更新2019/12/5

 

松 燈 だ よ り

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平成31年度、令和元年(2019)

 
 NO.252       2019年       12 月

 
阿弥陀如来 3

 次の写真は放出大橋から観た入り日です。

 


 空気中の塵、水蒸気、雲の高さや厚さなど、いくつかの条件が揃わないときれいな夕焼けは見ることができないようです。

 今年もあと少しになりました。一年の終わりに、一日の終わりである日没の写真を載せました。

 空全体が赤く染まる日の出や日の入りは、じっと観ていると神々(こうごう)しく、神か何かの存在を感じてしまいます。

   契りあれば難波の里にやどりきて
            波の入日をおがみつる哉

                                                           藤原家隆

   (前世からの約束があったので、このように難波の里にやってきて波に映っている夕陽を拝んでいる)

海に入る難波の浦の夕日こそ
            西にさしける光なりけれ

                                       夫木和歌抄(ふぼくわかしょう) 藤原為家

   (難波の海に沈む夕日は、西方極楽浄土にさしている光なのだなあ)

 平安時代後期、阿弥陀仏の西方極楽浄土への往生を願う浄土思想が広まっていました。

浄土三部経の一つ、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には極楽浄土を想い浮かべるための日想観(じっそうかん、にっそうかん)

という修行法が説かれています。西に沈む太陽をみて、そのまるい形を心に留める修行法です。

 観無量寿経の漢文和訳(参考:『浄土三部経 下』岩波文庫)によりますと、

それはお釈迦様とヴァイデーヒ(韋提希いだいけ夫人)の対話のなかにあります。

 ヴァイデーヒは極悪非道の息子をもった悲しい運命を嘆き、

汚辱も悪も無く、清らかな行い(淨行じょうごう)のある世界を見せて下さいとお釈迦様に懇願します。

 お釈迦様は、

「知っていますか。アミタ仏のいられるところが遠くないことを。心を集中して、あの仏国土を観想しなさい。

それによって淨行ができるようになります。これから多くの比喩を説いて、この世で淨行をしようとする者が、

西方の幸ある世界に生まれることができるようにしましょう」・・・

 「尊き世尊よ、あなたが入滅された後、私たちはどのようにアミタ仏の幸ある世界を観たらよいのでしょうか」。

 「この世の生ある者は、一心に思念を集中して西方を観想しなさい。そして日没を観なさい。

西に向かって正座して、はっきりと太陽を観るのです。

心を乱すことなく観想に集中して、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのです。

観終わったなら、その映像が目を閉じていても開いていても、はっきりと残っているようにしなさい」

「これが日想であり、最初の観想といいます」


 和歌「契りあれば・・・」の作者藤原家隆は、藤原俊成に師事し、

その歌の才能は藤原定家に並ぶほどで、後鳥羽上皇も信頼を寄せていました。

そして藤原定家らとともに『新古今和歌集』の編纂にも従事しました。

 しかし、承久の変の後、後鳥羽院は隠岐島に流され、家隆は職を辞しましたが

、院とは最後まで歌を送り届けるまでの厚い絆を遺しています。

 嘉禎二年(1236)家隆は病を得たことで出家し、仏門に入りました。

四天王寺近くに「夕陽庵(せきようあん)」という小さな庵を建て、浄土思想の日想観を修めて念仏三昧の日々を過ごしたとされています。

当時の四天王寺からは難波の海がすぐそこに広がっていたようです。

 嘉禎三年、家隆は齢(よわい)八十、この和歌を遺して夕陽に向かって合掌し、極楽浄土に旅立ちました。

そしてこの地を夕陽丘(ゆうひがおか)と言われるようになったといいます。



NO.251       2019年       11 月


阿弥陀如来 2

 奈良町にある融通念佛宗の徳融寺というお寺で、檀信徒さんが修行するお伝法があり、

その時のテキストをいただきました。

 その中に「仏の十二光」の説明が記されてありました。

浄土三部経の『無量寿経』に、阿弥陀仏は光の仏様でその光明(こうみょう)には十二の徳があると説かれています。

1 無量光 光明に限りがなく、過去・現在・未来の三世を照らし、あらゆる衆生
      を救済します。                                         .
     

2 無辺光 光明は限り無く十方世界をくまなく照らします。            .

3 無碍光 光明の前にはどのような障害もありません。いかなる煩悩、悪業も
遮ることはできません。                             .

4 無対光 光明は比べるものがないほど優れた徳をもちます。         .

