更新2014/1/9

 

松 燈 だ よ り


NO.181         平成26年      1月

 観経真身観文 その3

 無量寿仏(阿弥陀仏)が左右に観世音菩薩と大勢至菩薩を従えて空中に立たれたとき、

バイデーヒ(韋提希)は感激のあまり接足作礼の礼拝をしました。

 そして、「未来の人々は、このように光明に包まれた阿弥陀様や菩薩様をどのようにして観ることができるのでしょう。」

と師であるお釈迦様に尋ねました。

 お釈迦様はまず花の座を観想(第七の瞑想)することを告げられました。

 「花の座として、七種の宝石でできた大地の上の蓮華を想いなさい。

その葉には百の宝石の彩りがあり、葉脈には八万四千の光があります。

葉と葉の間には各々百億の珠宝があって、あたりを輝かせています。

それぞれの珠宝から千の光明が放たれ、まるで天蓋のようで地上全体を広く覆っています。

また、いたるところでさまざまな形に変化し、

ダイヤモンドの台、真珠の網、花の雲などになって、観る者の思うままに変現します。」

 「それぞれの葉、珠、光、台などを観想できるようになれば、

五万劫(ごまんごう)の長い間、生と死に結びつける罪を滅除して、かならず幸ある世界に生まれるでしょう」

    劫:一説に約40億~45億年の長い間

 次にお釈迦様は仏の観想(第八の瞑想)を説かれました。

  次当想仏 所以者何 諸仏如来 是法界身 入一切衆生心想中

 是法界身 入一切衆生心想中 

  是故汝等 心想仏時 是心即是 三十二相 八十随形好 

  是心作仏 是心是仏 

  諸仏正徧知海 従心想生 是故応当一心繫念、

諦観彼仏 多陀阿伽度 阿羅訶 三藐三仏陀 

  想彼仏者 先当想像 閉目開目 見一宝像

  如閻浮檀金色 座彼華上 
 
  「次には仏を観想しなさい。何故かというと、諸々の仏・如来たちは法界の身
   であり、すべての衆生の心想の中に入ってくるからです。」

  「それ故に、あなたたちが心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の
   三十二の大相であり、八十の小相なのです。」

  「この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのです。」

  「智慧海のごときもろもろの仏たちは心想から生まれます。それ故に、一心に
   思念を集中し、心してかの仏・如来・尊敬されるべき人・正しく目覚めた人を観想しなさい。」

  「かの仏を観想しようとする者は、まずその像を観想しなければなりません。
   目を閉じているときも、目を開いているときも、ジャンブー河産の黄金の輝
   きをもつような像が花の上に坐している様子を観想するのです。」 

 そして、お釈迦様は向かって左側の花の座に観世音菩薩が、右の座には大勢至菩薩がそれぞれ坐している様子を

観想するように説かれます。

 それができると仏と菩薩の像はそれぞれ光明を放って、その金色の光はもろもろの宝石の木々を照らし出します。

一つの木の下にはまた三つの蓮の花があって、その上に一仏と二菩薩の像があり、

仏国土にはそれらがあまねく満ちています。

 それを観想できた者は、その仏国土のすべてのものがすぐれた教えを説いていることに気づくでしょう。

それで極楽世界の大体像を観たことになります。この観想を第八観といい、

それができた者はこの世に生きている間、念仏三昧による心の安らぎを得ることになるでしょう。
 
ところで「三界唯一心 心外無別法」(三界は唯一心であり、心外に別法無し)という禅語があります。

心の外に別の法があるわけでは無く、何事もすべて心が造るものだということです。

心のあり方によって世界が変わるのです。

 同じように、上のお経の中で「是心作仏 是心是仏」(この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのです。)がありました。

信じる心が仏を作り、その心そのものが(その人自身が)仏になり、心安らかなる世界にはいることができるということです。

 そしてここでやっと月参りにお勤めするお経の前にたどり着きました。

次回、第九の瞑想である真身観について説明致します。

(参考と引用: 岩波文庫「浄土三部経(下)」)


