更新2023/12/5


 

松 燈 だ よ り

                   戻る

   <令和4年度>  <令和3年度>  <令和2年度>   平成31年度、令和元年

   <平成30年度>   <平成29年度>  <平成28年度>   〈平成27年度〉 

   <平成26年度>   <平成25年度>  <平成24年度>   <平成23年度> 

   <平成22年度>   <平成21年度>  <平成20年度>

NO.300       2023年         12 月

  松燈だよりは今月でNO.300となりました。松燈NO1は1999年(平成11年)の正月号でした。

それからまる25年となります。そこでアーカイブの記事を紹介しようと思います。

 まず松燈NO1(1999年 平成11年)より

先日NHKテレビで「ブッダ」を再放送していました。 その中で、中国のある地方を取材していました。

そこは「円楼(?)」という円形で数階建ての集合住宅があり、数百世帯がその中で共同生活をして暮らしています。

     
   (円楼の画像は https://skyticket.jp/guide/104739/ より)

 中庭には観音菩薩がおまつりされています。それは人々の心のよりどころなのです。

 文化大革命の時、宗教が否定され、 仏像などは破壊されました。そのとき人々は、必死の思いで、

観音様を隠したそうです。 あるとき紅衛兵がやってきて、 仏像のありかを尋問しました。

すると住民は「隣がもっていった」 といったそうです。そのつぎの隣人が尋問されると、

同じく「隣がもっていった」と答えます。 このように、 同じ答を次々と繰り返すのです。

円形の住宅ですから、 ぐるっとひと回りして結局どこにあるか分からず、 紅衛兵はあきらめて

去っていったそうです。

 円楼の人々は互いに心を一つにし、心のささえとなっている観音様をお守りしたわけです。

観音様を中心にしたこの円形住宅は、慈悲の心をよりどころに隣同士が助け合って、

ひとつの小社会をつくっています。

 番組は最後に次のことばで締めくくっていました。

「他人(ひと)を救うことは、自分が救われることに通じる」と。

 そして老いた人や病んだ人を、 そして困っている人を、さらには自分たちのご先祖を大切にすることは、

ゆくゆくは自分たち自身が大切にされることにつながります。

まさしく仏教の教えが、いまでも自然に実践されているのです。

 昨今、世の中は不景気や信じられない事件などで、暗い世紀末の様相を呈しています。

しかし、この世の中だからこそ、 慈悲のこころをもとにしたこの教えが大切なのではないでしょうか。


NO.299       2023年         11 月

 六方を拝する(3)  
 西方を拝するのは妻への感謝です。中村元『真理のことば』によりますと夫婦の心構えが述べられています。

    実に夫は、次の五つのしかたで、西方に相当する妻に奉仕すべきである。
   すなわち、
   ⑴ 尊敬すること
   ⑵ 軽蔑しないこと
   ⑶ 道を踏み外さないこと
   ⑷ 権威をあたえること
   ⑸ 装飾品を提供すること
  西方に相当する妻はこれらの五つの仕方で夫に奉仕されるのである。


  ⑴ができれば必然的に⑵もできるでしょう。これは妻だけでなく誰に対してもすべき心構えです。

 身分や人種などによって態度を変え、時には荒々しい声や蔑む言葉を発したりする人がいます。

 そのような人は逆に品格が問われ軽蔑されるでしょう。

  ⑶は他の女性との関わり方をいいます。浮気をすることだけでなく、

 当時は他の女性と二人っきりになる行動もだめなのです。

 ⑴⑵ができているなら、妻を心から愛しているということですから、⑶も必然的にできているでしょう。

 ⑷は妻の言うことを頭ごなしに否定するのではなく、意見を尊重しある場合には主導権を与えることです。

 ⑸については、ただ装飾品をプレゼントするということではありません。

 当時銀行というものはなく、非常のときにお金に換えることができる装飾品が必要でした。

蓄財なのです。それは南アジアの人々にとっては今でも同じです。

ですから、妻にも財産を与えることにつながります。つまりは、物心両面で妻を支えなさいということです。

 これに対して、妻は夫をどのように愛するか。

   すなわち妻は
   ⑴ 仕事を善く処理すること
   ⑵ 眷属(けんぞく)※をよく待遇すること     ※親族のこと
   ⑶ 道を踏み外さないこと
   ⑷ 集めた財を保護すること
   ⑸ なすべき事がらについて巧妙にして、また勤勉であること。
   西方に相当する妻は、これらの五つのしかたによって夫から奉仕され、
   またこれらの五つのしかたで夫を愛するのである。
  このようにして、かれの西方は護られ、安全で、心配がない。


