松 燈 だ よ り

                        

NO.168         平成24年      12月

視力を失って

10月12日、岡山県立岡山盲学校で、第81回全国盲学校弁論大会全国大会が開かれました。

優勝したのは中国・四国地区代表49歳の富永広幸さんでした。

 富永さんは愛媛県立松山盲学校高等部本科 保健理療科に通っておられます。

「私と家族」という題でお話されました。その内容を紹介させていただきます


 富永さんはトラックの運転手で、車の中で寝起きしながら鮮魚を積んで全国を走り回っていました。

一家の大黒柱として、家族のために懸命に仕事をすることに幸せを感じていました。

 ところが一昨年の10月事故を起こし、目の検査を受けるよう社長から命じられました。

奥さんは「しょうがないじゃん。検査、行くよ」との一言。結果は「網膜色素変性症」の診断で、会社を辞めなければならなくなりました。

 落ち込む間もなく盲学校に入学。家族と離れて寄宿舎生活を選びました。奥さんに迷惑をかけたくないと思ったからです。

 「自分のことは自分でやれ。一人になった時に困らんやろ」との奥さんの激励を受け、寄宿舎生活が始まりました。

人見知りの激しい富永さんは人付き合いが何より苦手です。集団生活ではみんな一緒に行動します。声をかけたり、

人前で話をすることなど、それはもう大変なことなのです。 運転手時代でも仕事以外はほとんど話をしませんでした。

奥さんから「黙ってないで、何か言え」とよく言われるほどでした。やがて「ハズ虫」というあだ名を付けられました。

「ハズ虫」とは、木の葉につく、触ると頭を振る毛虫です。「ばかにしやがって」と頭にきたのですが、なるほどと、納得もしました。

 それからは事あるごとに奥さんから「ハズ虫」と呼ばれました。給料を持って帰ったときだけは優しくしてくれます。

それも一瞬、すぐに「ハズ虫」と呼び捨てです。

 日曜の夜から金曜日までが寄宿舎生活で、金曜日、学校が終わって帰宅します。

家での何よりの楽しみは「お酒」と「孫」です。孫は必ず手紙を書いてくれます。「頑張れジージ」。

それで富永さんも返事を書くのが習慣になりました。

ところが奥さんは「私はどうでもええんかい、あんたは孫さえおればええんやろ」とか近頃では「また帰るん」とまで言います。

どうやら奥さんは、孫とだけの生活が楽なようで、帰宅中の夫の世話にはイライラがつのるようです。

 仕事をしていた頃は大事にしてくれたのに、盲学校に通ってから奥さんは「鬼」のように見えたそうです。

 しかし、このズバズバ言う遠慮のない言葉に、富永さんは救われたといいます。

そして、寄宿舎で過ごすうちに、この言葉の裏側にある優しさをありがたく感じるようになったそうです。

最後に富永さんは次のように話されました。

    妻の苦労は私が一番に分かっているつもりです。私が仕事を辞めてから

   というもの、妻が大黒柱になって頑張ってくれています。仕事、家事、孫

   の世話、その上、私の送り迎え、ゆっくり座っていることなどありません。

    「大事にする、苦労はさせん」と言って結婚したのに、今では苦労の掛

   けっぱなしです。「3年待てよ」と言い聞かせながら一日一日を指折り数え、

やっと1年余りが過ぎました。

    自分のため、家族のため、一生懸命に勉強して、少しでも早く一人前の

   マッサージ師になりたい。そして、妻や家族を守りたい。

    妻や家族、ちょっと口は悪くてもみんな大事な大事な宝物です。面と向

   かってはとても言えませんが、「ありがとう、みんながいるから頑張れ

   る」といつも感謝しています。この思いを胸に、この家族に支えられなが

   ら、私はもう一度、大黒柱になって、妻や家族を守ってみせます。

 「網膜色素変性症」とは、中途失明にいたる眼科疾患の一つで、数千人に一人の頻度で起こり、盲学校の生徒で

最も多い疾患だと言われています。

 四十半ばは人生で最も充実した時期です。自身と誇りをもって仕事をしてきた富永さんにとって、このような病気と診断

されたときは奈落の底に突き落とされたような気持ちだったのではないでしょうか。

 人生の途中で視力を失うと、家に閉じこもりがちになる人が多いと言います。人見知りの強い富永さんがそうならなかったのは、

奥さんの突き放したような接し方と家族の支えだったのかもしれません。

 そしてもう一つは盲学校での寄宿舎生活です。集団での生活は、利己的な考え方では続きません。

常に人の立場に立った視点が必要です。そこから互いの信頼が生まれます。

 仏教用語に「同事(どうじ)」という言葉があります。相手のことを思い、相手と同じ立場に身をおき、

行動を共にすることです。富永さんは盲学校の集団生活を通じてそのことを身につけられたのです。

道元禅師の「正法眼蔵」にあります。

  「同事といふは不違(ふい)なり、自にも不違なり、他にも不違なり。



NO.167         平成24年      11月
面影

 紅葉の季節になりました。サクラやハナミズキは四月にきれいな見事な花をつけ、そしてこの季節にはその葉が黄色や赤色に

染まってもう一度私たちを楽しませてくれます。

 葉に含まれる色素には緑色のクロロフィルと黄色のカロチノイドがあります。健康な葉はクロロフィルの方が多く含まれているので、

緑色をしています。ところが気温が低くなるなどで葉の働きが弱くなると、クロロフィルは分解されて無くなっていきます。

こんどはカロチノイドが優勢となり、葉は黄色く色づくのです。 

また、落葉樹は葉を落とす準備として、葉柄の付け根に物質の行き来を止める組織ができます。

普段は葉の光合成でできた糖が幹や根に行き渡りますが、その組織ができると遮断されて、葉に糖がたまります。

その糖は気温の低下と太陽光によって赤色の色素アントシアニンに変化し、葉は赤く色づきます。

いづれにせよ、12月中頃には葉は散って、草木の一年のサイクルは終了するのです。

  見わたせば花も紅葉(もみじ)もなかりけり