NO.180         平成25年      12月

観経真身観文 その2

 前回、バイデーヒ(韋提希)王妃の悲しい運命をお話ししました。

王子である息子が、父親のビンビサーラ王を幽閉し死に至らしめたのです。

お釈迦様はバイデーヒのもとへ、すぐに弟子のアーナンダ(阿難尊者)を遣わされ

自らも姿を現されました。

 「何の因果でこのような運命なのでしょう。この世は汚濁(おじょく)と悪に満ちており、悪人達が住む世界です。

彼等の声を聞きたくありません。彼等に会いたくありません。どうか、苦悩や憂いの無い清らかな世界へ導いて下さい。」

とバイデーヒはお釈迦様に懇願します。

 このとき、バイデーヒは自分のことしか頭にありませんでした。

かつてビンビサーラ王は仙人を殺し、バイデーヒ自身も生まれたばかりのアジャータサットウ王子を殺そうとしました。

そんな悪行に手を染めていたのです。その応報と考えても無理は無いでしょう。

 しかし、お釈迦様は眉間から光を放ち、十方の仏たちの清らか国土をお見せになりました。

それを見てバイデーヒは

「お釈迦様、これらの仏の世界は清らかで光に満ちあふれています。

けれど、私は阿弥陀様の極楽世界に生まれたいと願っております。

阿弥陀様を心に描き、正しく受け止めていく方法をお教え下さい。」

と言いました。

お釈迦様はバイデーヒに告げられました。

「思念を集中して、はっきりとあの仏国土を観想しなさい。特別な能力を持たない普通の人間であっても、

仏の力によって遠く西方の幸ある世界を観ることができるようにしましょう。それによって清らかな行いができるようになります。

また、清らかな行いを自らしようとする者が、西方の幸ある世界に生まれることができるのです。」

 すると、バイデーヒは次のように応えます。

 「今、お釈迦様がいらっしゃいますから、私は仏の力によって西方極楽浄土を観ることができるでしょう。

しかし、お釈迦様が入滅された後、この世の人たちは、汚濁と悪と不善の中にあって苦しみにさいなまれるでしょう。

そのような世の中で、人々はどのようにしたら阿弥陀仏の幸ある世界を観ることができるのでしょう。」

 当初、バイデーヒは自分の運命を恨めしく思い、自分をどうにか救って欲しいと懇願しました。

その時は利己的な心が働いていました。

しかし、ここにきて他者をを思いやる気持ちが芽生えてきたのです。

お釈迦様の仏の力によって、光に満ちた多くの仏の世界を観ることができました。

その中でも特に阿弥陀仏の清らかな世界に心惹かれたのです。

そうするうちに、バイデーヒの心が少しずつ解けて開かれていったのでしょう。

 そしてここで、お釈迦様は心を開いた者が阿弥陀仏の世界に生まれるためにできる十三の観想法を示されます。

清らかな世界を心の中に想い描く方法です。

 第一観は日想(にっそう)です。西に向いて日没を観察し、心の中にその形をはっきりととどめることです。

 第二観は水想です。まず、水の清らかさを観じます。そしてそれが氷になったとき、その透き通った様は、

光り輝く宝石が光明となって周りを眩しく照らすように観じられます。

 第一、第二の観想が終わったら、その観想を散逸しないよう心にとどめます。いつでもその一つ一つを

はっきり観ることができるようになれば、阿弥陀仏の世界をおおよそ観たことになります。

これを地想(じそう)(大地の観想)といって第三観とします。

 第四観は林の観想。阿弥陀仏の世界にある宝石の木を観想します。

 第五観は池水(ちすい)の観想。阿弥陀仏の幸ある世界には、八つの功徳のある池がそれぞれあります。

それぞれが七種の宝石でできています。

 第六観はすべてを観る観想です。阿弥陀仏の幸ある世界全体を観想します。

さまざまな無数の宝石で飾られた楼閣があり、無数の天人達が天上の音楽を奏でています。

光と音曲で満たされた荘厳な世界です。

それは仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを讃えています。

この観想を行う者は必ず阿弥陀仏の世界に生まれることができます。

 このあと、お釈迦様はアーナンダとバイデーヒに告げます。

 「よく聞きなさい。仏はあなたたちのために、苦悩を取り除く法をよく解るようにお話しします。

あなたたちはそれを常に心に念じ、広く人々にまたよく解るように話し伝えなさい。」

 こう言われたとき、突然、光明に包まれて無量寿仏(阿弥陀仏)が空中に立たれました。

まばゆいばかりの光の中、左右には観世音菩薩と勢至菩薩が仕えておられました。

バイデーヒはそのありがたさと感嘆で、思わず接足作礼(五体投地)の礼拝をしていたのです。

 また、次号に続きます。

(参考と引用: 岩波文庫「浄土三部経(下)」)
                          




