更新2015/12/4





 

松 燈 だ よ り

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NO.204         平成27年      12月

クモの糸


ジョロウグモ

8月頃からハナミズキの木の下で、左の写真のように、クモが糸を張って巣を作っていました。

現在胴体の長さは3cmほどで、種類はジョロウグモのようです。

 巣にかかった昆虫を、糸から伝わってくる震動で察知するようです。

捕獲した獲物を毒で動けなくし、数日で捕食します。毒をもっていますが、わずかなので人が噛まれても障害はないそうです。
 
 芥川龍之介の短編に、『蜘蛛の糸』があります。

 ある日の事、お釈迦様が極楽の蓮池を歩いていらっしゃいました。少し立ち止まって池の底(地獄)をのぞいてみると、

カンダタという罪人が他の罪人といっしょに地獄で蠢(うごめ)いているのが目にとまりました。

お釈迦様はカンダタには善い行いがあったことを思い出していました。

それはある時、道ばたを這っている小さな蜘蛛を見つけ、カンダタは踏み殺そうとしましたが、

「いやいや、小さいながら命あるもの。それはかわいそうだ」と思い直して助けてやったのです。

 お釈迦様はカンダタを地獄から救い出してやろうとお考えになりました。

ちょうどそばの蓮の葉に一匹の蜘蛛が美しい銀色の糸をかけていました。

その糸をお取りになり蓮池の地獄の底へまっすぐに下ろされました。

 地獄の責め苦でもがいているカンダタがふと上を見上げると、天上から銀色の蜘蛛の糸が

細く光りながら自分の方へたれてくるのが見えました。

この糸をよじ登っていけば地獄から抜け出して、うまくいけば極楽へもいけるかもしれないとカンダタは思い、

蜘蛛の糸をしっかりつかんで一生懸命上へ上へと登り始めました。

 大泥棒でよじ登ることには長けていましたが、地獄と極楽との間は何万里とあります。容易には上に出られません。

くたびれたところで一休みしました。下をみると、地獄の世界はいつの間にか暗闇の中に隠れて見えなくなっています。

「しめた」と小さな声を出し笑みをうかべました。

 ところがよくよく下を見ていると、何やら小さい物が蜘蛛の糸にくっついて動いているように見えます。

それは同じようによじ登ってきた数限りもない罪人たちでした。カンダタは驚きました。

そして、自分一人でも切れてしまいそうな蜘蛛の糸なのに、

あれだけの人数の重みには到底堪えられないと思うと恐ろしくなりました。

せっかくここまで上ってきたのに、肝腎な自分までもが元の地獄に落ちてしまいます。

 どうしようと思っている間にも、何百、何千もの罪人たちがせっせと上ってきます。

今のうちにどうにかしないと糸は切れるに違いありません。

 そこで、カンダタは大きな声を出しました。 「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。

お前たちは一体誰に聞いて上ってきた。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。

 その途端、今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下がっているところから、ぷつりと音を立てて切れました。

カンダタはあっという間もなく、まっさかさまに落ちて、みるみる暗闇の中に消えていきました。

 お釈迦様は一部始終を池のふちでじっと見ていらっしゃいましたが、

悲しそうなご様子で、またゆっくりと歩き始められました。

 お釈迦様はカンダタの小さな慈悲心に期待しました。

蜘蛛の糸は慈悲で紡がれた糸です。確かにカンダタのために下ろされて糸ですが、

その者に寛容な心がなければ一瞬にして糸は崩壊して切れてしまうのでしょう。

 ところでクモの子供の習性として、一本のクモの糸をクモの子供達が上る時、先頭の子は先を譲るそうです。

クモに心があるかどうかは分かりませんが、私たちならどうするでしょうか。
 
 今年も残り少なくなりました。どうか健康でよい年をお迎え下さい。



NO.203         平成27年      11月

菩薩
 
 
 観音大悲は舟筏(しゅうばつ)、補陀落海にぞうかべたる、

                             
善根もとむる人しあらば、乗せて渡さむ極楽へ
                                                                        (梁塵秘抄)

       大悲:すべてを包む大きな慈悲 舟筏:舟といかだ
      補陀落:観音菩薩が住むという南方の島

 (観音菩薩の大慈悲は補陀落の海に浮かべた舟である。

善根を求める人であれば必ず乗せて極楽に渡してくれる)

 6月に観音菩薩、9月に地蔵菩薩をそれぞれとりあげました。では「菩薩」とはどういう方をいうのでしょうか。

 「菩薩」というのは「菩提薩埵(ぼだいさった)」とも表され、サンスクリット語(インドの古い言語)の

「ボディー・サットヴァ」を中国で漢字に音写されたものです。

「ボディー」は「菩提」で仏の悟りをいい、「サットヴァ」は生きとしける者、衆生のことをいいます。

すなわち「菩薩」は悟りを求める人、修行者のことです。

 古くは、悟りを得るまでのブッダその人を意味したようですが、日本に伝わった大乗仏教では、悟りを求めて修行をし、

自分よりも他の人の救済を第一に考え行動する(利他行する)人を「菩薩」といいました。

 「菩薩」の修行徳目は一般的に「六波羅蜜」といわれています。「波羅蜜」はサンスクリット語の「パーラミター」のことで、

「彼岸に到る」、「悟りの完成」という意味をもちます。

 その徳目とは「布施」「持戒」「忍辱(にんにく)」「精進」「禅定」「般若(または智慧)」の六つです。

 「布施波羅蜜」は、見返りを求めず上下の関係を持たずに、惜しみなく与える行為です。利他行そのものです。

 「持戒波羅蜜」は、仏・法・僧の三宝に深く帰依し、戒を常に持(たも)つことです。

とくに「摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)」といって一切の衆生にあまねく慈悲の手をさしのべることに重きをおきます。