  ⑴について、当時のインドなどでは家の仕事を一緒にしていたことが多く、

 夫の仕事を手助けすることが妻の重要な仕事でした。

 ⑵は親族や仕事仲間など人々を気持ちよくもてなし、お付き合いをすることです。

 ⑶は夫の場合とおなじです

 ⑷は、蓄えた財産を無駄遣いせずにしっかり管理することです。

 ⑸については、つまは勤勉にそしてしっかりしていなさいということでしょう。

  夫も妻もお互いに尊敬し感謝の気持ちを持ち続けることが大事なのです。

 それがあれば他のこともうまくいくに違いありません。夫婦円満の秘訣でしょう。

 
NO.298       2023年         10 月

 六方を拝する(2) (参考と引用中村元『真理のことば』監修:前田專學)

  ブッダはシンガーラに六方(東西南北と上下)への礼拝の意味を説いていました。

先月、東方は父母のことでした。父母と子供が互いに守るべきことを説かれました。

 次に南方は師すなわち先生を意味しています。

ブッダは先生に対して弟子が奉仕するべきことを説いています。

 ⑴ 座席から立って礼をする。
 ⑵ 近くに侍する。
 ⑶ 熱心に聞こうとする。
 ⑷ 給仕する。 
 ⑸ 敬って、礼儀正しい態度で教えを受ける。

 ⑴については日本をはじめアジアの国々では古くから行われていました。        

 しかし、これは強制するべきものではなく、師を尊敬し信頼する心から自然に生まれてくるものです。

 現在、学校では「起立」「礼」は無くなっているのではないでしょうか。          .

 ⑵について、 ブッダの時代には弟子は師の家に住み込みで教えを受けていました。

 ⑶は言葉の通り、真面目に勉学に励むことです。                     .

 ⑷について、弟子は住み込みで学ぶため折々師の世話をすることになります。    

 ⑸は師を信頼し尊敬することが第一で、そこから教えを受ける態度が決まります。  .

 次に師は次のように愛をもって弟子を導きます。

   ⑴ 善く訓育し指導する。
   ⑵ 善く修得したことを受持させる。
   ⑶ すべての学芸の知識を説明する。
   ⑷ 友人朋輩のあいだに彼のことを吹聴する。
   ⑸ 諸方において庇護する。
 
 ⑶について、ブッダ以前では奥深い教え(奥義)は特定の弟子にしか伝えませんでしたが、

 ブッダは師が知っている知識をすべて弟子皆に伝えるといっています。          .

 ⑷は友人や同僚に「しっかり者だよ」と言って褒めることです。              

 ⑸はどんなときでも弟子を守ってあげる。                           .

 現在、最大の師弟関係の場は学校ですが、残念ながら今はいろんな問題を抱えています。

 先生は、校務、会議、PTA、教材研究、授業の準備やそのIT化等をこなしながら、

 個々の生徒を見ていかなければなりません。

 その上教師志望者の減少やそれに伴う教員不足はさらに先生の負担を大きくするでしょう。

 その中で生徒一人一人を見守っていくには大変な努力が必要になります。

 特に教育現場は将来の社会を担う若者を育てる場です。

 生徒と向き合う十分な時間を確保するため、先生のそれ以外の負担を軽減できるように

国や周囲の組織が理解と協力をしていかなければなりません。

 信頼できる先生であれば、生徒の⑴から⑸の奉仕は自ずと生まれるでしょう。



 NO.297       2023年         9 月

六方を拝する(1) (参考と引用中村元『真理のことば』監修:前田專學)