 5 焰王光 光明は一切の煩悩を焼き尽くします。                  .

6 清浄光 光明は衆生の貪欲を治し、清浄な心にさせます。           .

  7 歓喜光 光明は衆生の瞋恚(しんに:腹立ちや怒り)を和らげ、悟りに導きます。

   8 智慧光 光明は無明(むみょう:底知れない迷い)の闇を照らし、悟りに導きます。

9 不断光 光明は三世にわたり絶えることなく照らし、利益(りやく)を与えます。

10 難思光 光明は凡夫には考えられないものです。                 

11 無称光 光明は言葉では言い表せないものです。                 

          12 超日月光 日月の光が届かないところも、阿弥陀仏の光明は十方の微塵世界(みじんせかい)
をも隈なく照らし、衆生を導きます。                       .

 
『無量寿経』にはこの十二光をのべたあと、つぎのようにあります。

  この光に遇うもの、三垢(さんく)消滅し、身意柔軟にして、歓喜踊躍し、善心生ず。

   もし三塗(さんず)の勤苦の所にありて、この光明を見立てまつれば、

みな休息をえて、また苦悩無く、寿(いのち)終わりて後、みな解脱をうける。


 三垢:貪欲 (とんよく) ・瞋恚 (しんに) ・愚痴の三毒

  三塗:悪行をなしたものが死後に赴く三つの世界。

    猛火に焼かれる火の世界(地獄道)、

    互いに食い合う血の世界(畜生道)、

        刀・剣・杖で迫害される刀の世界(餓鬼道)
  





NO.250       2019年       10 月

阿弥陀如来

 いわゆる阿弥陀様です。

インドから中国を経て伝えられた仏教における如来の一つで、日本では主に浄土系宗派の御本尊になります。

サンスクリット語ではアミターバ(無量の光をもつもの)、またはアミタユース(無量の寿命をもつもの)と呼ばれ、

中国ではそれを漢字で阿弥陀と音写しました。経典には無量光仏や無量寿仏と表されていることもあります。
 
阿弥陀如来の造形は質素な服装で結んでいる印相は、いくつかの種類があります。

①  定印:両手の手のひらを上にして腹前(膝上)で上下に重ね合わせた形をとり

人差指と親指で輪をつくります。(鎌倉大仏や平等院鳳凰堂阿弥陀如来像)

       ② 説法印:両手を胸の高さまで上げ、親指と人差し指(または中指、薬指)で輪をつくります。
                                (広隆寺講堂本尊像)

          ③ 来迎印:施無畏与願印のように、右手を上げて左手を下げてともに手の平を前に向けますが、

          両方の手の親指と人差し指(または中指、薬指)は輪をつくります。(三千院阿弥陀如来座像、)

   
   ①                  ②               ③

 阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主です。

遠く昔、ある国の王が王位を捨て出家し、

法蔵菩薩として修行しました。そして、すべての衆生を救済するという四十八の誓願をたて、

ついに極楽浄土をつくりあげ阿弥陀仏となりました。

 阿弥陀如来は阿弥陀三尊としてよく祀られています。左に慈悲の象徴である観世音菩薩、

右に智慧の象徴である勢至菩薩が位置しています(左右が逆の場合もあります)。

 観世音菩薩は両手で蓮華台を持ち、頭の冠には阿弥陀仏の化仏彫られています。
 
勢至菩薩は合掌の姿をしており、おなじく冠には宝甁(ほうびょう 花立て)がほられています。
 
脇侍は例外的に他の菩像が祀られていることもありますが、

いずれもこの三尊によって仏教の「悟り」を表現しています。






NO.249       2019年       9 月

薬師如来

 月を眺めていると、じっと見つめられているように思います。

そして啄木の短歌のように、穏やかなやさしいひかりで悲しみを包んでくれているようです。
 
仏教ではそのひかりを慈悲のひかりと考え、月光(がっこう)菩薩を生みました。
 
月光菩薩は薬師如来の左脇侍として祀られています。

その右脇侍は日光菩薩で、三体で薬師三尊をつくっています。

日光は(太陽の光)は世間の隅々まで強く照らし、あらゆるものを明らかにするという智慧のひかりです。

 薬師三尊の中心はもちろん薬師如来です。正確には薬師瑠璃光如来といいます。

『薬師如来本願功徳経』によりますと、

数多くの仏国土を越えた東方の「浄瑠璃(じょうるり)」という世界があり、薬師如来はそこの教主さんです。

阿弥陀如来は遠く離れた西方極楽浄土の教主ですが、ここで東方とはこの私たちの現世をいいます。

  

