉かも知れません。しかし、精神科医師で痴呆ケアに長年たずさわってこられた著者の小澤さんは「痴呆という病を抱かえて生きる生き方は人それぞれで、そのハンデキャップをもちながらも、一生懸命に努力している。」とおっしゃっています。
そして、執筆する思いを次のように書かれています。
 「痴呆の悲惨と光明をともに見据えるために、また、生と死の間(あわい)を生きるすさまじさと、その末に生まれる透き通るような明るさを伝えるために、この一文を書く。彼らに少しでも報い、彼らの思いを世に伝えるために。」
 老いは暮らしを営んできたいろんな力やいろんなものを当人から奪っていきます。失うということです。その喪失感は未来への不安を生み、特にしっかりしていた人ほど、心の中の困惑や混乱は大きいものがあります。そして右往左往しながらどこかへたどり着こうとする行動が、妄想や徘徊などの形になって現れるそうです。
また、痴呆初期では記憶障害や判断能力の低下などにより、「暗い穴に引きずり込まれる」「自分が消えていく」「私が壊れる」などと訴えられるそうです。その言葉だけで心の中の不安、困惑が分かるように思います。
 しかし、壊れるのは知的主体である「わたし」であって、情動を司る「わたし」ではないと小澤さんは強調されます。一つ一つのエピソードは記憶に残っていないのに、そのエピソードにまつわる感情は蓄積されていくようです。
 「何度言ったら分かるの」と叱責され続けても、それ自体は忘れてしまいますが、「周囲に自分はどのように扱われているのか」という漠然とした感覚は確実に残るそうです。
 また逆に、せっかく苦労して一緒に行った旅行から帰っきて、その直後に、本人が旅行に出たことさえ忘れてしまい、周りの家族はがっかりさせられることがあります。しかし、そのような心遣いは必ず本人の心に届き、蓄積され、彼らを支えるといいます。
 ケアの現場を通じて小澤さんは
 「痴呆を病む人たちのこころにケアが届けば、生き生きと暮らし始める。痴呆の程度が必ずしも改善するわけではないけれど、表情は見違えるほど活気に満ちたものになる。
 ・・・・・
未来への不安もなく、過去への執着からも抜け出して、今・ここを精一杯行き始める。彼らをみていると、ほとけの笑顔にであった思いがする。悟りの境地とさえ感じることもある。」とおっしゃいます。
 しかし、その悟りは脆(もろ)いもので、ケアのチームが変わったり、身体的な不調や痴呆の進行などで新たな課題をだかえると、ちょっとしたことで崩れてしまいます。 そしてまた、倦(う)まずたゆまずのケアが始まるのだそうです。
 冒頭の斎藤史さんもケアを通じて大変な苦労をされました。そのことは彼女の歌から十分推測されます。しかし、それでもなお史さんは次のように詠まれます。

 死の側より照明(てら)せばことにかがやきて
               ひたくれなゐの生ならずやも


 どんなにひどい状況にあっても、死という立場からすれば、その生は「ひたくれない」(すべてが紅)に輝いている、ということです。小澤氏は、「悲惨を見極めた者だけが到達できる清明な達観がここにはある。」とのべられています。
 小澤さんは最近、肺がんで命の限りが近いことを知らされたそうです。しかし、不思議に動揺もなく「わたし」へのこだわりが若いときよりなくなっているといいます。それは痴呆を病んだ人たちとともに生きてきたことで、つながりの結び目としての自分という感覚が、自分の残された生を支え、充実したものにしてくれているのだろうと感じておられます。
 そして、最後に次のような言葉が添えられていました。
「今、私はあるイメージを幻視している。それは、複雑にからみあったほとんど無限のつながりの網がある。このつながりは複雑なだけでなく、生き物のようにうごめき、一瞬一瞬変化している。一人ひとりはその結ぼれである。
  そのつながりの網は、生命の海とでもよんだらよいようなものに変幻す一人ひとりはその海を浮遊している。あるいは、一人ひとりは生命の海を分有して生きている。 無限の時間の流れの中で、一つひとつの生命の灯(ともしび)はふっと消え、海の暗闇に還っていゆく。その暗闇から別の灯が生まれる。潮流のうねりと蛍のように明滅する灯・・・」
 これを読んで、いつもの経文の一節を思い起こしました。
   
我此道場如帝珠 (がしどうじょうにょたいしゅ)
   わがこの道場は帝珠のごとし。
 帝釈天の宮殿には帝網(たいもう)とよばれる宝網が張りめぐらされていて、その宝網の結び目に珠玉がつけられています。それが帝珠です。それらが互いに映じあって、無限に反映しあっているといいます。これが現実の私たちの世界であるというのです

