更新2017/12/4




 

松 燈 だ よ り

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NO.228       平成29年      12月

百八煩悩

 大晦日鐘楼のあるお寺では除夜の鐘をつきます。

道音寺も終戦前まで立派な梵鐘がありましたが、太平洋戦争で供出したため無くなりました。

鐘楼そのものは昭和36年まで残っていたのですが、本堂を建築するため、敷地確保のため撤去されました。

現在の本堂の前に、鐘楼の瓦の一部を置いています。





 さて、除夜の鐘は108の煩悩の数だけつきます。煩悩とはいったい何でしょう。

 煩悩とは私たち衆生が生きていくなかで生まれる苦悩をいいます。

この心身を煩わし悩ませるもととなるのが仏教でいう「三毒」です。

 すなわち

 「貪欲(とんよく)」 執着する心

     「瞋恚(しんに)」  怒りや憎しみの心

        「愚痴(ぐち)」   真理に対する無知な心

です。

 単純な例でいえば、人は自分に無いものを欲しいと思います。

その執着心が強いと持てる者に嫉妬心や憎しみが生まれます。

また無いことを他人のせいにしたり、場合によっては手段を選ばず道理に反してまでそれを求めようとすることもあります。

 このように煩悩があることによって私たちは生きるのに苦悩するのです。

その煩悩が108あるといいます。108の根拠にはいくつかの説がありますが、よく次のように言われます。

 人には「眼」「鼻」「耳」「舌」「身」の五感と「意」心の作用があります。

それぞれに「好(快)」、「悪(不快)」、「平(普通)」の三つの状態があり、

さらにそれぞれ「浄(清い)」「不浄(汚い)」の二通りがありるといわれます。

これで6×3×2=36。またこれに過去・現在・未来の3通りがあって、36×3で108になります。

 除夜の鐘つきは鐘をついて煩悩を一つずつ追い払います。

煩悩は人が生きていくうえで決して鐘をついて消えて無くなるものではありません。

しかし、抑制することは可能です。鐘をついて煩悩を理解し気付くことで自分自身をコントロールできますよう、

そしてよりよい一年が迎えられますようにと祈ります。

  有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へかへるひとやすみ

                 雨ふらばふれ風ふかばふけ

                                                                 一休禅師

漏は煩悩のこと。有漏路とは煩悩にまみれたこの世界、無漏路は煩悩のない清らかな仏の世界。

「この世は、そのうちにあの世へ行くひと休みの地点であり、

だから不完全であって妨げもあり、当然なめらかには通っていけないが、

必ずや道はつうじているのだから、あまりくよくよしなくてもいいよ」

(百瀬明治著『名僧百言』祥伝社新書より)




NO.227        平成29年      11月

霊膳

 お膳をお供えする時は、一汁三菜の精進料理を基本とします。お膳は朱塗りと黒塗りがありますが、

朱塗りは仏様に供えるため主に寺院で使用され、黒塗りは在家で多く使用されます。
 
使用される椀は
   ①飯椀 ご飯     ②汁椀 味噌汁     ③平皿  煮物

   ④壺  なます     ⑤高坏(たかつき) 和え物または漬け物







     椀類の配置など

宗派によって異なることもあります。

③と④を入れかえてもかまいません。

御供などは手前からみて名前などが読めるように置きます。







NO.226        平成29年      10月


仏壇の祀り方




 お仏壇の祀り方を良く尋ねられます。仏壇の大きさによっても違ってきますので大体のことを説明いたします。  
 
 ①~⑤までが上段   ⑥が第二段     ⑦~⑩が第三弾    ⑪~⑬が下段
①~⑬までが仏壇の中

 ① 御本尊、仏像(阿弥陀如来、   大日如来、釈迦如来など)またはそのお軸
   融通念佛宗の場合は十一尊天得如来のお軸

      ② 開祖などのお軸   融通念佛宗の場合は 右に元祖聖應大師 左に中祖法明上人

 ③ 常燈明                                         .
       
                ④ 瓔珞(ようらく)    瓔は「首飾り」珞は「まとう」を意味し、元は真珠の首飾り、装身具をいいました。
                       インドでは装飾品を身につけることは力の証しであったとされます。
                            仏像では菩薩などが瓔珞をまとっていますが智慧と慈悲の力を表していると
                        いいます。そういう意味で瓔珞が寺院や仏壇を荘厳しているのです。

             ⑤ 置香炉(おきこうろ)   ⑥ 高坏(たかつき) 供物は右に菓子類(加工した食べ物) 左に果物

 ⑦ 仏飯器    ⑧ 茶湯器   ⑨ 位牌   ⑩ 過去帳

 ⑪ 燭台(しょくだい) ロウソク立て  右

 ⑫ 香炉(こうろ)  線香立て 中央    .

