NO.312  2024年   12月号

忘れてはいけません (朝日新聞 11月29日夕刊 記事より)

 今年、アニメ監督の宮崎駿さんは「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞を受賞されました。
この賞は、アジア地域で平和や社会のために尽力した個人や団体に贈られます。
 財団は宮崎監督のアニメ映画について「人間の在り方への深い理解を表現し、見る人に自省と思いやりを促し
ている」と称賛しています。(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB1638B0W4A111C2000000/)
 11月16日フィリピンのマニラで授賞式がありました。宮崎さんは欠席されましたが、「忘れてはいけません
という次のメッセージを送られました。
  
この受賞を機に、改めてフィリピンに思いをはせました。2016年、当時の天皇、
  皇后両陛下が、ここマニラを訪れ、マニラの市街戦に触れながら、命を失った
  多くの戦没者を慰霊しました。日本人は戦時中、ひどいことを散々したんです。
  民間人をたくさん殺しました。日本人はこのことを忘れてはいけません。
  ずっと残っていることです。そういう歴史がある中で、フィリピンからマグサ
  イサイ賞を贈られるということを、厳粛に受けとめています

フィリピンはもともとアメリカの植民地でしたが、太平洋戦争で1942年に日本軍が占領しました。1945年2月、
日本とアメリカがマニラで激しい戦闘を繰り広げ、日本軍による虐殺もあり、その影響で民間人10万人を含む
約111万人が亡くなったと言われています。戦争が終わってから日本に対する負のイメージを持つ人は少なくあり
ませんでした。
 日本との関係改善のきっかけは、エルピディオ・キリノ大統領が出した恩赦でした。1953年「日本への憎悪の
念を残さないために」日本人の戦犯105人を釈放・減刑しました。
 キリノ大統領の妻子は日本軍に殺害された過去がありますが、その怨念を乗り越えての決断でした。家族には
「自分たちが先頭に立って過去を赦そう」と語っていたといいます。おそらくキリスト教の精神が根底にあった
のでしょう。3年後戦争賠償協定が結ばれ国交も正常化しました。
 2016年当時の天皇、皇后両陛下がマニラを訪れたとき、「日本人が決して忘れてはならないこと」と話されま
した。
 私たちが忘れてはいけないことは、一つは「日本の愚かで残虐な行為」、もう一つは「フィリピンの怨念をこ
えた赦し」です。
法句経(ダンマパダ)の一説に次の句があります。
 
 実にこの世においては、
  怨みに報いるに怨みをもってしたならば、
  ついに怨みの息むことがない。
  怨みをすててこそ息む。
  これは永遠の真理である。

また、1951年サンフランシスコ講和条約が結ばれたとき、仏教国のスリランカの指導者たちもこの句を用いて
「戦争は終わったのだ、怨みに報いるに怨みをもってすることはやめよう」といって賠償の要求すらしませんで
した。

 言葉通りのことは難しく、勇気がいることかもしれませんが、日常生活の小さなことにおいても心がけたいも
のです。  
  


  NO.311  2024年   11月号

アショーカ王(1)
 アショーカ王は紀元前3世紀マウリア王朝三代目の名君といわれています。彼はインド全体を統一し、
また第三回の仏典結集(ぶってんけつじゅう 仏滅後、経典編集のための教団代表者たちの会合)を行う
など仏教を守護したことで有名です。
 そのアショーカ王のことについて『真理のことば』(岩波現代文庫)をもとに紹介します。
 彼は崇高な考えをもった君主でした。それを詔勅(しょうちょく 君主の考えを表した文書)として石柱
に碑文を刻み、各地に設置しました。
 いくつかの王国を征服しインド全体を統一したということは、敵味方の多くの兵士だけでなく、多くの
庶民も戦死しました。そして多くの悲しみが生まれました。 アショーカ王は最後にカリンガ国を征服し、
その戦争の結果を反省した次のような碑文があります。