NO.179         平成25年      11月

観経真身観文 その1

 月参りでお勤めするお経の中心になるものです。

観経とは「観無量寿経」のことで、「無量寿経」「阿弥陀経」とならんで浄土三部経の一つです。

「真身観文」はその中の一節です。お経は「仏告阿難及韋提希」(仏、阿難および韋提希につげたまう)で始まります。

お釈迦様が弟子の阿難と韋提希夫人にお話になるのですが、

その内容を説明する前に、背景となる物語をお話ししなければなりません。

仏典によればお釈迦様が亡くなる7年前の事件だと言われています。

 場所はマガダ国の首都ラージャガハ(王舎城 おうしゃじょう)です。

国王ビンビサーラ(頻婆娑羅)と王妃バイデーヒ(韋提希 いだいけ)には世継ぎがいませんでした。

占い師にみてもらうとヒマラヤで修行している仙人が3年後亡くなり、彼が輪廻転生して王子として生まれるというお告げでした。

 ところが、王は3年を待ちきれず。仙人を殺害します。

殺される前に仙人は「来世で王を殺害するであろう」と言い残しました。

 その後、占い師の預言通りバイデーヒは妊娠し、王子が生まれました。

王は仙人の言葉が忘れられず心配になり、生まれてきた王子を城の高いところから投げ落としたのです。

しかし指一本を折っただけで、奇跡的に王子は助かりました。

 王子は成長し、名をアジャータサットウ(阿闍世 あじゃせ)といいました。

アジャータサットウ王子にはデーバダッタ(提婆達多 だいばだった)という友人がいます。

もともと仏教教団にいましたが、お釈迦様と意見が対立し教団を去っていました。

そして、教団の活動を邪魔したりするので、仏教では悪人とされています。

彼はアジャータサットウ王子に出生の秘密を暴露し、父であるビンビサーラ王への謀反をそそのかしました。

父と母が生まれたばかりの自分を殺そうとしたことを知ったアジャータサットウ王子は怒り心頭に発し、

父王を牢獄に閉じ込め、水や食料を与えずに餓死させようとしました。そして母バイデデーヒ以外、誰とも面会は許可しませんでした。

 バイデーヒは、バターと乾パンの粉を練って自分の身体に塗り、首飾りの中にぶどう酒を入れて、面会ごとにビンビサーラ王に与えました。

 また、ビンビサーラ王も、自分の悪行が招いた結果であることを十分承知していましたので、

牢獄の中からお釈迦様に仏教の戒を受けることを願いました。

お釈迦様は、弟子で王の親友であるマハーマウドガリヤーヤナ(大目犍連 だいもっけんれん)を

ハヤブサが飛ぶ如く毎日空から遣わし、戒を授けました。またプールナ尊者(富楼那 フルナ)も遣わされ、王のために説法をしました。

 王は衰える気配がないどころか、血色よく表情も穏やかなので、不思議に思ったアジャータサットウが牢番に問い詰めると、

母バイデーヒが食料を与え、お釈迦様の弟子達が説法していることがわかりました。

それを知ったアジャータサットウは怒って剣に手をかけ今にも母を殺そうとしました。

そのとき、二人の聡明な大臣がアジャータサットウに礼拝して剣の柄に手をかけ、

「大昔から、王位に就くために父王を殺した悪王は大勢います。

しかし、未だかつて非人道にも、その母を殺したということは聞いたことがありません。

もし、母親殺しとなれば、クシャトリア(王族・武人階級)の名を汚すことになり

、この宮殿に住んでいただくことはできません。」と強く諭しました。 

アジャータサットウは驚いて、「お前はどうして私の味方をしないのか」と問うと、

大臣は言いました、「大王様、母を殺してはなりません」と。

アジャータサットウはこの言葉を聞いて懺悔し、剣を収めました。

そして、役人に命じて母親のバイデーヒを奥の部屋に閉じ込めて、外に出られないようにしました。

 それからバイデーヒは自分の境遇を愁い悲しみ、幽閉された暗い部屋の中で憔悴(しょうすい)の日々を送っていました。

そして深い悲しみの中、お釈迦様に助けを求めました。

すると、お釈迦様はそのサインをすぐに察知され、マハーマウドガリヤーヤナ(大目犍連)とアーナンダ(阿難尊者)を遣わされ、

お釈迦様自身も目の前に姿を現されました。そのあと、岩波文庫「浄土三部経(下)」の漢文和訳によりますと

    礼拝を終わったバイデーヒが頭をあげると、師・釈尊の体は紫を帯びた金

   色に輝き、数百の宝石の蓮華の上に坐られ、マハーマウドガリヤーヤナは左

   に、アーナンダは右に侍し、シャクラ(帝釈天)・ブラフマン(梵天)・護

   世の天人たちは虚空にあって天花を降らして供養しているのが見えた。その

   とき、バイデーヒは師の姿を見て、自ら胸飾りを断ちきり、大地に身を投げ、

   号泣して師に向かって言う

   「尊き師よ、わたくしは、昔なんの罪があってこのような悪しき子を生んだ

   のでありましょう。
    ・・・・・
   願わくは尊き師よ、私のために、苦悩や憂いの無い世界を説いて下さいま

   すように。私はそこに生まれるでありましょう。
    ・・・・・
   今わたくしは、五体を地に投じて礼をし、師のいとおしみを求めて懺悔いた

   します。願わくは太陽であるブッダよ、わたくしに清らかな行いのある世界

   をみせてくださいますように。」と

    そのときに師は眉間から光を放たれた。その光は金色に輝いてあまねく十

   方の無量の世界を照らし、世尊の頭上に還って来てとどまり、黄金の台と化

   した。その形は須弥山のようであった。十方の仏たちの清らかな美しい国土

   はすべてこの光の中に現れた。

 お釈迦様はバイデーヒに光に満ちた清らかな仏国土をお見せになりましたが、

バイデーヒは、幸ある世界といわれる阿弥陀仏の浄土に生まれたいと言いました。

そこでお釈迦様は「西方の幸ある世界に生まれることができるようにしましょう」

と約束されたのです


            次号に続きます。

(参考と引用 岩波文庫「浄土三部経(下)」)



NO.178         平成25年      10月

別願(その2)

 先月号の敬白以下は、三つの別願を起こすに際して、諸仏、諸菩薩、無事成就できることを乞い願うものでした。

今回はその三つの別願を説明します。それぞれ誓いを立てて祈願します。

まず別願の第一は

 ねが         こんじん   みらいさい                   けんもん
 願わくは我 今身より未来際を尽くすまで 必ず我に見聞

           お
するところの道俗男女をして菩提心を発こさしむることを得ん

(お願い申し上げます。私は現世より未来永劫にいたるまで、

出家在家男女にかかわらず私に関係するすべての人に、

必ず無上の覚りを求める心をおこさせることができますように)


尽未来際:未来永劫                      .

                 見聞する:一般には「見たり聞いたりする」ことですが、「関わる」ととらえていいでしょう。

                  道俗:「道」は出家者、僧侶。「俗」は在俗の人、一般人。あわせてすべての人をさします。

 この別願は、「菩提心」のことについての願いです。

菩提心とは阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)の略で、

無上の覚りを求める心をいいます。

本来なら「私は必ず菩提心をおこします」と誓うべきところですが、

まず自分をとりまくすべての人が悟りに導かれますようにと願っています。

以前に「自未得度先度他」という一句をお話ししました。

「自分が悟りを得て救われるより、先に他の人々を悟りに導いて救われるようにすること。」をいいます。

他の生を大切に思う心です。その心が通じ合えば、回りまわって自分の生もみんなから大事にされます。

別願の第二は、

         しょうじょう せせ             しゅじょう
 願わくは我 必ず生々世々融通念佛を以て衆生を勧め


 同じく浄土に生ずることを得ん

(お願い申し上げます。私は、生まれ変わりを繰り返し、

そのどの世の中にあっても人々に融通念仏をすすめ、

皆共に浄土に生まれることができますように)


生々世々:輪廻を繰り返して生まれ変わり、生まれ変わったそれぞれの世の中


 この第二の別願は第一をうけて、融通する念仏の勧めを説いています。

「互いに融通する心で念仏を称えて、皆共に浄土に生まれましょう」ということですが、

互いに人間が皆本来もっている仏の心で通じ合えば、この世そのものが幸ある理想の世界(浄土)になるということです。

 別願の第三は

        りんみょうじゅう   しょうびょうしょうのう      .
 願わくは我 必ず臨命終の時 少病少悩にして七日以前

         
        もろもろ  しょうげ    かた しょうねん     . 
 死の到来することを知り 諸々の障碍なく堅く正念に住し 

まのあ   みだ   まみ こんごうだい  ざ    じょうぼん しょう               .
 
面たり弥陀に見え金剛台に坐し 上品の生を取ることを得ん

(お願い申し上げます。命尽きる時に臨んで、病や悩みも少なく七日以前に死が近づくことを知り、

諸々の往生をさまたげるものもなく、ひとすじに仏を念じて往生することを信じ、まのあたり

阿弥陀仏を拝して、金剛のように堅固な禅定の中で、上品の生を得ることができますように)

 正念:物事の真理を求めようとする心。正しい想念のこと。また、浄土系の宗派
    では、ひとすじに仏を念じ、仏の救済を一心に信じること。         .

金剛台:金剛宝座ともいい、ブッダガヤの菩提樹の下にある金剛石(ダイヤモン
    ド)よりなる堅固な台座。そこに坐してゴータマブッダが、悪魔の誘惑を
    寄せ付けず、心乱すことなく堅固に悟りを開いたと言われています。

 上品の生:「観無量寿経」によれば、生前の善行によって極楽への往生のしかた
      が異なり、上品、中品、下品とあって、さらにそれぞれ上生、中生、下生
       と分かれています。善行を積まなければ上品の生を得ることはできないの
    です。

 この第三の別願は、死に臨んでのこころの持ち方が述べられています。

死とは自分の肉体がこの世からなくなってしまうことです。

誰にもその様子を聞くことができません。だから不安で怖いのです。

 命尽きるという時は、人生で最後の大きな節目です。恐怖心なく、

よりよい死を迎えるためには仏を念じて浄土への往生を信じることです。

そうすればこころ安らかにその時をむかえることができるのではないでしょうか。

(参考と引用:「融通念佛聖典」より)