 ブッダの教えの中に『シンガーラへの教え』があります。

人々の実生活における指針や倫理を述べたものです。

シンガーラはあるりっぱな資産家で、由緒ある家系を継承した人物です。

 あるときブッダはシンガーラが意味なく六方を礼拝しているのを見ました。

六方とは東西南北と上方(天)と下方(地)です。

インドでは古くから方角を拝む習慣がありました。

 ブッダはシンガーラにそれぞれの方角の意味を説明し、なぜ拝むのかを教えました。

「六つの方角とは次のものであると知るべきである。東方は父母である。

南方はもろもろの師である。西方は妻子である。北方は友人や仲間である。

下方は使用人である。上方は修行者・バラモンである。このことを知るべきである。」

そして、ブッダはその一つ一つについて守るべきことを詳しく説明しました。

 まず、父母と子の守るべきこと

 「子は次の5つによって東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。」

「われは両親に養われたから、           .
  ⑴ かれらを養おう             .
  ⑵ かれらのために為すべきことをしよう
  ⑶ 家系を存続しよう            .
  ⑷ 財産を相続しよう            .
  ⑸ 祖霊に対して適当な時々に供物を捧げよう

これらの仕方によって子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである」

 「また父母は、5つのしかたで子を愛するのである。
  ⑴ 悪から遠ざけ
  ⑵ 善に入らせ .
  ⑶ 技能を学ばせ
  ⑷ 良き妻を迎え
  ⑸ 適当な時期に相続をさせる」

  このように父母は子を愛するのである。そうすれば、東方は護られ、安全であり、心配がない」 

 これらは古い時代の教えですから、今の時代では違和感があるかも知れません。

結婚や出産などは個人の意思が尊重されます。

  しかし、いい子に育ってほしい、結婚して幸せな家庭を築いてほしいとどの親も思っているはずです。

なのに親と同じほどの年代の人をねらった詐欺行為や、また子供に対する暴力行為が頻発しています。

悲しいことです。 そういう人達こそ東方が父母であることを知って、形だけでも拝んでほしいものです。



NO.296       2023年         8 月

  迎え火・送り火

 盆の一連の行事の始まりは霊(たま)迎えです。

もちろんそれまでに仏壇の前には盆棚を準備しておきます。

 一般には霊迎えは13日の夜に、玄関先やベランダで迎えの目印になるように、

ほうろくなどの陶器の皿や金属製の器などの上でおがらを燃やします。

 霊送りは15日または16日の夜に送り火を迎え火と同じように焚きます。

 
        迎え火・送り火

  しかし近年は、特に都会の生活環境のこともあり迎え火や送り火を焚くことはまれになりました。

 もともと霊迎えや霊送りは墓地まで足を運んで行われていたようです。

現在でも墓地に僧侶を招いて経をあげてもらう地区が少なからずあります。

 柳田國男著『年中行事覚書』(講談社学術文庫)p161、162には次のようにあります。

  ○ 魂迎えの夕の墓参りに、必ず燈をともして行くということも、
   単に精霊の路を照らすためのみではなかったらしい。
    土地によっては今はほとんど何の理由かも忘れてしまっている。                             
      ・・・(略)
    新仏は墓地を去ることがむつかしいから・・・(略)幼い考え方ではあるが、
   参る人が伴のうて還るという古い信仰を保存しているかと思う。      .

  ○ だからこの黄昏に、まず石碑の前の燈籠を点じ、その火を提灯に移して家に持ち来り、
   中の灯をこれに改めて、盆の間だけ消さぬようにするという仕来りには意味が深く、
   仮にこの明りでお出やれお帰りやれと言うことに、今はなっていても、本来の火の光に対する
   我々の考えは別であって、やがて、日を拝みまた雷火を崇信した古い神道と、筋を引いて
   遠く火の発見の時代まで遡って行かれるものであるかも知れぬ。                     


