松 燈 だ よ り




NO.192         平成26年      12月

私の中の大きな宇宙

 秋から冬にかけ空が澄み渡り、夜は星がいちだんと美しく見えます。

 約5000年前、今日のイラクのあたりに、古代カルデアの人々がヒツジの群れを追って放牧を行っていました。

夜は満天の星を眺めることが唯一の楽しみだったのではないでしょうか。

現在名づけられている星座の大部分は、遠い昔の彼等の豊かな想像力によって造られたものだそうです。

 12月の初めであれば、7時ごろに東の空からオリオンの三ツ星が昇ってきます。

約30度ほどの高さになった時、東南東の方向に見上げると、

オリオンの四角をつくっている左上の赤い星が一等星のベテルギュース、右下の青い一等星がリゲルです。

そして、オリオンの下に地平線から出てきたばかりの明るい星が二つあります。

東よりが、こいぬ座のプロキオン、南よりがおおいぬ座のシリウスです。

シリウスは全天で最も明るい星で、「焼き焦がす」「ひかり輝く」と言う意味があるそうです。

このベテルギュースとプロキオン、シリウスを結ぶときれいな三角形ができます。冬の大三角形です。
 
その近くにはよく似た明るさの星が二つ仲良く並んでいます。双子座のカストルとポルックスです。





 オリオンより上の方、高度約60度ほどのところに、おうし座があります。よく見ると5つの星が「V」の文字を形づくっています。

そのうちの左上の赤い一等星がアルデバランで、おうしの血走った目にあたります。

さらに天頂の方に少したどると、おうしの怒った肩の部分に視力の良い人は6つか7つの星がぶつぶつと集まって見えます。

これがすばる(プレヤデス星団)です。

 都会では見える星の数が少なくなっています。すこし郊外に出て、街灯の少ないところで空を眺めると、

時間がたつにつれ目が暗闇に慣れてきて星の数が増えてきます。

石川啄木が「・・・・空に吸はれし十五の心」と詠ったように、こちらは夜ですがほんとうに吸い込まれそうになります。

神秘的な不思議な自然の見えない力なのでしょうか。
 
 宇宙の話題をもう一つ。12月3日にハヤブサ2号が宇宙に打ち上げられました。悪天候により延期されていましたが、

うまく軌道に乗ったようです。無事帰還することを祈っています。

 ハヤブサ1号は「惑星の誕生」についての手がかりを求めて、世界で初めて小惑星イトカワに着陸して岩石の小さな粒を採取し、

7年の歳月を費やして2010年6月に地球に帰還しました。その感動は映画にもなりました。

 2号の目的は、C型の小惑星を探査してサンプルを持ち帰ることです。

C型小惑星には有機物や水が含まれていると考えられていて、

そのサンプルから地球誕生の謎や生命の原材料となった有機物の起源を探りだします。

地球への帰還は2020年末の予定だそうです。

 先日(11月13日)、欧州宇宙機関(ESA)の無人彗星探査機「ロゼッタ」が切り離した着陸機が、

史上初めて火星と木星の間にあるチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(すいせい)に着陸しました。

探査機ロゼッタは2004年に打ち上げられ、着陸までまる10年費やしました。宇宙探査における歴史的瞬間だと言われています。

彗星の成分や行動だけでなく、ハヤブサ2号機と同じく、地球上の生命の起源を解明しようとしています。

 18日、ドイツ航空宇宙研究センター(DLR)がサンプルの初期データに有機分子の痕跡が見つかったと発表しました。

生命の起源には地球起源説と宇宙起源説がありますが、後者の方を裏付けようとしています。

 いずれにしても、私たちの体を造る物質、さらにそれらを造る原子などは、宇宙で造られたことは間違いありません。

地球上のすべての物がおなじルーツなのです。

 地球は約46億年前に誕生したと考えられています。生命の誕生はそれより約6億年経ってからで、

ほ乳類の誕生は今からおそらく1.5億年前で、爆発的な繁栄が始まったのは恐竜が絶滅した6500万年頃だと考えられています。

人類の誕生はもっと後で、地球の歴史のなかではかなり新しい出来事なのです。

 しかし、私たち人の体の中には、地球46億年の膨大な歴史が刻まれています。

私たちが自然に対峙するとき、その自然の中に安らぎを感じるのは、私たち自身が自然の一部であるからではないでしょうか。

 華厳経のなかに、「小なる世界は即ち是れ大なる世界、大なる世界は即ち是れ小なる世界」とあります。

私たち一人一人が自然や宇宙そのものであるのです。

 『日めくり 四季のうた』(長谷川櫂 著)のなかに次の歌がありました。

   空は貌(かお) 月日はまなこ 風は息

              山野海川 我身なりけり


                             江戸時代前期の狂歌集『古今夷曲集』より 読み人しらず




NO.191         平成26年      11月
                                          .
お遍路さん その2

 
私はお遍路の経験はないのですが、その案内書ともいえる岩波新書『四国遍路』(辰濃和男著)によると、

     三十七番札所の岩本寺(いわもとじ)本堂の天井絵は一風かわっているそうです。仏像の絵、猫の絵、虎の絵、

蝶の絵、バラの絵、ヨットの絵、キリスト教の教会にあるような絵などなど、全部で575枚。極めつけは

マリリンモンローの絵もあります。                                           .

 本堂新築の折、いろんな人にいろんな心で、いろんな絵を描いてもらおうと住職が考えました。

11歳から88歳の人たちが描きました。一枚一枚歩いて頼んだこともあるそうです。

著者の辰濃さんは、この絵は「雑多なものを包みこむ」お遍路さんの魂を具現している曼荼羅絵であると

いいます。 「すべてを差別なく包み込む」ということはすべての人の喜びや悲しみ、苦しみ、怒りなどの

心の有り様をそのまま受け入れるということです。究極の寛容です。                     .

 第一次大戦のとき、徳島の第一札所霊山寺(りょうぜんじ)の近くに、ドイツの捕虜を収容していました。

土地の人は大人も子供も親しみを込めて「ドイツさん」といいました。ドイツのお菓子作りや音楽などを学び

交流を持ちました。敵国である外国の人でも何のわだかまりもなくもてなしたのです。そういう風土が遍路路

にあるのです。                                                        .

          辰濃さんは昭和5年(1930)生まれ、朝日新聞の記者として活躍し、1975年から13年間「天声人語」を担当されたりしています。

      取材のため44歳のときはじめてお遍路を歩かれました。初結願のとき、60歳になったら純粋な気持ちでもう一度という

 思いもあって、再び何かに誘われるように遍路路につかれました。そのとき68歳でした。高知を歩いているとき、

次のように書かれています。                                               .

   そのうちに、奇妙な感覚だが、「包み込まれている自分」のなかに「包み込

   む自分」が育ってくるように思えてくるのだ。万物を包み込む大いなるもの

   のこころが自分のなかに芽ばえてくる。人間が本来自分のなかにもっている

   大自然の力に気づくようになる、といってもいいだろう。自然と人間、とい

   う対立的な思考がいかにもむなしいことに思えてきて、これはなにか妙に新

   鮮な感覚だった。                                 .

 
そして、この感覚を「融和」という言葉で表現されています。                                .

 仏教用語にも「融通無碍(ゆうづうむげ)」というのがあります。様々なものがそれぞれ孤立せずに、互いに関係

(相互関係)を持ちながら差し障りなくひとつの調和した世界をつくっていることをいいます。その相互関係を

「縁」とか「縁起」といっています。日常的によく使う、「あの人と縁がある」と言うときの縁なのですが、辰濃さんは

このときその縁を感じていたのではないでしょうか。                                    .