         浦のとまやの秋の夕ぐれ

                                                          藤原定家

 秋の夕暮れ、浜辺には花も紅葉もなく、ただ漁師小屋があるだけである。

 俳人の長谷川櫂(かい)さんは、『俳句的生活』のなかで次のように書いています。

   「花も紅葉もなかりけり」というのであるが、この歌を読む人は

   誰でも夕闇に浮かぶ花や紅葉を想像する。花も紅葉も無いといい

   ながら花の面影、紅葉の面影を浮かび上がらせる。否定すること

   によって肯定しているわけである。これは歌の話であるが、実は

   植物自身がこの否定による肯定、死によって生きるということをしている


 美しい花や紅葉も必ず散って無くなります。無くなってもその面影は人の心に残っているということなのです。

 松原泰道師は『般若心経入門』という著書の中に、次のような茶道の逸話を載せておられました。

  京都千本の正安寺の和尚さんは千利休の孫に当たる宗旦(そうたん)と親交がありました。

ある日、寺の庭に「妙蓮寺」という名のある椿が咲いていたので、

一枝切って小僧に持たせて宗旦の元へ届けさせました。

椿の花はそのままの形で落ちやすいので、十分気を付けていたのですが、

途中で落としてしまいました。

小僧さんは正直にこのことを打ち明け、自分の粗相を詫びました。

 しかし、宗旦は笑みを浮かべてその過失を許し、小僧さんを茶席の「今日庵」に招待しました。

宗旦は床の間の掛け物をはずし、花入れを掛け軸に掛け

、そこに小僧さんが粗相した花のない椿の枝を入れ、その下に落ちた椿の花を置いて、

薄茶一服を点じました。そして「ご苦労様」と小僧さんの労をねぎらったそうです。

 花は散っても咲いていたときの面影は、落ちている花によって十分感じとることができるのです。それがまた、花が付いているとき以上

の趣を与えるのです。

 人の一生も同じように思います。若さ溢れる青春時代は花がありますが、必ず誰でも病があり老いがきて死を迎えます。

華やかな時代が過ぎ去ると、体力が無くなり思うように動くこともできず、徐々に視力や聴力も衰えてきます。

それを実感するのは確かに寂しいことです。

 しかし、生きてきたそれだけの人生には年輪だけの重みがあります。

どう生きてきたか、それは顔の表情やちょっとした仕草となって体の外に醸し出されます。

薫り高く美しい面影を残すためにも、これからをさらに大切に生きていきましょう。

 次はアメリカの詩人ウォルター・ホイトッマン(1819~1892)の詩です。

苦難に満ちた人生を歩みながらも、詩集『草の葉』を発表しました。1873年、脳卒中に倒れて不自由な晩年を送りましたが、

『草の葉』改訂を続けました。

女あり

 二人ゆく

     若きは うるわし

  老いたるは

    なお うるわし




NO.166         平成24年      10月

お十夜

 今から約580年ほど前、室町時代の武将平貞国(伊勢貞国)が世の乱れを憂い、出家しようと京都の真如堂(真正極楽寺)で

三日三夜の念仏修行に専念しておりました。結願の明け方にご本尊阿弥陀如来の霊夢があり、出家を思いとどまるように

と夢告がありました。不思議に思って家に帰ってみると、家督を継いでいた兄の貞経が室町幕府の政所執事から失脚し、

吉野の山奥へ謹慎処分となっていました。急に家督と兄の要職を嗣ぐことになった貞国は阿弥陀如来の夢告の意味を理解し、

それに感じ入ってさらに七日七夜念仏会を修め、十日十夜の念仏会としました。これが十夜念仏のはじめとされています。

 そして、明応四年(1495年)に浄土宗の観誉祐宗が後土御門天皇の勅許を得て鎌倉光明寺で十夜会を厳修し、それが全国の

寺院で行われるようになりました。                                                      

 また、この十夜会法要の心は、「無量寿経」というお経の次の一節にあります。                             

   為徳立善 正心正意 斎戒清浄 一日一夜 勝在無量寿国 為善百歳 

   所以者何 彼仏国土 無為自然 皆積衆善 於此修善 十日十夜

   勝於他方諸仏国土 為善千歳 所以者何 他方仏国 為善者多 為悪者少

   福徳自然 無造悪之地 唯此間多悪 無有自然


 簡単に言いますと、「この世で十日十夜のあいだ善をなせば、仏国土で千年の間善をなすのに勝る。

仏の世界ではだれでもが善をなし、悪をなす者がいない。それが当たり前の世界なのだから、悪が多く

   善をなすものが少ないこの娑婆世界では、善を行うことはそれだけ貴いものなのだ。」ということになります。

 古くは旧暦の十月五日から十四日までの十日間お勤めがありましたが、関西では旧暦に近い11月に修される

ところが多いようです。                                                    

 また、お十夜の法話の後、小豆粥をいただきます。赤い色の小豆は古来厄除けとして珍重されました。

実際すぐれた薬効があります。                                              

 小豆には玄米に近い量のビタミンB1が含まれています。 ビタミンB1は糖質をエネルギーに変える作用があり、

筋肉内に糖質が蓄積して疲労物質になることを防いでくれます。よって、疲労回復、肩こり、筋肉痛、だるさ、

夏バテなどに効果があるとされています。

皮にはアク成分の一種のサポニンを含んでいますから、中性脂肪やコレステロールを低下させる働きがあり、

高脂結晶や高血圧を予防する効果があると言われています。(http://www.shokuhinjiten.com/mame/azuki.html)

 11月恒例の「お十夜」を下記の通り厳修致します。

    日時  11月17日(土)                    
 