  個人的な考えですが、仏教以前の風習もあり、炎は人の魂を象徴しているように思います。

  墓地でロウソクに火をつけ、その火を持ち帰り盆棚に明かりを灯す。

  これは家族のいる家に祖霊をまさに迎え入れる儀式です。

  また、送り火は焚き上げることによって魂を広大無辺の自然に還す意味をもっているのでしょう。
 

    むかひ火や 父のおもかげ 母の顔
                                 加舎白雄(かやしらお)



NO.295       2023年         7 月

四無量心
 
自分自身が幸せを感じているとき、人の幸せな様子をみると微笑ましく思います。

反対に落ち込んでいるとき、幸せな人を羨ましく思います。しかたがないことですが・・・。

仏典では「一切の有情(うじょう)は幸せであれ」とあります。有情とは人々のこと。

自分がどのような状況にあっても人の利になるようにしなさいということです。

利他行です。それには4つの心で人と接します。それは「慈」、「悲」、「喜」、「捨」の心です。
 
        「慈」は人が利となるよう、幸福になるようにすることです。
 
        「悲」は人の不利益や苦悩を取り除こうとすること。
 
        「喜」は人の喜びや幸福を心から喜ぶこと。

        「捨」は自分が不遇のときでもそれを捨てて人の幸せに共感し「喜」の心をもつことです。           .