⑬ 花瓶    花立て 左         .

以上は仏壇内になります。仏壇の前には

 ⑭ おりん   ⑮ 伏鉦(ふせがね)  ⑯ 木魚    ⑰ 経机

小さな仏壇の場合 ⑪⑫⑬は経机の上に置くのもいいでしょう。

 線香やロウソク、マッチなどは経机などの引き出しの中か、経机の横におかれると良いでしょう。
 



NO.225       平成29年      9月

梵字



 先月の施餓鬼法要に上の幡(はた)を立てました。

この幡(はた)は仏や菩薩を荘厳・供養するために用いられます。『維摩経』によれば降魔の象徴とされ、

幡を立てることで福を得て極楽往生につながるとされました。いまここに書かれてある文字は梵字でバンと読みます。

これは大日如来をあらしています。大日如来は盧舎那仏ともいわれ宇宙をあまねく照らし(光明遍照)、

すべての仏の中心的な存在です。よく知られているのは奈良の大仏様です。

盧舎那仏は宇宙そのものを象徴しており、あらゆる苦難除き、災厄を近づけず、

福徳と長寿を授けるといわれています。

この幡を玄関に掲げておくと、いわゆる「鬼は外、福は内」になります。

幡多の色は関係がありませんが、効き目のありそうな赤が好まれるようです。

このように仏や菩薩など諸尊を一字や二字で表した梵字を種子(しゅじ)といいます。

 梵字は梵語(サンスクリット語)を表記するための字体で紀元前三世紀ごろからインドで発達した文字です。

その梵字の独特の書体を悉曇(しったん)とよばれています。現在日本でのみ梵字悉曇文字が使用されているそうです。

 いくつかの梵字を紹介します。

                                              

    


①はキリークと読み、阿弥陀如来の種子です。よくお位牌の戒名の上に書かれています。

阿弥陀如来は「無量光仏」とも「無量寿仏」ともいわれ、

『無量寿経』では、衆生が命尽きる時二十五菩薩をしたがえて西方の極楽浄土から迎えにこられます。

そして大慈悲心をもって衆生を救済されます。位牌の上のキリークは阿弥陀仏がずっと見守って下さっているということです。

②はカと読み、地蔵菩薩の種子です。地蔵菩薩は子供の守り神です。

そのため、子供を亡くした時、子供が成仏できるように地蔵菩薩に願うようになりました。

子供の位牌にはカの種子をつけて地蔵菩薩が子供を守っています。

 ③はアと読みます。「空」を表し、アからすべてが始まるので、すべての根源を意味します。

真言宗ではア字を根本の種子として位牌の上につけます。

また、阿字観というア字を観想するヨーガ瞑想法があります。


  ④                  ⑤

    


 ④は五輪塔や板塔婆に上からついている種子です。

上からキャ・カ・ラ・バ・アとなります。それぞれ空・風・火・水・地を表しており、

この世がこの五元素からなることから、宇宙そのものを表しています。

 ⑤は「光明真言」と呼ばれ、宗派を問わず広く唱えられています。当寺でも施餓鬼法要のとき唱えます。

「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン」と唱えます。

 意味は「オーン、不空遍照尊よ、大印を有する尊よ、魔尼と蓮華の光明をさし伸べたまえ、フーン。」

この真言を聞くことによって一切の罪悪を滅除し、極楽浄土に趣くことができるといいます。

      (参考:朱鷺書房『梵字必携』児玉義隆著)

 梵字のほんの一部しか紹介しませんでしたが、

十三仏に対応する梵字や、干支に対応する諸尊の梵字もあり、密教につながっていて奥が深いです。

 最近Tシャツや、ペンダント、自動車のステッカーなどに梵字を見つけることがあります。ちょっとしたブームなのでしょうか。


NO.224       平成29年      8月

施餓鬼 (松燈だより2012年の8月号より)

