更新2016/12/4




 

松 燈 だ よ り

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NO.216       平成28年      12月

シンギュラーポイント

 先月5日のお十夜で山本光昭師はいくつかの関連するキーワードについてお話しになりました。

そのひとつが「シンギュラーポイント」です。


     山本光昭師

 シンギュラーポイントは数学上の用語で日本語では「特異点」といわれています。

たとえば1/XのXの値が0のとき1/0は答えがでません。

このように式にあてはめると答えが無限大になったり、決まらないような点を特異点といいます。

アインシュタインは一般相対性理論を1916年に発表しましたが、その理論から重力の特異点が予言されました。

それが天文の分野でよく知られているブラックホールです。

 このようにシンギュラーポイントはもともと数学や科学の用語ですが、

最近は人生の転換点というような意味で使われているようです。

 人生にはシンギュラーポイントという転換期があり、ちょっとしたことを休まず続けていると、

ある時あるきっかけで人生ががらっと変わるというものです。

 日頃から、目立たないけれどもちょっとした善行をこつこつ積んでいる人は、

ある時を境に今までとまったく違う明るい人生が訪れます。

またその逆も然りでちょっとした不正、悪行を積み重ねていると、

それが明らかになれば人からの信頼も無くなり地に落ちる結果となります。

 ブッダの弟子にパンタカ兄弟がいました。母は富豪の娘で、父はそこの使用人でした。

二人は愛し合っていましたが、カースト制度のもとでは結婚はできません。

しかたなく駆け落ちをして最初に生まれたのが兄のマハーパンタカで、後にチューラパンタカが生まれました。

兄弟とも路上で産んだそうです。そのためマハーは「大」、チューラは「小」、パンタカは「道」という意味があります。

兄は聡明でしたが、弟のチューラは物覚えが悪く弟子仲間から愚者とみなされていました。 

自分の愚かさを悲しむチューラ・パンタカに、ブッダは純白の布を与えて

「『塵よ、無くなれ 垢よ、無くなれ』と唱えながら、この白布を手で撫でなさい」と言われました。

彼は教えられたとおり、自分の手をきれいに洗い清め、何度もその言葉を唱えながら白布を撫でました。

はたから見ていると「馬鹿の一つ覚え」と見下す人もいたかもしれません。

それから幾日経ったでしょうか。チューラパンタカの心はなんとなく晴れやかになりました。

それと同時に白布を見てはっとしました。洗ったきれいな手で撫でていたのに、うっすらと汚れていたのです。

 「どうして」と彼は思いました。ブッダは言いました

「白い布が汚れるのは、周りから新たについた汚れだけでなく、

自分の手が時間が経つにつれ汚れてくるからです。体から出てくる垢なのです。

そして白布はその汚れを拭き取ってくれているのです。」

 その時、チューラパンタカは気づきました。

「白布は自分の心の塵や垢も拭き取ってくれている。だから心もこんなに清々しい」

 簡単なことを何の疑いもなく繰り返し行ったことで、チューラパンタカの心に大きな変化、

おそらく覚醒に近いものが生まれたのでしょう。これが第1のシンギュラーポイントといえます。

 ブッダは彼の変化に気づきました。そしてもう一つの白布を与えました。

「今度は、みんなの履き物をこれで拭き取ってあげなさい。」

 チューラパンタカは一生懸命みんなの履き物をその布で拭き取ってきれいにしていきました。

単調でめんどくさい作業ですが、一足きれいにすればそれだけ達成感があります。

多くの履き物をきれいにすればそれだけ自分の心も掃除しているように思えます。

また、みんなに喜ばれ感謝されると嬉しくなるものです。

今まで自分の愚かさを卑下していたチューラパンタカでしたが、生きることの喜びを感じるようになったと言います。

これが彼の第2のシンギュラーポイントです。

 お十夜の「南無阿弥陀仏」のお念仏は、最も簡単なお経です。

「古くさい」「唱えることでどうなるの」と思われる方もいらっしゃるでしょう。

京都や奈良の神社仏閣を訪れたときは、神殿や仏像を前にすると自然に手を合わせてしまいます。

 それは「祈り」であり「願い」であり「誓い」でもあります。

「南無阿弥陀仏」のお念仏もそれと同じです。自分だけでなく他者への思いをこめてのお念仏なのです。

(参考:『法句経入門』松原泰道著 祥伝社)