NO.177         平成25年      9月

 平成21年(2009)の10月号で塔和子(とうかずこ)さんの詩「胸の泉に」を紹介しました。

その塔さんが8月28日に急性呼吸不全で亡くなられました。83歳でした。

 和子さんは12歳のときハンセン病(癩病)になり国立療養所大島青松園に入園しました。

ハンセン病は皮膚がおかされ、症状が進むと末梢神経の障害により知覚、運動障害がおこります。

また外見上、顔面・手足の変形や潰瘍、異臭、失明などを伴います。

 日本では明治42年(1909)患者を隔離収容する目的で、大島療養所(現在の国立大島青松園)をはじめ全国六カ所に

ハンセン病療養所が建てられました。昭和6年(1931)には「癩予防法」が成立して、

すべての患者を発見して原則として生涯隔離することになったのです。

入所すると偽名を使い、患者の過去や家族がわからないようにしました。

患者が亡くなっても、その遺骨が故郷に戻ることもありませんでした。

 1940年代後半から特効薬プロミンが使用されるようになり、さらに数種の抗生物質も使用されるようになって、

もはや不治の病ではなくなりました。しかし、法律上、患者は療養所に入所して治療を受けなければなりませんでした。

 それから50年以上経った平成8年(1996)になって、やっと隔離政策がなくなりましたが、

この病に対する誤った知識は根強くあり、偏見や差別はまだ無くなっておらず、人権問題も発生しています。

 このような偏見、差別に合いながら、塔和子さんは療養所で歌人赤沢正美氏と結婚し、

その影響で作詩という創作活動を続けられました。
 
 もういちど塔和子さんの詩「胸の泉に」を紹介します。

  かかわらなければ

    この愛しさを知るすべはなかった

    この親しさは湧かなかった

    この大らかな依存の安らいは得られなかった

    この甘い思いや

    さびしい思いも知らなかった

  人はかかわることからさまざまな思いを知る

    子は親とかかわり

    親は子と関わることによって

    恋も友情も

    かかわることから始まって

  かかわったが故に起こる

  幸や不幸を

  積み重ねて大きくな

  繰り返すことで磨かれ

  そして人は

  人の間で思いを削り思いをふくらませ

  生を綴る

  ああ

  何億の人がいようとも

  かかわらなければ路傍の人

  私の胸の泉に

  枯れ葉いちまいも

  落としてはくれない



 人の世は人と人との関わり合いによって成り立っています。その関わりから生まれる悩みや苦しみ、

またそれによってどうしようもなくつらいことも生まれます。

しかし、その関わりの中で、楽しみや喜びも分かち合うことができます。

ひとりで支えきれず、押しつぶされそうになったとき、家族や友に身をゆだねてはどうでしょう。

ほんの一筋の明かりが見えただけで、生きる喜びや幸せを感じることもあるはずです。


 朝日新聞の天声人語(8月30日)にも、塔和子さんのことが詩とともに載せられていました。
      師

   私は砂漠にいたから

     一滴の水の尊さがわかる

   海の中を漂流していたから

     つかんだ一片の木ぎれの重さがわかる

   闇の中をさまよったから

     かすかな灯の見えたときの喜びがわかる

・・・・
 和子さんの「師」は逆境そのものでした。また、その時光を与えたのは歌人である夫であり、

希望となった光は「作詩」だったのです。和子さんは「詩は生きることそのもの」だとおっしゃっています。


 塔和子さんのように、逆境でも強く生きていける人はほんの一握りでしょう。私たちの多くは弱い人間です。

でも支え合って強くすることはできます。家族や友と向き合って、関わりを大切にしましょう。

別願

 前々号は仏教徒としておこさなけらばならない誓い「総願」(または「四弘誓願」)を説明しました。

その総願に対して別願は、融通念仏の信徒としての誓願になります。

きょうびゃく しんにょじっさいへんほうかいみじんせつどちゅう いっさいさんぼう けんこうにそん
 敬白  真如実際徧法界微塵刹土中 一切三宝 遣迎二尊 

しょうみょうろっぽうごうじゃのしょぶつ かんのんせいし しょだいぼさつ  あいみんのうじゅ     .
 證明六方恒沙之諸仏 観音勢至 諸大菩薩 哀愍納受し給え

(敬って申し上げます。 無数の国土にある宇宙の究極の真理、一切の三宝、この世界に遣わされた釈迦如来と

   この世に来迎される阿弥陀如来、そして真実を証明する六方の仏、観音菩薩、勢至菩薩をはじめ諸々の菩薩がた、

どうぞ私たちに哀れみをもって願いを聞き入れて下さい)                                .

  真如実際:究極の真理                               .

  微塵刹土:無数の国土                               .

               六方:東西南北と上下の六つの方角(阿弥陀経では東南西北と下上の順)全宇宙のことです。 .

                      恒沙:恒河の砂のこと。「恒河(ごうが)」とはガンジス川のことで、その砂の数だけ無数であることをいいます。

     この敬白以下は、これに続く三つの別願を起こすに際して、諸仏、諸菩薩に無事成就できることを乞い願うものです。

その三つの別願については次号でお話ししましょう。                                  .