 平安末期、歌人西行(さいぎょう)は生涯旅を通して歌を詠みました。

 
心なき身にもあはれは知られけり

            鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮
 

 出家して悟りを求める身であっても、夕暮れ時に沢の鴫が飛び立つ様をみていると、
秋のしみじみとした寂しさがわき上がってくる。                     .


ゆくへなく月に心のすみすみて
            果てはいかにかならむとすらむ


 何のあてどもなく月をながめていると、心が澄みに澄んで、このままどうなってしまう
のだろうと思う。                                      .


歌の詠み方として、西行は次のように語っています。

「華を読めども実(げ)に花と思ふことなく、月を詠(えい)ずれども実に月と思はず。
只此の如くして縁に随ひ興に随ひ読み置くところなり。」(『明恵上人伝記』)    .

 ただ縁と興に従って詠むといっています。「自然と自分との関わり」や「心の感じるところ」によって歌

が生まれるということでしょうか。
                                      
 華厳経によれば、私たちをとりまく自然(全体)は、人間やいろんな動植物、水や石ころなど、   .

いろんな物(部分)が縁で寄り集まってつくられています。縁で結ばれているからこそ物(部分)が

変化すれば自然(全体)も変わります。逆に自然が変わればまたそれらの物(部分)も変わらざる

をえません。人も縁で結びついている自然の部分ですから、自分自身の中に自然の変化や力を

感じることができるはずです。                                        .

        しかし、電子、電脳社会になって、人の感覚はセンサーという電子部品に多くを頼るようになってしまいました。

   現代人は自然に対して鈍感になっています。便利さを獲得した反面、大事なものを失いつつあります。




NO.190         平成26年      10月


お遍路さん

 御嶽山は古くから修験者の行場であり、江戸時代の庶民にとっては山岳信仰の霊山としてあがめられていました。

最高峰の剣が峰には今も御嶽神社の奥社があります。                                  .

 古代日本において、山岳は天上の神々の世界でありました。仏教が伝わってからも西方浄土に代わる浄土として、

山中は永く霊的な信仰の対象となっていました。                                      .

昔は修行の場として、今は、都会の喧噪を離れ山に登ります。特にシニアや女性が多いようです。        .

   ある登山家は、「山に登る魅力は、もちろん頂上を極めるという達成感にありますが、到達するまでの過程にこそある」

  といいます。心を空っぽにして、周りの自然を感じながら、自然と一体になって一歩一歩足を進めていく。そこに自然と

融和した自分を見つけることができるのでしょう。                                      .

          山の信仰にたいして、海の信仰もあります。海の彼方には観音様の住む世界、補陀洛(ふだらく)浄土があると信じられていました。

四国の海岸線をたどる路(道)は最初は観音霊場を巡る修行の路でした。                       .

  12世紀の歌謡集『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)には、室戸岬が金剛浄土の入り口と謡われ、海岸沿いの道や土地を

「辺路」(へじ)と呼ばれていたそうです。 その後、大師(弘法大師)信仰が四国に広まり、「辺路」が「遍路」(へんろ)

と読み方も変化したようです。                                                 .

 もともと日本各地に霊地の巡礼があり、それは僧の修行が中心でした。それが江戸時代になると庶民に広がり、 .

庶民の手による巡礼記や資料集が現れ、巡礼の中心は僧から庶民に移るようになります。            .

また、巡礼者のために無償で食事や寝床を提供する「お接待」も仏教の布施行として行われていました。    .

    ところが巡礼の大衆化によって各巡礼地は四国を除いて観光化しました。それに伴い無償のお接待は姿を消しました。

 四国遍路は現在でも八十八カ所、当時は整備されていない街道を約1300km歩き通さなければなりません。 .

   険しい山道も多く、「へんろころがし」といわれる難所がいくつもあります。物見遊山で遍路というわけにはいきません。

   それが観光化をさまたげ、かえって純粋な信仰のもとでの遍路を巡礼者と四国の人々が一体となって支えてきました。

いまでは他府県からの接待講もあり、四国のお遍路を象徴する独特の風習をつくっています。           .


        お遍路は、白衣(びやくえ)をまとい、菅笠(すげがさ)をかぶり、輪袈裟(わげさ)をかけ、金剛杖をつき、リュックを背負います。

白衣には「南無大師遍照金剛」と、菅笠には「同行二人」と「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北

が書かれてあります。                                                      .

 同行二人(どうぎょうににん):大師(弘法大師)様と一緒に巡礼しているということ。

迷故三界城・・・:私たちは衆生の世界で迷っています。
          迷うが故に行くところがわかりません。
          悟れば世の中は空であると気づきます。
               (世の中は縁起によって成り立っており、永遠不変
         の実体というものはないと気づけば)
          本来、東西南北どちらもおなじなのです。


 そしてひたすら八十八カ所の霊場を巡ります。歩く距離は約1200kmです。                       .

四国八十八ヶ所霊場会・公認先達の山下正樹さんは広島県呉市出身の70歳                  .

   今から10年前、定年の2年前に退職して、徒歩で回る「歩き遍路の通し打ち」に挑戦しました。36日かけて八十八カ所

すべて巡る「結願」(けちがん)を果たしました。10キロやせたそうです。自宅に帰って最初にしたことは、     .

奥さんへの感謝だったそうです。「ありがとう、おかげで結願できた」と。                         .

   以後毎年結願を果たし、そのうち6回は「通し打ち」だそうです。4回以上結願を果たすと霊場会から「先達」(せんだち)

に認定されます。全国で先達は約9千人いますが、「通し打ち」で達成したのは数人です。              .

         ですから、年に3ヶ月はお遍路です。札所から次の札所までは長いところで80km、ウォーキングシューズをはいた左右の足を、

ただただ交互に出すだけです。頭が空っぽになり、悩みなんてどうでもよくなってしまいます。            .

 1200kmのうち1000kmは舗装道路でお遍路にとっては酷道です。土の道を歩くと足が喜びます。        .

 山下さんは言います。「歩き遍路の魅力は札所をつなぐ遍路道にこそある。」                     .

    お遍路では土地の人に食べ物や宿泊などの「お接待」を受け、周りの支えで生かされている自分を実感するといいます。

最初の登山家の言葉に通じるところがあります。                                     .

     山下さんは、歩き遍路のよさを伝えるのがライフワークだとして、毎年春にボランティアで「歩き遍路の入門講座」を開き、

            初挑戦のお遍路さんに随伴されています。そして廃道になったかつての遍路道の復元に、仲間の先達と取り組んでいらっしゃいます。


また、 「四国遍路」(岩波新書)の著者辰濃和男さんはそのなかで次のように述べられています。

 
「へんろ道を独りで歩いているといいながら、実は決して独りの力で歩いているのではないということに
やがて気づく。靴がある。靴下がある。靴や靴下を作ってくれた人がいる。靴が喜びの声をあげて
踏みしめる山道がある。その山道を踏み固め、補修してくれた人がいる。草を刈り、道しるべを  
つけてくれた人がいる。こころを和ませてくれる花があり、渇きを癒やしてくれる石清水がある。  
そういういくつもの縁がひとりの人の歩みを支えてくれているのだ。」            .

  
ふりかえり 面輪(おもわ)やさしき 遍路かな    年尾
 
 お遍路を通じて、人は「面輪やさしき」にきっとなれるでしょう。

(引用と参考:「四国遍路」(岩波新書)辰濃和男著、
        
「お遍路のすすめ」http://www.maenaem.com/henro/index.html、
朝日新聞デジタルの記事より)
           .