薬師三尊(薬師寺)    薬師如来(薬師寺)

 
この世において、薬師如来は心と体の病を取り除く仏とされています。

かつて菩薩であったとき、十二の大誓願をたてられました。そのなかで、

                                「諸根具足」:生まれつきの障害や病があれば、それを 補って心身とも不自由の無いようにします。

「除病安楽」:病を除き心身とも安楽にします。

という誓いがあり、特に心身の病を治してくれる仏様として広く拝まれるようになりました。

 上の写真のように、薬師如来は右手を肩の高さほどにあげ、手を開いてそのひらを前面に向けられています。

これは施無畏(せむい)の印といって、

「大丈夫、安心しなさい」と衆生(しゅじょう)の恐れを取り去って救おうとされているのです。
 
左手は与願の印。下ろした手を膝の上に置き、手のひらを上に向けられています。

どうぞと私たちの願いを聞き、それが成就するように働きかけられます。
 
釈迦如来像もこの印相をもつものが多いので一体だけでは判断が難しいですが、

左手に薬壺を持っていれば薬師如来であることが判ります。初期の薬師像は薬壺を持っていないそうです。

 この薬師三尊の関係について、『薬師如来本願功徳経』の注釈書によれば、

昔、二人の子供をもった人がいて、「私は、病気などで苦しんでいる世の人を救うために、悟りに達したい」と誓願しました。

それを知って喜んだ仏様が、「お前は『医王』と名乗りなさい」「そして、上の子を『日照』、下の子を『月照』と名づけなさい」と告げられました。

それが日光菩薩、月光菩薩の由来であるといいます。

                                           (参考と引用:KOSAIDO BOOKS『仏像のわかる本』花山勝友著)

 鎌倉時代以降、貴族や武家のあいだでは浄土信仰や禅宗などがもてはやされ、

薬師信仰は衰えはしたものの、一般民衆の間では根強い人気があったようです。
 
お寺に行って仏像を観る時、ただ黙って何も話しかけられることは無いけれど、

何かを発しているように感じます。ちょうどお月様を見ている時のように。




NO.248       2019年       8 月

 供養

 お盆は特別に盆棚をしつらえて亡き人を供養します。お盆のことは以前にお話ししましたが、

「供養」するということはどういうことでしょう。

 「供養」とはサンスクリット語のプージャーまたはプージャナー pūjanā を訳した言葉で、

「尊敬」を意味しています。

 いつも唱えるお経に「供養十方無量仏」とあるように、

もともとは神や仏に尊敬心をもって仕え、お香や飲食をお供えしたりして、

世話をすることなのです。

 霊魂が存在するという考え方から、お墓や位牌がつくられるようになり亡き人を供養することになりました。

 しかし、供養の根本は「敬い」です。これは自らの心の働きに他なりません。

般若心経のなかにに「心無罣礙(しんむけいげ)」とありますが、

心にこだわりや引っかかるものがない状態を言います。

すなわち素直な心のことです。相手を敬うということは、

自らの心をそのようにしなければなりません。

 供養は一方通行ではありません。素直な心で手を合わせることは、

供養することで自分の心がそのようになるのです。有り難いことなのです。



NO.247       2019年       7 月



星の曼荼羅(マンダラ)

 マンダラとはインドの言葉です。もともとは色々なものが集まって強く結びついていることを意味していたようです。

それが発展して仏や神々などを集めて悟りの境地そして仏の宇宙を表すようになりました。

よく知られているのは真言密教の両界曼荼羅ですが、岸和田の久米田寺(くめだでら)にある星の曼荼羅を紹介します。

 下の図は久米田寺の星の曼荼羅(https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/mandara.html)