NO.176         平成25年      8月

施餓鬼法要と真言

 昨年の8月号に施餓鬼(せがき)法要のことを載せました。この法要は餓鬼を供養する法要です。

「餓鬼」とは餓鬼道に落ちた亡者で、いろんな理由で食べ物を食することができず、常に飢餓に苦しんでいる者たちです。

また、食べても食べても満足できない餓鬼ももいます。

餓鬼だけでなく、落ち着くところのない亡者、誰からも忘れ去られた亡者も救済の対象です。

それらすべての霊とこの世でうごめくすべての存在にたいして、

「差別無く平等に悟りの世界に到ることができますように」と祈ります。

 そのために施餓鬼法要では様々な「真言(しんごん)」を唱えます。

 「真言」とは、サンスクリット語(インドの古い言語)の「マントラ」を漢語に訳したものです。

また、真言のうち長い偈文を「陀羅尼(だらに)」といいます。

マントラはバラモン教聖典「リグ・ヴェーダ」の詩句であり、「聖なる言葉」「祈りの言葉」なのです。主な真言を紹介します。

 施餓鬼法要の前半、迷いの道に落ちたすべての亡者たちを真言によって招集します。 

次に、彼等に与える飲食や水を加持して清め、

「毘盧舎那一字心水輪観真言」(びるしゃないちじしんすいかんしんごん)を唱えます。

   ノウマク、サンマンダ、ボダナン、バン

 この真言によって、器の中の水を広大な海にし、その水を甘露や醍醐にして流れさせ、すべての亡者に施します。

 甘露とは、古代インドの神々が飲むアムリタ(不死の意)を漢訳したものです。飢えと渇きを癒やし不死を得るものとされています。

また醍醐は、牛の乳を熟成しながら段階をおって製造されるもので、最後にいちばん美味な醍醐が精製されるといいます。

中国から日本にも伝えられたのですが、現在はどちらも製法が途絶えてしまったようです。

 このとき導師は、外の餓鬼棚の食物と水にも加持を施します。 そして後半のお勤めに入ります。

「発菩提心真言」(ほつぼだいしんしんごん)を唱えます。

   オン、ボウジシッタ、ボダハダヤミ 

      「オーム、菩提心をおこしなさい」

 この真言によって亡者たちに「菩提心」、すなわち「悟りを求めるこころ」を起こさせるのですです。

 真言には、初めや終わりに「唵(オン)」がつくことがあります。インドではこれを「オーム」と唱えます。

オーム真理教の「オーム」です。そのため日本では印象が悪くなりましたが、

ヒンドォー教では宗教的哲学的に深い意味をそなえており、キリスト教の「アーメン」に相当するともいわれています。

 また、この音節は「不滅(者)」「不壊(者)」「不死(者)」などと理解され、宇宙の最高原理とみなされているようです。

 次に「三昧耶戒真言」(さんまやかいしんごん)を唱えます

   オン、サンマヤサトバン

「オーム、あなたは仏に近づけたなら、三昧耶戒を守護することを誓いなさい」

 「大日経」には三昧耶戒として、次の四種の戒があるそうです。

  ① 仏の教えを信じ、仏の教えをそしらない    .
  ② 悟りを求める心を捨てない            
  ③ 仏の教えを他人にも伝える           .
  ④ 他者の痛みを共有し、衆生の救済に尽力する

 この真言は、亡者へ誓いを促すものですが、                                            .

私たち衆生が唱えるときはこの①から④を堅持することを仏に誓うことになります。

 そして、最後に「光明真言」(こうみょうしんごん)を唱えます。

 オン、アボキャ、ベイロシャノウ、マカボダラ、マニ、ハンドマ、 ジンバラ、ハラバリタヤ、ウン
 
 「オーム(聖音)不空なる御方(不空成就如来)よ遍照尊(大日如来)よ偉大なる印を有する御方(阿閦(あしゅく)如来)よ

宝珠(宝生如来)よ 蓮華(阿弥陀如来)よ利益の光明を放ち給え フーム (聖音)」

この光明真言によって、

 ① すべての罪障が消滅して、地獄・餓鬼・修羅の世界に落ちることはない。

 ② 亡者は西方極楽浄土に往生することができる。               .

 ③ 前世の業も消え、いかなる病も平癒する。                  .

 ④ 鬼神や魑魅魍魎(ちみもうりょう)の害を除くことができる。         .

と言われています。

 施餓鬼は、形の上では餓鬼を供養し、ご先祖や亡き人を供養する法要です。

しかし、人間界で煩悩に迷い悩む私たちも、ある意味

では「餓鬼」です。その苦悩が法要で消えてなくなることはないかも知れませんが、

受け入れて向き合うための力とか味方になるのではないでしょうか。施餓鬼は明日を生きるための法要です。

 (参考と引用:「大法輪」第77巻平成22年10月号川崎一洋著「在家でも唱えられる真言」より、
「インド哲学へのいざない」前田專學著NHKライブラリー  126 )


NO.175         平成25年      7月





 アサガオが近くの軒先に早朝からいくつかの顔をのぞかせています。

アサガオでよく問題になるのは、そのツルの巻き方が右巻きか左巻きかです。

アサガオの巻き方はDNAで決まっているそうで、どれも先の上からみると左巻き、下から見ると右巻きです。

一般のネジの巻き方は右に回りながら進むので右巻きといわれていますが、

アサガオはそれと同じだから右巻きと考える人が物理系の人には多いように思います。

しかし、アサガオの生理学的な見方で言うと、ツルの先端は左に回りながら巻きついていきます。

だから左巻きなのだそうです。

この時期、ネジバナもピンクの小さい花をらせん状に巻きながら咲いていますが

、これは右巻きも左巻きも、場合によったら巻かないつむじ曲がりがあるようです。

つむじ曲がりが真っ直ぐなんて、変ですね。

  いまは梅雨の真っ只中、日本は蒸し暑い夏の入口です。 

 ところで、気象キャスターの草分けである倉嶋 厚さんは、

「日本語の『夏』とヨーロッパの『サマー』とでは語感が違う」とおっしゃっています。

 外国人は日本の夏をどう思っているのか、倉嶋さんは著書(倉嶋厚著『日本の空をみつめて』岩波出版)の中で、

ソ連の雑誌「クロコディル」の東京特派員の「日本を歌う」という詩を紹介しています。

  「六月は、頭の上から熱帯雨、背広もズボンもずぶ濡れだ。七、八月は天気が

   よいが、どっこい今度は天火(てんぴ オーブンの意)の中だ、夜は蒸し焼

   き、昼は照り焼き、朝からジャージャー油焼き・・・」

 ヨーロッパの人にとって夏はいちばんいい季節です。

カラッとした気候でそんなに暑くなく、夏の平均気温は北海道並みで大阪より10℃低いそうです。

避暑地にいるよううなものです。日本の「夏」と「サマー」は別物です。

 また日本人も、「夏の夜」を安たばこや安酒に喩えて「蚤憎くて蚊悪い」と言うそうです。

つまりそのこころは「飲みにくくて香が悪い」のです。

 ヨーロッパの主要都市は札幌よりも北に位置し、その気候は長く寒さの厳しい冬と短い夏が特徴です。

そして、夏は緯度の高いほど昼の時間が長くなります。

 夏至の日(6/21) 主要都市の昼夜の長さです。

 都市名  緯度 ° 日出   日没    昼の長さ   夜の長さ  .
 大阪   34.41   4:28   18:56   14時間28分   9時間32分
 東京   35.41   4:26   18:59   14時間33分   9時間27分
 札幌   43.03   4:02   19:24   15時間22分   8時間38分
 ミラノ   45.27   3:53   19:33   15時間40分   8時間20分
 パリ   48.52   3:39   19:47   16時間08分   7時間52分
ロンドン  51.03   3:24   20:01   16時間37分   7時間23分
 冬至(12/22)は昼と夜の長さはだいたい逆転します。

 いまウインブルドンテニスが開催されていますが、そのロンドンは大阪に比べて昼の長さが2時間以上長いのです。

古い時代の英語では、季節はサマーとウインターの二季しか分かれていなかったそうです。

日本では春や秋が待ち遠しいように、ヨーロッパでは湿度が低く、時間のたっぷりある夏の生活が快適なのでしょう。

夏の公園の散歩は、日本で春風の中散歩することに通じるようです。

ヨーロッパの「サマー」にはそのような清爽感があるのです。

 日本では熱中症とかで少し嫌われ者の「夏」の暑さですが、でもこれがないと農作物が育ちません。

日本の個性には必要なものなのです。

 その暑さがあって、それをしのぐことを工夫するようになりました。納涼という風物詩に仕立て上げたのです。

「花火大会」「川床料理」「夕涼み」海や山への避暑旅行などです。

涼しさを味わうことによって、心身をリフレッシュするのです。暑さがあるからこそ生まれた日本人の知恵でしょう。

 また、我慢して夏を乗りきるため、いつのころからか土用の丑の日に鰻を食べる習慣も始まりました。

鰻にはビタミンA、Bが豊富に含まれていて、夏バテ、食欲不振に効くといいます。今年は7月22日(月)と8月3日(土)です。

 あとひと月でお盆になります。 亡き人の霊が戻ってくるといいます。

 遠い過去、あるいは近い過去から私たちのもとへ。

 元気でいることを見てもらいましょう。

 そして、これからもしっかり生きていくことを約束しましょう。



NO.174         平成25年      6月

総願(そうがん)