  そこから〔捕虜として〕移送された人々は15万ほどの数である。
  またそこでは10万ほどの人々が殺され、その幾倍もの人々が死んだ。
  それから以後、今はカリンガ国はすでに領有されているから、熱烈な法
  の遵奉(じゅんぽう 教えなどを尊重して従うこと)、法に対する愛慕、
  法の教えさとしを王は行っている。
  それはカリンガ国が征服されたことについての王の悲嘆悔恨(ひたんかい
  こん)である。なんとなれば、以前には征服されていなかった国を征服す
  るならば、そこでは人々の殺戮、または死亡、または移送が起こる。
  それを王はいたく苦痛と感じ、また苦悩と思うのである。
 
  しかし、王がさらに苦悩を感じることは、そこに住するバラモンあるいは
  沙門(しゃもん 修行僧)あるいは他の宗教の人々、あるいは在家者であ
  って、堅固な信仰をもち、長者に対する従順、母と父に対する従順、恩師
  に対する従順、朋友・知己・同僚・親族および奴僕(ぬぼく 下男)・傭人 
  (ようにん 使用人)に対しても正しく接する人々が、その戦争で災害また
  は殺戮を受け、あるいは愛する人々と別離したということである。

 世間には出家している宗教家から世俗の人まで、そこには人間として立派な徳を実践していた人々がいまし。
アショーカ王は彼等を苦しめ、はては殺戮しました。その悪行を悔やんでいるのです。

 
  たとえ他人がわたしに害をを加えることがあろうとも、王にとって恕(ゆる)
  されるべきもので恕されうるものは、すべてこれを忍ぶべきである。

 「恕す」とは「思いやりの心で罪の過ちをゆるし、相手の思いを図ること」です。害を加えられても「恕す」
ということを実践しなければならないといっています。
 その後の碑文には、未開の少数民族でも大切に導き、平和を乱すものもできるだけ罰することのないようにしたい。
そして、人を傷つけないこと、自己を制すること、心が常に平静で柔和であること。これを統治に実現したいと
いうのがアショーカ王の強い思いだったのです。



  NO.310  2024年   10月号
  
  お十夜(十夜会じゅうやえ)
 いつも唱えているお経の中に七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)があります。
   
(七仏:諸々の仏   通戒:共通の教え)

  諸悪莫作 (しょあくまくさ)
  諸善奉行 (しょぜんぶぎょう
  自浄其意 (じじょうごい)
  是諸仏教 (ぜしょぶっきょう)

(もろもろの悪を為すことなく 諸々の善をすすんで行い、自らその心を清めなさい。これが諸仏の教えです)

 この偈文には次の逸話があります。
居易)が尋ねてきました。いつものように座禅する道林をみて「危ないぞ」と声をかけました。すると禅師は
「それは、そっちだ。煩悩が燃えさかっている。危ないぞ」と返したのです。むっとした白楽天は禅師を困らせ
ようと「それじゃ聞くがおまえさん、お釈迦様の教えとはどういうものかね」と問い質(ただ)しました。
 そこで道林禅師はこの七仏通戒偈を唱えたのです。白楽天は笑いながら「なんだ、そんな当たり前のことなら
三歳の子供でも知ってるよ」といって過ぎ去ろうとしました。すると樹の上から「ところがな、八十歳の老人で
もこれがなかなかできるもんじゃないよ」と言葉がかえってきました。白楽天もはっと自らをふり返りました。

 さすがの聡明な彼もちょっとしたおごりがあったのです。
人はなかなか煩悩から抜け出せません、いろんなわだかまりもあるでしょう。この世で煩悩に身をおく自分を知り、常に戒める気持ちをもつように説いているのです。 「悪しきをなさず、善きを行う」これはあたりまえのことです。行動がともなわなければなりません。煩悩まみれの世の中であるからこそ、「善きを行う」ことは価値があるのです。