NO.215       平成28年      11月

お迎え

 
人は臨終の少し前に、先に亡くなった身近な人が迎えに来たという話しはよく耳にします。

いわゆる「お迎え現象」です。 これを医学的な立場で注目した医師がいます。

宮城県や福島県で在宅ケアの医療法人「爽秋会(そうしゅうかい)」を運営する医師の岡部健さん(2012年死去)です。

岡部さんは末期医療に携わって、死期が近づくと「〇〇がお迎えにきた」という患者さんが多いことに驚きました。

さらに「お迎え現象」によって、死の恐怖が和らぎ、穏やかな死をむかえる人の多いことに注目しました。

 「お迎え現象」は医療現場ではよく知られていることですが、医学的に「せん妄」の一種と片付けられているそうです。

脳の酸素不足や全身の衰弱からくる意識障害で幻覚や妄想が生じる現象です。

うまく神経を伝えることができなくなって頭が混乱した状態になっていると診断されるのです。

 しかし岡部さんは、「お迎え現象」がせん妄であったとしても、安らかに旅立つ死へのプロセスと考え、まず実態調査が必要だと考えました。

 2007年、医師や社会学者らと共に、これまで看取った患者700人近くの遺族にアンケート調査を実施しました。

366人の回答があり、うち42.3%が亡くなる前に「お迎え現象」があったと答えています。

 その体験談の多くは、看取る側、看取られる側の双方にのどかな雰囲気が漂い、患者たちが夢見がちに旅立った様子が感じられるそうです。

 「お迎え現象」があったという回答は自宅が87.1%で圧倒的で、病院ではわずか5.2%でした。

病院で亡くなる人は80%ですが、徹底的に管理されたところではそういう現象は起こりにくいのでしょう。

  岡部医師は次のように強調しています。

「お迎え体験が真実かどうか、どう解釈するかは別次元の問題として、患者や家族に苦痛を与えていないことが確かめられた。

お迎えの中に患者の人生が集約されている。『せん妄』と排除せずに、

看取る側が、死に近づいた人の気持ちと寄り添う大切な方法だから尊重すべきだ。」

 「お迎え現象」は2012年8月29日のNHK「クローズアップ現代」にも取り上げられ、看取りのあり方として注目されました。

その番組の中で登場した女性が、母親の「お迎え現象」を語りました。

 「母が、亡くなる5日前に『お友達がさっき来たでしょ』と言うんです。『えっ、来たの』と尋ねると、『うん、さっき来たよ』と。

その母の友達はすでに7年前になくなっているんです。私はぎょっとしましたが、あまりに幸せそうに話しをするのです。

4年前に癌が見つかって以来、まだ死にたくないと言い続けていた母でした。

しかし、心が落ち着いたのでしょうか、穏やかに逝きました。私も母のように死にたいです。」

 番組のゲストで終末期医療に詳しい大井玄氏は、

「幻覚を見るのは人間に備わった心理的な自衛作用です。基本的に私たちの脳は、記憶と経験に基づいて世界を再構築しています。

親しい人とつながったという感覚があると安心できるのですね。記憶と経験からお迎えの世界を見て、つながる。これはおかしくありません。

子どもの時、お母さんが『大丈夫だよ』と言って膝小僧をさすって暮れた時、痛みが消えました。非常に自然なことだと思います。」

 2025年には団塊世代が70歳後半となり、「多死社会」を迎え、また「死に場所難民」が増えて、

多くの人が自宅や老人ホームで亡くなることが多くなります。

 いっそう「お迎え現象」を経験することが多くなりそうですが、あたたかく受け止めることが必要だと思われます。

( http://www.j-cast.com/healthcare/2016/03/01259983.html?p=allより)

亡き母が 夢に出てきて 痛む足

            さすってくるる 何も言わずに
   
                                        
関口すみ 88歳
(『老いの歌』小高賢著 岩波新書より)





NO.214       平成28年      10月


時の鐘

 日が短くなりました。天文年鑑2016によると、
            日出     日没 (大阪)
    9月1日    5:31   18:25
    10月1日    5:53   17:42
    11月1日    6:18   17:04
    12月1日    6:42   16:47

 となっています。日の出はひと月に20分ほど遅くなっていますが、日の入りは40分から50分弱短くなっています。

「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」という諺がありますが、そのことがよくわかります。

 江戸時代、時を知らせるのに鐘が鳴らされました。

とくに夜明け・日暮れの目安は、それぞれ明け六つ・暮れ六つといいました。

この時刻は薄明るい時間帯ですから、実際の日出の約30分ほど前、

日没の約30分後の時刻に定められています。
 
これを境に夜と昼が分けられました。



昼は明け六つから暮れ六つまで六等分してそれぞれ、五つ、四つ、九つ、八つ、七つ、暮れ六つと

鐘を打って時を数えます。

同じように夜も六等分して、暮れ六つ、五つ、四つ、九つ、七つ、明け六つとします。

そして、六等分したその時間間隔が「いっとき」です。
 
このような時間の決め方を不定時法(現在は定時法です)と呼ばれています。

昼と夜の長さは季節によって違うので、当然不定時法では「いっとき」の長さも異なってきます。

冬至のころは夜のいっときは長く、昼のいっときは短くなります

。今年の東京にあてはめると、昼のいっときは約1時間40分、夜は2時間11分となります。

 江戸時代の一般庶民は、時計という便利(?)なものをもっていませんでした。

大体の時刻を打たれる鐘の数で知り、それを目安として生活していました。

正確な時間はそれほど必要なかったのでしょう。


 誰もが正確な時刻を知っていて、それに合わせて生活しなければならない現代人とは違うように思います。
 
時の鐘をつくのに「鐘つき役」というのがいました。

明け六つ、暮れ六つを打つタイミングは、ほぼ彼等の名人芸であったそうです。
 
当時「明暮六つ定めること」として次のような心得がありました。
     
「明け暮れの六つはなはだ定めがたきものなり。まず六つをさだむるに
      
は、大星ぱらぱらと見え、また手の筋を見て細かき筋は見えず、

大筋の三筋ばかりかなりに見ゆるときを、六つと定む。

      しかれども、所々の習う人々の定めようにて、少しずつの違いはある    ものなり。また、雨天には、暮るること早く、

明けることは遅く思わるるものなり。・・・・・・」

 また鐘つき役は、鐘などの設備は自分で調達、設置、運営しなければなりませんでした。

その費用は鐘の料金として徴収していたそうです。武家は免除、町人は年48文だったようです。

 江戸では最初場内にありましたが、日本橋石町(こくちょう)に移されました。

その後上野寛永寺をはじめ9カ所に設置されました。

     石町で 出しても同じ 鐘の割 

 鐘の近くに住む人も、遠くで聞こえにくい人も、同じ料金では割に合わないというぼやき川柳です。

 江戸から京都へ行く、東海道五十三次を歌った民謡があります。
  
  お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり

         行列そろえて あれわいさのさ

         コチャ高輪 夜明けて 提灯消す
      (コチャエー コチャエー)