 「忍辱波羅蜜」は耐え忍ぶことですが、菩薩はとくに「無生法忍(むしょうぼうにん)」を得ることを求められます。

「無生法忍」とは、この世のすべてに自我がなく、生ずるということがないと認める境地をいいます。

自分と他を隔てているものがなくなり、あらゆるものの力によって互いに生かされていると感じることです。

 「精進波羅蜜」は徳目の完成に向かって仏道を邁進することです。

 「禅定波羅蜜」は心を静かに保って瞑想すること。

 「般若波羅蜜」は仏の智慧の完成です。「般若心経」でいう「すべてが空である」と理解することです。

 私たち凡夫はなかなか菩薩のような修行の完成には至りません。迷いが断ちきれないからです。

しかし、『無量義経』によると「 いまだ六波羅蜜を修行することを得ずといえども、六波羅蜜自然に在前す」とあります。

修行が完成していなくても自然に目の前の近いところにあるということでしょうか。

 仏教学者の紀野一義氏が、あるお寺で講演なさいました。講演後控え室に戻られた時、初老の紳士が訪ねてこられました。

彼は物静かに尋ねました、

「私は胃がんを病んでおります。もう助からぬと思います。しかし私には、どうしても赦(ゆる)せない男が一人おるのです。

死ぬ前にその男に会って、話し合った上で、その男が心からわびてくれたら快く赦して、

その上で死んでゆきたいのですが、そうするのは間違いでしょうか」

 紀野氏は死が迫っている人に「それでいいでしょう」と言ってあげたかったけれど、

本当のことを言わなければならないと思いました。

 「それはなりません。話し合って相手が詫びたから赦すというのでは赦すことになりません。

赦すなら無条件で赦すのです。それしかありません。話し合って相手が詫びなかったらどうします。

死んでも死にきれないでしょう。無条件で赦してあげなさい。それしかないのです。」

 その人はうつむいてしばらく黙っていましたが、頭をあげて晴れ晴れとした顔でこう言いました。

「先生、よう分かりました。この場であの人に対する怨みは捨てました。あの人を赦すことにします。

どうもありがとうございました。これで安心して死ぬことができます。」

 無条件に赦すということは布施行のひとつかどうか分かりませんが、自我への執着を捨てていることになります。

それは他者を救うことにつながるわけですがそれよりも自身が解放され安らかな菩提の世界に導かれのです。

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・」の詩があります。

また彼は「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉も遺しています。賢治菩薩の生き方です。

 いつも他を思いやる気持ちをもつことが善行につながり、

たとえ病の床にいるときでも、耐えがたい状況にある時でもその善行によって人は幸せを感じるのです。

(引用と参考:紀野一義著『法華経を読む』講談社現代新書、
  宮元啓一著『古代仏教の世界』光文社文、
  ロジャー・パルバース著『NHK100分de名著 宮沢賢治 銀河鉄道の夜』)





NO.202         平成27年      10月


お十夜のおこり

 お十夜は15世紀中頃の室町時代に始まります。今から580年ほど前の足利義教が六代将軍として執権についたころです。

京都に平貞国(伊勢貞国)という仏教への信仰心が篤い武将がいました。

伊勢氏は政所(まんどころ)執事という幕府の要職を代々まかされ、家督を継いでいた兄の伊勢貞経もその要職にありました。

 その頃の将軍足利義教の執政は、有力守護家の弱体化、将軍への権力集中を強引に図り、

公家や寺社に対しても延暦寺の僧侶を斬殺するなど、「万人恐怖」と評されるほどの専制政治を行っていたとされます。

そのため、反乱や企みそして農民の土一揆など、社会は混乱と不安が渦巻いていました。

 そんな中、阿弥陀仏に深く帰依していた貞国はこの世の無常を思い悩み、

自分が弟であり家督は兄が継いでいるので、出家して仏道に生きようと思い立ったのです。

京都に真如堂という不断念仏の道場がありました。

『真如堂縁起』によると、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を安置してあり、念仏行者や庶民、女性からも信仰を得ていたといいます。

 永享三年(1431)のことです。貞国はその真如堂にこもり、昼夜念仏の行をおこないました。

そして三日目、枕にひとりの僧が立って

、「信仰心篤く、阿弥陀様に帰依していることはよくわかる。しかし、出家するのは少し待ちなさい」と告げられました。

気になった貞国は家に帰ってみると、兄の貞経は上位に背いたと言うことで、吉野に謹慎させられていました。

もし、自分が出家していたなら家は断絶しているところでした。

結局、貞国が家督と政所執事の要職も継ぐことになったのでした。


僧侶が夢枕に『真如堂縁起絵巻』より

 「これも阿弥陀様を信じて日頃お念仏を称えているおかげだ。」と

感謝の念でいっぱいになり。さらに真如堂にこもり七日七夜お念仏を称えられました。

 これが、三日と七日合わせて十日十夜の念仏行、「お十夜」の始まりだといわれています。

 そして明応四年(1495年)、後土御門天皇の信頼が厚い浄土宗の観誉祐宗が勅許を得て鎌倉光明寺で十夜会を厳修し、

それが全国の寺院で行われるようになりました。旧暦の十月五日夜半から十五日朝までの十昼夜つとめられます。

 また、浄土三部経のひとつ『無量寿経』の一節には

 「この世で十日十夜のあいだ善をなせば、仏国土で千年の間善をなすのに勝る。

仏の世界ではだれでもが善をなし、悪をなす者がいない。それが当たり前の世界なのだから、

悪が多く善をなすものが少ないこの娑婆世界では、善を行うことはそれだけ貴いものなのだ。」とあります。

 この世で行う善行の貴さを説いています。この一節がお十夜をつとめる仏教的な心の根拠になっています。



 真如堂(真正極楽寺)のお十夜

   11月5日から15日にかけて、午後6時半から講の人が八つの音階の違う
   
   直径30cmの鉦(しょう かね)を打ちながら南無阿弥陀仏を念じます。

    15日は「お練り」があり、山伏、稚児、紫の衣を着た正装の僧侶達が本堂

   に入堂し、午後2時から結願大法要がいとなまれます。          

 
   鉦講による念仏               十夜粥        .

   午後5時 本尊ご閉帳法要

                    本尊結縁:拝観の方は午前9時~午後4時頃まで、
                          本尊のすぐ前まで参拝できます。
                  
                          また結願の15日は十夜粥という小豆粥が振る舞われます。
                         ちなみに、「おじや」の語源が「お十夜」という説があります。
                         (参考   http://kusyami.com/gyozi/zyuya.htmlより)

 
鎌倉光明寺の十夜法要

 
浄土宗大本山鎌倉光明寺                十夜法要のようす

 光明寺では毎年 10月12日~15日にかけて盛大に行われます。

      ・献茶式(12日)   ・雅楽奉納(13、14日)  ・稚児礼讃舞踊(13、14日)
  ・双盤念仏(13、14日)  ・お練り(13、14日)   ・夜店(13、14日)
  ・施餓鬼法要(13、14日)   ・結願法要(15日)          .