を解りやすくするため簡単に描いたものです。




その成立は平安時代中期、10世紀頃と考えられています。 

中心に一字金輪という釈迦如来が須弥山の上に座しこの宇宙を統括しています。

その周りの円の中に、神々や人、そして山羊、サソリ、魚など星座の動物が配されています。


 黄色の円は北斗七星で、星曼荼羅を北斗曼荼羅というぐらい、当時は星座の中で最も重要視されていました。

その6番目の星(洋名 ミザール)にすこし小さい円が描かれていますが、

これはミザールが二つの星(ミザールとアルコル)でできていることを示しています。

当時はよく見えていたのでしょう。

 さて、どうして古代オリエントで生まれた十二星座や占星術が日本の仏教に採り入れられているのでしょうか。

それは、空海が9世紀初め中国から持ち帰った「宿曜経」という経典にあったとされます。

 そして、この星曼荼羅は、密教占星法の本尊として用いられます。

人は本来、九曜や北斗の星の中に運命をつかさどる星をもつとされ、旧暦の元旦や立春、冬至などにその星を供養して、

一年の招福や除災を祈願する「星供養」という密教行事が各地で現在も行われています。

7月7日は七夕ですが、今年旧暦では8月7日になります。夜空を眺めて星に思いを寄せてみて下さい。





NO.246       2019年       6 月
 
 
法華経

 先月は令和の「令」をとりあげました。

法華経如来寿量品の偈(自我偈)にはいくつか見られると言いましたが、その他の経典にもよく見られるようです。

ほとんどが「使役」の意味で使われていました。今回は、その法華経についてです。

 仏教の経典は、仏滅後に教団の代表者が集まって、仏陀の遺した教えを集めてその散逸を防ぎ、

教団の統一のために編集されたものです。その集まりを結集(けつじゅう)といいます。

今まで6回あったようで、第4回までは紀元前で、近年では第5回が1871年、第6回は1954年だそうです。

第4回まではサンスクリット語で書かれました。

 法華経は紀元前の結集後、インドから中国に伝わり6度も漢訳されたといいます。

サンスクリット語では『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(正しい教え・清浄な白い蓮華・経典)といいます。

現存する漢訳経典は三種で、そのうちの一つが鳩摩羅什(くま らじゅう 344~413)訳の『妙法蓮華経』です。

それは流麗かつ美しいリズムがあると言われています。

ちなみによく知られている阿弥陀経も羅什訳です。

中国では天台大師智顗(ちぎ 538~597)が『妙法蓮華経』を多く講義し広めることによって天台宗をひらきました。

さらに現在の朝鮮、韓国を経て日本に伝わり、

すぐに聖徳太子(574~622)は『法華義疏』(法華経の注釈書)を著したとされています。

その後日本の最澄(さいちょう 767~822)は智顗の著書(法華三大部)を学び、さらに中国に渡り天台教学を研修しました。

帰国後法華経の流布に努め、比叡山で天台宗を開きました。

 平安時代には『妙法蓮華経』は貴族にも庶民にも身近な経典でありました。

『源氏物語』や『枕草子』『今昔物語』などにも法華経が登場します。

『梁塵秘抄』の今様には

  
法華はいづれも尊きに この品聞くこそあはれなれ 尊けれ
 
   童子の戯れ遊びまで 仏に成るとぞ説いたまふ


法華経はいずれも尊いけれど 方便品を聞くことは格別ありがたい 尊いことです

 
  子どもの戯れ遊びでさえ 仏に成ると説いておられます。

  
女人五つの障りあり 無垢の浄土は疎(うと)けれど 
 
    蓮華し濁りに 開くれば 龍女も仏に成りにけり

 
 
女人には五つの障りがあり 清らかな浄土には縁が薄いけれど 
蓮の花は泥水のなかからでも美しく開くように 罪深い龍女も仏に成ったのです


 五種の障りとは古いインドの考え方で、女性は,梵天王,帝釈天,魔王,転輪王,

そして仏になることができないとされていました。

法華経提婆品(だいばぼん)では女性も成仏することを説いています。

 ウグイスの鳴き声を「ホーホケキョ」いうのも、江戸時代に法華経が盛んに唱えられてからだといわれています。

参考:
『法華経久遠の救い』渡辺宝陽著 NHK出版 
 『法華経を読む』紀野一義著 講談社現代新書
 『梁塵秘抄』後白河院、植木朝子編 角川ソフィア文庫


 





NO.245       2019年       5 月


 
5月1日から令和になります。令についてはいろんな意見があり話題となりましたが、

ひと月が経って良い方向に落ち着きました。
 
白川静氏の『常用字解』(平凡社)の解説によると、
  
 「令」は象形文字で、深い儀礼用の帽子を被り、ひざまずいて神の

   お告げを受ける人の形である。(図1)神の神託として与えられる

   ものを令といい、「神のおつげ、おつげ」のの意味となり、天子な
 
  ど上位の人の「みことのり、いいつけ、いいつける」の意味となる。
 
  甲骨文字・金文では令を命の意味に用いており、令が命のもとの字である。

    令は神のお告げを受け、真意に従うことから「よい、りっぱ」の意味となり、

 また使役の「しむ」の意味にも用いて、命と分けて使うようになった。

 
 