      * 十夜会法要と経木回向(一霊300円)    午後2時より

* 法話 講師 礒田 良孝 師   午後3時頃より

      * 施粥(小豆粥)                午後4時頃より 






NO.165         平成24年      9月

やり残した仕事

 6月号のおたよりで精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスを紹介しました。                         

彼女は死を目前にした人たちの終末医療に深く関わり、その活動は世界のホスピス運動の引き金になりました。   

 末期の患者さんは、自分の死が近いことを周囲の誰よりもいちばんよく知っています。しかし死に対する恐怖があります。

その恐怖を和らげこころ安らかに死を迎えるためには、その患者さんの思いを聞くことが大切だといいます。 人は誰しも、

消極的な部分をもっています。そのため「あのときやっておけばよかった。」と悔やみます。患者さんもそうです。こころに

引っ掛かっていること、やり残したことを解決したいと思っています。その手助けが必要なのです。              

 それは言葉とは限りません。こころからの接し方もあります。                                      

 ある檀家さんのおばあさんが入院されました。元気な頃はお参りをすると、いつもお嫁さんの不足の話になります。   

 お嫁さんが気を遣ってしたことも、なかなか素直に受け止められないようでした。                          

 入院してからはだんだん体力が衰え、食事も満足に進まず、ついには好きな物もまったく口にしなくなりました。      

お嫁さんは何か食べてもらおうと野菜のスープをつくりました。それを病院にもっていっておばあさんの口に近づけると、

おいしそうに飲み干したそうです。お嫁さんの気持ちが温かいスープになって体の中に入っていったのでしょう。       

その次の日おばあさんは安らかに息を引きとられました。おそらくいつも世話になっていたお嫁さんに「ありがとう」と言いた

かったのでしょう。お嫁さんへの感謝の気持ちがおばあさんのやり残した仕事でした。                       

 小児ガンなどで死が近づく子供の場合、大人よりもそのことをよく分かっているそうです。それは子供の感覚が鋭いからです。

 エリザベス・キューブラー・ロス著『「死ぬ瞬間」と死後の生』に9才のジェフィの話があります。                 

彼は3才の時から白血病でした。最後にエリザベスが接したのは死期が2、3週間に迫っているときでした。       

いままで何度も化学療法を受けたために髪の毛は無く、もう注射針を見ることもできないほどそれは苦痛だったのです。

回診してきた若い医師は「もう一度化学療法を試しましょう。」と言いましたが、エリザベスはジェフィ自身の考えを確かめる

ことにしました。ジェフィは自分のことがよく分かっていたのです。「どうして僕のような病気の重い子を直そうとするの?」と

 ちょっと怒ったように拒否したのです。                                                   

   そして「今日ぜったい家に帰りたい」と言いました。その言葉は事態が差し迫っていることを意味します。家に帰ったジェフィは

   父親に「僕の自転車を下ろして、補助輪をつけて」と言いました。 それは3年前に買ってもらった新品のすてきな自転車です。

      使用することなくガレージの壁に掛かったままでした。補助輪がつけられると、ジェフィはエリザベスに「先生、(手助けしないように)

    ママを押さえていて」といって、ふらふらしながら一人で自転車に乗り、一人で近所を回って帰ってきました。            

   そのときジェフィはまるでオリンピックで金メダルを取ったように、満面に笑みと誇りをたたえていました。             

     そして、「自転車をぼくの部屋に運んで」「それから(弟の)ダグラスが学校から帰ってきたらぼくの部屋に一人で来るように言って」

と父親に頼みました。                                                           

   その一週間後ジェフィは亡くなりました。ダグラスの話によるとその自転車はダグラスの誕生日プレゼントとして譲ったということ
   
でした。また、そのことを誕生日まで誰にも話さないようにと約束させたそうです。病院で化学療法を続けていたらそれらの

やり残した仕事を片付けられなかったでしょうし、これほど満足な気持ちで死を迎えることはできなかったでしょう。    

 私たち今元気なものも、やり残している仕事をいっぱい抱きかかえています。そして「あの時・・・・すればよかった」と後悔する

ことがあります。                                                              

 つぎはベトナム戦争時代のある女性の詩です。                                            

 あなたの自慢の新車を借りて傷つけてしまった日のことを覚えてる?

 きっと、かんかんに怒るだろうと思ったのに、あなたは怒らなかった。

 雨が降るからいやだというあなたをむりやりに浜辺にひっぱっていって、

 ほんとに雨が降ってきた日のこと覚えてる?

 「だから言っただろ」って言うだろうと思ったのに、あなたは言わなかった。

 あなたにやきもちやかせようと思って、片っ端から男の子といちゃついて、

 そのとおり、あなたがやきもちをやいたころのこと覚えてる?

 きっと愛想をつかすだろうと思ったのに、あなたは別れようとはしなかった。

 あなたの新品のズボンにブルーベリーパイをこぼしたときのこと覚えてる?

 こんどこそ絶対に私を捨てるだろうと思ったのに、あなたはそうしなかった。

 ちゃんとしたダンスパーティだということを、あなたに伝えそこなって、

 あなたがジーンズであらわれたときのことを覚えてる?

 私を殴るだろうと思っていたのに、殴らなかった。

 あなたがベトナムから帰ってきたら

埋め合わせをしようと思っていたことが、 たくさんあった。

 なのに、あなたは帰ってこなかった。



 人生のやり残した仕事は、健康で幸せな間は、やっぱりやり残してしまいがちです。死という永遠の別れが訪れるようになって、

初めて真剣に考えるようになるのではないでしょうか。本人にとっても近親者にとっても。                      

 エリザベス・キューブラー・ロスは言っています。「死ほど大事なことはない」と。                             


NO.164         平成24年      8月

施餓鬼法要

 施餓鬼法要については、松燈だより第105号(2007年 9月号)に少し説明させていただきました。

 施餓鬼は文字通り「餓鬼に施す」法要です。餓鬼とは常に飢餓に苦しむ無縁の亡者をいいます。 

       古いインドでは、霊を祀る人がいない場合、お供え物がなくあの世でつねに飢えていると考えられていました。

「鬼」は中国で「死者の霊」を意味することからつけられたものでもあります。            

施餓鬼にはつぎの故事があります。                                    

          お釈迦様の弟子である阿難(あなん)が修行中のとき、焰口(えんく   火をふく餓鬼)