 日本橋(東京駅あたり)を七つに出発するとあります。

明け六つの一時(いっとき)前ですから、真っ暗で提灯をつけなければなりません。

高輪(品川駅付近)のあたりにさしかかると夜が明けてもう提灯は必要でなくなります。

 ずいぶん前に腕時計が普及し、時間に正確さが求められるようになりました。

いまや携帯電話やスマホが必需品になっています。あるときふと機械に支配され、従属しているような気持ちになります。

 江戸時代使われた時の不定時制は現代では不便で使いものになりません。

それでは今の世界は止まってしまいます。

 しかし、不定時制は自然の営み、自然のリズムをそこに含んでいます。

江戸時代、人々は自然とともにそれに合わせて生活していたのだとあらためて思います。

 正確な時間と機械に振り回されている私たちも時にはまわりの自然を見つめて、

高村光太郎の詩の中にある思いを再発見してみるのもいいかもしれません。

(参考と引用:丸善『理科年表読本 こよみと天文・今昔』内田正男著)


NO.213       平成28年      9月

よみがえり

 「蘇(よみがえ)る」という語の意味は広辞苑によると、「生きかえる」、「蘇生する」、「失っていた活力をとり戻す」などあります。

 「よみ」は仏教が伝わる以前の日本に古くからある大和ことばで、ヤミ(闇)やヤマ(山)が転じた言葉ではないかといわれ、

「死後に魂が行くところ」、「死者が住むと信じられた国」を意味します。

よって「よみがえる」は、死者が「よみのくに」から戻ってくることです。

 親(ちか)しい人が亡くなると、霊魂だけでなくその人の肉体そのもの、誰でもその人自身がもう一度戻ってきて欲しいと願います。

 7月号で七夕の織り姫星(ベガ)のことをお話ししました。ベガはこと座に属します。




この星座にはギリシャ神話のオルフェウスの次のような悲話が込められています。

 オルフェウスは琴の名手でした。この琴は芸術の守護神である太陽の神アポロンから授かったたて琴です。

彼がひとたびたて琴を弾くとその琴の音にすべてのものが心を奪われたといいます。

その様子は「急な流れの川は流れを緩めせせらぎとなり、野獣たちもおとなしく頭を垂れて伏せ、

森の木々は葉擦れの音をやめ、堅牢な岩でさえ堅さを和らげた。」とあります。

 あるときオルフェウスは美しいニンフ※のエウリディケと知り合い、すぐに恋に落ちました。

やがて二人はめでたく結ばれることになり、その結婚式は昼夜美しい楽の音で祝福されました。

 ところがその酒宴の席で、大きな松明が四方に用意されましたが、

その燃え方が悪くモクモク煙を出すばかりであたりは暗くなりました。

みんな不吉な予感を感じましたが、無事結婚式は終了しました。

 ところが悪い予感はあとで的中したのです。

 あるのどかな春の日、エウリディケは友達と一緒に野に出て花摘みをしていました。

友達から離れて花を摘んでいる時、情欲にからんだ羊飼いの男に襲われたのです。

エウリディケは必死で逃げ回りましたが、ついに倒されて気を失ってしまいました。

男が抱き上げた時エウリディケはすでに息を引き取っていました。

走っている時、たまたま毒蛇を踏みつけ、足を噛まれて毒が全身にまわっていたのでした。

 結婚間もないというのに何という運命のいたずらでしょう。

オルフェウスの悲しみは深く、歎き叫ぶ声と、溢れる涙で明け暮れました。

そして「どうしてもエウリディケを取り戻したい」そういう念にとりつかれました。死者が戻ってくる訳がありません。

 しかし、彼は「冥土の王プルトーンに会って、エウリディケを返してもらう。どんなことがあっても」と意を決したのです。

 みんなに反対されましたが、愛用の琴を携えて冥土の入口があるというタイナロス岬へと向かいました。

そこは不気味な暗黒の洞窟です。一歩でも入ると三つの頭を持つという地獄の番犬ケルベロスが襲ってきます。
 
そこでオルフェウスは得意のたて琴を奏でました。

その美しい音色に陶酔したかのようにケルベロスは眠るようにおとなしくなりました。

 プルトーンのところまでまだまだ長い道のりで、いろんな怪物が現れますが琴の音はすべてを味方にしました。

ようやくプルトーンの前にたどり着きエウリディケの死の経緯を話し、

琴を奏でながら「どうかエウリディケを生の国へ戻して下さい」と懇願しました。

ところがプルトーンだけは琴の音は通じません。あるだけのこころを込めて奏でましたが許してもらえません。

しばらくすると、そばにいたプルトーンの妻ペルセフォネが、琴の音に魅せられ、またオルフェウスの話に涙して、

「あまりにも哀れな話しです。ここはオルフェウスの願いを聞いてやってはいかがでしょう」

と夫のプルトーンの耳許にささやきました。