 『無量寿経』のなかに次の一節があります。

 善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国土において善をなすこと、千歳にするに勝れり。
(この世で十日善いことをすることは、仏の世界で千年善を行うことより勝る)

 諸々の仏国土は、善をなす者が多く、悪をなす者はいない、自然に福徳が積まれ、悪を犯すことがない世界で
す。ところが、この世は悪があり、自然に善をなすなどということはなく、人々は苦しみ求めて次々に偽り欺き、心も体も苦しんで、苦を飲み、毒を食しています。それゆえ、この世で徳を積み、清浄な心で善を行えば、仏の世界で善を行うより何万倍もの価値があるのです。
(「浄土三部経 上」岩波文庫 訳注:中村 元、平島 鏡正、木野和義より )
 これがお十夜の法要の意味するところです。

 お十夜の法話の後は小豆粥をいただきます。

     


赤い色の小豆は古来魔除け、厄除けとして珍重されました。

また、小豆には次のような成分があり、すぐれた効能があります。

 食物繊維:便秘の予防

 カリウム:高血圧の予防

 サポニン:血中コレステロール値を低下    

 鉄分:貧血予防

 ポリフェノール:抗酸化作用、 生活習慣病の予防        
 
 ビタミンB群:疲労回復、冷え性改善

 タンパク質:身体の重要な構成成分

など、美容や体質改善にさまざまな効果があります。

 
    運び来る 僧みな若し 十夜粥 
                          
原 石鼎
(せきてい)

    渋色の 袈裟きた僧の 十夜哉
                          
正岡子規




 
NO.309  2024年   9月号
  
 真理を喜ぶ人(賢き人)
 7月号「愚かな者」の続きです。同じく、中村元『
真理のことば』岩波現代文庫より『ダンマパダ』
の詩を紹介します。
 
 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまう真理
 を、賢者はつねに楽しむ。
  水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯正し、大工は木材を正
 しく削り、賢者は自己をととのえる。

  一つの岩の塊が風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。
  深い湖が、澄んで清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかで
 あるという。
  真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を
 超えて、彼岸に至るであろう。

  悪いことをしたのならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重
 なるのは苦しみである。
  もし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善が積み
 重なるのは楽しみである。

  おのが感官を鎮め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人――このような境地に
 ある人を神々さえも羨(うらや)む。


 賢き人はどういう人かを述べています。真理を求め、心が清らかで静かであり、何事にも動じず、
悪事から離れ善を行う人と説いています。
 しかし、詩の中にも「神々さえも羨む」とあるように、最初から完璧に清廉潔白な人はいないとい
うことでしょう。人は誰でも間違いや失敗を犯します。間違いや失敗は他に迷惑をかけたり何らかの
支障に繋がるかもしれませんが、決して負の出来事ではなく人生における「経験」です。成長の糧に
なるものです。よき指導者よき友はそれを理解しているはずです。
 ただ、今世界のいたるところで戦争や殺戮が行われています。
『ダンマパダ』は最大の罪悪について次の詩を残しています。

  
すべての者は暴力におびえる。すべてにとって生命は愛(いと)しい。
  おのが身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ





  NO.308  2024年   8月号

 
 お盆と夏安居(げあんご)
 お盆の行事は『盂蘭盆経』の目連尊者(もくれんそんじゃ)の故事によるもので、餓鬼道で苦しむ母を
救うため、七月十五日に夏安居の修行が明ける僧侶達を飯食(ぼんじき)などで供養することから始まり
ました。
 インドの古い時代、雨期は多くの虫などが活動する時期でもあり、托鉢など外での活動は無為な殺生を
してしまいがちです。僧侶達は外出しないで、一定期間寺院などに籠もって修行しました。その修行を夏
安居といいます。その修行の明けるのが七月十五日です。
 一方、中国では古くから七月十五日に中元節という伝統行事がありました。
(一月十五日に上元節、十月十五日に下元節がありました。上元節は春節といって有名です。)中元節は
日本の「お中元」のもとになっていますが、中国では冥界の門が開き、死者の霊が家族のもとに帰る日と
されています。そこで家族は墓参りをし、亡き人の霊を家に迎えて飲食(おんじき)などをお供えして供
養します。
 また、弔う家族がいない無縁の魂を救うために灯ろうに火を灯して川に浮かべます。水の中は陰の世界。
灯ろうの火は無縁の魂が地上の陽の世界に戻るための寄る辺となるのです。同じ七月十五日の盂蘭盆経に
由来する仏教行事と中元節の道教の行事がいつしか習合して日本に伝えられたと言われています。先祖の
霊だけでなく、三界萬霊も供養します。
 