という餓鬼が近づいてきて、阿難の耳元でささやきました。       

「多くの餓鬼に食べ物をお供えし、三宝を供養しないと、おまえは

    三日以内に死んでしまい、私のような餓鬼になってしまうぞ。」     

 驚いた阿難はさっそくお釈迦様にこのことを相談しました。       

お釈迦様は「阿難よ、餓鬼棚に飲物や食物をお供えし、修行僧に法要

を営んでもらいなさい。そうすればその供物は無量の供物となり多くの

餓鬼が救われるでしょう。」と諭され、阿難はその通り心をこめて餓鬼

を供養しました。その功徳のおかげで阿難は大変長生きし、阿難尊者

として後世まで敬われたということです。                  

 中国では6世紀の初め頃から施餓鬼の法会が行われていました。水陸の生物に飲食を与えて供養を

することから「水陸会」とも呼ばれています。日本には平安時代の中頃に伝えられ、飲食陀羅尼(おん

じきだらに)や真言をとなえて餓鬼を供養し救済するようになりました。その功徳によって先祖の追善

供養を行ったのです。                                               

 現在、施餓鬼法要では、この世界で彷徨(さまよ)っている霊や生きとし生けるものすべての霊魂を供養

するために、「天地幽顕水陸諸霊」(この世の見えない世界と見える世界の諸霊)の位牌を本堂の外に

しつらえた餓鬼棚にお祀りします。                                        

 また法要の後に「天地幽顕水陸諸霊蠢々含識(しゆんしゆんがんじき) 皆得作仏」(この世のすべての霊

とこの世でうごめくすべての存在がみな成仏できますように)、「三界萬霊有縁無縁乃至法界 平等利益

(りやく)」(この世の霊魂やすべての存在が差別無く平等に悟りの世界に到ることができますように)と

回向します。                                                      

 私たちが生きているこの世界には人間の世界だけでも無数の生があります。性、容姿、国、環境、   

才能・・・それらの違いによって社会ではいろんな差別が生じています。仏教ではすべてのものが平等

であり、誰でも等しく悟りに到る素質(仏性)を持っていると考えます。施餓鬼回向ではすべての生が悟り

に導かれますようにと願います。そして、その功徳は私たちに向けられます。他者への思いを通じて自分

という存在(自己の仏性)を見つめ直すことができるのではないかと思うのです。               

   施餓鬼法要は8月18日(土) 午後3時より 当寺本堂にて厳修致します。 宗派を問わず、初盆の方、ご先祖や

ご縁のあった方のご供養にどうぞお参り下さい。                                   

施餓鬼経木回向料 一霊300円(初盆は 一霊 1000円)

地蔵盆

 平安時代末、地蔵講として地蔵菩薩の功徳をたたえる法会が営まれていました。それが毎月の二十四日でしたので、

  その日は地蔵菩薩の縁日とされました。旧暦の一月二十四日が「初地蔵」、盂蘭盆に近い旧暦七月二十四日は「地蔵盆」

と呼ばれるようになりました。                                                     

 地蔵菩薩について『沙石集』にはつぎのようにあります。                                      

    地蔵菩薩は、衆生を済度尽くすまでは成仏しないと誓い、釈迦没後弥勒

   の出世まで、無物の世の導師として、地獄など悪趣に堕ちた人々を救うこ

   とを利益の第一としている。・・・                         

    地蔵は、慈悲深い故に浄土に住まず、この世と縁尽きぬゆえに入滅もせ

   ず、ただ悪趣を住みかとし罪人を友とする。・・・               

   いつでも六道のちまたに立ち、昼も夜も生きとし生けるものにまじって、

   縁無き衆生を救いたまうのである。                      

 また、地蔵菩薩は子供の成長を見守る守り神ともいわれます。不幸にも亡くなった場合、賽の河原までいって子供を守護する

のです。 幼子が親より先に世を去ると、この上ない親不孝のため三途の川を渡れず賽の河原に追いやられます。そして河

 原の石を積んで石塔を造るのですが、鬼が出たり、いろんな災難に遭遇したりします。そんな子供達を救うのが地蔵菩薩です。

それを語っているのが次の『西院川原和讃(さいのかわらわさん)』です。                                

    帰命頂礼地蔵尊   ものの哀れのその中に   西の河原の物語  ・・・・・

    十より内の幼な子が   広き河原に集まりて   父を尋ねて立ちまはり  

 母を焦がれて歎きぬる   あまり心の悲しさに   石を集めて塔を組む

    一重積んでは父を呼び    二重積んでは母恋し  ・・・・・           

    しばし泣き居る有様を   地蔵菩薩の御覧じて   汝が親は娑婆にあり   

 今よりのちは我をみな   父とも母とも思ふべし   深く哀れみ給ふゆえ

    大悲の地蔵にすがりつつ  我も我もと集まりて    泣く泣く眠るばかりなり

地蔵盆  8月23日(木)、24日(金) 両日とも午後10時まで                                            
                    
  25日(土)   地蔵盆御供え配り                                    

 境内には水子地蔵尊もお祀りしています。どうぞこちらもお参りください。                                


NO.163         平成24年      7月

お盆

 日本では古くから、初春と初秋の満月の日に先祖の霊が子孫のもとに戻ってくると考えられていました。  

旧暦の一月十五日と七月十五日です。前者の場合、一月一日に収穫の神である歳神(としがみ)様をお祀  

りする行事がありましたので、十五日の小正月より新年を盛大に祝うようになったようです。門松は神様が乗り

移るためのもので、しめ縄は神様を迎える清浄な場所を意味しました。                        

 後者の七月十五日の習わしは、中国から伝わった「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」にある次のような仏教説話と

結びつき、お盆の行事となりました。                                             

 お釈迦様の弟子「目連」は神通力がありました。あるとき、その力で亡き母の様子を見たところ餓鬼道で苦しん

でいることがわかりました。母に食べ物を与えようとしましたが、ことごとく燃えて炭になってしまいます。お釈迦様

に尋ねたところ、修行あけ(七月十五日)の多くの僧にたくさんの食べ物を施して供養しなさいと教えられました。

 (盂蘭盆経から)

  年年七月十五日         毎年七月十五日に                

  常以孝順慈            常に孝順の心をもって              

  憶所生父母乃至七世父母   生みの父母から七世の父母までおもいを馳せ

  為作盂蘭盆            盂蘭盆を作り                    

  施仏及僧              仏や僧に施して                  

  以報父母長養慈愛之恩     父母の長養慈愛の恩に報いなさい。     

 ・ ・ ・ ・ ・  ・ ・ ・ ・ ・
  具                   供えるものは                   

  飯 百味 五果 汲灌盆器    御飯、多くのおかずと果物、水入れ、     

   香油 錠燭 床敷 臥具     香油、燭台、敷物、寝具。            

  尽世甘美 以著盆中       世の甘美を尽くして 盆中に置き、       

  供養 十方大徳衆僧。      十方の大徳・衆僧を供養しましょう。      
  
 徳のある多くの修行僧を供養し、彼等の威神力で祈願してもらえば、父母は延命で無病息災となり、   

先祖は餓鬼道から離れ、天人になって大いに福楽があると書かれています。                

 このように本来は修行僧を供養することだったのですが、中国でも儒教などの影響で先祖の霊を供養する

ようになったようです。旧暦の七月十五日は「中元節」といってお墓にお参りし、その周りで先祖の霊と一緒

に食事をする習慣が残っています。                                          

 日本のお盆は、亡き人の霊が帰ってくるという考え方が中心にあります。これは仏教だけでなく神道でも

同じだそうです。ですから、帰ってくるところをしつらえるのです。それが盆棚または精霊棚と呼ばれて  
います。
 地域などによっては豪華な盆棚もありますが、簡単な盆棚でもかまいません。亡き人を心を込めて丁寧に供

養することが大切です。                                                 



NO.162         平成24年      6月

中有(中陰)