     光明寺の十夜法要
(写真は http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/jyuuya.htm より転載)


 今年の道音寺のお十夜は10月31日(土)午後2時より始まります。

  一、十夜会法要  午後2時より
経木回向一霊300円

一、法話      午後3時頃
    講師 吉村明山 師

     一、施粥(招福小豆粥) 午後4時頃 

                       前日から小豆を炊いておき、当日の法話の時に粥を炊きながら
                  その小豆をいれます。漬け物は前日の夜から漬けます。

                          今年最後の行事です。皆様お誘い合わせのうえどうぞご参詣下さい。

                     いつものことながら、

                    お十夜が終われば、師走、正月と駆け足で近づいてきます。





NO.201         平成27年      9月

お地蔵さん

 先月23日、24日は地蔵盆でした。



当院の地蔵堂には延命地蔵菩薩と身代わり地蔵菩薩そしてお地蔵さんではありませんが如意輪観音菩薩の三体を祀っています。

墓地には水子地蔵菩薩とごく普通の地蔵菩薩の二体があり、水子地蔵菩薩の前では水子さんなどの提灯を吊しています。

地蔵堂の前や境内のテントの下には、子供さんの提灯を吊していますが、なかには現在30歳を越えた人の提灯もあります。

しかし近年の少子化で新しい提灯が少なくなり、また提灯も自然に痛みますので、吊るすことができるのは年毎に減ってきています。

 その地蔵盆も今年は珍しく雨の影響を受けることなく無事終わりました。

 またこれからも元気に過ごされて、来年の地蔵盆にお参りに来て下さい。

  ご存じのように先の5月、総本山大念佛寺では開宗900年と大通上人三百回御遠忌の記念法要が厳修されました。

いつもの菩薩のお練りも行われましたが今年は二十五菩薩に続いて地蔵菩薩も渡御されました。

 「地蔵」のサンスクリット名はクシチガルブハといい、「クチシ」は地を「ガルブハ」は胎または包蔵を意味し、

地蔵に関する経典では「よく善根を生ずることは、大地の徳のごとし」と称賛しています。

鎌倉時代の仏教説話集である「沙石集(しゃせきしゅう)」によると、 地蔵菩薩の渡御(中外日報より)

 「地蔵菩薩は、地獄などの悪趣に堕ちた人々を救うことを利益(りやく)の第一としている。

  釈迦は霊山(りょうぜん)浄土で説法を続けているとはいえ、この世の衆生には、はるかに遠い存在となった。

  阿弥陀は四十八の大願の願主とはいえ、浄土往生を願う正しい心の持ち主でなければ弥陀の救いの光明からもれてしまう。

  しかし地蔵は慈悲深いゆえに浄土に住まず、ただ悪趣を住みかとし罪人を友とする。

いつでも六道のちまたに立ち、昼も夜も生きとし生ける者にまじわって、縁なき衆生をも救いたまう。」


 戦乱の時代、貧しく疲弊した民衆や生命の危険にさらされる武士などは、生きるために「十悪」を為し「一善」も行えない身でありました。

阿弥陀専修の浄土教が広く普及した時代で、「必ずや恐ろしい地獄に堕ちる」との苦悩がありました。

 仏教でいう「慈悲」は「抜苦与楽」すなわち苦しみを取り去って安楽をあたえることです。

「慈」は「与楽」、「悲」は「抜苦」をいいます。

彼等にとっては安楽より抜苦が切実で、大悲をもって苦しみを代わり受けるという地蔵の信仰が必然的に受け入れられたのでした。

平安時代の『梁塵秘抄』に次の歌があります。

  我が身は罪業重くして ついには泥犂(ないり:地獄)へ入りなんず

  入るべし 伽羅陀山(からだせん:地蔵の住所)なる地蔵こそ
 
  毎日のあかつきに 必ず来り訪(と)うたまへ


(わが身は罪が重く、ついには地獄へ入ろうとしている。きっと入るだろう。
             しかし、伽羅陀山におられる地蔵菩薩が、毎日の夜明け方に必ずや訪ねてくださることだ。)