 総願(そうがん)はあらゆる菩薩(さとりを求めて修行するひと)が共通してたてる誓願です。四弘誓願(しぐせいがん)

ともいわれ、基本的な仏教徒の心構えが述べられていますので、少しの違いがありますが、日本のどの宗派でも唱

えられています。                                                          .

  しゅじょう むへん せいがんど                        .
    衆生無辺誓願度      衆生は無辺なり誓願して度せん ①
    ぼんのう むへん せいがんだん                          .
    煩悩無辺誓願断      煩悩は無辺なり誓願して断ぜん ②
    ほうもん むじん  せいがんち                           .
    法門無尽誓願知      法門は無尽なり誓願して知らん ③
    むじょう ぼだい せいがんしょう                          .
    無上菩提誓願證      無上の菩提誓願して證せん   ④

(衆生は広大で限りがありませんが、すべての人を悟りの境地に導きましょう。
 煩悩も果てしなく限りがありませんが、一切の迷いを断ちましょう。       .
 仏法は尽きることがありませんが、その教えをすべて学び知りましょう。    .
 この上ない悟りに至ることを誓いましょう。)                     .
                        (「融通念佛宗聖典」より)

 誓願とは、仏、菩薩が必ず成し遂げようと願い定めた誓いです。仏、菩薩でないかぎり、衆生が成し遂げようと思っても

できるものではありません。しかし、私たちすべての仏教徒が誓いとして起こすべきものであることを、声を出して唱える

ことで、再確認するのです。                                                      .
 
 ①はすべての人を救うということです。どんな人をも救うということです

 しかし、衆生としてできることは、「救う」ことではなく、「寄り添う」こと、人の気持ちを理解することでしょう。      .


 それは、「自未得度、先度他」という言葉につながります。自分より先に他の人を優先するということです。「お先にどうぞ」

の気持ちです。これならできそうですね。                                               .

 ②は煩悩をすべて断ちきりますという誓いです。

 煩悩(迷い)の根源は三毒であるとされます。三毒とは「貪欲(とんよく)」のむさぼり、「瞋恚(しんい)」のいかり、「愚痴(ぐち)」の

  世の真理に暗いことであります。そしてこれから派生する煩悩が百八あると言われています。人間はおそらくすべての煩悩を断ち

 きることはできないでしょう。むしろ煩悩が試練となって人を成長させるとも言います。人は迷うもの、その試練を「断つ」というので

はなく、「よし乗り越えるぞ」という自分自身への誓いなのです。                                      .

 ③は仏の教えをすべて学び知りましょうという誓いです。

 仏教の教えを説く教典は数千巻あるそうです。経典の専門家でもすべて理解するのは難しいでしょう。また、仏の世界は広大無辺

です。ちょうど自然や宇宙と似たところがあります。先の天文学者の古在由秀さんが言われるように、私たちはそのほんの一部を

知っているだけです。謙虚さを忘れず、知への探求と、その知をどう生かすのか。それが私たちに求められているのではないで

しょうか。                                                                      .

 ④は最上の悟りに至ることを誓います。

無上菩提は「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」とも言います。①から③の誓いを衆生として、また衆生なり

に実践しましょう。おそらくこの現実の世界で、こころ安らかに過ごすことができるのではないでしょうか。               .



NO.173         平成25年      5月

七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)

 三帰文の次に七仏通戒偈を唱えます。

    がんしょしゅじょう
   願諸衆生

     しょあくまくさ しょぜんぶぎょう じじょうごい  ぜしょぶっきょう
   諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教

     わなんしょうじゅ
   和南聖衆

     願わくば諸々の衆生よ

     諸々の悪しきをなさず 諸々の善きを行い   

     自ら意(こころ)を浄くせよ これ諸仏の教えなり

     聖衆に敬礼致します。

 出典は『南本涅槃経(なんぽんねはんきょう)』です。                            .

 広く知られているのは、諸悪莫作からの四句で、これを一般に「七仏通戒偈」と呼んでいます。   .

「願諸衆生」と「和南聖衆」は添え句です。前者は勤行にあたって広く大衆に呼びかけています。

後者は諸仏、諸菩薩に敬意をもって礼拝することです。                         .

 
 この七仏通戒偈も仏教徒に広く親しまれています。あえて口語訳しなくても内容が平易で、

そして仏教の教えの根幹「悪をなさず、善を行う」(止悪修善)を説いているからです。・・・・・

     「悪をなさず、善を行う」ことは、あらゆる社会の中で人として最低限守らなければならない当たり前

の生活態度です。そういう宗教以前の問題がどうして仏教の根幹になるのでしょうか。

 前述の詩人で政治家であった白居易は若いころ禅の道を求めていました。あるとき、長松の

   枝葉が茂った中に住むという鳥窠(ちょうか)禅師の教えを乞おうと杭州の秦望山を訪れました。

           林の中でふと上を見上げると、その木の上で禅師が座禅をしているではありませんか。思わず「ああ危ない!」

  と声を出してしまいました。すると、「危ないのは君だ。心の中に煩悩の火が燃えさかっておる。」

         と反対に禅師に注意されたのです。むっとした白居易は話をかえて、「では釈尊の教えとはいったい何か」と

日頃から思っている仏法の大意を尋ねました。すると禅師はこの七仏通戒偈を唱えました。

     白居易は「それが釈尊の根本の教えですか。そんなこと三歳の子供でも知っている。ここまで尋ねて

        きたのが無駄足でした。」と嘲笑まじりにつぶやいてその場を立ち去ろうとしました。禅師は若い白居易の

     背中に向けて言葉を続けます。「誰でも知っているけれど、八十歳の老人になってもそれを行うことが

難しいのじゃ」と。白居易は思わず足を止め、自分の思慮の浅さにはっとしたといいます。 

     私たちは人と人との交わりの中で生きています。自分を利するため、また、身分や立場を守るため、

      悪いと思っていながら素直になれず過ちを犯してしまいます。それは欲と無縁と思われる歳になっても

   そうなのです。まして、家庭や職場で中心となる人、守るものが多い人にとって、煩悩の火は燃え

      さかっていて「危ない」のです。 この偈を口ずさむことによって、少なくともその心構えを忘れずにいる

ことが大切なのです。                                         .