NO.189         平成26年      9月

四天王

 来年、融通念仏宗の開宗九百年にあたります。それに合わせて、内側だけでもと本堂内の畳、襖(ふすま)

壁、柱など少しリメイクしています。                                            .

       また、今まで本堂外陣の四隅に四天王の札をかけていましたが、そこに台を設置し、四天王像を祀ることになりました。

9月21日の彼岸会法要ではそれらを見ていただくことになります。                         .

 ところで、古代インドでは世界の中心に須弥山(スメール山)という高い山がそびえていると考えられていました。

   仏教では、その須弥山の中腹の四方四州(東・西・南・北)に四天王が住み、帝釈天に仕えて共に仏法を守護して

      いるといわれています。そのため四天王は、邪鬼を踏みつけ、怒りをもった形相(忿怒形 ふんぬぎょう)で鎧をまとい、

武器などを構えた姿をしています。                                            .

 
            東方を守護するのが持國天です。国の持続を支えるといわれています。右手は悪や災いを切り裂くための剣をかざしています。

家内安全の守り神ともされます。                                             .
 
              南方は増長天で成長するという意味で伸びる力を保持しています。右手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち、心の中の煩悩を打ち砕きます。

左手には災いを突き砕くため、先が三つに分かれた槍のような戟(げき)と言われるものを構えています。

 商売繁盛などよい方向に伸びることを助けるとされます。                               .

              西方は広目天です。特殊な能力を持った眼(千里眼)があり、人々に真理を見抜く智慧を与えて視野を広くさせ、仏法の帰依を促し。

右手は拳を握りしめ、左手は戟を突き立てるように構えています。                         .

          奈良時代の広目天は右手に筆、左手に巻物を持った姿で造られています。(東大寺 戒壇院など) 智慧をもてば心身ともに

健康になります。無病息災の仏神とされます。                                   .

 北方の守護は多聞天です。単独で祀られる時は毘沙門天と言われ、毘沙門様としてよく知られています。

            サンスクリット語の名称「ヴァイシュラヴァナ」を訳すと「仏法をよく聞く者」という意味になるので多聞と名づけられています。

    左手には聖なる仏舎利を捧げ、右手には悪魔を打ち破る宝棒(ほうぼう)を持っています。日本では無病息災、

     福徳の仏神として知られています。
                .                               
                四天王が退治しようとしているのは外からの邪鬼だけではありません。むしろ、その邪鬼は私たちの心の中に潜んでいるのでは

ないでしょうか。

邪鬼というより邪気かもしれません。私たちの中には意志の強い人もいますが、人間はおしなべて弱い心の

        持ち主です。邪気があるから煩悩に惑わされたり、周りに流されたり、間違いを犯したりしてしまいます。邪気はなかなか

          消し去ることはできませんが、邪気が邪鬼にならないよう、邪気を四天王に預けて裸の心になり、仏の前で手を合わせては.

いかがでしょう。邪気を静めることはできるはずです。
                                .




NO.188         平成26年      8月

8月15日

 69年前、昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争が終わりました。

アジア太平洋戦争の日本の戦死者は民間人も含めて約300万人に上ると言われています。         


このとき中国では1000万人の犠牲者を出したと言います。 当時9歳だった作家の梁石日(ヤン・ソギル)さんは

その頃の様子を次のように語られています。(岩波新書「子供たちの8月15日」より)                .

 「そしてある日、突然、軍部から焼夷弾の類焼を防ぐため、という理由で、中道に住んでいた私たち家族も家屋の

立ち退きを命じられた。それは有無をいわせぬ命令で、一週間後に何の補償もなく立ち退かされ、壊されたの

である。…  壊された後にできた道路は、いまでも疎開道路と呼ばれている。・・中略・・         
.
  
1945年6月15日の午前9時前、B29の焼夷弾爆撃があった。 私が通学していた中道小学校の屋上から、

  警戒警報発令のサイレンが鳴った。敵機来襲のときは鐘が鳴るのだが、このときはサイレンが鳴ったかと思うと、
  
すぐに落下してきた焼夷弾が、避難していた家の二階の屋根を貫通して一階の居間に落ちて燃え広がり、   
.

  私たちはあわてて防空壕に避難した。しかし、防空壕にも焼夷弾が当たり、近所のおばさんを直撃して燃えたので、
  
     私たちは手を取り合って逃げ出した。疎開道路には、着の身着のままの人々が、炎に追われて市電通りをめざしていた。

市電通りに出てみると、鶴橋と天王寺方面が燃えていたので、人々は今里方面に逃げた。私たち家族も逃げる

    人々の流れについていった。今里ロータリー近くに吉岡外科病院があった。その前を通った時、病院内はむろんのこと、

病院の外まで火傷を負った人々でごった返していた。なかには死んでいる者もいたが、死体は病院の外の道路に

放置されたままだった。戦闘帽に国民服を着用していた隣組の班長のような男が、メガホンで人々に避難の誘導を

呼びかけていたとき、頭に焼夷弾を受け、顔の皮膚が真っ白になった瞬間、血を噴き出して倒れ、炎に包まれた。

恐ろしい光景だった。誰も助けられなかった。                             
.

   私たちはバス通りを歩いて布施方面に逃げたが、道路の両側の家屋は燃えさかり、まるで火炎ドームの中を歩いている

ようだった。いったいどれほどの距離をにげたのかわからない。気がついてみると、私たちは畑の真ん中にいた。 
.

  その日は朝から雲一つない晴天だったが、畑の真ん中に立って空を見上げると
黒い雲が低く垂れこめ、      .

突然、激しい雨が降ってきた。黒い雨だった。・・」                           
.


 大阪大空襲は昭和20年(1945)3月14、15日から計8回ありました。最後は終戦の前日である8月14日でした。

その日はB29が約150機飛来し、京橋近くにあった大阪陸軍造兵廠(「砲兵工廠」)を中心に1トン爆弾約700トンを

    投下しました。その一つが現在のJR京橋駅に落下し、たまたま入線してきた片町線の上りと下りの二列車を直撃しました。

約700~800人が犠牲になったと言います。                                          .

 京橋駅南口には阿弥陀立像と石碑が建てられ、毎年8月14日に慰霊祭が行われています。              .

 現在も、この地球上のいくつかの地域で、出口の見えない戦争が続いています。                      .

 戦争は簡単に生命を奪ってしまいます。                                              .

それだけでなく、普通の人々の普通の日々の営み、苦労して築き上げたいろんなモノや社会基盤、          .

そして心まで、容赦なく破壊してしまいます。不毛としか言いようがありません。          .            

 キリスト教新約聖書のマタイの福音書によく知られた一節があります。

    
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 また、仏教では発句経に

    
この世の怨みは怨みをもって

    静まることはありえない

    怨みを捨ててこそ静まる

    これ不変の真理なり


とあります。怨みを力で静めることはできません。難しい問題ですが、どんなときでも相手を思いやる心と忍耐が必要でしょう。


NO.187         平成26年      7月

お盆

 
私たち人間の祖先は約20万年前から、死者を埋葬することを行ってきました。これは他の動物との大きな違いです。

人間は「死」というものを理解できたからです。そのことは死後の世界を信じていたことになります。           .

 日本では縄文時代(約1万6,500年前から約3,000年前)に入ると、いろんな埋葬墓が作られたようです。         .

   自然の洞窟や岩陰に遺体を葬ったもの、地面に穴を掘って遺体を直接納めた土壙(どこう)墓、墓穴の上面や内部に石を

配した配石墓、平たい石を組み合わせた石棺の中に遺体を納めた石組石棺墓、深い鉢や甕(かめ)などの土器内に

遺体を納めた土器棺墓(甕棺墓)、竪穴(たてあな)の住居内に遺体を放置あるいは埋葬した廃屋墓など実に    .