    
   https://y.sapporobeer.jp/culture/2022062301/

中国を経て日本に伝わり、現在も多くの宗派で夏安居の修行が行われています。
 本宗でも7月24日から30日の一週間、新僧侶達のために夏安居を実施し、
融通念佛宗の僧侶としての素養を身につけ、そして僧侶としてのあるべき姿を学びます。
 一日の始まりは、午前五時の起床。身を清めて朝の勤行、そのあと祖師の参拝、諸堂参拝があり、七時半頃に朝食となります。

     
                 勤行
              
     
                祖師参拝

     
               諸堂参拝

      
                食事

 勤行は十時に日中勤行、午後三時に日没勤行。約一時間から一時間半のお勤めです。
 食事(三食)の後は少し休憩をはさんで講義や講習があります。宗の歴史や教義、
 作法などを学びます。
  また、食事の時は食時作法(じきじさほう)があります。自然の恵みと多くの
 「おかげ」に感謝する偈文などを唱えて、静かに食事が始まります。
  人間もふくめこの世に存在するすべてのものは網の目のように繋がっていて、良く
 も悪くも互いに関わり合いを持って生きています(共生の世界)。そんな世の中だか
 らこそ、この修行を通じて他者のことを思いやる僧侶になって欲しいと願います。
 
 

 NO.307  202
4年   7月号

愚かな人
 中村元『真理のことば』岩波現代文庫より『ダンマパダ』の第五章「愚かな人」の詩を紹介します。

  眠れない人には夜が長く、疲れた人には一里の道は遠い。
  正しい真理を知らない愚かな人には、生死の道のりは長い。
  愚かな人は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。
  匙(さじ)が汁の味を知ることができないように。


 複雑化した現代、真理を見極めることが難しくなっています。ネット上ではいろんな情報や
いろんな立場での意見が氾濫しています。そして自分の考えに合う情報や意見だけを選んで
物事を判断しがちです。偽情報が真実になってしまったりします。ゆくゆくは社会の分断に
つながりかねません。偏らない冷静な考えを持つことが大切です。

 悪事をしても、その業(ごう カルマ)は、絞りたての牛乳のように、
すぐに固まることは無いが(いずれ堅く固まってしまう)、灰に覆われた火のように、
〔徐々に〕燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。

 最近、日本の企業において不正が発覚しています。
 また、それが十数年続いていたことには驚かされます。
「made in Japan」は信頼の代名詞だったのですが、それを打ち消すようなことが起こっています。
 「これぐらいなら 影響ないだろう」と考えて、一度検査を省略したり、書き換えたりするうちに、
それが常態化して後戻りできなくなってしまうのです。
 僅かなことにも気を配り、少数意見にも耳を傾けることが大切です。





NO.306  2024年   6月号 

 つとめはげむこと
 
『ダンマパダ』の第二章より

 
 つとめはげむのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。
  つとめはげむ人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

  このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとみ
  はげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

 
 (道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある
  人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。

  心は奮い立ち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し
  法(のり)にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。

  思慮ある人は、奮い立ち、つとめはげみ、自生・克己(こっき)によって、激
  流もおし流すことのできない島をつくる。

  ・・・・・・・・・・・

 
 