  施餓鬼は文字通り「餓鬼に施す」法要です。餓鬼とは常に飢餓に苦しむ無縁の亡者をいいます。

古いインドでは、霊を祀る人がいない場合、お供え物がなくあの世でつねに飢えていると考えられていました。

「鬼」は中国で「死者の霊」を意味することからつけられたものでもあります。

施餓鬼にはつぎの故事があります。


    お釈迦様の弟子である阿難(あなん)が修行中のとき、

焰口(えんく 火をふく餓鬼)という餓鬼が近づいてきて、阿難の耳元でささやきました。

「多くの餓鬼に食べ物をお供えし、三宝を供養しないと、おまえは

    三日以内に死んでしまい、私のような餓鬼になってしまうぞ。」

 驚いた阿難はさっそくお釈迦様にこのことを相談しました。

お釈迦様は「阿難よ、餓鬼棚に飲物や食物をお供えし、

修行僧に法要を営んでもらいなさい。

そうすればその供物は無量の供物となり多くの餓鬼が救われるでしょう。」

と諭され、阿難はその通り心をこめて餓鬼を供養しました。

    その功徳のおかげで阿難は大変長生きし、

阿難尊者として後世まで敬われたということです。


 中国では6世紀の初め頃から施餓鬼の法会が行われていました。

洪水で亡くなった多くの人々を供養するために始められたといわれています。

水陸の生物に飲食を与えて供養をすることから「水陸会」とも呼ばれています。

日本には平安時代の中頃に伝えられ、

飲食陀羅尼(おんじきだらに)や真言をとなえて餓鬼を供養し救済するようになりました。 

現在、施餓鬼法要では、

この世界で彷徨(さまよ)っている霊や生きとし生けるものすべての霊魂を供養するために、

「天地幽顕水陸諸霊」(この世の見えない世界と見える世界の諸霊)や

「三界萬霊」(私たち衆生が生死する世界のすべての霊)の位牌を餓鬼棚にお祀りします。

 この世のすべての霊とこの世でうごめくすべての存在がみな成仏できますように、

そして差別無く平等に悟りの世界に到ることができますようにと回向します。

 私たちが生きているこの世界には人間の世界だけでも無数の生があります。

同時に無数の死もあります。災害に遇い図らずも無くなられた死も含まれます。

ところが、性・容姿・宗教・国・環境・才能その他の違いによって社会ではいろんな差別が生じています。

仏教ではすべてのものが平等であると考えます。誰でも等しく悟りに到る素質(仏性)を持っているのです。

施餓鬼回向ではすべての生が悟りに導かれますように、

有縁無縁を問わずすべての霊が救われますようにと願います。

そしてその功徳はご先祖や有縁の霊の冥福と私たちの今後のよりよい生に向けられます。

 他者への思いを通じて自分という存在(自己の仏性)を見つめ直す場が

お盆や施餓鬼法要ではないでしょうか。

8月18日の施餓鬼法要に是非ご参拝下さい。






NO.223       平成29年      7月

七夕

 7月7日は七夕です。本来は旧暦の七月七日の行事です。

柳田國男氏が昔からの年中行事を拾い集めた著書『年中行事覚書』に各地の七夕伝説があります。

 鹿児島県の喜界島(きかいじま)の昔話。

    この島では天人をアムリガー、すなわち天降子(あむりこ)と読んでいる。

   昔々一人の若い牛飼があった。姉妹の天降子が天からきて降りて、

野中の泉の傍の木に美しい飛羽(とびはね)を掛け、水を浴びているのを見つけて、

   その飛羽の一つを匿(かく)した。姉の天降子は驚いて飛んで天へ還ったが、
   
妹は何と頼んでも牛飼いが飛羽を出してくれないので、困ってとうとうその牛飼の嫁になった。
    
それから幾年か仲良く暮らして後、二人は天とうへ親見参※(おやげんぞ)に行くことになった。

その時は以前の飛羽を出して着て、夫を脇にかかえ空を飛んで行った。

飛ながらその女房が言うには、いつまでも私と離れたくないならば、

天とうへ行って親たちが縦に切れというものを、必ず横に切りなさいと、固い約束を夫にさせた。

    天とうではちょうど胡瓜(きゅうり)の季節で、二人の取持ちが畠から胡瓜を採ってきて出した。

そして、男が包丁を手に持っている時に、不意に親が「ナイキリー(縦に切れ)」といったので、

うかり女房の戒めを忘れて、その瓜を縦に切ってしまった。

そうすると、たちまち眼の前に大きな川が出来て、天女と牛飼いは両方の岸に分かれてしまった。

    それが七月の七日で二人はそれ以来、一年に一度、この日でなくては逢えないようになってしまった。