 地蔵菩薩は他の菩薩とちがい親近感のある身近な僧侶の姿をしています。

右手は錫杖(しゃくじょう)を握り、左手に宝珠(ほうじゅ)を持ちます。

「錫杖」は僧侶が托鉢に回る時、上部の金属の輪を鳴らして来訪を告げるためのもので、

「宝珠」は正式には「如意宝珠(にょいほうじゅ)」といい、何でも願い事がかなう「珠」と言われています。

 地蔵菩薩は寺院の本堂で本尊となることはごくまれで、多くは村境や人通りの多い四つ辻や道ばたに祀られています。

民俗学者の柳田国男氏によれば、

「もともと仏教には関係なく、厄災を防ぎ、縁結び、子安や安産など子供の良運を願って祀られる道祖神の民族信仰から習合したものだろう」

といわれています。

 また、地蔵が子供の守り神であるという考え方は経典にも中国の説話にもなく、

日本の庶民の中で道祖神と結びついて自然に生まれてきたものと思われます。

 お地蔵さんは、観音さんやお不動さんと同じように、身近で親しみやすく仏教の枠を超えた日本のカミさんの一つです。

人の世は変わっても人の心の苦悩はいつまでもなくならないでしょう。

近くで手を合わせることができる場所をこれからも大切に守っていきたいと思います。

南無大悲地蔵菩薩。




NO.200         平成27年      8月

あの日から70年

 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送とともに太平洋戦争が終わりました。

 この戦争は満州事変に端を発していますが、その時の日本人の多くは日本の躍進に気持ちが高揚して、

このような結果になるとは誰も思わなかったのです。多くの国民は何も知らされていなかったのです。

無謀な戦争と思っている人がいても、口に出して言えば非国民になったのです。

 1944年末からは、アメリカのB29爆撃機が日本の本土に大々的に爆撃を行うようになりました。

当初は軍事施設を標的としていましたが、木造家屋の多い日本には焼夷弾で火災を起こさせるのが効果的だとして、

おもに都市部の住宅密集地がその対象となりました。

また、破砕集束弾(はさいしゅうそくだん)も多用されたことも分かっています。

爆発とともに鉄の破片が幾つも飛ぶ殺傷能力の高い爆弾です。

 1945年6月、大阪は1、7、15、26日、四回も大空襲に見舞われました。

B29約400機の大編隊です。淀川付近の民家と工場をめがけて焼夷弾の雨が降りました。

白昼の大阪は一瞬のうちに暗夜と化し、あたりは火の海になりました。

避難場所となっていた淀川の堤防では、直撃をうけた人々が折り重なって死んでいました。

ほとんどが人間の形をとどめていません。
 
また、工場で働いていた学徒動員の少年少女も、

「お母ちゃん!」「お母ちゃん!」と逃げ惑うところに機銃掃射をかけられ、頭や胸を打ち抜かれて死にました。

ある少年は頭が半分吹き飛び、そこから木綿糸のようなものが何本も垂れ下がったまま少し走って倒れたそうです。
 
 1トン爆弾が落ちた時、その爆風で大の男が宙に浮き再び地面に叩きつけられます。

爆弾の破片は人間の体をもぎ取って飛んでいきます。

ある防空壕では屋根が吹っ飛び、数人の女性が座ったまま死んでおり、そばに彼女たちの頭が転がっていたと言います。

そのうちの一人は赤ちゃんを抱きしめていました。
 
 淀川の長柄橋では、走って逃げている女性が背中におぶっているのは頭のない赤ちゃんでした。

川には生首が幾つもぷかぷか浮いていたそうです。

 こんな悲惨な無差別爆撃はどうして行われるのか。それは戦意をそぐためだと言われています。

 8月6日の朝、広島の上空に3機のB29が飛来してきました。そのうちの1機が一つの爆弾を落としました。

それは上空580mで強烈な閃光と共に炸裂し、地表は一瞬にして数千度に達しました。

その熱線はすべてのものを焼き尽くし、大爆風は人の衣服や皮膚までも吹き飛ばしました。

 当時子供だった人の証言では、

 「人がいっぱい死んでいました。まっ黒にこげて死んでいるもの、大やけどをし
  て、ひふはただれて死んでいるもの、ガラスのかけらが体にいっぱいささって
  死んでいるもの、いろいろいました。」(当時6歳 証言時は小学六年)
 「身にまとう物さえ何一つない腫れ上がった母親が、火傷と傷でもう息の絶えて
  いる子供を固くだきしめて、狂気の如く叫びながら走って行く。暗紫色に腫れ
  上がった体を、道路の両側の溝、あるいは防火用水の中に浸したまま死んでい
  る学生、そして女。倒壊した家屋の中から首から上だけを出して、助けを求め
  て叫んでいる人々・・・・。これを見た時、私は戦争の正体に戦慄した。それ
  は”この世”ではないのだ。」(当時中1 証言時高三)

 「絵にもあらわせないぐらい、やけどでずるずるになった人たちが、両手を前に
  して幽霊みたいに歩いている。皮がむけているだけじゃなくて奥まで焼けてい
  る。破裂した内臓が飛び出て死んでいる人、その内臓を手で押さえて息を引き
  取った人。」
 「そういう光景の中を気が狂って走り回る人がいるのよ。いっぱいいたですね。
  あまりにひどいものを見たら、限界をこえたら、神様が気が狂うようにするん
  だとか聞いたけれど。とても正気ではいられなくなるから。」
 「『ぎゃーっ』とか『うおーっ』とか叫びながら走りまわる。・・・あの姿をど
  う言えばいいのか、もう異常なの。だって、誰もみたことのないようなものを
  いきなり見たんですよ。そして体験したんですよ、怖さも。一回に何千何百の
  死体を見るなんて、それも普通の死体じゃないのを見るなんて、そんなことあ
  りえないでしょう。・・・歩いて行くごとに、いろんな形の死に方が目に入っ
  てくるなんて、・・・」(当時9歳)

 ある90歳の女性は、「戦争のときって、内地にいた私自身についていえば、その実感がなかったんです。・・・

もちろん戦死者がでていることは知っているけれど、自分の目で死体を見たわけじゃない。

『戦死』といっても抽象的で。戦争ってこういうものだという実感をやっと持ったのは、終戦のまぎわ、空襲を受けた時です。

そのときはじめて戦争のことがわかった。それまで私にとって戦争はどこか他人事でした。」
 
日本もこの戦争で中国の長慶を無差別爆撃を行っています。

1938年(昭和13年)から約5年半の間、爆撃は200回を超えて死傷者は6万人、直接の死亡者は1万人を超えています。
 
ベトナム戦争、湾岸戦争のときも、また今現在行われているイスラム過激派への空爆も私たちはメディアのニュース等で知っています。

ピンポイント爆撃や無人機爆撃などのハイテク爆撃の映像はまるでゲームの世界のようです。

武器工場や兵士を標的にしているとはいえ多くの民間人が犠牲になっています。
 
遠く離れた私たちにとっては違う世界の出来事です。

しかし、その爆撃の下では深い悲しみと、底知れぬ憎しみが渦巻いています。

 終戦のころ、撃墜されたB29からパラシュートで落下したパイロットの多くは近くの住民にその場で撲殺されたそうです。

 以上の内容は主に『戦争で死ぬ、ということ』(島本慈子著 岩波新書)から 参考や引用をしました。

最後に著者の島本さんは次のように結ばれています。

「悲しみの底まで降りた者だけが、他者の悲しみを予見できる。」

「アメリカの人たちは『空爆すれば地上で何が起きるか』をしらない。

しかし、日本人はよく知っている。知っている者が知らない者と同じ行動をとってもいいのだろうか。

いいわけがないと私はおもう。知っている者には『知っている』という責任がある。」 


NO.199         平成27年      7月

お盆のお墓参り

 お墓参りは、一般には13日ですが、棚経参り(お盆のお参り)の日程もありますので、

それ以前でもかまいません。
   ○持参するもの                                     .
数珠、生花、線香、(ロウソク)、マッチ&ライター、半紙、(お供え物)
ゴミ袋、ブラシ、新聞紙、墓参用雑巾または台所用スポンジなど .
   ○順序                                          .
   ・墓参用バケツに水をくみ、ひしゃく、を持って墓地へ向かいます。
   ・本堂の前を通るとき、本堂に向かって合掌します。        .
   ・墓前で合掌します。                          .
      ・墓石の目立った汚れはひしゃくで水をかけブラシで洗って落とします。
     ・古い花が残っていたら、新聞紙などで包み所定の場所に捨てます。
       ・取り外せる花立ては、水汲み場(水道)でブラシなどを使って洗います。
       ・花立ての水を入れかえ、水鉢の古い水を墓参用ぞうきんやスポンジで
吸い取り、新しい水をいれます。               .
          ・墓石に水をかける場合、たっぷりかけると、周辺に水たまりができますので、
少しだけにしましょう。                     .
   ・生花を立て、線香(やロウソク)を立てます。            .
     最近は丈の高い生花がありますが、お墓とのバランスを考えれば
        普通の大きさで十分です。花ばさみで、高さなどを整えておきましょう。

※お供え
必ずしも必要ではありませんが、お盆のお供えには、季節の果物や故人の好物などがよいでしょう。
      お酒やジュース類をお墓にかけるのは、墓石の変色などの原因になりますので、お供えするだけにしましょう。
     お墓参りが終わったら必ず持ち帰りましょう。放置すると腐敗したり、カラスや小動物が散らかしたり、    .
墓石の変色等になります。                                            .