バラエティーに富んでいます。埋葬の姿勢も体を折り曲げもの、伸ばしたものなど様々です。これらを考え合わせると、

縄文人独特の死後の世界観が多様に発展したことがうかがえます。                             .

(NPO法人国際縄文学協会の会報誌2010年12月号 佐々木藤雄氏エッセイより)


 その後の詳しいことは分かっていませんが、仏教伝来の前には、旧暦の一月と七月の満月の日に亡き人の霊魂が帰って

  くるとして「魂祭(たままつり)」という先祖供養の行事が行われていたようです。そのうち、旧暦の七月十五日の「魂祭」が、

中国で行われていた仏教行事の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と合わさって、お盆の行事に発展したと考えられています 。

 最近の研究によると、その「盂蘭盆」というのは、イラン系民族ソクド人の言葉で「霊魂」を意味する「ウルバン」によるもの

ではないかと言われています。                                                    .

   ソクド人は今のウズベキスタンのサマルカンドを中心とする民族で、商業にたけてシルクロードを経済的に支え、自分たちの

祭りの習わしなどを仏教とともに中国に伝えました。祭りの時は故人の部屋や屋上にいろんな飲食をお供えし、     .

帰ってきた亡き人の霊魂(ウルバン)が家族と一緒に団らんできるようにするのです。 それが中国で盂蘭盆会の元になっ

たと考えられています。 霊魂が帰ってくるというお祭りはメキシコにもあります。11月1日と2日は「死者の日」と呼ばれて

いて、1日は亡くなった子供の魂が、2日は大人の魂が帰ってくるとされます。その祭壇を「オフレンダ」といい、各家庭の

庭先や玄関前、いろんな店の入口などに、華やかさを競って飾ります。マリーゴールドの花、紙の飾り物、ガイコツの

オブジェ、故人の写真や好物、「死者のパン」などれぞれ工夫を凝らし、ロウソクを灯して香を焚きます。         .

 また、1日は子供のために、チョコレートやジュースなどの甘いお菓子を、2日は大人のためにテキーラなどのお酒が並

びます。まるでお盆の精霊棚のようです。                                               .

 このように人は、人類誕生の時からずっと、人種や宗教に関係なく他の世界や霊魂を信じてきました。無意識ににそういう

心の動きになっているのではないでしょうか。それは人に与えられたDNAなのかも知れません。               .


 「命が宿る」という表現があります。この命とは目で見ることはできません。ですから、これが命ですと差し出すこともできません。

しかし、生きている人や動植物を見れば、実際に命があると分かります。人は命の存在を知ることによって、生と死を理解

することができます。ですから誰でも命の尊さを知っています。命とは霊魂そのものではないかと思うのです。        .

 お盆とは亡き人の命の根源が帰ってきて、私たちと共に過ごす、一年でほんの限られた日々です。              .

どうか大切にお過ごし下さい。




NO.186         平成26年      6月

死ののち2

 
先月号につづいて死後のことについてお話しします。

 
医師の田畑正久さん(大分・佐藤第二病院院長)は「死」のとらえ方について次のように語られています。       .

    「人間は必ず『生・老・病・死』する存在です。しかし、健康で元気で生き生きと楽しく生きる

「生」のあり方が人間本来のあり方であって、老病死はあってはならないというのが

(今の)医療での治療の概念になっています。                      .

     (医療技術が進歩して)死がまさに三十年先送りされた現在、老病死を受容する文化が

失われてしまったのではないでしょうか。」                        .

    「一方、医療をささえる看護では、生老病死するのが人間本来の自然なあり方で、     .

生老病死の人間をお世話するという人間観に立っています。             .

        どちらが人間を正しく把握しているかと言えば、治療より看護の概念のほうであると思われます。」

      「人間が死ねばどうなるかというような問題は、肉体的には生命活動が終わり、火葬されれば

肉体としてはなくなると医学の根拠の対象論理では言うことでしょう。        .

しかし、私の意識はどうなるのでしょう。」                        .

    「臨床現場では、肉体の死、死に様を医療者は多く見ています。               .

しかし、意識の死そのものは不可知であって、本当はわからないのです。    .

     ・・・・

     私たちは誰でもこの大きな無知の中にいるのだということが本当でしょう。         .

それに気づくことが本当の智慧です。                          .

     ・・・・

     自分が無知であることを知る智慧は、無知を知るという覚醒を意味します。」        .

    「仏智に照らされ、自分の煩悩性を知らされ、信心・悟りの世界に出遭う者は、       .

浄土を生きる場として、今の一瞬に、永遠を生きる世界に導かれるのです。   .

      そうすると、苦しみとか不安・心配のいちばん根本は『我見(がけん)』であり、         .

今までの人生は迷いの生き方であったと翻(ひるが)されるとき、自分の小さな  .

迷いの生を離れて、大きな目覚めの世界(無量寿、永遠)を与えられるのです。」

                   (「大法輪」平成20年 11月号より)

 
医師による死の確認は、肉体的な生命活動の停止しを確認しているだけで、その人の意識ははどうなっているか、   .

死の後どうなるかはどんな機器を使っても分からないのです。

意識や心は多くの脳神経の複雑な関わりと統合で生まれるものなのでしょうが、

意識や心自体は実体がなく目には見えないからです。

 ですから、科学的な見地に立つ医師にとっては「意識の死そのものは不可知である」と言わざるを得ないのです。

 では死後の世界は非科学なのでしょうか。

そうではなく、科学で論じる範囲を越えているのだと思います。

 私は死後の世界と言っていますが、この目に見えない世界は死の前後でつながっていて、死は一つの大きな通過点と言えるのかも知れません。

それが古代インドで一般に考えられていた輪廻転生という概念になったのでしょうか。

 先月号では、死の後の世界を信じることが、死への恐れを取り除いてくれるといいました。

そこで、いつものお経にある別願の最後をいま一度紹介します。

             
願わくは我 必ず臨命終の時 少病少悩にして七日以前
                          
 死の到来することを知り 諸々の障碍なく堅く正念に住し
 
  面たり弥陀に見え金剛台に坐し上品の生を取ることを得ん。


(お願い申し上げます。命尽きる時に臨んで、病や悩みも少なく七日以前に死が近づくことを知り、

諸々の往生をさまたげるものもなく、ひとすじに仏を念じて往生することを信じ、

    まのあたり阿弥陀仏を拝して、金剛のように堅固な禅定の中で、上品の生を得ることができますように)



 お釈迦様は「輪廻転生」やそのもとになる「霊魂」を直接説かれてはいませんが、死後の世界があることを前提に説法されています。

 来世を信じるなら、善を行って徳を積みなさい。よりよい生が得られるでしょう。

 ですから、今与えられている生を最後までしっかり生きていきましょう。

 財産は来世に持って行けないけれど、積み上げた徳はついていくでしょう。

死後はどんなものかわかりませんが、死の瞬間にすべてが終わるのではなく、新たな世界がたしかにあるように思います。




NO.185         平成26年      5月

死ののち

 
先日、境内のハナミズキやフジをご覧になった方でしょうか。次のメールがパソコンに送られてきました。

  
 「きれいなお花ですね今年散っても、また、来年も美しく咲くのでしょう

    人は散ったらもう咲くことはないのでしょうか

    身体は亡くなるけれど心はどこへ行ってしまうのでしょうか

    来年の春には心穏やかに花見ができるようになりたいです」


 文面からこの方は「死」を意識されているようです。 「死」とは、自分自身の存在がこの世から無くなってしまうことです。

自分自身の存在とは、形のある「体」と形のない「心」からできています。生物が死を迎えると、誰でも分かるように、  .