自分の利益を捨ててでも人の幸せを願う心。これが一番難しいでしょ う。

「無量」の意味はここにあると思います。この4つの心によって自身も救われるといいます。


NO.294       2023年         6 月 
 
幸せについて

 先月はブッダの「こよなき幸せ」について説明しました。

 仏教に関係なく幸せについての著作はいくつかあります。

その中でバートランド・ラッセルの『幸福論』がよく知られています。

 バートランド・ラッセルはイギリスの数学者であり哲学者であります。

またアルバートアインシュタインと共に全ての核兵器およびすべての戦争の廃絶を

世界の科学者に呼びかけました。

それにより反核、半戦争のパグウォッシュ会議が設立されました。

 さて、ラッセルの『幸福論』は原題が『The Conquest of happiness』(幸福の獲得)となっています。

岩波文庫の安藤貞雄訳『ラッセル幸福論』よりその内容を簡単に紹介します。

 対象としているのは不幸に苦しんでいる普通の一般人です。

普通というのは不幸の原因が戦争や自然災害など個人では解決できない特別なものをいいます。

本書は哲学書ではなく、日常の不幸に対してどのように対処すればよいかを提案しています。

 人の不幸の原因は内向きの自己に対する興味(自己没頭)から生じると考えられます。

その典型として三つのタイプをあげています。

 一つは「罪の意識にとりつかれた人」。

教訓や道徳が頭の中に埋め込まれ、罪の意識が無意識に現れます。

○○はよくない、△△はよくない・・・はよくないと、

自分が欲する快楽は自己を堕落させるものと思ってしまう。

その結果生まれる自分の態度をさらに後悔してしまう。

想像上の罪と現実の後悔の堂々巡りに陥ります。幸福に至る第一歩は「美徳」というモラルからの解放です。

 二つ目は「ナルシシズム」です。

自己を賛美し、人からも賛美されたいと願う気持ちは誰にでもあります。

それが度を過ぎれば「ナルシシズム」になります。

 自分自身にしか興味をもたず、仕事に対しても本来の目的や成果には関心が無く虚栄心で動きます。

その結果周りの信用を失うことになります。

 ラッセルは、これを治すには自尊心を育てること。

そして客観的な興味に刺激された活動を立派にやり遂げることだと言います。

自尊心とは他者からの評価ではなく、競争心や比較でもなく、

自分自身を受容し肯定的に自分を評価する心です。

 三つ目は「誇大妄想狂」です。

恐れられることを望み、権力を持つことを望みます。

権力欲も人の正常な欲の一つです。これも度を超すと人を不幸にし、

権力の存続のため自分自身は孤立し、その地位を奪われないか常に不安に悩まされます。

 
心理的な不幸の原因は多種多様です。

しかし、どの場合も自分の情熱と興味が内に向いているということです。

その自己の殻に閉じこもる情念とは、

「恐怖」「ねたみ」「罪の意識」「自己への哀れみ」「自画自賛」などです。

 幸せを感じる人は「客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人」です。

自由な愛情とは、束縛されない無意識の愛情です。

それは結果的に愛情や幸福感が返ってくるでしょう。

見返りの愛情を求めるような打算的なものではありません。

 ラッセル自身、思春期に自殺を考えたこともあったようです。

それを思いとどまらせたのは「数学」への愛情という外への興味だったと語っています。

 そして仏教でも大切と考えられている「中庸ちゅうよう」を取り上げ、

バランスを守ることも必要だといっています。それは「努力」と「あきらめ」です。

 一般に「幸福の獲得」には努力が必要です。

この世の有益な仕事の半分は有害で困難な仕事と闘うことから成り立っています。

「努力を続ければ必ず報われる」という考え方がありますが、

自己没頭に陥らないよう事実を正しく認識することが必要で、

自分の真実の姿に直面する態度には「積極的なあきらめ」も含まれています。

 良い例ではありませんがストーカーは自己没頭の典型でしょう。

 仏教では「執着」を戒めています。

ラッセルも無駄な努力を捨て去ることも永続的な幸福の条件になるといっています。


NO.293       2023年         5 月 

ブッダの教え6 「こよなき幸せ」(岩波現代文庫『ブッダの生涯』より)

 人は誰でも幸せを願います。では幸せとは何でしょう。

 『スッタニパータ』の経典に

「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。

最上の幸福を説いてください。」とあり、

それに対してブッダが応えています。

  世俗のことがら(利害、名声、苦楽など)に触れても、心が動揺せず、 憂いなく、
  汚れを離れ、安穏であること―――これがこよなき幸せである。  

  適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、自らは正しい誓願を起こしていること
  ―――これがこよなき幸せである。

  深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること
  ―――これがこよなき幸せである。

  尊敬と謙譲と満足と感謝と、ときに教えをきくこと―――これがこよなき幸せである。

  修養と、清らかな行いと、聖なる真理をみること、安らぎを体得すること
  ―――これがこよなき幸せである。


  耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の道の人に会うこと、
  適当なときに理法についての教えをきくこと―――これがこよなき幸せである。

 清貧に生き、智慧をもち、感謝の念を忘れないことが幸せにつながるということになるでしょう。

 鎌倉時代の仏教説話を集めた『沙石集』にも次のようにあります。

清貧は常に楽しみ、濁富は恒(つね)に愁(うれ)ふと云々、またいわく、

 財多ければ身を害し、名高ければ神を害すと云々


 (云々 うんぬん  …という話である)

 2021年の1月号で紹介しました「幸せの数」をもう一度紹介します。
これはKさんのお父さんが紙に書いてサイドボードに貼っていた言葉です。

 (一) 愛する家族がいること

 (二) 大切な友達がいること

 (三) 暖かい服があること

 (四) おいしいご飯を食べられること

 (五) 安心して眠れる蒲団があること

 (六) 趣味を楽しめること .

 (七) 感動する心があること.

 (八) 今朝この地球上で目が覚めたこと

 (九) もったいない先祖に感謝

    「もったいない」には畏れ多い。ありがたい。という意味があります。



NO.292       2023年         4 月 

ブッダの教え5 「真心のことば」(岩波現代文庫『ブッダの生涯』より)

 ヒトだけが複雑な言葉を使って意思表示できる動物です。

話すことは言葉を発しているだけでなく、そこには感情もそなわっています。

 ブッダはその言葉について次のように説かれました。

「修行僧たちよ。四つの特徴を具えたことばは、正しく説かれたのであって悪しく説かれたのではない。

諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。

その四つとは何であるかというと、

〔1〕正しく説かれたことばのみを語り、悪しく説かれたことばを語らない

〔2〕理法のみを語って、理にかなわぬことを語らない         
 
.
〔3〕好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らない     


〔4〕真実のみを語って、虚妄を語らない              
 .