NO.198         平成27年      6月


観音様

 道音寺の本尊の仏像は阿弥陀三尊です。

中央が阿弥陀如来立像、右脇侍として勢至菩薩、左脇侍に観音菩薩をお祀りしています。

また、内陣東側には開基道音上人の座像があり、それを囲むように三十三観音菩薩が祀られています。

江戸時代から明治にかけて、檀信徒の方がご先祖の供養のために祀られたようです。

 観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品)によると、

観音菩薩は三十三の姿に変身して俗世間のなかに身を寄せ、人々を救うとあります。

 「如来」とは仏様の尊称で、修行を完成し悟りの境地に達した人を言います。

また、「菩薩」とは「如来」の一段階手前で、悟りを求めて修行する人を言いますが、

なかには、悟りを完成していても「如来」にならず、「如来」を手助けして私たち衆生を救済する「菩薩」がいます。

それが観音菩薩や勢至菩薩、地蔵菩薩などです。

 そういう諸菩薩のなかで、観音菩薩は私たちにとって特に親しみのある菩薩さんです。

全国各地に観音講があったり、観音霊場があったりします。

お寺によっては御本尊が観音菩薩であることも珍しくありません。

 また、日本だけでなく中国や韓国でも人気第一の菩薩様です。

 どうしてこれほど人気なのでしょうか。それは観音経のなかに書かれてあります。

    具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼 

      (ぐいっさいくどく じげんじしゅじょう ふくじゅかいむりょう ぜこおうちょうらい)


  一切の功徳を具し、慈眼をもて衆生を視たまう、福寿の海無量なり。
  是の故に頂礼したてまつるべし。                       

 観音菩薩はインドで生まれた仏様で、梵語ではアバローキテーシュバラといいます。

これはアバローキタ(観ぜられるところの)、イーシュバラ(拝まれるべき最も尊い自在の力を有した方)の複合語で、

玄奘三藏は中国で「観自在菩薩」と訳しています。

 その中国では菩薩は女性化され、それが韓国や日本にも伝わったとされます。

日本画の巨匠、狩野芳崖は有名な悲母観音を描きました。 胎児とおぼしき子供を優しい視線で見つめています。
 
観音菩薩は慈悲の眼をもってすべての人々を視ます。その眼は母が我が子を視るように

、誰にでも分け隔てなく無私の愛を注ぎます。

 慈悲が観音菩薩のこころであり、そのこころに抱かれることにより人々は心の安らぎを得ることができるのです。            

 先述のように観音様が三十三身に応現するとあります。

     若(も)し国土の衆生ありて、

      応(まさ)に仏身を以て得度すべき者には、

      観世音菩薩、即ち仏身を現じて而(しか)も為(ため)に法を説く


   (もし国土に衆生があって、        .
      仏の身をもって救うことができる場合には、
      観世音菩薩はその衆生のために仏の身で現れて法を説かれます。)

 経文では上の「仏身」の部分が、その他の応身に変わって、同じ文が繰り返されます。

救済が必要な人に天界の神や長者、役人、婦人や子供など、

その人に応じた姿で観音様は法を説かれるということです。

その人がどんな立場の人であろうとも、差別無く、慈悲のこころで寄り添われるのです。

 私たち悩み多き時、周りには必ず観音様がいるということです。

その慈悲のこころに気づけばこころ安らかになります。


 またそれは、私たち自身も観音菩薩になり得るということです。

一度、観音菩薩のこころに気づけば、自分自身も清らかな心をもつことができ、他者への思いも変わります。

  観自在とは異人にあらず、汝、諸人是れなり。

 江戸時代の曹洞宗の学僧、天桂伝尊の言葉です。





NO.197         平成27年      5月


母の日

     うつせみの 九年なれど わたくしを

                           愛してくれて 母よありがとう
  
                                                                        落合けい子

 落合けい子(1950~)さんは9歳で母を亡くしました。その後継母を迎えて異母妹弟と育てられました。

歌人の栗木京子さんはこの短歌を味わって、

  早く亡くなった実母を恨めしく思うことがあったかも知れません。

  けれど、50歳近くになって一人の女性として母親を体験することで

  『つらかったのは私じゃなく母だったのではないかと思うようになった

   のでしょう。』その時、心の底から『母よありがとう』の言葉があふ

  れ出たのです。    
                            .

 5月の第2日曜日(今年は10日)は母の日です。

 母の日の起こりはアメリカにあると言われています。

1861年から1865年の間、奴隷制度の存続を発端にアメリカ合衆国は南部と北部に分かれて内戦状態となりました。

その結果、両軍合わせて約50万人が戦死したと言われています。

戦争終結後の1870年代、女性運動家たちが集まり、

「二度と夫や子供たちを戦場に送らない」と誓って「母の日宣言」を発しました。

その時の運動家の娘であったアンナ・ジャービスは、母の死から2年後の1907年5月12日に、

苦労をしながら育ててくれた亡き母を偲び、母が教師をしていた教会で記念会を開いて、

母が好きだった白いカーネーションを飾りました。

 そのアンナの思いに多くの人たちが心動かされ、母を思う大切さを再認識したといいます。

そしてその教会では、翌年の5月10日に「母の日」と称して、生徒も含めて500人ほどが集まりました。

その時アンナは参加者全員に白いカーネーションを手渡したそうです。

 1914年、アメリカでは5月の第2日曜日を「母の日」と定め、白いカーネーションはそのシンボルとなりました。

 日本では昭和6年(1931)に、3月6日の香淳皇后の誕生日を「母の日」としたそうですが、

戦後数年経ってからアメリカにならって5月の第2日曜日となりました。


       母のこゑ思い出せない           .

             わたくしの笑う声は母に似るらし
                                                    落合けい子


       この蒲団で一緒に寝てくれという母を
             
         臭気もろとも抱(いだ)きしめたり

                                                           安立(あんりゅう)スハル


       老い母が我をののしる元気もつ    .
          