 5月の松燈だよりで死に至る通り道についてお話ししました。臨死体験をした人、すなわちそこから引き戻された人の話では

「その空間は決して苦しい所ではなく、むしろ心安らかな光に満ちた美しいところだ」と言います。                

ではその先の死後の世界はどうなんでしょう。その先は誰にも分かりません。 ただ、仏教以前からインド周辺の地域では

「肉体は滅んでも魂はまた新しい生を受ける」と信じていました。生と死を繰り返す「輪廻転生(りんねてんしょう)」です。  

お釈迦様はその考え方には応えられませんでしたが、仏教はそれを否定することなく仏教の考え方の一つとして発展してき

ました。                                                                     

 この輪廻転生のプロセスには次の四つの期間があります。それを四有(しう)といいます。「有」とは存在を意味しています。

・・・→ 生有 → 本有 → 死有 → 中有 →次の生有 →・・・

生有(しょうう)  生を受けたとき。お母さんのおなかに宿ったとき

    本有(ほんぬ)   生をうけて一生を送る期間                

    死有(しう)    寿命が尽きて死ぬ瞬間。臨終               

    中有(ちゅうう)  死有から次の生をうけるまでの間、中陰ともいう    

 お釈迦様は人生は苦であると説かれました。生死を繰り返す限りその苦から一歩も逃れることはできません。         

 しかし、チベット仏教ではこの中有の期間が輪廻の苦しみから解脱できる最もいいチャンスであるとしています。      

それは死によって肉体を構成する元素(地・水・火・風)の結合力が弱まり、内にあった根源にして最も微細な心「本源なる

光明の心」が肉体から離れ、意成身(いじょうしん)という意識からできた存在(霊魂)が立ちのぼってくると考えられている

からです。                                                                  

この中有の間になされることは次の生に決定的な影響を及ぼすと言われています。高僧による追善供養の力などに

よって阿弥陀仏の極楽浄土などに、それがかなわなくても少なくとも人間界に生まれ変わることができるのです。     

 チベットでは臨終に際して、死者の枕元で『バルト・トドゥル』(チベット死者の書)を読み上げます。バルドとは「途中」を 

意味し、中有のことです。                                                         

     よくお聞きなさい。

     今こそ、あなたが道を求めるときです。

     そのときに、最初のバルドの強烈で美しい光が現れるのです。

     この光が、あなたの命を作っていた本質です。

     その光と一つに溶け合うのです。

 息を引き取った後も続けます。

     よくお聞きなさい。

     今や、死なるものがここへきてしまっています。

     心が揺るぐことがないよう、心惑わされないよう努めなさい。

     よくお聞きなさい。

     あなたの意識を、生まれつきそなえていた光の世界に移しなさい。

     作られたものである血肉の身体を離れなさい。

     この身体は無常であり、幻であると知るべきです。

     
 この死者への語りかけは、中有の四十七日間続けられます。できれば毎日、それが無理なら転生の可能性が高まる七日

ごとになります。『バルド・トドゥル』を読経してもらい、灯明や供物を供えて大がかりに追善供養を行います。        

 七日ごとというのは,生命のリズムなのかもしれません。                                        

「地球上の生命体には、七日目ごとに、何か目に見えない不思議な波がそっと忍び寄ってくる。

肉親との死別の衝撃は、明らかに七日を一区切り」として、それは遠のく。           

・・・中略・・・ 

病が癒えるのも同じだ。

・・・中略・・・

人間のからだの営みには、七日間で極限状態を迎え、ここで脱皮をおこない、八日目からふた

たび新たな態勢で出発する、ひとつの大きな波があるのだろう」
                  

                                   (三木成夫『胎児の世界 人類の生命記録』)

 精神科医のE・キューブラー・ロスは臨死体験をした多くの人たちに聞き取り調査をしました。ほとんどのケースで、肉体から遊離

した身体が現れます。これは心的エネルギーで作られた仮の身体です。 中有の意識から成る意成身と似ています。キューブ

ラー・ロスはこれを「蝶」に喩え、肉体を「繭」と考えました。繭が破壊されるとき、すなわち死が訪れるとき、生命の不滅の部分が

殻を破り蝶となって解き放たれるということです。 以下にキューブラー・ロス著『「死ぬ瞬間」と死後の生』より抜粋しました。  

 多くの場合、蝶へ移行するとき象徴的なものを通過します。門とか橋とかトンネルとか。

それを過ぎると光が見えてきます。

白よりも白く、光よりも明るく、その光に近づくと、無条件の愛にすっぽりと包まれます。

もし、一度でもそれを経験したら、もう絶対に死は怖くありません。恐ろしいものではありません。

問題なのは、人生をどう生きたかということです。

 この光をほんの寸時でも見た瞬間に、全知を得ます。

残念なことに臨死体験では、こちらに戻ったとたん、ほとんどの人は多くのことを忘れてしまいます。

夢と同じように。

覚えていることは、私たちは自分の命というものに全面的な責任があるということ、このことに尽きるようです。

自分の生を誰かのせいにしたり、批評したり、また嫌ったりすることはできないのです。

限りある命をどう生きたかということに関しては、全部自分に、自分だけに責任があります。

このことに気がつくと、生き方は変わってきます。


参考と引用:                                           

『大法輪』平成20年11月号三浦順子「チベット死者の書から学ぶもの」

NHK出版『チベット死者の書』河邑厚徳、林由香里共著         

       角川文庫ソフィア『三万年の死の教え チベット「死者の書」の世界』中沢新一著 



NO.161         平成24年      5月

生死ということ

 一般には「せいし」と読みます。「生」と「死」、それを相対立するものととらえた見方です。

仏教では「しょうじ」と読みます。生と死を繰り返す「生死輪廻(しょうじりんね)」に由来しています。

生と死は対立するものではなく、「生」あって「死」があり、また「死」があって「生」があると考えるからです。

 医学は驚異的に発展しました。それに伴って平均寿命も飛躍的にのびました。

助からなかった命が救え、困難な病も克服できるようになりました。ほんとうにありがたいことです。

しかし一方、過度の延命治療も問題になっています。

家族にとっては「できるだけ長く生きてほしい、死なないでほしい」という気持ちがありますし

、医師はその気持ちに応えるべく死なないように最善を尽くします。

 聖心会シスターであり文学者でもある鈴木秀子さんと曹洞宗僧侶の玄侑宗久さんの対談で鈴木さんが次のような話をされました。
(『仏教・キリスト教 死に方・生き方』講談社+α新書より)