目に見える体は生命活動が停止し、そのままにしておくと朽ちて無くなってしまいます。人もしかりです。         .

  しかし一方、心は目に見えません。自分自身の本質は「心」です。その心はどうなるのでしょう。今を生きている私たちには

分かりません。 科学的に考えれば、「心」をつくっているのは体の「脳」の部分ですから、「脳」の機能が無くなれば「心」も

無くなるということになります。しかし、それで自分を納得させることができるでしょうか。                    .

   おそらく遠い昔から人はそのことを疑問に思い、悩んだでしょう。そして、臨終に至っても心は途切れること無く、何らかの形で

        次につながっていくものだと信じたのです。「死」への恐れを無くすためには、あの世を信じることが必要だったのではないでしょうか。

 インドやチベットでは仏教誕生以前から「輪廻転生」という考え方がありました。いまでも多くの人々がそれを信じています。

      チベットにはそういう死生観に基づいた経本があります。『バルド・トドゥル』と呼ばれています。中世に書かれ、『チベットの死者の書』

        として英訳されました。1927年にはオックスフォード大学出版局から出版され、それ以降欧米で二度ベストセラーになったといいます。

  この『バルド・トドゥル』の「バルド」は「中間」とか「途中」を意味し、「トドゥル」とは「耳で聴いて解脱する」ことを意味しています。.

        医学的な死を宣告されて、人は呼吸も心臓も止まり、外見上の何の反応もなくなります。しかし、チベットでは、まだしばらくはその人の

耳は聞こえているというのです。そのとき耳元からその人の心に語りかけるお経がこの『バルド・トドゥル』です。      .

 チベット仏教では生命の本質は心であるといいます。そしてその心の本体は純粋な光だと考えられています。       .

 以下、その語りかけの最初の部分を紹介します。(NHK出版『チベット死者の書』より)                      .

「歩むべき道を探しに行くときがとうとうやってきました。息が絶えたらすぐ

に、導師が示したとおり、根本の光明があなたの前に現れます。これこそ

生命の根源を作っているダルマタ(本質・法性 ほっしょう)です。   
.

ダルマタとは宇宙のように広大で空虚で、光に満ちた空間、中心も境界線も

なく純粋でありのままの心のことです。あなたはその心の状態を自覚し、 
.

   その中に安らぎを見いだすのです。」
                             .


    死を迎える者がその呼吸を止めるまで、耳元で何度もくりかえし唱えることによって、死に行く者の心に深く刻み込みます。

    死者が火葬されても四十九日間の中有(中陰)のあいだ、まるでそこに死者の意識がそこにあるかのように、語りかけ(読経)が

      続けられます。できれば毎日、無理なら転生の可能性が高まるとされる七日ごとに燈明や供物を並べて追善供養が行われます。
 

    今の日本の社会では「死」について語ることは縁起が悪いこととされます。死ぬと言うことはその先がないということだと考えるから

ではないでしょうか。たしかに発達した現在の科学的見方ではそうかも知れません。                       .

しかし「死」は「心」の問題を切り離して考えることはできません。死と結びついた「心」の問題は今のところ科学の及ぶところ

ではないのです。                                                               .

  
この見えぬ「現在」とは何 わがまえに 死ののちさへも在り続けるか       浜田蝶二郎


  
生まれるまえわたしどこかにゐたかしら 死んでもわたしまだゐるかしら        浜田蝶二郎

 チベットの聖者ミラレパは

 「私は死を怖れるあまり山に逃れ、長らく死と無常について瞑想した。

  おかげで心の不死の境地に至った。そして死の恐怖から解放された」

と語っています。

(参考と引用:『大法輪』平成20年11月号三浦順子「チベット死者の書から学ぶもの」

NHK出版『チベット死者の書』河邑厚徳、林由香里共著

角川文庫ソフィア『三万年の死の教え チベット「死者の書」の世界』中沢新一著 )



NO.184         平成26年      4月

総回向偈(そうえこうげ) (分かち合うこと)