NO.172         平成25年      4月

三帰文
(さんきもん)

 懺悔文(さんげもん)に続いて三帰文を唱えます。

   がでし  じんみらいさい  きえぶつ   きえほう   きえそう
  我弟子 尽未来際 帰依仏 帰依法 帰依僧

 きえぶつりょうそくそん   きえほうりょくそん    きえそうしゅじゅうそん
帰依仏両足尊  帰依法離欲尊  帰依僧衆中尊

  きえぶっきょう  きえほうきょう  きえそうきょう
  帰依仏竟  帰依法竟  帰依僧竟

    仏弟子としての私は、未来永劫 仏陀(釈迦)に帰依し、仏陀の教えに帰依し、仏陀の教団に帰依します。

    仏陀の両足尊に、教えの離欲尊に、教団の和合衆に帰依します。

そして、仏陀に、教えに、教団に最後まで帰依をまっとうします。


 語句の説明                                             .

 「尽未来際」  未来の果てが尽きるまで。未来永劫                .

     「帰依」    帰命(きみょう)。南無(なむ)ともいい、身も心も捧げ、絶対の信をもって

よりどころとすること。                 .

 「仏」       仏陀、釈尊、お釈迦様のことです。                 .

 「法」     仏陀の教え                                 .

            「僧」     「僧伽(そうぎゃ)」 和合衆を意味するサンスクリット語の「サンガ」を音写したもので、

仏教の教団のことをいいます。             .

 この「仏」「法」「僧」を仏教では「三宝(さんぽう、さんぼう)」として尊びます。            

          「両足尊」   両足とは人間のことをいいます。その中で最も尊い人、すなわち仏陀のことです。

 「離欲尊」   利欲を離れ、執着を離れるという仏教の尊い教え。         .

 「衆中尊」 多くの人の中で最も尊い和合衆。仏教教団のことです。         .

「竟」     ついに。おわる。きわめる。あまねくする。などの意味があります。

       この三帰文は、仏教が誕生した当時から仏教徒の間で唱えられてきた偈文です。仏・法・僧の三宝に帰依

       することは、仏教徒としての必要最小限の条件です。心から深く信じ、心身をあずけ、怠ることなく精進する

ことを誓います。                                               .

       よく知られているように、聖徳太子の一七条憲法は第一条に「和を以て貴しと為す」とうたわれていますが、

       その第二条には「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり。」とあります。そしてこの仏の

教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうかと結ばれています。     .

        仏典に、「仏法の大海は信を以て能入(入ることができる)と為す」とあるように、仏教徒になるということは、

       まず仏法僧の三宝に信を持つことから始まります。信なくして知識だけで仏法を理解しようとしても本当の

       仏教は身につかないでしょう。 私たちの生きているこの娑婆世界で、素直に信じること、心より信頼する

       ことは易しいことではありません。特に現代社会では私利私欲のため他人をだます人も少なくありません。

      だまされるのが悪いとか、自己責任であるとかが先に言われる時代です。信頼関係を築くことがたいへん

難しくなっています。 この三帰文を唱えたからといって、世の中がよくなるものではないでしょう。

       しかし、唱えることによって自分の「信」を目覚めさせることはできるでしょう。一人でも多くの方が「信」を

取り戻したら、小さな一歩でもよい方に向かうのではないでしょうか。                 .

 最近は欧米でも仏教徒が増えていると言います。やはりまず三帰文を唱えます。        .

 最後に日本以外でもよく唱えられている、パーリ語の三帰文を次に紹介します。         .

     Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi
     [ブッダン サレナン ガッチャーミ
     Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi
     [ダンマン サレナン ガッチャーミ
     Saṇghaṃ saraṇaṃ gacchāmi
     [サンガン サレナン ガッチャーミ


NO.171         平成25年      3月

懺悔文
(さんげもん)

 お勤めするときの三番目の偈文が懺悔文です。

 現在では「ざんげ」と読むのが一般的になっていますが、もともと「懺悔」は仏教用語で「さんげ」といいます。

   いままでの自分の犯した罪過を仏の前で告白して悔い改めることです。「懺」は梵語(サンスクリット語)のksama

を音写したもの「悔」はその意味を表す漢語です。                                 .

     がしゃくしょぞうしょあくごう
      我昔所造諸悪業

     かいゆ む し とんじんち
      皆由無始貪瞋癡

        じゅうしんごい ししょしょう
      従身語意之所生

     いっさいがこんかいさんげ
      一切我今皆懺悔
                              (出典は華厳経)

   「私が昔より造ってきた諸々の悪業は        .

             皆、遠い過去からの根本の迷いである貪、瞋、癡によるものです。

            したがってそれゆえ、身、語、意の悪い働きとなって生まれます。

    今私はそれらのすべてを心より悔い改めます。」  .

 いくつかの語句を説明します。                                            .

    「無始」   遠い昔、過去                               .

            「貪瞋癡」 仏教では、百八つの煩悩があるとされています。その中でも、「貪欲(とんよく)」、

                「瞋恚(しんに)」、 「愚癡(ぐち)」の三つを重要な煩悩としてとりあげています。

               これらは最も悪の強い煩悩で、毒にも喩えられて、「三毒」とも呼ばれます。
 
    貪欲・・・欲が強くて自分の欲するものを貪り求めることです。

                    瞋恚・・・「怒り」という意味で、自分の気持ちにそぐわないことがあれば反感や嫌悪感を

         抱くことです。時にはそれが言葉や行動になります。

                     愚癡(痴)・・・「愚痴をこぼす」の愚痴とは異なります。真理、道理に暗く無知で愚かなこと。

                           仏教では無明(むみょう)ともいいます。最も根本的な煩悩で、これがもとになって

                    貪欲や瞋恚などあらゆる煩悩を生み出していると考えられています。

             「身語意」   「身」は体で行う行為、「語(口)」は口から発する言葉、「意」は心の働きです。

                          それぞれの行為、働きを仏教では「業(ごう)」といい、この三つをとくに「三業」といいます。

  業は梵語の「カルマ(karman) 」を訳したものです。

            人には五つの欲があるといわれています。財欲、色欲、飲食欲、名(名誉)欲、睡眠欲。もちろんその欲が度を越してしまうと、

        大きな罪を犯すことになります。 しかし、ささやかな欲から生じる人間の行いでも、どこかで罪を犯していることがあります。

           生きるうえで適度な欲は必要です。たとえば食欲がなければ、生きていけません。毎日の食卓に並ぶ物は、殺生した動物の肉で

         あったり、環境を改変して造った植物であったりします。目に見えないところで罪を造っているのです。また、ちょっとしたことで

          気持ちが高ぶって相手を傷つける言葉をだしててしまったり、物に当たったりすることもあります。聖人でないかぎり、誰でも後悔

することは数え切れないぐらいあると思います。                                      .