プルトーンも妻の涙には勝てません。「わかった、エウリディケを生の国に戻してやろう。

ただし、一つだけ条件がある。冥界を出るまで後をついてくるエウリディケに声をかけても、振り返って見てもならぬ。よいか。」

「それは簡単なことです。」オルフェウスは応えました。

 そして、亡者に連れてこられたエウリディケの手を後ろに握り、冥土の入口へと向かいました。

しかし、この手が本当にエウリディケなのか、不安がだんだん大きく膨らみました。

そして冥土の入口がみえてきた時、後もう少しという心の緩みから

「よかった。帰ってきた。エウリディケ」と言って後ろを振り向いてしまいました。

「あっ、いけません。あー」という悲痛な叫びとともに

エウリディケは亡者によって再び冥土の闇の中に連れ去られてしまいました。

 また夢中に琴を奏でても、ただむなしい音が響くだけで二度と冥土の入口から入ることはできませんでした。
     (参考と引用:草下英明著「星座とギリシア神話」エール出版)

※「ニンフ」  ギリシャ神話にでてくる自然のなかの精霊で、若く美しい女性で歌や踊りを好む。妖精




NO.212       平成28年      8月

障害者と戦争

 71年前の8月15日正午、日本がポツダム宣言を受諾し敗戦したことを、

天皇がラジオを通じて直接国民に伝えました。玉音放送です。

 そのとき、ある14歳の少年が書き留めた日記には

 ・・・しかし、我々の考えとしては、あくまで闘い、最後の一人まで戦って、死にたいのである。

まだ、こんなに兵力も武器もあるのに……。

たとえ、大和民族が絶えてしまおうとも、恥さらしな降伏をするよりも、

世界の人々から、日本人は最後の一人まで戦って敗れたとたたえらえる方がよい。・・・

とあります。

 当時、子供たちは「最後の一人まで戦う」「玉砕」というのが美しい響きのある言葉として、

軍服を着た教師から教えられたのです。

国は軍国少年少女をつくり出していました。

 そういう考えが当たり前であった当時、障害をもった人たちはどのような状況に置かれたのでしょうか。
 
 萎(な)え身もてば 吾に向けられる記事かとも

               邪魔者は殺せの新聞の記事


 戦時中、障害をもっている人は者は「非国民」「役立たず」とか「穀潰し」と呼ばれていたといいます。

そういう差別意識があり、家族でさえ障害者を家に隠すなどして表に出しませんでした。

 沖縄で戦闘が始まった頃、家族で助け合いながら逃げる最中に、周囲の人たちからは

「障害者は足手まといになる」といわれ、視覚障害をもつ娘は父親に「置いていって」と言ったそうです。

その父親は最後まで家族を守り続けましたが・・・。

 また、脳性小児まひで体に障害がある女性は、母親と満州から山口県に引き上げてきたとき、

兵隊さんがやってきて「障害のある子供は、有事の時に邪魔になるから殺せ」といい、

母親に青酸カリを手渡したのです。

 精神病院においては、入院患者は十分な食事を与えられず、終戦の年には4割が餓死し、

病院によってはマラリヤ注射によって意識的に「処分」されたという証言もあります。

 国外でも、ナチス政権下のドイツでは知的障害者や精神障害者をいかに効率的に殺害するかを医師や科学者が話し合い、

優性思想や安楽死的な考えから「正しい」として、20万人もの障害者が強制断種させられたり、

ガス室に入れられて殺害されました。それがアウシュビッツにつながったともいわれています。

 世間が「お国のため」という教育の中、障害者の中には「負い目」をもつ人も少なくありませんでした。

何とか役に立ちたいと願い、「人間魚雷なら乗れる」と訴えたり、

視覚障害なら耳がいいので音を聞き分ける防空監視員になったりしたそうです。

 日本障害者協議会代表の藤井克徳さんは、自身も視覚障害があり、日本の障害者運動をリードしてこられました。

「世の中の変化で真っ先に切り捨てられるのが障害者です。最初に『生きる価値』の価値付けの対象にされるのです。」

「障害者は『平和じゃないと生きられない』と先鋭的に肌身で感じている」とおっしゃっています。

 以上、「障害者と戦争」などをテーマにした、NHK Eテレ「シリーズ・戦後70年」を参考にしました。

 最後にもうひとつ8月15日の日記から 香川県高松市の小学4年生

寮のおじさんが「戦争が終わったんだ。日本は負けたんだ。

今のは天皇陛下のお声だ。おいたわしい」と言って、目からなみだをこぼした。

その時、お母さんが小さな声で「ああ、よかった」と言った。

( http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/14/70years-post-war_n_7986524.html より)

 