 「回向(えこう)」とは、法要のとき戒名や法名を読み上げて亡き人を供養することです。

しかし元の意味は、善い行いをすることによって本来自分に返ってくる功徳(くどく)を、

他の人に差し向け、分かち合うことです。 

自分の善行によって他の人たちが幸せになるのを見ることは、自分自身が幸せな気持ちになります。

 先日NHK朝ドラ「ごちそうさん」が終了しました。主人公のめ以子はお料理を作って人を幸せな気持ちにします。

みんなが「ごちそうさん」と言ってくれると、め以子もまた幸せな気持ちになるのです。

これが回向による功徳だと想います。

 「功徳」とは善い行いによってもたらされる果報のことです。

  「果報は寝て待て」ということわざがあります。 ほんとうに何もしないで果報を待てと言ってるのではありません。

善い行いとそのための最善の努力によって、自然に果報が生まれ、全体に及ぼされるのです。

 けっして自分だけの果報を目的にしたり、期待したりして善を行うものではありません。

 法要の後半、経木などによって回向を行うのは、その功徳が亡き人やその縁者だけでなく、

すべての生きとし生けるものに及ぶように願います。

そして、最後に次の総回向偈を称えます。

   
願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道

   「願わくは此の功徳を以って、普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成(じょう)ぜん」

   
(どうか、この法要の功徳が広く生きとし生けるもの全体に分かち合えますように。

そして、私たちとその他の人たちも共に仏道を歩んでいけますように


 人類は他の動物と同じく闘争本能と助け合いや分かち合いの本能があります。

弱肉強食のこの世界で生き残るために、相対するこの二つの本能はどちらも必要なものだったのかもしれません。

 しかし他の動物では、助け合う本能は親子などのような狭い範囲に限られています。

人類がこんなに繁栄し存続できたのは闘争本能以上に助け合いや分かち合いの精神が広く働いたからではないでしょうか。

 ところが最近、民族主義的、国家主義的な考え方が広まっているように思います。

これを突き詰めると、民族間、国家間の衝突になります。そうならないためには、理想かも知れませんが、

この分かち合いの精神をもとにした対話を絶やさないことではないではないでしょうか。



NO.183         平成26年      3月

観経真身観文 その5 大慈悲とは

 先月は「仏の心に触れる」とお話ししました。その仏の心とは何でしょう。

『真身観文』には次のようにあります。

 「
仏心とは、大慈悲これなり。無縁の慈しみをもって、もろもろの衆生を摂するなり。

  この観をなさば、身を捨ててのち他世に、諸仏のみまえに生まれて、無生忍を得ん。


 仏の心とは大慈悲心です。無条件の慈しみを以てもろもろの生きとし生けるものをお
さめ取られるのです。

この観想を行う者は、死後に仏たちの前に生まれ、生滅を超えた普遍の真理を悟って安らかな心を得ることができるでしょう。

 大慈悲心とは「すべての生きとし生けるものを差別無くおさめ摂ること」だとあります。

そのような考え方はどのようにして生まれてきたのでしょうか。

 紀元前5世紀ごろ、ゴータマブッダ(お釈迦様)はインドと国境を接するネパール側のルンビニーというところで、

釈迦族の王子として生まれました。

 そして、35歳のときガヤ村の菩提樹の下で悟りを開かれました。

現在、ブッダガヤとして仏教史跡になっています。

そして、ベナレスの郊外で初めて自らの考えを語るようになり、ブッダの教えを聴こうとする者、

道を求めようとする者が徐々に増えてきました。仏教教団の成立です。

地図を見ていただければ、そこにガンジス川が流れているのがわかります。



 お経の中に「恒河沙(ごうがしゃ)」という文字列が出てきます。

直訳すると、「ガンジス川の砂」という意味ですが、それだけ途方も無い数であることをいいます。

「恒河」とはインドの古い言葉ではガンガーとも呼ばれていますが、もとは川の女神の名前だそうです。

 英語では the Ganges と呼ぶので、日本もそれに準じてガンジス川と言っています。

 西部ヒマラヤ山脈に水源を持ち、多くの支流を集めて南東に流れ、ベンガル湾に注ぎます。

 全長約2500km、古くからインドの人々にとっては聖なる川です。

 ガンジス川の沐浴はよく知られていますが、その歴史は3000年とも言われています。

 遠藤周作さんの小説「深い河」には、

いろんな思いでガンジス川ツアーに参加した人の、河との出会いによる心の変化が書かれています。

ガンジス川についての部分を抜粋しました。

 「
それを通りぬけた時、河は忽然と姿を現した。午後の陽を反射させ、広い河は

  ゆるやかな曲線を描き、流れている。水面は灰色に濁り、水量は豊かで河床は

  見えない。・・・流れの早さは遠く川面に浮かんだ何か灰色の浮遊物の移動で

  わかった。・・・ふくれあがった灰色の犬の死体だった。だが、誰一人として

  それに注目する者はいない。この聖なる河は、人間だけではなく、生きるもの

  すべてを包みこんで運んでいく。


  神父になった大津という青年は、

 「
『ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った

  手を差し出す物乞いの女も、殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一

  人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間も

  どんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます。』」

  病死した妻の生まれ変わりをさがすため、ツアーに参加した磯部は、

 「『お前』と彼はふたたび河に呼びかけた。『どこに行った』

  河は彼の叫びを受けとめたまま黙々と流れていく。

だがその銀色の沈黙には、ある力があった。

河は今日まであまたの人間の死を包みながら、

それを次の世に運んだように、

川原の岩に腰かけた男の人生の声も運んでいった。


  大津という青年の生き方に関心をもつ美津子は、

 「
視線の向う、ゆるやかに河はまがり、そこは光がきらめき、永遠そのものだった。

『でもわたくしは、人間の河のあることを知ったわ。その河の流れる向こうに何があるか、

まだ知らないけど。

・・・

信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、

深い河で祈っているこの光景です。』・・・

  『その人たちを包んで河が流れていることです。人間の河。

人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています。』



 このようにガンジス川は善も悪も、美も醜も、喜びも悲しみも何もかも受け入れて、

ただ静かに何事もなかったかのように流れていきます。

 古くからすでにヒンズー教徒の沐浴は行われていましたが、その河のほとりで仏教が成立しました。

「仏心とは、大慈悲これなり」という考え方が生まれるのも納得できます。

「大慈悲」とはすべてを包み込み抱きかかえる究極の包容力ではないでしょうか。

(参考と引用: 岩波文庫「浄土三部経(下)」)



NO.182         平成26年      2月

観経真身観文 その4


 いよいよ第九の瞑想である真身観にはいります。

 以下岩波文庫「浄土三部経(下)」からの引用です。

   仏、阿難及び韋提希に告げたまう

  「この想い、成じおわらば、次に、さらに無量寿仏の身相と光明を観

   るべし。」                                   .

 お釈迦様は阿難と韋提希夫人に無量寿仏(阿弥陀仏)の観想を示されます。

  「阿難よ、まさに知るべし。無量寿仏の身、百千万憶の夜摩天の閻浮檀金

(えんぶだごん)の色のごとし。仏身の高さ、六十万億那由他(なゆた)、

恒河沙由旬(ごうがしゃゆじゅん)なり」                    .
   
 アーナンダよ知りなさい。無量寿仏の身体は百千万億の夜摩天を彩るジャンブー河産の黄金

の色のようで、身の高さは六十万億那由他というガンジス川の砂粒ほど無量の由旬です。


  那由他:①古代インドの数量の単位。ふつう一千億とするが、異説も多い。  .
      転じて、きわめて大きな数量。                    .
②数の単位。10の60乗。一説に10の72乗          .

  恒河沙:ガンジス河の砂粒の数、無数                        .

  由旬:古代インドの距離の単位の一。1由旬は、牛車の1日の行程をさし、   .
      約7マイルあるいは約9マイルなど諸説がある。中国では6町を1里として、
     40里または30里あるいは16里にあたるとした。ヨージャナ。        .

 この「六十万億那由他」という数は、宇宙規模の数であり。想像を超えた大きさ、
すなわち宇宙ほどの大きさと考えてもいいかもしれません。           .

 「眉間の白毫(びゃくごう)、右に旋(めぐ)りて婉転(えんでん)し、
  五つの須弥山のごとし。仏眼、四大海水のごとく、青白分明なり。」

  須弥山:古代インドの世界観で、世界の中心にそびえるという高山。スメール山
  四大海:スメール山を取り巻く四方の大海

 眉間の白い巻き毛は右に美しくしなやかにめぐっていて、大きさは五つのスメール山が並ん

でいるようです。眼は四大海の水のようであり、青さと白さがはっきり分かれて見えます。


  「身、もろもろの毛孔(もうく)より、光明を演出し、大きさ須弥山

のごとし。かの仏の円光、百億の三千大千世界のごとし。

円光の中に於いて、百万億那由他、恒河沙の化仏あり。

    一々の化仏にも、また、衆多・無数の化菩薩ありて侍者とす。」

 体はすべての毛穴から光が出てスメール山のようです。かの仏の円光は百億の三千大千世界のようです。

その円光の中に百万億那由他の無量無数の化仏があり、その一つ一つの化仏にまた無量無数の化菩薩

があって侍者となっています。
                                             .

  「無量寿仏、八万四千の相(そう)あり。 一々の相、おのおの

   八万四千随形好あり。一々の好、また八万四千の光明あり。」

  相:仏の姿形の大まかな特徴。  .

  随形好:好ともいい、細かい特徴。

この二つを合わせて「相好」といいます。

 無量寿仏には八万四千の相があり、その一つ一つの相にはそれぞれ八万四千の小相があります。

  「一々の好、また、八万四千の光明あり。一々の光明、あまねく十方

   世界を照らし、念仏の衆生、摂取して捨てたまわず。その光明と相好

とおよび化仏とは、つぶさには説くべからず。ただ、まさに憶想し

て、心眼をして見せしむべし。」                    .

 一つ一つの小相には八万四千の光明があり、それぞれの光明は十方の世界を照らし、仏を念ずる衆生を

あまねく摂(おさ)め取って捨てられることはありません。その光明、相好、化仏は詳しく説明することは  .

できません。ただ、観想して心の眼で見るしかありません。
                           .

 「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の部分は光明文(こうみょうもん)と呼ばれ、「南無阿弥陀仏」の念仏の前に

称えられます。仏を心に観想する衆生を、差別なく平等に慈悲の心ですくい取るということです。              .

 「この事を見る者、すなわち、十方の一切諸仏を見る。諸仏を見るをも

  ってのゆえに、念仏三昧と名づく。この観をなすをば、一切仏身を観

  ると名づく。仏身を観るをもってのゆえに、また仏心を見る。」      .

 このことを観る者は、十方の一切の仏たちを観ることになります。仏たちを観るのであるから念仏三昧と

名づけるのです。この観想をすべての仏身を観ると名づけます。仏身を観るということは、仏の心を見る

ということなのです。                                                 .