 




   NO.110   2008年     2月



御回在
 春の訪れと共に、当寺では御回在という行事がやってきます。
 御回在は融通念仏宗独特の行事で、本山から御本尊の十一尊天得如来像
持って、各末寺と檀信徒の家々をカーン、カーン、カン、カンカン・・・と
鉦をたたきながら回ります。3月~5月にかけて大阪の河内(かわち)地区を
回る「河内御回在」と、9月~12月の奈良大和地区を回る「大和御回在
があります。
先日ある会議の席上、「大和御回在」が紹介されているということで雑誌
ひととき」が回覧されました。次のような書き出しから始まっていました。
 「秋から冬にかけて、奈良の各地を回る七人の僧侶たち。
  鉦を叩き、ご本尊を担ぐ四人の禅門(ぜんもん 信者)を供に、
  集落を駆け巡り、信徒の家に飛び込むや猛然と読経して風のように
  去っていく・・・
。」
 この雑誌は新幹線グリーン車で配布されているもので、その2007年
12月号です。吉村暲英宗務総長のお話を木村克彦氏が記事にされたようです。
 そこには御回在の成り立ちから、現代社会における位置づけまで書かれてあり、
たいへん参考になりましたので、簡単に紹介させていただきます。
 天台宗の教えの中に、常行三昧という行があります。九十日間昼夜を通して
「南無阿弥陀仏」を唱えながら阿弥陀さんのまわりを回り続ける行です。そし
て満願の日に阿弥陀様が目の前に現れるといいます。平安時代末期、融通念仏宗
の開祖良忍上人大原の来迎院で念仏を唱えていると、阿弥陀様が現れ
    「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行
     是名他力往生 十界一念 融通念佛 億百万遍 功徳円満

と言う偈文を授かりました。
 一人がみんなのために、みんなが一人のために念仏を唱えて融通しあえば、
すべてが往生できる。今ここにいながら、そのままが幸せになれる教えです。
すなわち融通念仏とは、みんなの念仏が溶けあって一つになり、その功徳が
すべてのものにゆきわたるということなのです。
 当時、奈良や比叡山の大寺院は、荘園の百姓たちの反抗を押さえるべく
「僧兵」という武力集団を組織するなど、貴族と同じように権力に汚れてい
ました。良忍上人は、そのような俗世の比叡山から離れ、大原に修行の場を
移していたのです。いまこそ庶民に「南無阿弥陀仏」の念仏が必要だと感じ、
六十一歳で亡くなられるまで、鉦(かね)を鳴らしながら念仏勧進に諸国を回
られたのです。
 それから四百年後、1618年(元和四年)第三十六世法主 道和上人は、
徳川家康から、壇信徒の在所を回って融通念佛を弘める許可を得ました。それ
御回在の始まりです。だれもがみな南無阿弥陀仏と唱え、その念仏が相互に
融通してその足下に極楽浄土が生まれる。良忍上人の御心が形としてよみがえ
ったのです。
 それからさらに四百年近く経て現在の御回在となりました。その長い歴史の間
に、念仏勧進という本来の目的以外に三つの信仰が加わりました。
 その一つは自然現象に対する祈祷という要素です。それがやがて「お頂戴
と呼ばれる、一人ひとりの背中に如来さんを載せて「身体堅固 南無阿弥陀仏
と唱えながら祈祷する形になりました。何を頂戴するかというと、如来さんの
お力です。その力によって守っていただくということです。
 二つめはお祓(はら)い。井戸とかまど、つまり「水」と「火」のお祓いです。
この二つは自然からの恵みとして有り難く使わせてもらっていますが、時に暴れ
ると怖いものです。自然に対して感謝と畏怖(いふ)の念をこめてお祓いをする
のです。
 そして最後の三つめは先祖供養です。私たちは一人で生まれてきたわけではあ
りません。過去をたどれば数え切れないほどたくさんの人達の関わり合いとつな
がりで生を受けているのです。そしてご先祖を思う気持ちはまた、私たちの生、
さらには森羅万象(しんらばんしょう)生きとし生けるものの生を大切に思う心
につながるのです。
 このように御回在は、念仏勧進をもとの柱として、これら三つの要素が加わり、
宗派を超えた土着の風習として発展してきました。
 現在の御回在はご本尊の十一尊天得如来にちなんで、本山から十一人来られます。
むかしは末寺を泊まりがけで回られましたが現在はマイクロバスです。「禅門 
ぜんもん」と呼ばれる在俗の方が四名(如来さんを担ぐ人、鉦をたたく人、
寄進された浄財を預かる人、そしてバスの運転手さん)。 僧侶は七名。そのうち
ベテランが三名で、紫の衣を着ているのが「唱導師 しょうどうし」。行き先の
末寺でお勤めしたあとお説教をされます。黄色の衣は「目代 もくだい」で、御
回在を取り仕切る役をされています。そして会計をされているのが「収納 しゅ
のう」です。黒い衣を着たあとの四名は「僧中 そうじゅう」と呼ばれていて、
お勤めの戦力です。将来、各寺院の期待される若手でもあります。
 また、御回在の各家々でのお勤めは「お掛(か)かり」と「立回向 たてえ
こう」とがあります。お掛かりはご本尊のお軸を箱から出して掛けて広げます。
立回向は仏壇の前に立てかけて、僧中ふたりがお勤めをします。過去帳をざっと
読みあげて先祖回向、それから家内安全、除災与楽を祈願し、最後にお頂戴で終
わります。「シンタイケンゴ、ナムアミダブツ!」と。
                   