NO.211       平成28年      7月


閻魔(えんま)さま

 閻魔さまは、古代インドの宗教ではヤマ(Yama)と呼ばれ、「冥界の主」でありました。

ヤマには、「罪人を捕まえる」、「平等に裁く」、「苦と楽の報いを受ける」などの意味があり、

そのためヤマは娑婆世界から送られてきた亡者の生前の罪状を吟味して、

その行き先を決める判官達の上司でもありました。

それが中国に伝わり「閻魔」と音訳されたのです。

 閻魔さまは閻魔大王の冠を被り官人の赤い衣をまとって、右手に笏(しゃく)という木の板を持った姿をしています。

赤い顔で正面をにらみつけ、罪人を威圧しているようです。

 冥界には「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ、じょうはりきょう)」という鏡があって、

亡者を裁くときその鏡に向かい合って立たせます。

すると亡者の生前のすべてが何から何まで映し出され、亡者は正直にすべてを告白しなければなりません。

もし嘘をついたなら亡者は舌を抜かれるという俗説も生まれました。

昔から子供には「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるぞ」とよくいったものです。

 平安時代の『十輪経』という経典には、閻魔は地蔵菩薩が変化(へんげ)した姿であると説かれています。

それによって閻魔さまの本当の姿は地蔵菩薩であると広く信じられるようになり、

この世でもあの世でも救ってくれると地蔵菩薩の信仰が日本では盛んになったといいます。

 その当時のある経典の解説書には、冥界の「浄玻璃鏡」には生前の善悪だけでなく、亡き縁者の追善も映し出されるとあり、

六親(父母兄弟夫婦)の追善供養を怠ることなくしていれば、

冥界の裁きの中で大罪があっても閻魔大王や冥官達の印象は良くなると説かれています。

 「地獄の沙汰も金次第」ということわざがあります。

一般的な意味は、閻魔さまの裁きの時でも、財を積めば極楽にもいけるということで、

「万事この世は金で解決できる」ということですが、閻魔さま(ヤマ)は「平等、公正」であります。

 この世で「善」を積み、「徳」を積むことが私たちに求められているのです。

 お盆が近づいています。全国一斉にお盆休みになり、それぞれ予定もあると思いますが、

ご先祖の追善供養も「善」の一つです。小さくてもいいのですから、気持ちをこめたお祀りを心がけて下さい。


NO.210       平成28年      6月

鞍馬寺の毘沙門様

 先日、本山の研修会で鞍馬寺に参拝しました。鞍馬寺は融通念佛宗の始まりと深い関係がある寺院です。

 開祖良忍上人は、永久五年(1017)大原の来迎院で阿弥陀如来から次の仏勅を授かりました。

 「一人一切人 一切人一人  一行一切行 一切行一行
  十界一念 融通念仏  億百万遍 功徳円満


 この融通念仏の仏勅はいずれ多くの人々に伝え広めなければならないと心の準備をされていました。

 そして、天治元年(1124)六月九日、宮中での法要に出立しようとする時、上人の眼前に鞍馬の毘沙門天(多聞天王)が現れて、

「なぜ融通念仏を広めないのか、世の人々のために一日も早く広めなさい」と勧められたのです。

上人は何かの機縁を感じられました。

 無事宮中の法要を終え帰り支度をしている時に、鳥羽上皇から

「融通念仏とはどんな念仏か、ひと休みした後で融通念仏会を執行してもらいたい」

と突然の要請がありました。これこそ毘沙門様のお導きだとお考えになり、喜んで引き受けられました。

その融通念仏会には、多くの官人、女院も参加して、良忍上人の念仏に合わせて同座した全員が唱和しました。

従来の法要と違って、自分自身が主体者となった法要に感激し、座を同じくした全員が皆法悦に浸ったといわれています。

そして上皇からは勧進帳を賜り、官人、女官も競って名を記しました。

この時をもって融通念佛宗が創立されたのです。

 その後、良人上人は夏の暑さのなか各地を勧進帳をもって回られました。

六月末日には名を連ねた人数は3282人に及びました。

 また、一説には、大原来迎院で上人が朝に念仏を唱えていると、青衣の青年僧が現れて、

名帳に入りたいと申し出て記帳してもらったところ、忽然としてその姿が消え去りました。

不思議に思って名帳を見ると、そこに毘沙門天王の名があり、

「我はこれ仏法の擁護者鞍馬寺の毘沙門天王なり、念仏結縁の衆を守護せんがために来入する所なり」

と記されていたといいます。

 鞍馬の毘沙門様の機縁と守護がなければ良忍上人の融通念仏は広まらなかっったかも知れません。

今日でも各寺院の朝夕の勤行では、「融通護法多聞天王」として報恩感謝の回向をしています。


 
 鞍馬寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』によりますと、鑑禎(がんちょう)上人※1は宝亀元年(770)正月四日寅の夜の夢告により、

鞍を背負った白馬の導きで鞍馬山に登山したところ鬼女に襲われましたが、そのとき毘沙門天が現れ助けられました。

鑑禎上人は仏法を守護する毘沙門天が降臨したと悟り、草庵を結んでその毘沙門天をお祀りしました。

 その毘沙門天(国宝)が上の写真です。一般的な毘沙門天(多聞天王)は右手に罪業を除く鉾を持ち、左手に富貴を与える宝塔を持っています。

しかし、鞍馬寺の毘沙門天の左手は遠くを眺めるようにかざしています。

これは平安京守護を意味しています。平安の時代からずっと京都の町を見守って下さっているのです。

 鞍馬寺でいただいたガイドブック「鞍馬山」の裏表紙に「いのちの環」という言葉がありました。一部を紹介します。

      いのちの環

      自然を敬い

        自然に感謝し 鞍馬寺 毘沙門天

      自然と共に生き

        自然の教えを聴き

      自然の中に

        自分と同じいのちをみつける




※1 日本に戒律を伝え、唐招提寺を建立した鑑真(がんじん)和上の高弟

(参考:「良忍上人」杉崎大慧著 金林文集、「鞍馬寺」鞍馬寺ガイドブック)