              一事(いちじ)うれしみ今日の畢(おわ)りぬ

                                                                       同

 ほんの僅かしか母の記憶がない落合けい子さんですが、母との関係を感じているようです。

 安立さんはお母さんを平成11年97歳で見送りました。

独身でずっと母と暮らしてこられましたが、平成9年、お母さんは末娘(安立さんの妹)が病死してからそのショックで体調を崩し、

亡くなる前はわめいたり、ののしったりで周囲を困らせたそうです。安立さん自身も病をかかえ、精神的にも追い詰められていました。

 栗木京子さんはこの歌から、そのような状況にもかかわらず「臭気もろとも抱く」「一事うれしみ」

にみられるように安立さんの母への深い慈しみが感じられるといいます。

 「母」という存在は、子供が生まれそして育てる過程でできあがる関係です。

 それが近年、虐待やネグレクト(無視)などよりよい関係が一部で崩れてきています。

精神科医の香山リカさんは母親と「子育て」のことについて提言されています。  

21世紀になって、社会の最小単位としての家族の重要性に注目が集まるなか、

  「母親になること」さらには「よい母親であること」というテーマは、

ますます女性たちにとって大きく重いものになりつつあります。

   江戸時代は子育てが父親の仕事だったそうです。また、子供は『イエ』のものであると同時に社会のもの、

みんなのものという観点がありました。

 政治のためにも経済のためにも、母親だけに子育てしてもらった方が好都合、

  という時代は終わりました。子供を持つ女性、子供のいない女性、

これから子供を持とうとしている女性、さらには男性や子供たちもが、

それぞれのことを思いやりながら自分の力で納得のいく人生を送るためにも、

子育ては母の手ひとつで」という私たちを縛り付ける鎖から解き放たなければなりません。

 よりよい母と子の関係を築くためにも、男女関係なく私たち一人一人が協力し合わなければなりません。

    一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行

    十界一念 融通念佛 億百万遍 功徳圓満


(参考と引用:2011年NHKカルチャーラジオ 『歌は、女は』栗木京子著
       2010年NHKテレビテキスト『ニッポン母の肖像』香山リカ著)




NO.196         平成27年      4月

善光寺



 長野県の代表的な寺院といえば、真っ先に善光寺があげられます。JR長野駅の北約1.5kmに位置し、

駅からバスで15分の所にあります。御本尊は阿弥陀三尊で特に一光三尊阿弥陀如来または善光寺如来と呼ばれています。

 「牛に引かれて善光寺参り」という次の有名な故事があります。

   「昔、信濃の小諸という所に、強欲で無信心な老婆がいました。

ある日、古い布を川でさらしていました。白くなったらいい値段で売れるからです。

そのとき隣の老夫婦に、

『善光寺さんの観音様に参りしたら、誰でも極楽に往生できるよ。一緒に行きませんか』

と誘われました。
 
老婆は何の得もなくわざわざ遠いところまでいくのは嫌だと断りました。

    しばらくして、さらした布を干していると、大きな黒い牛が来て、

白い布を角に引っかけトコトコ走り出しました。

老婆もせっかくの布を失ったらたいへんです。同じようにトコトコと・・・。

追いかけているうちに善光寺まで来てしまいました。牛の姿はありません。

よくみると観音様の首の所に白い布がかかっていました。

驚いた老婆は、観音様が牛に姿を変えて導いて下さったのだと悟り、

仏恩を感じて初めて両手を合わせました。

そして生涯その観音様にお仕えしたそうです。」


  このことから現在は、「他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれること」のたとえに使われています。

 『善光寺縁起』によると、

仏教伝来の頃、崇仏派と廃仏派の論争があり、廃仏派によって難波の堀江に捨てられていた仏像を、

信濃国司で都に上っていた本田善光が故郷に持ち帰り、初めは長野県飯田市で祀られ、

皇極天皇元年(642)に現在の地に移され、二年後勅願により伽藍が造営されました。

そして、本田善光の名前から「善光寺」と名付けられたといいます。

 実際に境内から出土した瓦から創立は7世紀後半と考えられています。

そして善光寺は中世以降、浄土教の庶民への普及とともに大きく発展しました。

しかし、何度も火災に会い、再建が繰り返されてきました。記録に残っている最初の焼失は治承三年(1179)です。

 このとき源頼朝が信濃の御家人や目代に、勧進上人(善光寺聖)を助けるよう命じました。

これにより建久二年(1191)本堂が完成しました。

 これはとりもなおさず多くの聖たちの勧進活動の成果ですが、彼等は融通念佛系統の聖でした。

融通念佛は貴賤男女同心をうたいあげ、「上一人より下万民に至るまで」のキャッチフレーズで民衆に訴えかけます。

創始者である良忍上人は聖徳太子を深く敬慕していましたので、

善光寺如来と聖徳太子が共に念仏者を必ず往生させると導きました。

 また、北条氏による寄進や保護もあって、善光寺の念仏は全盛をきわめ、善光寺は念仏信仰の一大中心地となりました。

   史料や記録から、源頼朝や北条家は融通念佛に帰依しているとみられます。

江戸時代になって等順上人が融通念佛血脈譜を簡素化して参拝者に免罪符のように配布し、

全国各地を回り善光寺の名をさらに広めました。

 現在でも融通念佛血脈譜が配布されており、寛文一年(1661)に制作された『融通念佛縁起』が保存されています。

 善光寺の発展は当時の権力者の庇護と念仏勧進聖の活躍

そして融通念佛の民族宗教性とによるところが大きいと思われます。



善光寺の融通念佛血脈譜

現在善光寺で配布されている融通念佛血脈譜 には

「一人一切人 一切人一人 一人一切行 一切行一人
十界一念  融通念佛 億百万遍  功徳圓満」   の偈文と

     「良忍上人直伝元祖聖應大師」が書かれてあります。

またこの血脈譜は『お血脈』として古典落語の演目の一つになっています。




NO.195         平成27年      3月

万部おねり

 毎年5月1日から5日間、融通念佛宗総本山 大念佛寺で催されます。

正式には「二十五菩薩聖聚来迎(しょうじゅらいごう)阿弥陀経万部法要」といいます。本堂の外側に架設された渡り廊下を、

踊るような仕草で鉦(かね)を叩いて念仏を称える踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ)の大和禅門講の人たちを先頭に、