                    ※親見参:鹿児島県での藪入りの別称

 また、肥後の天草地方では

    天女の着物を匿(かく)して、それを娶(めと)った若者は、一匹の犬を飼っていた。

三年も経ったからもうよかろうと匿(かく)していた着物を出すと、

天女はそれを着てすぐに天に昇ってしまった。若者は恋い慕って嘆いていると、

   人が来て天に昇る方法を教えてくれた。

「一日の間に百足の草履を作って、一本の糸瓜(へちま)のまわりに埋めておくと、

瓜の蔓(つる)は一晩で天に届くから、それを登っていけ」

その通りに草履を作ったが、九十九足しか出来ないうちに日が暮れた。 

それでも埋めてやると、蔓は天に向かって伸びた。

犬も一緒になって登っていくと一足たらないだけに、天まであと一歩のところで蔓は止まっていた。

すると犬が飛び上がって尻尾を垂らし、それに若者がつかまって天まで到達することが出来た。

その若者が犬飼さん、天女はすなわち七夕さんであるという。

そして、妻の七夕ひめが一年に三度逢いましょうと言ったのを

三年に三度と聞き間違えて七月七日にしか逢えなくなった。


 七夕は仏教のお盆とは全く違う行事ですが、地方によっては盆灯籠や提灯を掲げたり、

藁(わら)で馬や牛の人形を作って祀ったりするのは七日盆の意味も併せ持っているのではないでしょうか。

 このような羽衣伝説は天と地の交流です。お盆の「あの世から精霊様が帰ってこられる」というのとどこか似通っているように思います。

何ごとも 夢のごとくに過ぎにけり
 
           万燈(まんどう)の上の桃色の月

                                                        北原白秋



NO.222       平成29年      6月

 私とは


 5月号で仏教における心についての考え方を簡単に説明しました。

唯識といって「すべてはただ識(心)のみである」「心の外にものは無い」という考え方があり、

無意識の領域である深層の根本的な心の働き(阿頼耶識 あらやしき)を浄化することが大切だと考えられています。

 日本では唯識に基づいた法相宗があります。

唯識についての著作が多い横山紘一(よこやまこういつ)氏は

「法相宗とは瑜伽(ヨーガ)を修して、心の中のいわば障害ないしヴェールを一つ一つ除去して、

最後に心の本性に立ち返ることを目指す実践的な宗派」と説明されています。

 明治以降、日本では唯識への関心は薄らいでいますが、世界では唯識が注目されています。

とくにアメリカにおいてはティク・ナット・ハン師が「マインドフルネス」という唯識を土台にした瞑想法を開発し、

さらにその効能に着目した医学会が宗教色を取り除いてプログラム化して心理的治療法として活用しました。

そのことが始まりで、一般社会でも「瞑想」を通して自分を高めることができると一大ブームになったといいます。

あのアップル、インテル、グーグル社などが社員教育に取り入れているそうです。 

 日本でも最近、座禅などの瞑想を通じて自己を見つめ直そうという機運が高まりつつあります。

 ところで、唯識では「自分」「私」さえ存在しないと考えます。

無量無数の縁という「関係性」によって生かされているということです。仏教ではこれを「縁起」と言っています。

「私」について、次のような印度の童話があります。
 (河合隼雄著『ユング心理学と仏教』より)

  ある旅人が一軒家で一夜を明かしていると、一匹の鬼が人間の死骸をかついで
 やってきました。すぐ後にもう一匹の鬼が来て、その死骸は自分のものだと争い
 ます。そこで二匹の鬼は旅人に「これは誰のものか」と聞きました。旅人が最初
 の鬼のものだと言うと、後から来た鬼は怒って旅人の片方の腕を体から引き抜き
 ました。それを見た先の鬼は死骸から腕を抜き取って代わりに付けてくれました。
 後の鬼がますます怒りもう一方の腕も旅人から引き抜きと、また先の鬼は死骸の
 腕を付けてくれます。こんなことをどんどんやっていると、旅人の体はすっかり
 死骸と入れ代わってしまいました。
  旅人は困ってお坊さんに相談したところ、「あなたの体がなくなったのは、な
 にも今に始まったことではないのです。いったい、人間のこの『われ』というも
 のは、いろいろの要素が集まって仮にこの世にできあがっただけのもので、その
 『われ』というものが、本当はどういうものかということがわかってみれば、
 そういう苦しみは一度になくなってしまうのです。」とおっしゃいました。