この四つの特徴を具えていることばは、正しく説かれたのであって、悪しく説かれたのではない

諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである」

それぞれを説明してみますと、

〔1〕相手が素直な気持ちで応じてくれるような言葉で話し、
  気持ちを害するような下品な言葉を使ってはいけない。

〔2〕道理にかなったことを話し、無理難題や道に外れたことは話さない。

〔3〕常に相手の気持ちをくみ取って、その人の立場にたって話をする。

〔4〕嘘、偽りや自分勝手な妄想を話してはだめです。  
 ただ、嘘も方便ということがあります。〔3〕との兼ね合いで状況によっては必要な嘘もゆるされるかもしれません。 
 
浄土三部経の一つ『無量寿経』のなかに、「和顔愛語 先意承問」(わげんあいご せんいしょうもん)という一文があります。

和らいだ笑顔と誠実な言葉で人に接し、相手の気持ちを先に考えてその人のために何ができるか自分自身を問いただすことです。

〔1〕~〔4〕はまさにこのことを言っています。

 現在スマホの普及やさらにコロナの影響もあって、

メールやリモートワークなどでじかに人と接することが少なくなってきました

相手の表情が分かりづらいため人間関係が希薄になっているかも知れません。

 穏やかな社会を築くためにも、できるだけじかに人と接してよい関係を築きたいものです。


NO.291       2023年          3 月 

 ブッダの教え4 「無一物 むいちもつ むいちぶつ」

 あるときブッダのそばにいた神が次のように唱えました。おそらくブッダの考えを述べたのでしょう。

  「罪は欲望から生じ、苦しみも欲望から生じる。欲望を制することによって、
    罪が制せられ、欲望を制することによって、苦しみが制せられる」     

              「世間における数々の美しいものが欲望の対象ではなく、欲望は人間の思いと欲情である・・・」
  「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。       
.
  物事にこだわらず無一物となった者は、苦悩におわれることがない・・・」
  「束縛を断ち、苦しみもなく、願望もない人、・・・この人を捜し求めたが、  
.
           この世でもかの世でも、天上にも、いかなる住み処にも跡を見出すことができなかった」


 辞書によると「無一物」とは、「何ももっていないこと」とありますが、

仏教では「執着するものをもっていない、何ものにもとらわれない、

愛や願望さえももたない境地」を言います。

では努力すればその境地に到達できるのでしょうか。

 最後の言葉の中に、「跡を見出すことができなかった」とあります。

ブッダは完全な無一物は無理だと言っているようです。そのかわり「制すること」だと言っています。

コントロールすることです。
(以上引用と参考 中村元『ブッダの生涯』監修前田專學 岩波現代文庫より )

 「愛」や「欲望」は「煩悩」そして「苦」の根源であり、

仏教ではともすれば、それを断ち切ることが大事だと考えられがちです。

 しかし、愛や欲望を完全に否定し、「無一物」として生きていくことはできるのでしょうか。

これらを無くしてしまうと人は生きているといえません。生きるための糧やエネルギーになるからです。

ブッダもそれは否定していません。

ただ、愛や欲望に必要以上に執着する「渇愛」や「強欲」を戒めているのです。

 私たちは社会の中で多くの人と関わりながら生きています。どうしても煩悩や苦悩が生まれてきます。

そのとき執着を抑え自分の心をコントロールすることによって乗り越えられるのではないでしょうか。

そしてその先には「喜」びと「楽」しみが待っているはずです。


NO.290       2023年          2 月 


ブッダの教え3 「分かち与える功徳 布施」

 「祇園精舎」はブッダが説法を行った精舎として名が知られています。

正確には『阿弥陀経』の中にもありますように、「祇樹給孤独園※」と申します。
※(ぎじゅぎっこどくおん)または漢音で(きしゅきっことくえん)