NO.209       平成28年      5月

滅諦(めったい)

 仏教の真理に滅諦があります。「苦の原因は執着にあり、その燃えたぎる炎を静めることが安らぎにつながる」ということです。

                「急ぐ」        谷川俊太郎

     こんなに急いでいいのだろうか

     田植えする人々の上を

     時速200キロで通りすぎ

     私には彼らの手が見えない

     心を思いやる暇がない

     (だから手にも心にも形容詞はつかない)

     この速度は速すぎて間が抜けている

     苦しみも怒りも不公平も絶望も

     すべては流れていく風景

     こんなに急いでいいのだろうか

     私の体は速達小包

     私の心は消印された切手

     しかもなお間にあわない

     急いでも急いでも間にあわない


 谷川俊太郎さんが初めて新幹線「ひかり号」に乗って、米原付近を通過した時にこの詩を作られたそうです。

新幹線の誕生が昭和38年ですからその頃でしょう。

 速いことは便利ですが、それによって時間の余裕ができるかというとそうではありません。

事務的な面で考えると、速いことによって仕事の量が増え、細かいところまで目が行き届かないことがおこります。

大切なことを無視してしまうことにもなりかねません。

私もパソコンを使うようになって、事務処理が速くなりましたが、

それだけ情報量が増え、チェックがおろそかになってミスも増えました。

 便利さがかえって人から時間を奪い、人は忙しく、慌ただしくしています。

「忙」とはご存じのように「心」を「亡くす」と書きます。「慌」は「心」が「荒れる」です。

 次の詩句が仏教の原初的な経典である発句経にあります。

       こころしずかなり

       語(ことば)おだやかなり

       行いもゆるやかなり

       この人こそ

       正しいさとりを得
       
      身と心の安らぎを
      
      得たる人なり

 

 時間に追われた生活をしていると、まわりを観る余裕がなくなり大事なことを見落としてしまいます。

また言葉が荒くなって人を傷つけたり、行動が粗雑になったりします。

IT化とそれに伴う技術が浸透した現代、それに抗(あらが)うことはなかなか困難ですが、

ときどき周りを振り向いてみてはどうでしょうか。 自身の反省もこめて・・・

 4月27日に九州新幹線、29日に九州自動車道が復旧しました。

しかし、在来線や一般道はまだまだ時間がかかるようです。仮設住宅の建設も29日に始まったばかりです。

余震が収まらなくて避難を余儀なくされている方が多いというのに、便利なものが優先されるように思います。

思い過ごしかも知れませんが。

(引用:松原泰道著『発句経入門』)




NO.208         平成28年      4月

万部法要



  総本山大念佛寺の山門前に建てられた一茶の歌碑

春風や 順礼ともか ねり供養   
                                      一茶

 昨年は開宗900年、大通上人三百回御遠忌のため、

総本山大念佛寺では 5月1日から7日の間の盛大な法要が営まれました。

 今年は例年通り5日間厳修されます。

 この行事の中心は午後からの二十五菩薩のおねりですが、そのほか午前中にもイベントがあります。

5月1日、2日はそれぞれ八島念仏講、安堵念仏講。古来の融通念佛の講を伝えるものといわれています。

3日は融通声明コンサートで今年はハープと声楽と声明の三者のコラボレーションを試みられます。

4日は雅のハーモニー。僧侶の雅楽の会「楽友会」が舞楽の舞と心に染みわたる音色を披露します。

 5日は世界平和祈願護摩供養があります。平野五流講によって執り行われます。

昭和29年1月3日に境内内に平野五流講金吉組により龍王殿が建立されたのをきっかけに、

京都の聖護院で得度を受けた五流講が世界平和護摩供養のために万部法要の5月5日に大護摩を焚くようになりました。

現在は関西の各地からたくさんの行者講が集まり、この世界平和を祈願する護摩供養を厳修しています。

 護摩とは供物(護摩木、五穀など)を炎に投じて神仏を供養する修法のことです。

 火の龍王が煙とともに供物を仏様に届けて、願い事をかなえると言います。密教にのみ存在する修法のひとつです。

 また百人を越える山伏のお渡りもあります。



 護摩の浄火を受けることは、古来より厄難を除き、星廻りの災いを避け、

よりよく年を送るのによい方策であるといわれ、信仰されてきました。

そして、護摩は願い事成就のみならず、自己の煩悩を焼き尽くします。

一心に祈願することで、自身を浄化させるのです。
                                                     (「大念佛」平成24年4月20日掲載文より)