令の象形文字

「令」という漢字は仏教経典にあまり出てこないと思いますが、

法華経如来寿量品の偈頌(げじゅ 本文を詩形式にまとめた文)にはいくつか使われています。

この偈頌は「自我得仏来(じがとくぶつらい)」で始まるので、『自我偈』ともいわれ、広く唱えられているお経です。

 法華経の如来寿量品には仏陀釈尊の「衆生を永遠に救済する」という誓願が込められていて、

それを510文字でまとめられたのが自我偈です。

 さて、その自我偈の中で「令」は5ヶ所見つかりますが、

すべて使役の意味で使われているようです。そのいくつかを見ていきます。

  
常説法教化 無数億衆生 入於仏道 爾来無量劫
  (じょうせっぽうきょうけ むしゅうおくしゅじょう りょうにゅうおぶつどう にらいむりょうこう)
  常に法を説いて無数億の衆生を教化して仏道に入らしむ。それよりこのかた無量劫なり。
  
常に法(教え)を説いて無数の人々を教化して仏の道に導いてきました。
  それからも無限の時間が経っています。


  
我常住於此 以諸神通力 顛倒衆生 雖近而不見
(がじょうじゅおし いっしょじんつうりき りょうてんどうしゅじょう すいこんにふけん)
   我常にここに住すれども、もろもろの神通力を以て、顚倒の衆生をして、
近しといえども、しかも見えざらしむ。
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
 (しゅうけんがめつど こうくようしゃり げんかいえれんぼ にしょうかつごうしん)
   衆は我が滅度を見て、広く舎利を供養し、ことごとく皆、恋慕を懐いて、渇仰の心を生ず。
  
私(仏陀)は常にこの世にいますが、迷い顚倒している人には神通力によって
  見えないようにしています。人々は私が死んだことを知って、私の遺骨を広く
  供養し、皆がことごとく慕う心をいだいて、会いたいと強く願うようになるでしょう。



 そして自我偈の最後の一節です。

  
毎自作是念 以何衆生 得入無上道 速成就仏身
(まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうぶつどう そくじょうじゅぶっしん)
毎(つね)に自ら是の念を作(な)す。「何を以てか衆生をして無上道に入り、
速やかに仏身  を成就することを得せしめん」と
  
私は常に考えています。「どのようにしたら人々を最上の仏の道に導き、
  そしてすぐに仏になることができるだろうか」と


 「令」の部分だけを紹介しましたので、少しわかりにくいかも知れません。

 如来寿量品は、仏陀釈尊の永遠性とたゆまない教化、すなわちこの娑婆世界で

迷い苦しむ衆生を未来永劫どうにかして救済しようとする仏陀の強い誓願が込められています。

仏陀の死(涅槃)は方便にすぎません。それによって衆生は渇仰心をいだき、それが信仰心となっていくからです。

 この紙面では十分に説明できませんが、『般若心経』のように多くの宗派で唱えられる理由もそこにあります。
 
そして、「令和」になりました。
 
「衆生をして和ならしめる」あるいは「世界をして和ならしめる」と考えたらどうでしょう。

主語は「神」でも「仏」でも







NO.244       2019年       4 月


仏法はまるいこころ(2)