お稚児さんや献茶献花の方々など、そしてメインは雅楽の音が響き渡る中、二十五菩薩や

本尊十一尊天得如来の掛け軸のお渡りがあります。

 二十五菩薩は修練を積んだ僧侶が金色の面を着け、それぞれ菩薩特有の姿で渡ります。

例えば観音菩薩は中腰で蓮華の台を両手に抱え、勢至菩薩は胸の前で手を合わせ合掌をしています。


勢至菩薩

 無量寿経の一節に

「十方の衆生、菩提心を発(おこ)し、もろもろの功徳を修め、心より願を発して、浄土に生まれんと欲せば、
寿(いのち)終わる時に臨みて、われ(阿弥陀如来)菩薩達とともにその人の前に必ずや現れましょう」

とあります。

二十五菩薩の来迎会はこれを具現化したもので、比叡山横川(よかわ)の恵心僧都源信が創始したといわれています

 本宗では中興の法明上人が正平四年(1349)、当麻寺(たいまでら)の練り供養を模して、自ら行者となって始められました。
 
多くの参詣者のもと、「みなともに、浄土に往生しましょう」という強い願いが込められています。

また、法要のあと今度は本堂から外の娑婆世界に還って行かれますが、これは浄土に生まれた人が再び娑婆世界に戻って、

「世のため人のために尽くし、浄土信仰を弘めましょう」との誓いがあります。

 江戸時代の宝暦十四年(1764)、第四十九世堯海上人の頃より阿弥陀経を一万部読誦して、

檀信徒や参詣者の極楽往生とご先祖の追善回向を行うようになったため、万部会(まんぶえ)と称されました。

また今は親しみをこめて「万部おねり」と広く呼ばれています。

 万部おねりは現在大阪市の無形文化財に指定されています。

 融通念佛宗は平安時代後期の永久五年(1117)に良忍上人によって誕生しました。

来年は数え年でいうと九百歳となります。そしてまた、今年は大通上人の三百回御遠忌にあたります。

大通上人は江戸時代に本山大念佛寺の伽藍や宝物を整備し、一宗派としての組織を立て直し、

融通念佛宗存立の根底となる教義を書物としてまとめ上げられました。

 今年の万部おねりは、大通上人三百回御遠忌と開宗九百年記念として大法要を執り行うことになりました。

通年は5月1日から5日間のですが、5月7日まで延長されます。

 菩薩練り供養が始められた頃は、南北朝の乱れた時代で戦(いくさ)の絶えることがありませんでした。

武士や農民も含めて、多くの人々はおそらく平和な世界を希求し、極楽浄土への往生を願ったことでしょう。

 今の時代も、世界のいたるところで悲惨な戦争が止むことがありません。日本の中でも似たような事件を耳にします。

 良忍上人の「一人一切人 一切人一人」という言葉には「和」の精神があります。

また、融通念佛の「融通」は「融通無碍」の融通で、

多くのものが何の差し障りもなく互いに融け合って一つになるということです。

 融通念佛宗の万部おねりには、極楽浄土を表現することによって、平和な世界の到来を願う心があるのです。



NO.194         平成27年      2月

融通念佛縁起絵巻

 先月号にありましたように、良忍上人は夢の中で阿弥陀如来より融通念佛の感得を受け、さらに鞍馬の毘沙門天王から

衆生の救済のため融通念佛を弘めるようにという夢告があり、良忍上人は勧進帳を携えて全国を回られたのでした。

その結果、融通念佛は広く浸透していきました。

 
              良忍上人大原での修行                        大原の庵の良忍上人            .


 良忍上人が亡くなられてから、融通念佛の根本道場であった大念佛寺は第二世厳賢、第三世明応・・・と続きましたが、

第六世良鎮には法灯を受け継ぐ弟子がなく良鎮の示寂(寿永元年  1182)後、ご本尊および諸々の霊宝を石清水八幡

の社内に預けられました。                                                       .

大念仏寺という本元の念仏道場で融通念佛の法流が途絶えてしまったのです。再び灯がともるのに、約140年後の

元亨元年(1321)中祖法明上人が再興するまで待たなければなりませんでした。                      .

   しかしその頃、良忍上人のまかれた種は大きく開花し、宗門が断絶していたにもかかわらず融通念仏は民間信仰として、

また宗派をこえた信仰として民衆に広まっていました。                                      .

京都の清涼寺、法金剛院、壬生寺などでは大念仏会が催されるほどでした。時宗の宗祖一遍上人(1239~89)は

「融通念佛をすすめる聖(ひじり)」と呼ばれていましたし、天台宗や律宗、他の宗派の僧たちの中にも、融通念佛信仰

への理解者は少なくなかったようです。                                              .

 もう一つ、融通念佛信仰の広がりを裏付けるものがあります。それが『融通念佛縁起絵巻』です。最初に作られたのは、

正和三年(1314)です。その時まだ大念仏寺は再興されていません。                             .

 『融通念佛縁起絵巻』は、上下二巻から成り、良忍上人が感得した融通念佛の成り立ちと融通念佛信仰の功徳を

極彩色の絵と詞書(ことばがき)で表されています。その底流にあるのは言うまでもなく、「上一人より下万民に至るまで」

のキャッチフレーズです。特に下巻は女人往生の巻という構成になっているともいわれています。            .

 この頃は南北朝の時代で、下克上という不安定な世の中でした。民衆にとって信仰は心の拠り所だったのではないでしょうか。

 『融通念佛縁起絵巻』の研究をされている山野良子氏は、著書の中で次のように述べられています。

「絵巻は絵解きに使われ、集まってきた群衆が信心をおこして加入したものだが、この頃の下克上が仏教を盛んにし、

(絵巻が)民衆に向かって貴賤男女同心をうたいあげたので、個人の意識がさらに高まったとされている。」          .

「全国的にこの期に伝布された絵巻は、見事な二巻本大作であり、各地をめぐる勧進聖や説教師、山伏、法師などの絵解きや

説法によって人々の心を把握し、信仰心を高め、細大漏らさず伝播させていったのである。」             .