NO.207         平成28年      3月


お水取り

 春を告げる行事として東大寺のお水取りがあります。それは二月堂で行われる「修二会(しゅにえ)」という法要です。

 奈良時代に始まり、もともと旧暦の二月一日からの行事でしたので、二月に修するという意味で修二会といいます。

二月堂の名称もこれに由来しているそうです。

 当初の修二会は国家や万民のためになされた宗教行事で、鎮護国家、天下泰安、五穀豊穣など、

人々の幸福を願う行事とされていました。

 東大寺の修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」といいます。

「悔過(けか)」とは過ちを悔いることをいいますが、時代が下がって「懺悔(さんげ)」というようになりました。

すなわち二月堂の本尊である十一面観世音菩薩のまえで懺悔(さんげ)する法要です。

懺悔し罪を祓うことによって、天下太平、五穀豊穣などの功徳がもたらされると考えられたのです。

 現在、12月に指名された僧侶(練行衆 れんぎょうしゅう)11名によって修二会が厳修されます。

まず2月から「別火(べっか)」とよばれる準備のための厳しい前行に入ります。

続いて本行は3月1日から14日まで行われ、15日に満行となります。

 その本行の期間中、二月堂に上堂する練行衆の道明かりとしてお松明が灯されます。

 3月12日の深夜(13日の午前1時半頃)若狭井(わかさい)という井戸から「お香水(おこうずい)」をくみ上げ、

観音さまにお供えする儀式があります。これが「お水取り」です。

 この日灯される松明は籠松明(かごたいま)といわれ、長さ6mほどの根付きの竹の先端に、

杉の葉やヘギ・杉の薄板で籠目状に仕上げ、直径1mほどの大きさの松明に仕上げられています。

この松明を堂内で振り回し火の海と化します。それゆえ「火と水の祭り」ともいわれています。


 旧暦で行われていた頃は、一日が新月、十五日が満月ですから、

本行が始まってから日を追うごとに月が満ちていき、最終日の十四日目の夜にはまん丸な月が二月堂を照らしていたことでしょう。

 ところで、私たちの月参りのお経にも「懺悔文(さんげもん)」があります。

 華厳経というお経の中の一節ですが、よく知られた偈文で多くの宗派で唱えられています。

  我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

  皆由無始貪瞋癡(かいゆむしとんじんち)

  従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)

  一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
 
私が昔からおかしてきた諸々の悪行は
すべて遠い過去からの、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(無知)によるもので
私の体や言葉や思いを通して生まれました
私は今、これらのあやまちを全て懺悔致します


 私たちもこの偈文を唱えることによって、仏様の前で自分の犯した罪を懺悔し、

清らかな心になって亡き人を供養し、家内安全、身体堅固などを願うのです。

 また、仏様に合掌をするということは、この偈文を唱えなくても、自然と懺悔の心になっているのではないでしょうか。

       (参考:東大寺ホームページ)