 ある時、鈴木さんの知人Kさんのご主人が心筋梗塞で病院に運ばれました。

家族も駆けつけたのですがICU(集中治療室)に入っているため面会できませんでした。

意識はハッキリしているようなのですが、どんなにお願いしても「何かあったら連絡します」の一点張りで、会うことはかないませんでした。

一週間もたつとそれぞれ家庭や仕事があるため遠方のものは一時帰宅しました。

九日目の夜、突然病院から電話がありました。「30分前にご主人が亡くなりました」

 Kさんは思ったそうです。「九日間生きるかわりに、たとえ一日でも家族で夫を囲んで話がしたかった。」

 鈴木さんはホスピスなどにもよく行かれて、死にゆく人たちの話し相手になっておられます。その経験から次のように言っておられます。

「多くの場合、自分が死ぬことがよくわかっているんです。もがき苦しんでいて松の苗木のように見えながら、  

   心はとっても穏やかで、温かいものに満ちているといわれます。そして、いよいよこの人生が終わるというとき、    

ふっと次元のちがう世界に入ると、一緒に生きてきた人たちへの温かい大きな思いが広がって、それを伝えたい

という気持ちになるようです。」                                                 


 「あるお母さんがガンで亡くなったとき、こんなことがありました。お医者さまからあと一日か二日と宣告されたので、

ICUに入らないで家族とゆっくりお別れすることになりました。私がそのお母様に『みんながこれまで言えなかった

ことをなんでも話したがっています』と言ったら、うなずかれました。それで、まず息子さんが『お母さん、ほんとうに

ありがとう。これからもちゃんと生きていくから心配しないで』と言って、それから娘さんが『私はお母さんの子供で

ほんとうによかった』と、                                                     

最後にご主人の番になりました。するとご主人が『みんな外に出てほしい。』と言われました。ご主人を残して私たち

全員外の廊下に出ました。するとご主人の大きな声が聞こえたのです。奥様の名前を呼んで『愛しているよ』と。 

そういうことを口にするような方でなかったから、みんな驚いて顔を見合わせました。                  

そしたら、奥様も最後の気力をふりしぼって『あなと結婚できて幸せだった。私も愛しています』と。          

大きな声が廊下いっぱい聞こえてきました。言い残しておきたいという気力、人生を完結するためのエネルギー 

だったと思うんです。それから、お母様は昏睡状態にみえましたが、家族みんなで昔の思い出話や、好きだった歌

を歌ったりして一緒に一日を過ごしました。                                           

そうしたら、最後にもう一度目を開けて、みんなを見回して『ありがとう』と言って亡くなられたのです。」      
 

 私たちは「死」を体験したことがないので、それは「生の終わりである」と考え、自分が消えて無くなってしまうという不安感から、

「死」を忌み嫌うようになっています。 しかし、臨死体験した方は、現実社会に引き戻されるまで何の苦痛もなく、

水の上で浮かんでいるような気持ちのいい穏やかな世界だったと言います。

 ある医師が言っておられました。「亡くなる30分前とか1時間前まで苦しんでいても、亡くなる瞬間に苦しみながら死んだ人は知らない」と。

玄侑さんも「枕経をあげに行ったとき、亡くなられたほとんどの方が穏やかな優しいお顔になっています。」と言われています。

私もそう思います。

 おそらく死に臨む時、人は苦痛もなく穏やかな空間を通るのではないでしょうか。そして違う世界に生まれる。

「往生」とは往(ゆ)きて生まれるということです。

 私たち僧侶は枕経の後半で次の『発願文』を唱えます。

願弟子等 臨命終時 心不顛倒 心不錯乱 心不失念 身心無諸苦痛 身心快楽 如入禅定 ・・・」

(命がつきるとき願います。心が顛倒せず、心が錯乱せず、身心に諸々の苦痛が無く、

身心に安らかな幸せがおとずれますように・・・)                      



NO.160         平成24年      4月

老いを生きる

 1999年、米国で「長寿遺伝子」が発見されました。「サーチュイン遺伝子」といって最初は酵母菌の一種から見つけられましたが、

人間を含むほとんどの動物はもっているそうです。この遺伝子が活性化すると癌の抑制、筋力の強化、動脈硬化の抑制、細胞の

老化防止などの作用があるといわれており、その遺伝子を制御する薬が開発されたなら、年老いても肌や血管が若々しく平均寿命も

100歳に届くようになるかもしれないと考えられています。

 古来、「老い」は醜いもの、「死」は恐ろしいものとされていました。ですから、不老長寿の薬は古今東西の権力者が求めてやまない

ものでした。仏教でも「老い」は四苦「生老病死」の一つとして取り上げています。

 しかし、この世に「生」を受けた以上、「病」「老」そして「死」から誰も逃れることはできません。若い時代の肉体や精神はあるときを

境にしてだんだんと衰え、けっして元に戻ることはありません。年を追うごとにそれを実感していくのです。

  疲労つもりて引き出ししヘルペスなりといふ  八十年生きれば そりやぁあなた       斎藤 史

  転ぶなと母に言ひたりいまわれが  言はれをりつつ階段くだる                 山本 かね子

古い教典には次のようにあります。

  「ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも  ながく生きたとしても、また老衰のため死す。」     
                                                             『スッタニパータ(経集)』より

 あるとき師ブッダに年老いた学生が質問しました。

  「私は年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。この世において生と老衰を捨て去ることができるのか、

   そのことわりを説いてください。それを知りたいのです。」                    
『同』

 これに対して師ブッダは

  「繰り返し生死輪廻に赴く人々の行き着くところは無明である。」

  「無明とは大いなる迷いであり、それゆえ永いあいだ輪廻してきた。 しかし、明知に達した人は再び迷いの生に戻ることはない。」 『同』

と応えました。

 明知とは、「すべては無常であり、永遠の若さや永遠の命というものはなく、それに執着すればするほど苦が生まれる。」

ということを悟ることです。

 しかし、若い人や健康な人が老いた人や病の人を見たとき、気持ちを寄せることがあってもいずれ自分もそうなるとはなかなか思わない

ものです。今の自分と比べると全く違い、別の世界の人と思ってしまうからです。

 仏教では菩薩が衆生を救済するのに留意することが「四摂事(ししょうじ)」といって四つあると言われています。

 「同事(どうじ)」はその一つで、自他の区別をなくし、相手の立場にたってものごとを考えることです。相手のほんとうの気持ちが理解できる

のです。またそれは相手だけでなく自分自身を知ることにもなります。

 明治大正の時代、日本人の平均寿命は40歳ぐらいだったと言われています。医療などのおかげで今は八十歳を超えています。

喜ばしいことです。その分、年老いた人との関わりが多くなりました。「同事」の精神で接することがひいては自分の余生の大切さを気づかせてくれます。

 師ブッダの言葉は

   「だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、 おろそかにしてはならない。」   『スッタニパータ(経集)』より