 大念佛寺の前管長倍巌良舜師は、長年の親友である高田好胤師の誘いがあって、

インドの仏跡参拝やアジアの戦跡巡礼を重ねられました。

 最初のインドの旅の後、釈尊伝道の土地を歩きそこの空気を肌で感じて、

倍巌師は日本では思いもしなかった、釈尊の生の教えの声を再現したくなったといいます。

そして「仏教を人々にわかり易く、一言でいったらどうなるか」を考えるようになり、あるときふと思いつかれました。

     融通念佛宗の開祖良忍上人をはじめ多くの有名な僧侶は比叡山延暦寺で修行されていますが、

その天台宗は円満円融の意味で円宗ともいいます。東大寺の華厳宗では華厳の教えを円教と言い、禅宗では円相といって、

     円を描いて真如を現したりしています。このように仏教のあらゆる教えのなかに「円い」という文字が使われています。

 「仏法はまるいこころ」と・・・

 そしてすぐにそれを色紙に筆で書かれました。その色紙にはインドから持ち帰った菩提樹の葉が貼り付けてありました。

 倍巌師の法徳寺を訪れた好胤師がそれを見つけて、

 「これ、ええなあ。話しの時につかわしてもらうで」

 倍巌師「ええよ、おおいに結構」

 好胤師は副住職の長い間、薬師寺にやってきた修学旅行生達にお話しをされました。その独特の解説が評判でした。

薬師寺の管長になってから忙しくなりながらも、全国各地で講演されました。

それも金堂復興のための写経勧進が目的でした。
 
それ以来、高田好胤師の法話力によってこの言葉が広まりました。
 
       仏法はまるい心の教えです

      仏法は明るい心の教えです

         仏法は淨らかなる心の教えです

       仏法は静かなる心の教えです

           仏法はおかげさまなる心の教えです

       仏法は無我なる心の教えです

        仏法は大慈悲なる心の教えです

        仏法は安らかなる心の教えです


「仏法はまるいこころ」は薬師寺金堂の復興に一役買ったのかも知れません。
                                                      (引用と参考:倍巌良舜著『好胤と倍巌』学生社より)

 「まるい」ということは角がなく、そこで引っかかりがないということです。

 般若心経に次の一説があります。

   依般若波羅密多故 心無罣礙 無罣礙故 
   無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃


  般若波羅密多によるが故に 心に罣礙なし、罣礙なしの故に
   恐怖あることなく 一切の顚倒夢想を離れて 涅槃を究竟す

   般若波羅密多:智慧の完成、悟りに到る   罣礙(けいげ):引っかかり、さまたげ

顚倒夢想:間違った考えや心の働き     涅槃:平安な心の境

究竟:極め尽くすこと                  .   

 もう少し意訳しますと
「智慧の完成によって心はまるくなり、まるくなることによって怖れもなくなり、

 すべての煩悩を離れて平安な心の境地に到ります。」

 すなわち、「心無罣礙」は「まるい心」となります。


 
花は無心にして蝶を招く
         蝶は無心にして花を尋ぬ


 良寛さんのことばです。

 「まるい心」は「無心」につながっているのかも知れません。




NO.243       2019年       3 月

仏法はまるいこころ(1)