NO.206         平成28年      2月

 
黒龍と黒姫

 長野駅から北しなの線に30分ほど乗ると、「黒姫」という駅に着きます。駅の西側に台形のような山がそびえています。

信濃富士とも呼ばれる黒姫山です。また駅の東側には山に対面するように野尻湖が水をたたえています。

ナウマン象の発掘で有名な湖ですが、遊覧船から黒姫山や飯縄山、妙高山の雄姿をパノラマで見ることができる絶景の湖でもあります。

 下の写真は戸隠スキー場からみた黒姫山です。



 この黒姫山には次のような民話があります。

 昔々、信州中野に小館城というお城がありました。そのお城には高梨摂津守(かみ)正盛という殿様が住んでいました。

殿様にはたいそう美しい姫様がおられて、名を黒姫といいました。

 ある春の日、殿様は黒姫を連れて家臣とともに東山というところで一日花見をしました。

 暖かい、うっとりするような穏やかな昼下がりでした。

殿様は花の陰に小さな白蛇を見つけました。そして黒姫に盃を渡し、「その白蛇にお酒を飲ませてやりなさい」と言いました。

黒姫は白く柔らかな手で盃を白蛇に差し出しました。

 実はこの白蛇は大沼池(野尻湖?)の主、黒龍の化身だったのです。

そして、黒龍はこの日から黒姫に恋い焦がれるようなりました。

その想いがあまりにも強く、黒姫の寝所に美しい小姓(武将の侍者)の姿となって、「私の妻になって下さい」と申し出たのです。

黒姫もその小姓(武将の侍者)に心を魅かれ、「私も同じ気持です。でも、父の許しを得て下さい」と言いました。

 小姓は殿様に自分の素性と黒姫への気持を打ち明け、妻にめとりたいと申し出たのです。

殿様は「龍には娘を嫁がすことはできない」とむげもなく断りました。

 でも黒龍は礼を尽くして許しを乞いに毎日のように殿様のところに通いました。

 百日たった時、小姓は姿を正して殿様に言いました。

「これほど頼んでも許してもらえないのですか。洪水を起こして姫をさらうのはわけもないこと。

しかし、そんなことをしたくないからお願いしているのです。

もし姫を下されば湯ノ山四十八池の眷属(けんぞく 神の使い)をあげて高梨家をお守りしましょう」

 殿様は少し考えて言いました。

「それなら明日私が馬で城の周りを21回まわる。それに遅れずついて来ることができたら、喜んで娘を嫁がせよう。」

 殿様は一計を案じていたのです。

お城の周りに刀を刃が出るように植えさせました。そして自分は馬に乗って走りました。

小姓の姿をした黒龍は負けるものかと後をついていきましたが、刀の刃は小姓の体を切り裂きました。

しだいに苦しくなってきた小姓はついに本性を現し、龍の姿になってそれでも這いずりながら後を追いかけました。

血みどろになりながら恐ろしい姿で二十一回を回りました。

 そして「約束通り、黒姫を下さい」と願いました。

しかし殿様は「自分の醜い姿を見よ。」と冷たく笑い、家臣に斬りかからせました。

 黒龍はとうとう我慢ができず怒り狂って嵐を呼び、大暴風雨が押しよせました。

襲ってくる洪水に中野の町は、泣き叫ぶ声と共になにもかも濁流に呑み込まれてしまいました。

 黒姫は殿様に言いました。

「どうして約束を破ったのですか。人として恥ずかしいことです。どうか私を黒龍のところに行かせて下さい。」

 しかし、殿様はその言葉に取り合いません。黒姫は意を決して外に走り出し、空に向かって鏡を投げ上げました。

するとたちまち黒龍は天より現れ出で、黒姫を背中に乗せて空に昇っていきました。

そのとき黒姫は中野の村の惨憺たる様子をみて黒龍に言いました。

「父があなたを裏切ったとはいえ、なぜ罪もない人たちにあのようなむごいことをしたの」

 姫の優しい気持ちを知った黒龍は我に返りました。

「許して下さい、もう決してこのようなことはしません。」と誓いました。
 
そして、鏡にみちびかれて二人はある山の頂上の池に移り住んだといいます。そこが黒姫山なのです。

       (引用:「民話の世界」松谷みよ子著 講談社現代新書)



NO.205         平成28年      1月


十二支(じゅうにし)

 十二支の歴史は古く、紀元前17世紀から紀元前11世紀頃の殷(いん)の時代にさかのぼります。

その時代の甲骨文には十干(じっかん )と組み合わせて日付を記録する手段として残されています。

これを干支(かんし)といって正確にはこれが「兄(え)弟(と)」になります。

そして中国の戦国時代(韓・魏・趙の三国時代、紀元前403年から紀元前221年の間)になると、

それは年・月・時刻・方位にも利用されるようになりました。

子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の各文字は、

一説によればそれぞれ月を当てはめた時の植物の成長過程を表しているといわれています。

子: 種、身、卵など元のものから生じたもの。
   旧暦11月
                   丑: 芽が出かかっていますが、曲がっていてまだ出ていない状態を表します。
   旧12月
             寅: いん「動く」の意味で、春が来て草木が生ずる状態を表します。
   旧暦1月
                 卯: 「しげる」の意味で、草木が伸びて若葉が茂ってきた状態を表します。
   旧暦2月
                  辰: 「動いて伸びる」「整う」の意味で、草木が盛んに成長し形を整える時期
   旧暦3月
                   巳: 植物の生長が極限に達して、次の生命が生まれ始まる状態を表します。
   旧暦4月
           午: 草木の成長が終わり、衰えを見せ始めた状態を表します。
   旧暦5月
未: 果実が熟して味わい深い状態になる   .
   旧暦6月
      申: 植物が伸びきり、果実が成熟して堅くなっていく状態
   旧暦7月
  酉: 果実が熟し酒を抽出できるまで成熟した状態
   旧暦8月
戌: 「滅」を表し、草が枯れる状態        .
   旧暦9月
           亥: 「閉ざす」という意味があり、植物の生命力が閉ざされた状態
   旧暦10月

これでは一般庶民にとっては分かりづらいので、

それぞれ現在使われているような身近な動物をあてはめるようになりました。

動物を当てはめるにあたっては、いろんな説があります。だいたいのところをお話ししますと、

昔々、お釈迦様が動物たちに告げられました。

「元日の朝に集まりなさい、早く来た者から順に12番まで年の守り神にしましょう。」
 
動物たちは元日の朝を心待ちにしました。そして当日12番まで順に来たのは、

ネズミ、ウシ、トラ、ウサギ、タツ、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、イノシシでした。

 ウシはゆっくり歩くので遅れないよう前日から出発しました。

ネズミはちゃっかりウシの背中に乗り、直前で飛び降りてウシよりも先にゴールしました。

 ネコもお釈迦様から聞いていたのですが、はっきりしなかったのでネズミにいつだったか尋ねました。

ネズミは「1月2日の朝だよ」と答えたのです。

 それで、ネコは元旦の朝はゆっくり寝て、次の日の早朝お釈迦様の所へ行きました。

誰もいないので自分が一番だと思っていましたが、

お釈迦様から一日遅れであることを知らされるとがっかりしてしまいました。

そしてネズミにだまされたことを知ると、悔しさと怒りでネズミへの恨みがふくれあがり、

トムとジェリーのようにネコはネズミを追いかけるようになったといいます。

 また、トリがサルとイヌの間に入っているのは、仲の悪い二人(犬猿の仲)を仲裁していたためだそうです。

 さて、今年は申(さる)年です。

「三猿(さんえん)」といって「見ざる、聞かざる、言わざる」の三匹の猿が描かれたり彫られたりします。

有名なところでは日光東照宮の左甚五郎作の三猿像です。

「さる」を扱っているので日本独自の表現のように思われがちですが、

三匹の猿の似た表現はアジアやヨーロッパ、アメリカなど世界各地にあるようです。

インドのマハトマ・ガンジーも三猿像を用いて「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたといわれています。

 しかし現代のように、グローバル化、IT化、地球温暖化、・・・など、ますます複雑になっていく社会においては、

何事もよく見て、聞く耳をもって、自分の考えを言えるようにしなければならないでしょう。

 また、私のように高齢者(65歳以上)に一歩踏み込んだ者にとって、

心身ともに老いないために、「よく見る、よく聞く、よく話す」ことは大切だと思います。