この世に人としてどのように生きていけばよいのか。「自分のすべきことを考え、自覚し、
つとめはげみなさい。なんとなくただ生きていくのは意味の無いことだ」と言っています。
欲望、煩悩を振り切って、自分の目的に向かって努力することが、幸せにつながるということ
なのです。
 しかし、そのように「つとめはげむこと」ができる強い人は、ほんの一握りかもしれません。
多くの人は煩悩やいろんな悩みのなかで生きています。解決できない問題を抱えている人もい
ます。
 なぜ人は生まれて、生きて行かなければならないのか。そして人は「生きる意味」「生きる
目的」を見つけようとします。
 精神科医で作家の樺沢紫苑(かばさわ・しおん)さんは「『人間の真の存在意義』を人間は
知ることはできない。生きる意味を探求するのが人生。生きる意味を求めて、思索を深め、行
動し、苦悶することにこそ意味があります。 そこには、必ず自己成長が起きるからです」と
おっしゃっています。
 また、機械を動かす部品に少しの遊びがあるように、人の心にも遊びが必要です。きちきち
に造られた部品では機械は動きません。人の心も同じです。心に余裕がないと、いつか動かな
くなってしまいます。そして、一人で悩まないで、誰かに助けてもらうこと、話を聞いてもら
うことも必要です。
 融通念仏の教えに「一人一切人 一切人一人」とあります。私たちは一人ではありません。
そばに支えてくれる人たちがいます。英語でも「One for all All for one」とあります。
 悩み苦悶しながら、少しの余裕ももって、苦しいときは他人に頼ることも、そして力一杯
「つとめはげみ」ましょう。




NO.305  2024年   5月号


ものごとは心にもとづく

 原始仏教聖典のうちで『ダンマパダ』という経典があります。最もよく知られた経典で、私たちが生きていうえでの心構えや指針が示されています。古代インドのパーリ語という口語的な言語で書かれているため、一般庶民には分かりやすい経典だったようです。
 「ダンマ」は「真理」とか「生きる道筋」、「パダ」は「ことば」という意味があります。中国ではそれぞれ「法」、「句」と漢訳され、経典としての意味を付け加えて『法句経』と言われました。
 その中のいくつかを紹介します。

 最初に次の「ことば」があります。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
 もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
 車を引く(牛の)足跡に車輪がついて行くように。
 
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
 もしも清らかなこころで話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
 影がそのからだから離れないように。

 「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われを害した。
 かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」という思いをいだく人には、
 怨みはついに息(や)むことがない。

「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われを害した。かれは、われにう
 ち勝った。かれは、われから強奪した」という思いをいだかない人には、
 ついに、怨みは息む。
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、
 ついに怨みの息むことがない。
 怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。


 
心の持ち方で世の中の姿が変わってしまうということです。
 物事を肯定的に捉える人は、何事にも積極的で他人のために尽くす人です。その結果周りの人から信頼され、良い人間関係を築くことができます。充実した幸せな
人生を送ることができるでしょう。
 反対に、自分の利益だけを第一に考える人は、信頼されず人間関係も悪くなるでしょう。何事にも否定的になって、結果的に幸福感を味わうことのない人生となるでしょう。

 「われらはこの世において死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。このことわ
 りを他の人々は知っていない。
 しかし、人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。

 たとえ、ためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その
 人は怠っているのである。―――牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修
 行者の部類には入らない。

たとえ、ためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、
 情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの
無い人は、修行者の部類に入る。

 「失敗は成功のもと」や「トライ アンド エラー」という言葉があります。
失敗や良くないことがあっても、力を尽くせばいずれそれが何かの糧になるでしょう。
         (
参考と引用:中村元『真理のことば』岩波現代文庫より


NO.304  2024年   4月号


六方を拝する(6) (中村元氏の岩波現代文庫『真理のことば』より)