 懺悔文はこの世の中で生かされているという謙虚さを忘れないための偈文なのではないでしょうか。       .



NO.170         平成25年      2月

礼文(らいもん)

 香偈(こうげ)のあとに続いて称える偈文です

     がしどうじょうにょたいしゅ  じっぽうさんぼうようげんちゅう
    我此道場如帝珠  十方三宝影現中

     がしんようげんさんぼうぜん   ずめんせっそくきみょうらい
    我身影現三宝前  頭面接足帰命礼

 「我がこの道場は帝珠のごとし 十方の三宝、中に影現したまえ

         我が身は影現したまえる三宝の前に 頭面を接足し帰依礼拝したてまつる」

詳しく訳しますと

 前半部分は降臨を願う言葉です。

 「香を焚き清め、各種の荘厳供養をほどこしたこの道場は、帝釈天宮の宝網に

 ある珠のようです。すべての世界の仏様、この珠の中に姿を現して下さい。」

 後半部分は帰命礼拝の言葉です。

     「姿を現して下さった仏様の前で、私の身は仏様の足もとに頭面を接して心から敬い、

信をもって礼拝いたします。」                            .

理解していただくためにいくつかの語句を説明します。                             .

 「道場」  仏教の修行、学びの場所。寺院や広い意味では仏壇が置かれている場所も含まれるでしょう。

 「帝珠」   華厳経によると、帝釈天の宮殿には帝網(たいもう)と呼ばれる網が張り巡らされていて、   .

その結び目の一つ一つに帝珠(たいしゅ)という美しい珠が付いています。     .

またその珠は互いに他の珠を映し出しながら光り輝いているということです。    .

 「十方」  十の方向。東、西、南、北とその間の方向(北東、南東、南西、北西)と上下。 それで全世界、

宇宙全体を表しています。                                 .

 「三宝」   仏教の三つの宝とは「仏」と仏の教え「法」そして仏教徒の集まりである「僧」のことをいいます。

           それぞれが別々のものであるという考え方と、その三宝が一体のものであるという考え方があります。

      ここでは後者の意味で「仏」そのものを表しています。                        .

 「頭面接足礼」  相手の前にひざまづいて両手を伸ばし、手のひらの半ばで相手の足を受けて自分の頭に

触れさせる礼法。                               . 


  この偈文は、香、灯明、花などで荘厳し供養した所に御仏を請来し、信を誓うものです。                .

居場所を整え、心静かに御仏と対面すると、自分の素直な心が現れてきます。それで準備が整ったわけです。

 しかし、御仏は目で見ることはできません。ほんとうにそこにいらっしゃるのでしょうか。ただ信じるしかありません。

『梁塵秘抄』の次の歌がよく知られています。

    仏は常にいませども 現ならぬぞあわれなる

        人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたもう
 

 解釈

 「仏様は私たちの身近に常にいらっしゃるのですが、私は迷いが多いのでお姿 を見ることができません。

人の声などもない静かな夜明け前にだけ、ほんの少し夢の中でお会いすることができます。」      .

下線部は「 目に見えないことが尊いのです 。」という別の解釈があるそうです。               .

私は最初の解釈のほうが好きですが。                                      .



NO.169         平成25年      1月

香偈(こうげ)

 一年の始まりに際し、お勤めの始まりの偈文についてお話し致します。

      かいこうじょうこうげだっこう こうみょううんだいへんほうかい
     戒香定香解脱香 光明雲台遍法界

         くようじっぽうむりょうぶ  けんもんふくんしょうじゃくめつ   
     供養十方無量仏 見聞普薫證寂滅

 「香を焚けば学ぶべき仏教の三学(戒律と禅定と智慧(解脱)の力)が身に備

  わり、その功徳は光明と紫雲の台となって全宇宙に遍満します。十方のあら

  ゆる仏を供養し、仏にまみえ仏法を聞き香を焚いて十方を薫じることは悟り

  を得ることの証しとなりましょう。」                          .

 この偈文を香偈といいます。出典は華厳経です。(ちなみに浄土宗も香偈がありますが、その出典は

善導大師の法事讃です)                                             .

 香偈はお勤めの最初に称えます。香を焚いたかおりはお勤めの道場を清浄にし、その中にいる私たちを包み、

身も心も清らかにしてくれます。お堂のなかで読経を聞きながら香のかおりに誘われると、自然に手を合わせたく

なります。「香は仏使なり」、また「香は信心の使いなり」と言われるのも納得がいきます。             . 

  香と宗教の結びつきは古く、紀元前4000年の古代エジプト文明にまでさかのぼるそうです。ボスウェリア属の樹木の

樹脂を乳香といい、神に捧げるための神聖な香として用いられていました。それが香木を焚くイスラム文化に採り

入れられ、拝火教、ヒンズー教、バラモン教、仏教と伝わりました。                           

 五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)のうち、匂いに対する嗅覚だけ脳の大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に直接

つながっていて、このことは記憶や本能的な感情などと強く結びついているそうです。よい香りは心が癒されたり、積極

的な気持ちが沸いてくるのもそのためです。アロマテラピーという芳香療法があるように、よい香りはストレスを軽減し

心身の健康をはかることができるのです。ですから、好香をかぐことは、信仰の入口に立っているのです。       .

 戒香は「戒律」すなわち戒めの香です。清らかな心には悪は止み、善根を芽生えさせるための香です。

 定香は心を定める香です。心乱れることなく、静かに保つための香です。                  .

 解脱香は悟りの香です。仏の智慧により真実の悟りに達するための香です。                .

 焼香して香偈を称えることは、香の力で信仰の入口から一歩進み、仏道を清浄な心で修めますと自ら誓うことなのです。  .

 そしてもう一つ、「利他の香」という考え方があります。香木は自分の身を焚いて消滅しても他人に香りを付け、その人を幸せ

にします。香りに心を乗せるとその時の思いを他の人に寄せることができます。                          .

 ほのかなかおりを漂わせるぐらいで、心をこめて焼香しましょう。

本年もどうぞよろしくお願い致します。