 ここの最後は「以観仏身故、亦見仏心」とあります。心の中に仏の姿形を想い浮かべるとき、また寺院に参詣して仏像を拝するとき、

私たちは厳かな気持ちになり、自然と心の静かになります。これが仏の心に触れると言うことではないでしょうか。          .

 次回は真身観の最後の部分をお話しいたします。

(参考と引用: 岩波文庫「浄土三部経(下)」)
 

NO.181         平成26年      1月

 観経真身観文 その3

 無量寿仏(阿弥陀仏)が左右に観世音菩薩と大勢至菩薩を従えて空中に立たれたとき、

バイデーヒ(韋提希)は感激のあまり接足作礼の礼拝をしました。

 そして、「未来の人々は、このように光明に包まれた阿弥陀様や菩薩様をどのようにして観ることができるのでしょう。」

と師であるお釈迦様に尋ねました。

 お釈迦様はまず花の座を観想(第七の瞑想)することを告げられました。

 「花の座として、七種の宝石でできた大地の上の蓮華を想いなさい。

その葉には百の宝石の彩りがあり、葉脈には八万四千の光があります。

葉と葉の間には各々百億の珠宝があって、あたりを輝かせています。

それぞれの珠宝から千の光明が放たれ、まるで天蓋のようで地上全体を広く覆っています。

また、いたるところでさまざまな形に変化し、

ダイヤモンドの台、真珠の網、花の雲などになって、観る者の思うままに変現します。」

 「それぞれの葉、珠、光、台などを観想できるようになれば、

五万劫(ごまんごう)の長い間、生と死に結びつける罪を滅除して、かならず幸ある世界に生まれるでしょう」

    劫:一説に約40億~45億年の長い間

 次にお釈迦様は仏の観想(第八の瞑想)を説かれました。

  次当想仏 所以者何 諸仏如来 是法界身 入一切衆生心想中

 是法界身 入一切衆生心想中 

  是故汝等 心想仏時 是心即是 三十二相 八十随形好 

  是心作仏 是心是仏 

  諸仏正徧知海 従心想生 是故応当一心繫念、

諦観彼仏 多陀阿伽度 阿羅訶 三藐三仏陀 

  想彼仏者 先当想像 閉目開目 見一宝像

  如閻浮檀金色 座彼華上 
 
  「次には仏を観想しなさい。何故かというと、諸々の仏・如来たちは法界の身
   であり、すべての衆生の心想の中に入ってくるからです。」

  「それ故に、あなたたちが心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の
   三十二の大相であり、八十の小相なのです。」

  「この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのです。」

  「智慧海のごときもろもろの仏たちは心想から生まれます。それ故に、一心に
   思念を集中し、心してかの仏・如来・尊敬されるべき人・正しく目覚めた人を観想しなさい。」

  「かの仏を観想しようとする者は、まずその像を観想しなければなりません。
   目を閉じているときも、目を開いているときも、ジャンブー河産の黄金の輝
   きをもつような像が花の上に坐している様子を観想するのです。」 

 そして、お釈迦様は向かって左側の花の座に観世音菩薩が、右の座には大勢至菩薩がそれぞれ坐している様子を

観想するように説かれます。

 それができると仏と菩薩の像はそれぞれ光明を放って、その金色の光はもろもろの宝石の木々を照らし出します。

一つの木の下にはまた三つの蓮の花があって、その上に一仏と二菩薩の像があり、

仏国土にはそれらがあまねく満ちています。

 それを観想できた者は、その仏国土のすべてのものがすぐれた教えを説いていることに気づくでしょう。

それで極楽世界の大体像を観たことになります。この観想を第八観といい、

それができた者はこの世に生きている間、念仏三昧による心の安らぎを得ることになるでしょう。
 
ところで「三界唯一心 心外無別法」(三界は唯一心であり、心外に別法無し)という禅語があります。

心の外に別の法があるわけでは無く、何事もすべて心が造るものだということです。

心のあり方によって世界が変わるのです。

 同じように、上のお経の中で「是心作仏 是心是仏」(この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのです。)がありました。

信じる心が仏を作り、その心そのものが(その人自身が)仏になり、心安らかなる世界にはいることができるということです。

 そしてここでやっと月参りにお勤めするお経の前にたどり着きました。

次回、第九の瞑想である真身観について説明致します。

(参考と引用: 岩波文庫「浄土三部経(下)」)