 「仏法はまるいこころ」 前管長倍巌良舜猊下のお言葉です。

昨年年11月6日遷化され、世寿97歳でした。10日に自坊の法徳寺にて密葬があり、

 2月13日に表葬式(本葬)が総本山大念佛寺にて執り行われました。

 猊下(げいか)とは管長や門主、貫主など各宗、宗派の代表者の敬称です。


         表葬式

 表葬式にはご自身と交流の多かった南都の諸寺院をはじめ、他宗寺院の代表、末寺住職、

関係諸団体など多くの方が参列されました。倍巌良舜猊下を忍んで厳粛な表葬式となりました。

 大正11年9月、猊下は奈良町にある融通念佛宗の法徳寺でお生まれになりました。

昭和48年法徳寺住職となり、数々の宗の役職を歴任したあと、平成18年融通念佛宗管長、

総本山大念佛寺第66世法主に就任されました。

 平成27年には開宗九百年、再興大通上人三百回御遠忌の大法要を5月1日から7日間

年齢を感じさせないほどしっかりと勤められました。

 倍巌良舜猊下について特筆すべきことは、

奈良の薬師寺管長であった高田好胤師との深い親交があったことです。

 自著の『好胤と倍巌』によると、出会いは電車の中でした。

 「高田好胤です。薬師寺にいます。今度、龍谷大学に入りました。よろしくお願いします」

当時の大学生は学生服でしたから、帽章で同じ学校であることが分かります。

 「僕は倍巌良舜です。3年です。よろしく」「西ノ京の薬師寺なの?」

 「そうです。西ノ京の薬師寺です」「おうちはお寺ですか?」

 「そう。十輪院町といって、猿沢の池から南へ歩いて7、8分のところや」

 「宗派は?」

 「融通念佛宗や」

 「うちの管長(橋本凝胤)さんの生まれたおうちも融通念佛宗ですわ」

 「へえ、どこやねん」

 「平群(へぐり)です」

 「ああ、あのへんは融通念佛宗の多いところや」

 それから好胤師は法徳寺を頻繁に訪れるようになり、橋本凝胤師が薬師寺を留守にする時をみはからって、

まるで家族のように泊まっていったそうです。

 当時の薬師寺はさびれていました。

ご本尊をお祀りしていた金堂は、仮金堂と呼ばれ雨漏りするほどの建物でした。

好胤師はいつか金堂を再建すると強い意志を持っておられました。

昭和24年薬師寺副住職、昭和42年薬師寺管主、法相宗(ほっそうしゅう)管長に就任。

そして金堂再建のため100万人写経勧進を発願しました。

再建には10億円はかかると言われていたので、 一人千円の写経冥加金を100万人集めようということです。

 その頃から好胤師は忙しくなり、倍巌師は薬師寺を手伝うことが多くなりました。

 古都奈良の春の二大行事は東大寺二月堂のお水取り、

そしてもう一つは薬師寺の花会式(はなえしき)です。お水取りに劣らない厳しい法要です。

その花会式の練行衆(れんぎょうしゅう)として好胤師から倍巌師に出仕して欲しいと声をかけられたのです。


  薬師寺金堂

それも倍巌師は5年にわたって手伝われたのです。

また、倍巌師の長男良明師は好胤師が自分の息子というぐらいのお気に入りで、10年出仕したそうです。

 その他、倍巌師は広報部長主任として薬師寺に足繁く通い、

機関誌『薬師寺』の編集人として第10号から第99号までの18年間、原稿と格闘することになりました。

第10号は「金堂起工式特集号」でした。

 そのかわり法徳寺のお十夜の法話はいつも好胤師です。好胤師の法話は人を惹きつけます。

いつも満場の堂内になります。 昭和35年から体調が悪くなるまでの40年間続きました。

 平成10年 胆嚢癌で好胤師遷化、その密葬を導師として勤めたのが倍巌良舜師でした。

生前の好胤師は「自分が亡くなる時は倍巌良舜はこの世にいないだろうから、

良明に導師をお願いする」と仰ってたそうです。

 前後しますが、花会式に初めて出仕した年の前年、良舜師は好胤師からインド行きを誘われました。

「一度はいっとかなあかん」との思いで、釈尊が悟りを開かれたブッダガヤや

入滅されたクシナガラを二人は訪れました。

その後も何回も仏跡参拝の旅や、戦没者慰霊法要のために戦跡の巡拝を重ねられました。

       


 最初のインドの旅の後、釈尊伝道の土地を歩きそこの空気を肌で感じて、

倍巌師は日本では思いもしなかった、釈尊の生の教えの声を再現したくなったといいます。

そして「仏教を人々にわかり易く、一言でいったらどうなるか」を考えるようになり、

あるときふと思いつかれました。

「仏法はまるいこころ」と・・・ 
             (参考:倍巌良舜著『好胤と倍巌』学生社より)                                                                     次号に続きます



NO.242       2019年       2 月

善光寺

          
                           
                 
          
           

上の写真と図は1月24日に参拝した善光寺の本堂とアクセスマップです。

正月の飾りや賑わいも一段落し、境内は落ち着きを取り戻したようです。

 バスを「善光寺大門」で下車し、参道の仲見世通りを仁王門そして山門(重要文化財)と進むと本堂(国宝)が目の前に現れます。

 「一生に一度は善光寺参り」といわれるほど毎年各地から団体や個人の参拝客で賑わいます。

最近は長野駅に新幹線が乗り入れ、外国からの観光客も多く訪れるようになりました。

以前は参拝者のためのお店が多かった仲見世通り(参道)も、テイクアウトやハイカラなお店が目立っています。

 「牛に引かれて善光寺まいり」という故事があります。

 昔、信濃の国のある村に、心の貧しい無信心な老婆がいました。

ある日のこと軒下に布を干していると、どこからか牛がやって来て、その角に布を引っかけて走り去って行きました。

老婆は「その布をどうするんだ」と怒りながら牛を追いかけそしてまた追いかけ、とうとう善光寺の本堂まで来てしまいました。

すると牛の姿は消えてしまい、牛の垂らした涎(よだれ)だけが足下にありました。

よくよく見ると文字で何かが書かれているようです。

うし(牛)とのみ おもひはなち(思い放ち)そこの道に なれ(汝)を導く おの(己)が心を

 (牛のことだと思い切ってしまわずに、あなたの心を仏の道に導いていると気づきなさい)と読めました。

 驚いた老婆は信仰心に目覚め、本尊の阿弥陀如来の前で念仏を唱えました。

家に帰り近くの観音様にお参りしたところ、その足下に白い布が落ちていました。

あの牛は観音様の化身だったのです。それ以来念仏を称えることを日課とし、毎日を過ごしました。

そして最後は極楽往生を遂げたといいます。

(以上は善光寺ホームページの記述を参考にしました)

 
善光寺本堂の前に大きな香炉があります。

香炉から出る煙を頭や身体につけると、無病息災、病気平癒のご利益があるといわれています。

 その香炉の側面に、次の偈文が刻まれています。

「願此香華雲 遍満十法界 無遍佛土中 無量香荘厳」
(がんしこうげうん へんまんじっぽうかい むへんぶつどちゅう むりょうこうしょうごん)