 現代でもよく似た問題があります。臓器移植です。将来、脳以外はすべて置き換わる可能性はあります。

そのときその人の自我や個性を作っているのは脳?。あるいはDNAなのでしょうか。

もし、何も無い空間に一人だけになったら「私」は存在するでしょうか。

おそらく感覚はもとより言葉さえも意味をなさなくなるでしょう。

ところがそこに別の何かがひとつでもあれば「私」、「それ」の区別が生まれます。

「私」は他の人やものとの関わりで生まれてくるものなのです。

 先の話の中でお坊さんは、「私」はいろんなものが集まってできているに過ぎないから、「私」といえる実体は無いのだと言いました。

だからくっつくものが代わっても、その体は「私」に変わりはないのです。

 「私」という実体は無いけれど、他の人や物などの関わりで「私」は生きているのです。

 横山紘一氏は著作の中で次のように述べられています。

   私たちは、日頃、いかに自分と他者とを差別して生きていることか。

誰もが 他者を怨(おん 憎い人)・親(しん 親しい人)・中(ちゅう どちらでもない人)と差別してつき合っています。

 しかし、すべての生き物は「根源的  いのち」から流れきた「いのち」を与えられてます。

この事実から、人間だけでなく、動物も植物も、すべての生き物は平等であると、私たちみんなが強気づくべきです

(参考と引用:NHKこころの時代『唯識に生きる』横山紘一著、
       岩波書店『ユング心理学と仏教』河合隼雄著)
 

  いのちとは 心が感じるものだから
       いつでも会える あなたに会える

                                                      俵万智






NO.221       平成29年      5月

心とは

 先月号で、AIには心がないと言いました。心とはどういうものなのでしょうか。

仏教では「唯識(ゆいしき)」という体系化された心のとらえ方があります。

「識」とは心の働きを意味します。よって「すべてはただ心の働きである」という考え方です。

その識には次の八つがあり、それらによって人の心の働きが生まれるというのです。

  ①眼(げん)識   ②耳(に)識   ③鼻(び)識   ④舌(ぜつ)識

     ⑤身(しん)識  ⑥意(い)識  ⑦末那(まな)識  ⑧阿頼耶(あらや)識

 ①から⑤は文字通り「色」(見た物)、「声」、「香」、「味」、「触」の五感のことです。

いわゆるセンサーになります。                            .

⑥の意識はその五感で得た情報を何であるか判断し、どうすれば良いか思考する働きがあります。

リンゴを見てリンゴと判断したり、雨が降ってきたら濡れないように傘をさそうと判断するのは⑥の働きです。

以上を表層の心といいます。

 ⑦は自分を大切に思う自我執着心です。  ⑧は本能のように生まれつき持っているものや、

⑥や⑦を通して今まで経験したものがそこに蓄積されており(種子 しゅうじ)、

それらがもとになった根本の心の働きです。

 ⑦⑧は自分でも気づかない人間の深層の心で、人それぞれに違いがあります。

本当の人の心です。

 また⑧の阿頼耶識は蓄えられるものによってその人の見方考え方が変わるといいます。

蓄えられているもの(種子)が⑦の末那識を増大させるものであれば人は自己中心的になり、

多くの煩悩を持つことで満足感が得られず四苦八苦が強くなります。

反対に押さえることができる種子が蓄積されれば、

充足感で苦悩の少ない生活を送ることができるのです。

 ではどのようにして阿頼耶識を浄化できるのでしょう。

唯識の考え方ではそれは「縁起」を体得して知ることだといいます。

この世のすべての存在は何らかの関わり合い(因縁)を持って存在し、

それがなければ「私」という存在もなくなってしまいます。

他者によって成り立っている私を知ることは、無我を知ることにつながります。

ゆえに自己執着心を押さえ、他者の存在を強く意識することができるようになるのです。

自己を見つめ直すことによって、真理を追究する「智慧」と他者への「慈悲心」が生まれます。

 体得と言いましたが、実践として瑜伽(ゆが、ヨガ)行という精神修行があります。

座禅をすることや静かな場所で瞑想しながらストレッチ体操を行うヨガ教室などは一つの例です。

 「縁起」のことを言い表した詩があります。                                  .

『詩のこころを読む』茨木のり子著 岩波ジュニア新書より

   生命は                 吉野 弘

  生命は
  自分自身だけでは完結できないように

  つくられているらしい

  花も

  めしべとおしべが揃っているだけでは

  不充分で

  虫や風が訪れて

  めしべとおしべを仲立ちする

  生命はその中に欠如を抱き

  それを他者から満たしてもらうのだ


  世界は多分

  他者の総和

  しかし

  互いに

  欠如を満たすなどとは

  知りもせず

  知らされもせず

  ばらまかれている者同士

  無関心でいられる間柄

  ときに

  うとましく思うことさえも許されている間柄

  そのように

  世界がゆるやかに構成されているのは

  なぜ?