   「さあ、修行僧たちよ。おまえ達に告げよう。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」 『長部』より

 人生の短いことを自覚し、最後まで怠ることなく励みなさいと言っています。その「励み」が「楽しみ」になっていくのではないでしょうか。

そこに「老い」を生きるヒントがあるように思います。

 いま、岩波新書『老いの歌』がちょっとした話題になっています。著者の小高賢氏も昭和14年(1944)生まれの72歳、その序文に次のようにあります。

       私たちのほとんどは老いに突入する。いったいどんな老いに変貌するのかは予想もできない。高齢になることは、

       いままでの人生がシャッフルされ、いわば老いという新しいレースのスタートラインに立つことでもある。

        勝者・敗者といういままで背負ってきた衣装は、老いに突入する間際に消去される。だから老いはおもしろい。

             ・・・中略・・・

       ともあれ多様で幅広い作品のおもしろさを知ってもらいたい。それは老いそのものを知ることでもあり、短歌の豊かさ

       を味わうことでもある。同時に、自分たちに到来する・している<老い>を見つめなおすきっかけになるはずだ。

        しかも、切り捨てられる時間や存在ではない豊かな可能性もそこにある。「老い」はそういう無限に広がる新しい場所

       なのである。
  
      のび盛り生意気盛り花盛り 老い盛りぞと言わせたきもの       築地(ついじ)正子『みどりなりけり』

(参考と引用:NHK出版NHK宗教の時間テキスト『原始仏典 スッタニパータをよむ』雲井昭善著)
        岩波新書『老いの歌』小高賢著)





NO.159         平成24年      3月

復興

 東日本大震災から一年になります。先日、朝日新聞に岩手県大槌高校の2,3年生が詠んだ俳句が紹介されていました。

         何事も無かったように蝉の声   

     あの日から見るしかできぬ青い海 

     ありふれた海の香りよ遠き春  

     星(ほし)月(づく)夜(よ)億光年経ても褪(あ)せず   

     悲しみに負けじと仰ぐ天の川   

     
 その時、テレビに流れた津波の映像は映画の特殊撮影を見ているようでした。家々がいとも簡単に壊され、流されていきます。

整然とした田畑が黒い液体によって容赦なく呑み込まれてしまいます。人々の労苦によって積み上げてきたものがすべて剥ぎ取

られてしまいました。そして2万人を超える人の命もながされてしまったのです。なすすべ無くその爪痕を前に人々は茫然と立ちつ

くすしかありませんでした。

 自然は私たちにむごい仕打ちを行いました。人は自然を恨んでいるでしょうか。

 今、何もなかったようにいつもの静かな海が広がっています。夜空に拡がる無数の星々も何も語ってくれません。でもそれに対峙

してみると、どこか包容されているような親しみを感じます。

高校生の詠む俳句からは、「人も自然の中にあり、自然と共に生きよう」とする気持ちや決意がうかがえるように思います。

 地球の自然環境は太陽と地球そのものの活動によってつくられてきました。地震は地球内部の活動によるものです。

 また、太陽エネルギーの恩恵を受けて地球上の多くの生物が生きています。もし、そのエネルギーの約10%が失われたら、地球上

の水は凍ってしまうと考えられています。太陽活動の低下は地球の寒冷化をもたらします。大きな火山噴火の影響もあって、15世紀

から19世紀の間、地球の寒冷期が続きました。17世紀、ロンドンのテムズ川も凍結したそうです。

 日本では農作物に影響を及ぼしました。飢饉が続きました。室町時代の寛正(かんしょう)二年(1461)、前年の長雨、日照不足、

低温、台風襲来、イナゴの大発生などが重なり、大飢饉になりました。村を捨て京の都に人が集まりましたが、どうすることもできま

せん。あげくは人が人を喰う餓鬼道まで現れたそうです。都のあちこちで餓死者が重なり合っていました。賀茂川では餓死者で水の

流れが滞り、屍臭が鼻をつくほどだったといいます。

 時衆の僧であった願阿弥が飢民に粟粥の炊き出しをしたところ、一日に八千人集まったそうです。また、ある僧が八万四千本の

卒塔婆をつくり、餓死者一人一人にそれを置いて供養したところ二千本が余りました。その記録から餓死者は八万二千人と推定さ

れます。その時代の日本の人口は約一千万人でしたから、おそらくその数年間に日本の人口の数%が餓死したと思われます。

 地球上に原始生命が誕生したのは35億年前と考えられていますが、当時の地球環境は今とは全く違ったものでした。いろんな変化

を繰り返しながら現在の地球になりましたが、まだ変化し続けています。その変化のおおもとは太陽と地球の活動です。人間やあらゆ

る生物に自然の恵みを与えてくれています。その反面、活動のちょっとした変化が大きな災害をもたらします。それは幾度となく繰り返

されてきました。地球上の生き物にとっての宿命です。

 しかし、その危機を乗り越えながらしたたかに生き抜いてきました。人類の歴史は地球46億年の歴史に比べるとほんの瞬間に過ぎ

ませんが、人間も壊滅的な災害があってもまた同じ所に住みつき同じような営みを続けてきました。昨年の3.11は、歴史に残る大震

災で、いまだに丸坊主にされた土地やがれきの山が目につきます。でもまだ一年です。必ず復興します。



NO.158       平成24年      2月

私はあなたであり、あなたは私である

 宮沢賢治の作品に『銀河鉄道の夜』という童話があります。童話と言っても大人向けのようです。

作家で東京工業大学世界文明センター長のロジャー・パルバースさんがこの作品についてNHKのテレビで解説されていました。

 この作品の主人公はジョバンニという少年です。小学校ではザネリを中心とする生徒達にいじめられ、つねに孤独を感じていますが、

唯一カムパネルラが彼の優しい友達でした。ジョバンニのお母さんは病気療養中、漁師のお父さんは何らかの罪で収監されています。

 ある川祭りの日でした。お母さんのいつも飲む牛乳が届いていないので、ジョバンニは牛乳屋へと向かいます。すぐにはできないと

いわれ、近くの丘に登って時間をつぶすことにしました。そこは空が開け、天の川が天高く横たわっているのがよく見えました。

いつの間にか、ジョバンニは夢の中でした。天の川銀河にそって北十字星(はくちょう座)から南十字星に走る列車に乗り込んでいたの

です。カムパネルラも乗り合わせていました。でも何か寂しそうでいつもと様子が違います。ジョバンニ自身も理由の分からない悲しさに

包まれています。列車は終着駅に向かって進みます。車窓からは流れる銀河、そのほとりに咲く美しい花々が見えました。そして乗り合

わせた不思議な乗客たちとの様々な交わりがありました。

終着駅間近になったとき、「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうね」と言ってジョバンニが振り返ると、そこにはカムパネルの姿はありませ