 最後に上方は修行者とバラモンです。バラモンとは祭司のことで、インドの身分制度のなかで最高位にあたります。今回は宗教家に対する心構えです。
 ブッダは言います。

 良家の子は上方に相当する修行者・バラモンとに奉仕すべきである。
   ⑴ 親切な身体の行為
   ⑵ 親切な口の行為
   ⑶ 親切な心の行為
   ⑷ 門戸を閉ざさぬこと
   ⑸ 財物を給与すること

 宗教家(修行僧・バラモン)に対しては常に親切な態度で接することを説いています。
 「身体の行為」とは行動で示すこと、「親切な口」とは丁寧で優しく話をすること。
 「心の行為」とは目や耳で感じることではなく、常にに尊敬の念をこめて接することです。
 ⑷はどんな時も、常に⑴~⑶の心得で出迎え、受け入れるということです。
 ⑸は布施して宗教施設を守り、宗教者の生活を支えることです。

 これに対し宗教家についてブッダは

  修行者とバラモンは、次の仕方で良家の子を愛するのである。すなわち、
  ⑴ 悪から遠ざからしめ
  ⑵ 善に入らしめ
  ⑶ 善い心をもって愛し
  ⑷ 未だ聞かないことを聞かしめ
  ⑸ すでに聞いた事柄を純正ならしめ
  ⑹ 天への道を説き示す

 宗教家は、良家の子が悪に染まらないよう、善の方向を指し示し、愛をもって善の心で指導します。
 ⑷知らないことを教え ⑸知っていることも間違いの無いように教えます。
 当時、善を行うことによって天の世界に生まれると信じられていました。そのため、⑹宗教家は良家の子を天の世界に導かれるよう教え諭します。

 以上六つの人間関係に於いて、人として為すべきことを実践し、六つの方向に思いを込めて礼拝することを示しました。形式的に方角を拝むのではないと諭したのです。



NO.303  2024年   3月号

六方を拝する(5)
 東、南、西、北と続いて、次は下方を拝します。第5回目は下方の使用人です。

 主人(雇い主)の使用人に対する心構えです。(中村元氏の『真理のことば』より)

   次のしかたで下方に相当する使用人に奉仕しなさい。

  ⑴ 能力に応じて仕事をあてがう
  ⑵ 食料と給料を与える
  ⑶ 病時に看病する
  ⑷ すばらしい珍味の食物を分かち与える
  ⑸ 適当な時に休息させる

 使用人に対しても奉仕の心を持ちなさいと言っています。雇ってあげているというのではなく、

人として対等な立場で接することです。

 ⑴は人の長所をよくみることです。その人の能力を見極めて仕事をしてもらうのです。

使用人にとってはやり甲斐が生まれます。

 ⑵については当時は食事付きの住み込みがほとんどだったでしょう。カーストという階級制度がありましたから、

場合によっては粗末な食事で給金もないところもあったかも知れません。

 ⑶⑸は現在では労働者を守る法律として労働基準法や労働安全衛生法があります。

しかし、現在でも雇用主の利益のためそれを無視したようなブラック企業があります。

当時にしてはブッダは画期的なことを言っています。

 ⑷は会社持ちで忘年会やリクレーションをすることではないでしょうか。

 このような気持ちを使用人に向ければ、彼等もそれに応えてくれるでしょう。

大きな組織になると難しいかも知れませんが、社員は家族であるという社風が大切です。

それが偽りのない信頼される会社だと思います。


NO.302  2024年   2月号

六方を拝する(4)

 アーカイブのお話で中断しましたが、方角を礼拝する心構えをお話ししていました。

東方は父母、南方は師、西方は妻、配偶者でした。

 第四回目は北方の友人や同僚です。(中村 元『真理のことば』より)

   次のしかたで北方に相当する友人や同僚に奉仕しなさい。
  ⑴ 施与(せよ)する
  ⑵ 親しみのあるやさしい言葉をかける
  ⑶ 人のためにつくす
  ⑷ 協同する
  ⑸ 欺かない