 南北朝の時代は動乱の時代で、群雄が勢力を誇示するために有名な寺社を焼き討ちにしました。多くの貴重な仏像や

仏典、資料が消失してしまったのです。そのなかでも『融通念佛縁起絵巻』は現在20本余り発見されています。

おそらくこの縁起絵巻も多く消失したことでしょう。しかし、版が異なるのが20本以上も見つかっているということは

それだけ多くの絵巻物が流布していたことになります。 それは他の絵巻にない『融通念佛縁起絵巻』の特徴の一つです。

また、息が長く、鎌倉時代の末から江戸時代の末まで、知られているだけで6回の改版刊行がなされています。

詞書には

「百余本をすすめ・・・日本蝦夷(北海道)硫黄が嶋(硫黄島)まで其の州の大小により聖の機根(きこん)に随(したが)いて、

一国に一本二本或いは多本、家をわかず人をもらさず勧め申さむとなり。」とあります。

 そしてもう一つの特徴は、山野良子氏によると、下巻に登場してくるのが主に女性であることで、女人往生の巻といえるのだそうです。
  
    

          道経の娘の臨終                           冥界での 北白川の下僧の妻、 念仏三千遍に加入のため帰される

 融通念佛宗は浄土宗や浄土真宗と比べると、ほんとに小さな宗派ですが、その元になっている融通念佛は鎌倉仏教の諸宗派が

成立する前に、民衆を中心として全国津々浦々にわたって広く流布し、その土地に根をおろし民俗宗教となって受け継がれて

きました。それは少なからず諸宗派の成立に影響を及ぼしたと思われます。                           .

 追記:

この『融通念佛絵巻』を生涯かけて研究されたのが田代尚光師(元融通念佛宗林昌寺住職、元第六十二世大念佛寺管長)です。

この研究によって、謎の多い融通念佛ひいては庶民の念仏信仰の一端が明らかにされたと思われます。

さらなる研究によって、現在までつながっている日本の庶民文化と庶民宗教が明らかになるだろうといわれています。

  参考:『増訂 融通念佛絵巻の研究』田代尚光著、
     『融通念佛絵巻各諸本の研究』山野良子著、
     『融通念佛宗-その歴史と遺宝-』中祖法明上人六五〇回御遠忌記念



NO.193         平成27年      1月

良忍上人


良忍上人像(右手に筆、左手に勧進帳)


さて、いよいよ今年は、開宗900年記念法要と宗門を再興された再興大通上人の300回御遠忌法要があります。

 融通念佛宗は、平安末期の永久五年(1117)、良忍上人によって開かれました。

 良忍上人は尾州知多郡富田荘(現 愛知県東海市富木島町)の出身で、生まれつき美声の持ち主であったため、

幼い頃は音徳丸と呼ばれていました。

 十二歳で比叡山で得度し、常行三昧堂の堂僧として修行しながら、天台の学問を修め、密教や戒律を修得しました。

 若干二十一歳で学問僧を教導する講主に任じられるまでになりましたが、

当時の仏教界は権力争い、学問の論争などにあけくれ、武器をもつ僧兵なども現れました。

比叡山でも叡山の山門派と三井寺の寺門派の争いがあり、真に勉学をするような場ではなくなっていました。

 それに嫌悪の念を抱いていた上人は、二十三歳のとき意を決して叡山を離れ、大原に隠棲しました。

そのとき次の歌を残しています。

  のがれても 得こそ許さぬ 世の憂さを
              厭い来てすむ 大原の奥

  誰人か 訪ねこん 鳥だにも
              声せで深き 谷に入る身は



<ちょっと一休み:柴漬 >
 大原に移り住んだ当初、あばら屋同然の住まいで、冬は積雪もあり、厳しい寒さの中での生活です。
里の人たちが、食事に困らないよう野菜などを届けてくれました。
上人はそれを保存するのに、叡山の定心漬けの要領で野菜を塩漬けにし、
念のため腐敗を防ぐのに、河原で摘んで塩漬けにしていた紫蘇(しそ)を合わせて樽に漬け込みました。
数ヶ月後野菜は紫蘇で赤く染まり、細かく刻んで食べると、
紫蘇の風味となんともいえない味覚があいまって、美味な漬け物ができました。
 これが里の人にも伝わり、「紫葉漬」または「柴漬」となって大原の名産となったそうです。



 大原はもともと慈覚大師円仁が天台宗の別院として声明の道場を創建していましたが、当時は衰退の一途でした。

そこに良忍上人が入り、来迎院の再興、浄蓮華院の建立など堂塔を整備し、声明を学び修練を重ねて天台声明を集大成しました。

その間も上人は、一日六万遍の念仏、法華経書写など、日夜欠かさず修行に励みました。

 そして上人四十六歳のとき念仏三昧の中で、阿弥陀仏から口称融通念佛を授かり、

  「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 

        是名他力往生 十界一念 融通念佛 億百万遍 功徳円満」


という偈文と一枚の絹の布が与えられました。

その布には阿弥陀如来とそれを取り囲むように十菩薩が描かれていました。

それは十一尊天得如来像として、融通念佛宗の御本尊となっています。

 これが、永久五年(1117)五月一五日のことです。このときを本宗の始まりとしています。

 さらに上人は鞍馬寺の毘沙門天王から融通念佛で衆生を救済するよう勧められ、

念佛勧進の発願に至りました。融通念佛会(え)には、かねてから帰依されていた鳥羽上皇が

中宮の待賢門院と入会(にゅうえ)せられ、それに伴って公卿百官に至るまで続かれました。

 上皇は勧進帳に序を直筆され

    敬白 貴賤男女を勧めて此の念佛の名帳に入り奉りて 

    ともに彼の国に往生せしめむと請う 勧進帳

    南無阿弥陀仏


 良忍上人はこの勧進帳を携え、融通念佛を弘めて衆生を救済しようと、全国を遍歴行脚されました。

 もともと美声の持ち主であった上人は念仏に節をつけ、信者や衆徒に詠唱させました。

これが発展して、おどり念仏となって庶民の間に浸透していったのです。

 このように上人の念佛勧進はいたって庶民的で、上人のキャッチフレーズ

  「上一人より下万民に至るまで」が広く浸透していったようです。

 会津、甲州、遠州浜松、越前、長門などに融通念佛踊りや大念仏おどりとして、

また京都壬生寺では大念佛狂言として派生し今も残っています。

  また上人が四天王寺を訪れたとき、夢枕に聖徳太子が現れて、

「これより東南の杭全の里に念仏道場を建てよ」と告げられました。

上人は大いに喜び、鳥羽上皇が大願大施主となって大念仏寺が建立され、融通念佛の根本道場となりました。

 その良忍上人は長承元年(1132)、大原来迎院で示寂されました。行年六十歳でした。

 それまで、念仏の弘通(ぐづう)に力を注がれた生涯でした。

(参考:日本仏教の心8『良忍上人と大念佛寺』 、金林文集4『良忍上人』杉崎大慧著)