んでした。それと同時にジョバンニは悲しい夢から覚めたのです。

 お母さんの牛乳を受け取り、帰り道に川祭りのそばを通ると人だかりがありました。ザネリが川に落ちたのをみて、カムパネルラが川に

飛び込んだそうです。ザネリを助けたあとカムパネルラは沈んでしまったのです。ジョバンニは夢の中の悲しみの原因がわかりました。

列車は天国へ向かう乗り物で乗客はすでに亡くなった人たちだったのです。


 この物語の中には「私はあなたであり、あなたはわたしである。」という考え方が根底にあると、ロジャー・パルバースさんはいいます。

「自分も他人も同じ次元に存在するものである」から「他の人のことも自分のこととして考える」ということです。

 カムパネルラが自分の命をなげうってまでいじめっ子のザネリを救おうとしたこと。またそれは、乗客の女の子の次の話からもうかがえます。

 さそり座の赤い星アンタレスを眺めていたときのことです。女の子は「ええ、さそりは虫よ。だけどいい虫だわ」、ジョバンニは「さそり、いい

虫じゃないよ。・・・さされると死ぬと先生が言ったよ」

 「そうよ、だけどいい虫だわ。お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきのさそりがいて小さな虫やなんか殺してたべて生き

ていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けんめい逃げて逃げたけど、

とうとういたちに押さえられそうになったわ、そのとき、いきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがれないで

さそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちに捕られようとしたときはあんなに一生けんめい

にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうして私はわたしの体をだまっていたちにくれてやらなかった

ろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次はまことのみんな

の幸せのためにわたしの体をお使いください、って言ったというの。そしたらいつかさそりは自分の体がまっ赤なうつくしい火になって燃えて、

夜のやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。本当にあの火、それだわ」

                              


 自己犠牲を強調しすぎると、自分の命を覚悟してまで、人を助けなさいということになりますが、宮沢賢治の考えはそうではありません。

カムパネルラの場合も、ただとっさにザネリを助けようとしたのであって、死を覚悟した行為ではありません。列車に乗り込んだカムパネルラが

こんなことを言っています。

「けれども、誰だってほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う」

 おそらく、川底に沈んでいきながら、お母さんのことを思い、親より先に死ぬのは親不孝と考えたのでしょう。カムパネルラの優しさです。

 宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ・・・」には彼の生涯を通じての基本的な考え方や精神、そして実践が表現されています。

ロジャー・パルバースさんは言っています。

「賢治が大切にしたことは、他人の悲しみや苦しみを十把一絡げにするのではなく、その一人ひとりと向き合って、その人の悲しみを聞きなさい

と言うことです。・・・・ただ口先で相手の幸せを祈るのではなく、自分の体を使って相手のためになにかする。そうしないと相手は幸福にならないし、

相手が幸福にならないと自分も幸福にはならない。賢治はそう考えました。」

 すべての人が賢治やカムパネルラのような精神で人のために尽くすと言うことはできません。しかしその精神を心にとめて行動することはできる

はずです。ちょっとしたことでもいいのです。仏教ですすめるのは「和顔愛語(わげんあいご)」です。「まず穏やかな顔で優しい言葉をかける」こと。

そして相手と一体となって考えることです。

 それが「私はあなたであり、あなたはわたしである。」ではないでしょうか。
                  
                       

NO.157       平成24年      1月

日々是好日(にちにちこれこうじつ)

 中国唐代の雲門禅師のことばに「日々是好日」という禅語があります。

雲門禅師は弟子たちを前にして「今までのことはさておき、これから十五日以後の心構えをそれぞれ言ってみなさい」と問いました。

しかし、十五日以後のことですから、その間のことが何もわからないので、弟子たちは誰一人答えることができませんでした。

そこで禅師は間髪を容れず「日々是好日」と応えました。

 そのまま解釈すると「毎日が平安でよい一日だ」という意味ですが、禅師の思うところは違いました。

 雲門禅師は弟子たちに即答を求めていたのです。十五日の間、その一日一日はつながっていてもそれぞれ違います。

時は人を待たず過ぎていきます。次の機会があるという保障はありません。今ここで自分の言う機会を逃してはならない

のです。極端なことを言えば次の日があるとも限りません。この一日は二度と来ないかけがえのない一日です。それがどん

なに苦しい一日であろうとも、その一日を大事に生きることがよい一日となるのです。それが禅師の言う「日々是好日」です。

先月号のアランの言葉「よい天気をつくり出すのも、悪い天気をつくり出すのも私自身なのだ」も同じです。ただじっと待つ

だけではよい一日にはなりません。自分から積極的に人生に働きかけてつくり出さなければならないのです。

 人はそれぞれいろんな悩みをもって生きています。しかし、逆境にありながらでも明るく前向きに生きている人も少なくありません。

 アランはまた、「私たちは他人の幸福を考えねばならない。しかし、そのためにできる最善のことは、自分が幸福になることだ。」

とも言っています。震災のあと、「絆」という一語が多くの人の心をとらえました。仏教でも人に尽くす大切さを説いています。

そのためにまず自分自身を作らなければならないのです。

 「日々是好日」の「日」を「年」に変えて「年々是好年」はどうでしょう。

 先の見えないといわれる世の中、嘆いているだけでは始まりません。自分の足下から好くしていきましょう。

 水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」(作詞:星野哲郎、作曲:米山正夫)という歌があります。

  「しあわせは 歩いてこない だから歩いてゆくんだね ・・・」

幸せは待っていても来ない。だから自分から見つけなければならないということです。そして続きます。

  「汗かき べそかき 歩こうよ あなたのつけた 足あとにゃきれいな花が 咲くでしょう」

(参考:NHK100分de名著「アラン 幸福論」合田正人著、 安延山承福禅寺HP http://www.jyofukuji.com/10zengo/2005/12.htm より)

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。