NO.180         平成25年      12月

観経真身観文 その2

 前回、バイデーヒ(韋提希)王妃の悲しい運命をお話ししました。

王子である息子が、父親のビンビサーラ王を幽閉し死に至らしめたのです。

お釈迦様はバイデーヒのもとへ、すぐに弟子のアーナンダ(阿難尊者)を遣わされ

自らも姿を現されました。

 「何の因果でこのような運命なのでしょう。この世は汚濁(おじょく)と悪に満ちており、悪人達が住む世界です。

彼等の声を聞きたくありません。彼等に会いたくありません。どうか、苦悩や憂いの無い清らかな世界へ導いて下さい。」

とバイデーヒはお釈迦様に懇願します。

 このとき、バイデーヒは自分のことしか頭にありませんでした。

かつてビンビサーラ王は仙人を殺し、バイデーヒ自身も生まれたばかりのアジャータサットウ王子を殺そうとしました。

そんな悪行に手を染めていたのです。その応報と考えても無理は無いでしょう。

 しかし、お釈迦様は眉間から光を放ち、十方の仏たちの清らか国土をお見せになりました。

それを見てバイデーヒは

「お釈迦様、これらの仏の世界は清らかで光に満ちあふれています。

けれど、私は阿弥陀様の極楽世界に生まれたいと願っております。

阿弥陀様を心に描き、正しく受け止めていく方法をお教え下さい。」

と言いました。

お釈迦様はバイデーヒに告げられました。

「思念を集中して、はっきりとあの仏国土を観想しなさい。特別な能力を持たない普通の人間であっても、

仏の力によって遠く西方の幸ある世界を観ることができるようにしましょう。それによって清らかな行いができるようになります。

また、清らかな行いを自らしようとする者が、西方の幸ある世界に生まれることができるのです。」

 すると、バイデーヒは次のように応えます。

 「今、お釈迦様がいらっしゃいますから、私は仏の力によって西方極楽浄土を観ることができるでしょう。

しかし、お釈迦様が入滅された後、この世の人たちは、汚濁と悪と不善の中にあって苦しみにさいなまれるでしょう。

そのような世の中で、人々はどのようにしたら阿弥陀仏の幸ある世界を観ることができるのでしょう。」

 当初、バイデーヒは自分の運命を恨めしく思い、自分をどうにか救って欲しいと懇願しました。

その時は利己的な心が働いていました。

しかし、ここにきて他者をを思いやる気持ちが芽生えてきたのです。

お釈迦様の仏の力によって、光に満ちた多くの仏の世界を観ることができました。

その中でも特に阿弥陀仏の清らかな世界に心惹かれたのです。

そうするうちに、バイデーヒの心が少しずつ解けて開かれていったのでしょう。

 そしてここで、お釈迦様は心を開いた者が阿弥陀仏の世界に生まれるためにできる十三の観想法を示されます。

清らかな世界を心の中に想い描く方法です。

 第一観は日想(にっそう)です。西に向いて日没を観察し、心の中にその形をはっきりととどめることです。

 第二観は水想です。まず、水の清らかさを観じます。そしてそれが氷になったとき、その透き通った様は、

光り輝く宝石が光明となって周りを眩しく照らすように観じられます。

 第一、第二の観想が終わったら、その観想を散逸しないよう心にとどめます。いつでもその一つ一つを

はっきり観ることができるようになれば、阿弥陀仏の世界をおおよそ観たことになります。

これを地想(じそう)(大地の観想)といって第三観とします。

 第四観は林の観想。阿弥陀仏の世界にある宝石の木を観想します。

 第五観は池水(ちすい)の観想。阿弥陀仏の幸ある世界には、八つの功徳のある池がそれぞれあります。

それぞれが七種の宝石でできています。

 第六観はすべてを観る観想です。阿弥陀仏の幸ある世界全体を観想します。

さまざまな無数の宝石で飾られた楼閣があり、無数の天人達が天上の音楽を奏でています。

光と音曲で満たされた荘厳な世界です。

それは仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを讃えています。

この観想を行う者は必ず阿弥陀仏の世界に生まれることができます。

 このあと、お釈迦様はアーナンダとバイデーヒに告げます。

 「よく聞きなさい。仏はあなたたちのために、苦悩を取り除く法をよく解るようにお話しします。

あなたたちはそれを常に心に念じ、広く人々にまたよく解るように話し伝えなさい。」

 こう言われたとき、突然、光明に包まれて無量寿仏(阿弥陀仏)が空中に立たれました。

まばゆいばかりの光の中、左右には観世音菩薩と勢至菩薩が仕えておられました。

バイデーヒはそのありがたさと感嘆で、思わず接足作礼(五体投地)の礼拝をしていたのです。

 また、次号に続きます。

(参考と引用: 岩波文庫「浄土三部経(下)」)
                          

NO.179         平成25年      11月

観経真身観文 その1

 月参りでお勤めするお経の中心になるものです。

観経とは「観無量寿経」のことで、「無量寿経」「阿弥陀経」とならんで浄土三部経の一つです。

「真身観文」はその中の一節です。お経は「仏告阿難及韋提希」(仏、阿難および韋提希につげたまう)で始まります。

お釈迦様が弟子の阿難と韋提希夫人にお話になるのですが、

その内容を説明する前に、背景となる物語をお話ししなければなりません。

仏典によればお釈迦様が亡くなる7年前の事件だと言われています。

 場所はマガダ国の首都ラージャガハ(王舎城 おうしゃじょう)です。

国王ビンビサーラ(頻婆娑羅)と王妃バイデーヒ(韋提希 いだいけ)には世継ぎがいませんでした。

占い師にみてもらうとヒマラヤで修行している仙人が3年後亡くなり、彼が輪廻転生して王子として生まれるというお告げでした。

 ところが、王は3年を待ちきれず。仙人を殺害します。

殺される前に仙人は「来世で王を殺害するであろう」と言い残しました。

 その後、占い師の預言通りバイデーヒは妊娠し、王子が生まれました。

王は仙人の言葉が忘れられず心配になり、生まれてきた王子を城の高いところから投げ落としたのです。

しかし指一本を折っただけで、奇跡的に王子は助かりました。

 王子は成長し、名をアジャータサットウ(阿闍世 あじゃせ)といいました。

アジャータサットウ王子にはデーバダッタ(提婆達多 だいばだった)という友人がいます。

もともと仏教教団にいましたが、お釈迦様と意見が対立し教団を去っていました。

そして、教団の活動を邪魔したりするので、仏教では悪人とされています。

彼はアジャータサットウ王子に出生の秘密を暴露し、父であるビンビサーラ王への謀反をそそのかしました。

父と母が生まれたばかりの自分を殺そうとしたことを知ったアジャータサットウ王子は怒り心頭に発し、

父王を牢獄に閉じ込め、水や食料を与えずに餓死させようとしました。そして母バイデデーヒ以外、誰とも面会は許可しませんでした。

 バイデーヒは、バターと乾パンの粉を練って自分の身体に塗り、首飾りの中にぶどう酒を入れて、面会ごとにビンビサーラ王に与えました。

 また、ビンビサーラ王も、自分の悪行が招いた結果であることを十分承知していましたので、

牢獄の中からお釈迦様に仏教の戒を受けることを願いました。

お釈迦様は、弟子で王の親友であるマハーマウドガリヤーヤナ(大目犍連 だいもっけんれん)を

ハヤブサが飛ぶ如く毎日空から遣わし、戒を授けました。またプールナ尊者(富楼那 フルナ)も遣わされ、王のために説法をしました。

 王は衰える気配がないどころか、血色よく表情も穏やかなので、不思議に思ったアジャータサットウが牢番に問い詰めると、

母バイデーヒが食料を与え、お釈迦様の弟子達が説法していることがわかりました。

それを知ったアジャータサットウは怒って剣に手をかけ今にも母を殺そうとしました。

そのとき、二人の聡明な大臣がアジャータサットウに礼拝して剣の柄に手をかけ、

「大昔から、王位に就くために父王を殺した悪王は大勢います。

しかし、未だかつて非人道にも、その母を殺したということは聞いたことがありません。

もし、母親殺しとなれば、クシャトリア(王族・武人階級)の名を汚すことになり

、この宮殿に住んでいただくことはできません。」と強く諭しました。 

アジャータサットウは驚いて、「お前はどうして私の味方をしないのか」と問うと、

大臣は言いました、「大王様、母を殺してはなりません」と。

アジャータサットウはこの言葉を聞いて懺悔し、剣を収めました。

そして、役人に命じて母親のバイデーヒを奥の部屋に閉じ込めて、外に出られないようにしました。

 それからバイデーヒは自分の境遇を愁い悲しみ、幽閉された暗い部屋の中で憔悴(しょうすい)の日々を送っていました。

そして深い悲しみの中、お釈迦様に助けを求めました。

すると、お釈迦様はそのサインをすぐに察知され、マハーマウドガリヤーヤナ(大目犍連)とアーナンダ(阿難尊者)を遣わされ、

お釈迦様自身も目の前に姿を現されました。そのあと、岩波文庫「浄土三部経(下)」の漢文和訳によりますと

    礼拝を終わったバイデーヒが頭をあげると、師・釈尊の体は紫を帯びた金

   色に輝き、数百の宝石の蓮華の上に坐られ、マハーマウドガリヤーヤナは左

   に、アーナンダは右に侍し、シャクラ(帝釈天)・ブラフマン(梵天)・護

   世の天人たちは虚空にあって天花を降らして供養しているのが見えた。その

   とき、バイデーヒは師の姿を見て、自ら胸飾りを断ちきり、大地に身を投げ、

   号泣して師に向かって言う

   「尊き師よ、わたくしは、昔なんの罪があってこのような悪しき子を生んだ

   のでありましょう。
    ・・・・・
   願わくは尊き師よ、私のために、苦悩や憂いの無い世界を説いて下さいま

   すように。私はそこに生まれるでありましょう。
    ・・・・・
   今わたくしは、五体を地に投じて礼をし、師のいとおしみを求めて懺悔いた

   します。願わくは太陽であるブッダよ、わたくしに清らかな行いのある世界

   をみせてくださいますように。」と

    そのときに師は眉間から光を放たれた。その光は金色に輝いてあまねく十

   方の無量の世界を照らし、世尊の頭上に還って来てとどまり、黄金の台と化

   した。その形は須弥山のようであった。十方の仏たちの清らかな美しい国土

   はすべてこの光の中に現れた。

 お釈迦様はバイデーヒに光に満ちた清らかな仏国土をお見せになりましたが、

バイデーヒは、幸ある世界といわれる阿弥陀仏の浄土に生まれたいと言いました。

そこでお釈迦様は「西方の幸ある世界に生まれることができるようにしましょう」

と約束されたのです


            次号に続きます。

(参考と引用 岩波文庫「浄土三部経(下)」)