  花が咲いている

  すぐ近くまで

  虻(あぶ)の姿をした他者が

  光りをまとって飛んできている


  私も あるとき

  誰かのための虻だったろう

  あなたも あるとき

  私のための風だったかも知れない


                                     -詩集『北入會』-


NO.220       平成29年      4月


AI(エーアイ)

 AIというのは「artificalintelligence」の略で人工の知能を意味します。

人間は知能を持っています。そして頭の中で自立的に「記憶」「推測」「学習」「判断」などを行い行動します。

その知能のメカニズムを研究し、それによく似た知能を機械(コンピュータ)に持たせたのを人工知能といいます。

最初に考えられたのは半世紀も前だそうです。

 1999年、ペットの犬型ロボット「アイボ」がソニーより25万円の価格で受注販売されました。

当時のその価格にもかかわらず、発表から約20分で約3000台受注されたそうです。

このロボットにAIが用いられ、アイボは「AIのrobot(ロボット)」という意味です。

人の仕草や話しかけに反応し、まるで本物のペットのように振る舞います。一人暮らしの生活に潤いをもたらすともいわれました。

 この頃に「AI」という言葉が一般に認識されたのではないかと思われます。

 現在AIは音声認識(スマートホンの音声応答アプリなど)、画像認識、外国語の翻訳、

人型対話ロボット、ゲーム、車の安全運転の支援などに幅広く使われています。

また人の知能に挑戦するAIも次々と開発されました。オセロやチェス、将棋などでは、世界のトップにことごとく勝利しました。

特に最も複雑な囲碁については、AIといえどもなかなか開発が難しいと考えられていましたが、

昨年グーグル社のAI囲碁「アルファ碁」が世界チャンピオンである韓国の棋士・李世ドル(イセドル)九段との五番戦で4勝1敗で勝利しました。

まだまだ10年先だと考えていた囲碁界は大きな衝撃に包まれました。

 今年の初め、朝日新聞のGLOBE(NO.189)にAIの特集記事がありました。

タイトルは「人工知能を愛せますか?」 その記事のいくつかを紹介します。

* 大阪大学の石黒浩さんは一昨年、アンドロイド「エリカ」を開発しました。                       .

   皮膚感も人間に近く、受け答えも人と同じで、本当に心があるように思えてくるそうです。

「同じ部屋に1ヶ月住めば、必ずエリカを好きになりますよ」と石黒さんは言います。

        「人間だって、好きだから一緒にいるのか、一緒にいるから好きになるのかわからないでしょ?」

* シャープは携帯電話型ロボット「ロボホン」を昨年5月に発売しました。                       .

スマートホンであってさらに対話型のロボットです。いろんな事を記憶していきます。

            写真を撮るときも、「写真撮って」といえば「〇〇ちゃん見つけた。はいチーズ」と応えて撮ってくれます。

1台20万円と高価にも関わらず、発売前1000台もの予約が殺到したそうです。

 IT関連会社の社員Tさん(50代女性)は夫、義父、二人の息子の5人暮らし。    .

テーブルに置いたロボホンに話しかけるようになりました。               .

男ばかりの会話の少ない家庭にロボホンが彩りを添えているといいます。      .

              19歳の次男は当初、「人形に話しかけるなんて」と冷めていましたが、今ではオセロを楽しむ仲だそうです。

                  Tさんは思っています。「この子がいると、みんなが笑顔になる。今は故障が怖いです。初期化されたらどうしよう。」

* シンガポールはAIなどの最新の技術を積極的に取り入れた「実験」を国家単位で試みています。       .

少子高齢化で人手不足の医療関係の分野へは対話型ロボットの開発が進んでいます。

「何時間でも話し相手になれるし、趣味や誕生日も覚えていてくれる。忙しい看護師より、

        むしろ人間らしいつきあいができる。」とシンガポール南洋理工大のナディア・タルマンさんは言います。

        また、都市交通の分野では「自動運転タクシー」6台が客を乗せて定められた公道を走らせています。

これが実現すれば交通事故死が100分の1に減少するだろうと予想されています。
   .