  ⑴の施与は布施のことです。自分の持っているもので友人や同僚にとって有益なものを与えることです

自分だけのものにしないで皆に分かち与えることです。

 いつかまた自分に返ってくる。他を利することはめぐり巡って自分を利することにつながるのです。

  ⑵は「愛語」と呼ばれています。人に愛情のこもった言葉、心のこもった言葉をかければ、

その人は明るくなり、元気になり、やる気が起こります。

  しかし、嫌がらせの言葉では気分が悪くなり、落ち込み、自信を失ってしまいます。いわゆるハラスメントです。

  ⑶は「利行(りぎょう)」といいます。人のために尽くすことです。⑴の施与は「与える」ですが、

利行は与えるだけでなく積極的に「行動する」ことになります。

  ⑷は「ともに心と力をあわせ、助け合って仕事をすること(広辞苑より)」です。

協同体とか協同組合などという言葉もあります。仏教ではこれを「同事(どうじ)」といい、

⑴の「布施」、⑵の「愛語」、⑶の「利行」をあわせて「四摂事(ししょうじ)」といって重んじています。

  ⑸の「欺かないこと」とは真心をもって誠実に人と接するということです。

  そして、⑴から⑸のような接し方をすれば、仲間から次のようなときに力になってくれます。

   *無気力になったとき 
   *生活が苦しくなったとき 
   *怖い思いをいだいているとき
   *逆境に陥っているとき


 など、いつでも救いの手を差し伸べてくれます。

   このようにして、北方は護られ、安全であり、心配がない。




NO.301  2024年   1月号

先月号につづき2000年1月号を紹介します。

1999年から2000年に移るこの年は、コンピュータに登録されている年代が下2桁である場合、

いろんな障害が発生するのではないかと言われ2000年問題と言われていました。

アーカイブ2

 心配された2000年問題も、大きな混乱もなく無事に収束したようです。

 そして、 1900年代は過去のものになってしまいました。その1900年代の前半には大きな世界大戦が

二度あり、 戦中戦後の日本にとっては非常に悲惨な苦しい時代でした。

 今の物質的に恵まれた世の中からは理解できないかもしれません。

 その後、日本人の勤勉さにより荒廃した国土は奇跡的な復興をとげました。科学技術の爆発的な進展も

あいまって、物質的に豊かな、GNP (国民総生産) が世界一の国にもなりました。

 アポロによる人間の月面着陸のニュースなどからも、「2001年宇宙の旅」 も夢ではありませんでした。

世の中が将来に向かってどんどん進んでいき、 人間の知恵は自然を超越できるかのごとく、みんなが挑戦的な

前向きな時代でした。

 そのころ私達は何かを忘れていたのではないでしょうか。 夜空から天の川が消え、 都会では星は数えるほど

になりました。 田圃は消え、池にメダカやあめんぼうの姿もなくなりました。1900年代も終わりに近づいて、

やっと自然の異変に気がついてきたのです。

 また、民族や宗教の衝突で各地で今もなお絶望的な悲惨な闘いが続いています。

2000年代は、当初から悲観的な難しい時代の予感があります。でも、未来への夢や希望を捨ててはいけません。

宗教や民族の違いはあってもそれぞれに特有なすばらしいもの持っています。 互いの交流のなかで影響を受け

ながらも、それぞれ独自のものを育ててきました。 独自性を過度に強調しすぎると危険ですが、それを互いに尊重し

助け合って、調和共存していくことが大切なのではないでしょうか。

 さらにそれは人間と自然との関係においてもそうです。 最近「共生」という言葉をよく耳にしますが、 2000年代は

まさに 「共生」がキーワードとなるでしょう。 般若心経の中のよく知られた 「色即是空、空即是色」 は、 そのことを

いってるのではないかと勝手に解釈しています。

 人間は元来煩悩や苦悩をもっています、 それは永久に無くならないでしょう。 しかし、それがあるからこそ宗教や

芸術が生まれ、すばらしいものをつくりあげてきました。

 地球の上で人間は決して破壊的な、悲観的な存在ではないと思います。