     願わくは、此の香の煙雲 遍く十方界に満ち、
     無辺仏土の中に、無量の香をもって荘厳す
(お香の煙雲と香りが世界中を満し、限りない仏の世界を清らかな香で荘厳されますように)

 これは焼香偈といって、融通念佛宗の経本の最初に称える香華、すなわち「戒香定香解脱香・・・」と同じ意味合いがあります。

 香を焚くことによって、その香りですべての世界とそして自分自身のこころも清らかにするのです。

 参道を山門に向かって歩いて行くと、左側に大勧進があります。ここでは参拝者に『お血脈』が配布されます。

 天明四年(1784)、大勧進第七十九世貫主の等順は天変地変の災害による民衆救済のため、

「融通念仏血脈譜」を簡略化し、「お血脈」として参拝者に配布しました。 

釈迦牟尼仏から始まり、阿弥陀如来から良忍上人により確立された融通念仏の継承者がそこに記されています。

歴代の貫主が名を連ね、授与された者はその弟子として阿弥陀如来と仏縁を結ぶことになるのです。

 浅間山の大噴火、天明の大飢饉など末世を思う民衆は、世の平安を願って「お血脈」を求めて全国から善光寺に参拝しました。

これが現在の善光寺信仰につながっています。

 また、融通念仏は宗派としてではなく、

民衆の民族的な宗教として平安後期から江戸時代にいたるまで長く、そして全国に広く信仰されていたことがうかがえます。



NO.241       2019年       1 月


四門出遊(しもんしゅつゆう)

 今年私は70歳になります(数え年では昨年)。いわゆる古希(こき)です。

唐の詩人杜甫は「人生七十古来稀なり」と詩に残しています。

現在、平均寿命は80歳を越えていますが、昔は70歳を迎える人は数少なかったのです。

 昨年、年の近い知人の入院や訃報が続きました。

自身の体力の衰えもあり、「老」「病」「死」を身近に感じることになりました。

 お釈迦様の出家のきっかけもここにあります。

お釈迦様はもともとシャカ族のシッダルタ太子でした。

若いシッダルタは城の中で何不自由のない生活を送っていました。

ある時こっそり城の東門を出て見たものは、腰が曲がり杖をつきながらよぼよぼ歩く老人でした。

人は誰しも年とともに老いていくということを実感したのでした。

 同じように南門を出た時は病に苦しむ人を見ました。また西門を出ると葬送の列を見ました。

死人は焼かれて白骨になる。

生きている限り必ず死が訪れるということ、そして死とはどういうものであるかを知りました。

 最後に北門を出た時、一人の清々しい青年を見ました。

伴の者に彼は何者かと尋ねると、出家した修行僧だと教えられました。

 それ以来、シッダルタ太子は修行僧のことが頭から離れず、

彼のように老いの苦しみ(老苦)、病いに臥せる苦るしみ(病苦)、

死を迎える苦しみ(死苦)を乗り越えるにはどのようにすればいいのだろうと思うようになりました。

これが機縁となり後に出家を決意することになったのです。

 このお釈迦様のエピソードを四門出遊と呼ばれています。

 老・病・死の苦はどうしても避けられないものです。

人が生きていく上でこれらの苦悩の他に、こころの中に貪・瞋・痴という煩悩があり、

それによって生きることそのものが苦になるのです。これが生苦です。

 ではいい人生をつくるにはどうすればいいのでしょう。

仏教に「小欲知足」ということばがあります。欲そのものは人生を豊かにします。

チャレンジ精神もその一つで、それをいつまでも持つことが大切です。

しかし、過ぎて貪欲になると苦悩となってしまいます。

「求め過ぎずに足ることを知る」これがいい人生をおくる秘訣です。

 近年、俳句や短歌にチャレンジする高齢者が増えているそうです。

17文字または31文字で自己表現することによって、それが病床であっても生きる充実感がもてるのです。
 
       『老いの歌』(小高賢著 岩波新書)より

   老いてこそこころ淋しく園内婚九十六歳かがやいており
                                    (中辻百合子 89歳 園経営者)

   この年を年だ年だとバカにする悔しかったらここまで生きろ
                                    (伊藤みね子 92歳)

   往復の切符を買えば途中にて死なぬ気のすることのふしぎさ
                                    (斎藤史 歌人)

   携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか
                                    (斎藤史 歌人)