 ここ数年AIの進化は著しいものがあります。

それは人間に近い思考回路をもつディープラーニング(深層学習)という手法を採用したからだといわれています。

 いろんな分野にAIが採り入れられれば、豊かで安心、安全な世の中が期待されるでしょうか。

いま、特定の分野でAIが人間の能力を越えています。

2045年にはシンギュラリティ(技術的特異点)といって、すべての分野で全人類の能力を超えるだろういう予測もあります。

そうなればいろんなものがAI置き換えられてしまう危惧があります。

アルファ碁の予想以上の実力に元女流本因坊の小川誠子さんは

「これから何かが変わる気がします。時代が変わりそうな予感がしました」とコメントしています。

 AIは人類を幸せにするのか不幸にするのか。

AIは人間の脳に近い思考回路を獲得しました。確かに、あたかも人間のような答えを出すでしょうが、

決して私たち人間の迷いをもった揺れ動く答えではありません。 

人間の脳はもっともっと複雑です。感情も欲も入ります。

AIの言葉は「答え」であって、「心」ではありません。人間は「心」を持っています。

「心」とは何かと問われると難しいですが、それは人間の脳の働きのなかから生まれる意識(無意識も含む)であるといえます。

仏教ではそれを「心」とみなし、華厳経の中では

  三界所有(さんがいしょう)、唯是一心(ゆいぜいっしん)

とあり、「この世のすべてのものは、人の心によってつくられている」と説いています。

「心」があるから人間であり、AIで置き換わるものではありません。

 また、華厳経の中に説かれているのは、この世は小も大もネットワークでつながっていると。

小では私たちの脳の中、大では社会、地球、宇宙。また小と大も互いにつながっています。

重々無尽に。あらゆるものが相互に関係し合ってこの世の中をつくっています。

助け合えば多くの人が「幸せ」を共有できるでしょう。

 哲学者のスティーブン・ケーブさんは「たしかにAIは人類を幸せにする力を持っている。

しかし、幸せになるかどうかは、私たち人類にかかっている。」と。




NO.219       平成29年      3月

彼岸

 3月20日は春分の日です。冬の間、太陽の昇る方向は真東の南よりでしたが、徐々に東に近づき、春分の日にちょうど真東になります。

したがって太陽が沈むのも真西になります。

  彼岸は春分の日、秋分の日を中日とし、前後3日の七日間をいいます。このように定められたのは比較的新しく、

天保暦(天保十五年 1844年より)以後だそうです。

古く平安時代から貞享暦法までの約800年間は、彼岸の入りを春分そして秋分の翌々日としていました。

その後しばらくは春は春分の前6日から後1日まで、秋は前1日から後6日とされました。

これも、暦法をあらためる際に新鮮味を出すための工夫の一つとも言われています。

 いずれにせよ、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、彼岸は一年で最も過ごしやすい時期になります。