 良忍上人の「一人一切人 一切人一人」は、互いに支えあい融通し合ってこそ
私たちの世界が成り立ち、そして次の世も成り立つという教えです。家族も近隣
も社会も国も地球も同じです。いまの時代、見直されなければならない考え方だ
と言えそうです。 最後に吉村暲英総長が次のように締めくくられていました。
 「支えおうてこそはじめて人間がなりたっとる。これがほんとうの融通の姿や
  と。そや、ここに置いてあるコーヒーでいえば、ミルクと砂糖と、それぞれ
  はたらきがちがうものが一つに溶けおうてコーヒーの味がうまくでてくる。
  それが融通の姿やというんです。」
 3月10日(月)は道音寺の御回在です。今年は午前9時より各家々を回られ
ます。そして11時過ぎに本堂に入られ、御本尊を開帳してお勤めとミニ法話が
あります。お誘い合わせの上どうぞ御参拝下さい。




    NO.109   2008年    1月
環境元年
 さて、ある新聞では今年を「環境元年」と位置づけて環境問題を取り上げていました。
地球温暖化により来世紀には地球の平均気温は5.8℃上昇すると言われ、その状況下
では15~30%の動植物が死滅すると考えられています。また、台風やハリケーンの大型
化、洪水や干ばつなどの自然災害が多発し、その損害は世界大戦の被害に匹敵すると
言われています。ですから温暖化の元凶と考えられている二酸化炭素CO2の排出削減
は待ったなしなのです。京都議定書では、1990年を基準にして排出量の5%を2008年から
2012年までに削減するという目標が決まりました。そして各国の排出削減枠も決められ、
排出量の多い国や企業は、自前での取り組みが困難な場合、少ない国や企業から排出
権を買うことができるという制度もつくられました。
 その結果今年2008年から本格的に削減のための取り組みが始まるわけです。
ヨーロッパでは取引初日となった二日の排出権初値は、CO21トンあたり22.5ユーロ
(約3700円)だったそうです。1kgで3.7円になります。
私たちの消費生活の中でCO2がどれだけ排出されるのでしょうか。だいたいの目安とし
て、電気1kwhで0.36kg、ガス1m3で2.1kg、水道1m3で0.58kg、ガソリン1リットルで2.3kg、
燃えるゴミ1kgで0.84kgなどとなっています。日本の一世帯あたりの平均排出量は約5.5
トン(1年)と試算されていますが、皆さんのお宅はどうですか。
 地球は太陽など宇宙からの恵みを受け、地球の自然や生態系は無数の生物と無生
物とが互いに複雑に絡み合った微妙な関係のもとで成り立っています。 ところが今、
人間の生活が原因で、地球の歴史上まれにみる速さでそれが変わりつつあるのです。
その変化を完全に止めることはできないかも知れませんが、努力をすれば時間を遅ら
せることはできそうです。
 いま、世界の各地で紛争やテロが続発し、国内では行き過ぎた個人主義による諸問
題が発生しています。それらを考えると少し絶望的な気持ちになりますが、決してあきら
めてはいけません。エゴを捨て、一人でも多くの人が生活様式を変えようという意識をも
てば、便利で華やかな未来は無理かも知れませんが、心豊かな未来は期待できそうで

す。