 これは土地の持ち主であるジェータ太子と

その地方の大富豪であるスダッタ長者の異名から名付けられました。

 ブッダに深く帰依していたスダッタ長者は、

身寄りのない孤独な人々や貧しい人々に食べ物を給する長者として有名で、

「給孤独長者」(アナータピンディカ)と呼ばれていました。

長者はジェータ太子の所有するジェータ園を買い取ってブッダの教団に寄進しようと思い、

ジェータ太子のもとに赴きましたが、もの惜しみの気持ちが生じたのか、

太子から冗談ともとれる思いもよらぬ言葉が返ってきました。

「この林の中に金貨を敷き詰めるだけもってきたら譲ってやろう」

 この無理難題に対しスダッタ長者は牛車にいっぱい金貨を積んで林に敷き詰め始めました。

その真剣さに驚いたジェータ太子は自らも精舎建築の樹木を寄進したと言います。

そうしてジェータ(祇陀)太子とスダッタ長者(アナータピンディカ 給孤独長者)の名をとって

「祇樹給孤独園」と名付けられました。これが「祇園」の名の由来です。

 この精舎でブッダが説教をし、また弟子たちと寝食を共にしています。

 あるとき神々が訪れ、精舎全体を照らしなが次のことを唱えました。

   もの惜しみと怠惰のゆえに、施与はなされない。

     功徳を望んで道理を知るゆえに、施与がなされる。

   もの惜しみによって飢えと渇きの恐れが生じる。

       もの惜しみの心を抑えて、恐れを克服して施与をなせ。

   その功徳は来世の人々の足場となる。


 私たちはどうしても執着心からもの惜しみをします。失うことを恐れるからです。

 しかし、今の世の中、物価高、実質賃金の低下、年金の目減り等々、

一般人の生活の余裕が少なくなってきているのが現状です。節約が必要です。

 節約ともの惜しみは同じではありません。

もの惜しみは「ある」のに失いたくない気持ちです。

節約は「ムダ」を省く行いで、必要なところ不足しているところにに回すことで、施与につながります。

難しい時代ですが、分かち与える施与の功徳は個人のものだけでなく

将来の人々やひいては社会に生きてくるということです。

 また、「施与」とは「布施」のことです。お寺などへの「お布施」だけではありません。

「布施」は「功徳を布(し)いて施す」という意味で、

徳を個々のものとせず、広く与えて分かち合うことです。



NO.289       2023年          1 月 

ブッダの教え2 「ものごとは心にもとづく」

 『ダンマパダ』古い経典があります。

「ダンマ」は「人間の真理」、「パダ」は「ことば」という意味です。

中国漢の時代に訳され『発句経(ほっぐきょう)』として知られています。

その最初に「ものごとは心にもとづく」という詩が書かれています。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。

        もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
 ・・・
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。

         もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽ははその人に付き従う。


 人と話をするとき、その人に良くない感情を持っている場合、先入観をもって話をしてしまいます。

相手のちょっとした言動に感情的になって声を荒げたり、攻撃的な言葉を投げかけたりします。

するとそれは相手の人にとっても同じで、感情的なもつれはエスカレートして最悪な状態に陥ります。

 それとは反対に、心を許される友達のような人と接する場合は、

心が和(なご)み落ち着いた気持ちになります。

この詩につぎの詩がつづきます。

         「かれは、われを罵った。われを害した。われに打ち勝った。われから強奪した」

という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。


 そして、そういう思いをいだかない人には怨みは起こらないと続きます。

 相手に対する自分の心持ちによって、人間関係が良くもなったりさらに悪くなったりします。

静かな心を常に持ち真摯な態度で人に接する、その結果相手の人から信頼を得られるのです。

 心はいろんなものを造り出します。

しかし、心が一つのことに固まってしまうと融通がきかなくなります。

最近問題になっている特定宗教のマインドコントロールです。

心が支配されてしまうと、特定のものだけが正しく思えて聞く耳を持たなくなってしまいます。

 その対策としては、真実を見抜く力を持つこと、信頼できる人に相談することです。

 施餓鬼に唱えられる偈句の中に「一切唯心造」というのがあります。

 「この世のすべては、ただ心の働きでできているにすぎない」

 ブッダの言葉は、

「素直な健全な心をもつことによって、人は煩悩や執着、怒りなどを抑えることができる」

ということです。  これを年頭の目標にしてみませんか。