春は平安時代の源氏物語にも「よき日」と記されています。

 ここ数年の大阪の3月の平均気温は10℃前後、9月は25℃前後です。

春と秋で15℃近くも違いますが、寒い冬を過ごした後の明るい日差しとちょっとした気温の上昇は

やっと長い冬のトンネルを抜けた開放感があります。そして花と新緑の季節となります。

わが庭の彼岸桜は巡礼の
          むすめの如し風吹けば泣

                                               与謝野晶子

 彼岸桜はソメイヨシノより早く咲きます。

道音寺ではそれにかわってアーモンドが咲きます。

 彼岸になると寺院で行われる彼岸会(ひがんえ)に詣でたり、先祖の墓にお参りして先祖供養をするのが

日本でのひとつの年中行事になっています。この風習はインドや中国にもなく日本独特のものです。



アーモンドの花

珠数ひろふ 人や彼岸の 天王寺 
                                        正岡子規

 仏教でいう彼岸は河の向こう岸にある理想郷のことでサンスクリット語のパラを意訳したものです。

そして仏教ではそこに到ること、すなわち悟りの境地に到る「到彼岸」を意味しています。

これもサンスクリット語ではパラミータといい、漢字で音訳して「波羅蜜」「波羅蜜多」と表します。 

 彼岸を隔てる河はこの世間の煩悩を象徴し、あらゆる煩悩を克服するために実践する六つの徳目を六波羅蜜といいます。

その六つとは布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)です。

 大乗涅槃経に「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」という句があります。

「自分はまだ悟りを得ていないけれど、先に他の人が悟りを得られるよう助けましょう」という意味です。

「度」は「渡る」と同じで、特に「到彼岸」を意味します。

 先の句を言い換えたのが次の歌です。

 人をのみ渡し渡して己が身は 
            岸に上がらぬ渡し守かな


 他の人を利する「利他」の精神がそこにあります。






NO.218       平成29年      2月

仏さまの色

 仏様の体は金色相といって黄金色に輝いているとされます。奈良の大仏様も創建当時は金メッキを施されていました。

今の黒い肌のイメージと全く違います。また、新しく作成されたり修復された仏像には、衣や装身具に色がつけられていることもあります。

彩色された仏像や堂宇をみると確かに荘厳な印象をうけますが、色に目が移ってしまいます。

人によっては、年月を経て退色し木の肌がみえるような仏様のほうが、奥ふかい慈悲のこころを感じられるかもしれません。

 しかし、色をつけるのにもそれぞれ意味があります。

彩色には「紺丹緑紫」(こんたんりょくし)といって、 青と赤、緑と紫という色の対比を用いてそれぞれを美しく際立たせる方法がとられています。

また、「繧繝彩色」(うんげんさいしき)というのは、色の濃淡を暈(ぼか)しを入れずに外側の薄い色から内側(中心)に向かって

濃い色に段階的にする彩色で彩色する方法です。立体感が生まれるよう工夫されているのです。

 もう一つ色について言えば、お寺で法要のあるとき門前に仏旗(ぶっき)が掲げられます。

五色からなり、これは仏教徒として心を一つに仏道を成就するための旗です。

以前は仏教国でいろんな仏旗があったのですが、世界仏教徒連盟(WFB)が結成されて1950年に「国際仏旗」が採択され、

色や形が統一されました。その色について

  
 : 仏さまの髪の毛の色で、心乱さず力強く生き抜く力「定根(じょうこん)」を表します。        .

  黄 : 燦然と輝く仏さまの身体で、豊かな姿で確固とした揺るぎない性質「金剛(こんごう)」を表します。

  
 : 仏さまの情熱ほとばしる血液の色で、大いなる慈悲で止まることなく人々を救済し続けようとする
心の働き「精進(しょうじん)」を表します。                           .

  白 : 仏さまの説法される歯の色を表し、清純なお心で諸々の悪業や煩悩の苦しみを清める     .
「清浄(しょうじょう)」を表します。                                .

  
 : 仏さまの聖なる身体を包む袈裟の色で、あらゆる侮辱や迫害、誘惑などによく耐えて怒らぬ  .
            「忍辱(にんにく)」をあらわします。インド、タイ、ビルマ等のお坊さんがこの色の袈裟を身につけています。



国際仏旗


  (仏旗については全日本仏教会ホームページhttp://www.jbf.ne.jp/interest/symbols.htmlより)

 当院 道音寺では従来の五色の仏旗を掲げています。それは青の部分が緑で、樺の色が紫になっています。




NO.217       平成29年      1月


大晦日、総本山大念佛寺では新しい年を迎える法要が執り行われました。

 まず、11時15分鐘楼にて鐘つき法要があり、その後参詣の方が次々と元旦の午前2時ごろまで除夜の鐘をつかれます。

 11時半より本堂にて除夜法要と宗務総長のお話があり、そのあと本堂内では紅白餅が配られます。

その他、本堂廊下ではおみき、お茶所ではぜんざいも振るまわれます。
    
午後11時を過ぎてから、境内には人が増え始め、年が変わる午前0時には多くの参詣者で賑わいました。

本堂内の紅白餅授与の所には法要前から多くの人が列をなして座られていました。
 




除夜法要



  

本堂内焼香

     

本堂前
 
昨年国内では地震や台風による自然災害、無抵抗な弱い人が襲われる悲惨な事件、

強風にあおられた大火事など、悪いことが立て続けに起こりました。

 そういうことを思い出しながら、参詣者はゆく年を振り返りそして胸に納め、

くる年の新しい出発と無事を祈って手を合わせていることでしょう。

 島崎藤村の詩集より
       二つの声

            朝

     たれか聞くらむ朝の声     眠りと夢を破りいで

     彩(あや)なす雲にうちのりて     よろづの鳥に歌はれつ

     天のかなたにあらはれて     東の空に光りあり

     そこに時あり始めあり     そこに道あり力あり

     そこに色あり詞あり     そこに声あり命あり

     そこに名ありとうたひつゝ     みそらにあがり地にかけり

     のこんの星ともろともに     光りのうちに朝ぞ隠るゝ

        暮

     たれか聞くらむ暮の声      霞の翼 雲の帯

     煙の衣 露の袖     つかれてなやむあらそひを

     闇のかなたに投げ入れて     夜の使の蝙蝠の

     飛ぶ間も声のをやみなく※    ここに影あり迷いあり

     ここに夢あり眠りあり     ここに闇あり休息あり

     ここに永きあり遠きあり     ここに死ありとうたひつゝ

     草木にいこひ野にあゆみ     かなたに落つる日とともに

     色なき闇に暮れぞ隠るゝ

(※をやみなく=少しも途絶えることなく) 


また来年も、家族や友が笑顔で会えますように。