松 燈 だ よ り

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NO.156       平成23年      12月

供養
 先月のお十夜で礒田良孝師の法話がありました。その一部を紹介致します。  
東京ディズニーランドのレストランでのできごとです。ある若い夫婦が仲むつまじく入ってきてテーブルに座りました。
ウェイターが近づくと、「Aセット一つとBセット一つお願いします。」と注文しました。そして夫婦はしばらく顔を見合わ
せ、「ああ、それからお子様ランチ一つ」と追加しました。ウェイターは子供が見あたらないのを確認し、「申し訳ござ
いません。お子様ランチは9歳以下のお子様でないとお出しできませんが」と戸惑いながら応えました。すると「それじゃ
いいです。」と夫婦はちょっと恥ずかしそうな笑みを浮かべました。
 個人的なことを聞くことはマニュアルに反しているのですが、様子が少し気になったので「失礼ですが、お子様ランチ
はどなたが食べられるのですか?」とウェイターは尋ねてみました。
 少し躊躇したような沈黙があり、それを破るように「亡くなった子供のためなんです。」と奥さんが答えました。「私たち
はなかなか子供が授かりませんでしたが、やっと待ちに待った娘が誕生しました。そして大きくなったらこのディズニーラ
ンドに連れてこようと思っていました。」「しかし、生まれつき病弱で、一歳の誕生日を待たずにあの世に一人で旅立って
しまったのです。子供を亡くしてからしばらくは何も手につかなかったのですが、少し気持ちが落ち着くようになりました。」
「今日はあの子の命日です。二人で、かねがね思っていたディズニーランドにやって来たのです。ここのレストランの
メニューにお子様ランチがありましたので、供養になるかと思って無理を承知でお願いした次第です。でもこのディズ
ニーランドで十分楽しませていただきました。ありがとうございます。」
 ウェイターは深々と頭を下げ、そしてマネージャーにすべてを報告しました。
 数分後、夫婦のテーブルに子供用の椅子が用意されました。そして、「お客様、大変お待たせしました。」といって
運ばれてきたのは、夫婦の注文した料理とお子様ランチでした。「では、ゆっくりと食事をお楽しみください。」ウェイター
は微笑みながら下がりました。
 夫婦は食事を頂きながら涙が止まらなかったそうです。また、レジでの支払いの際、明細にお子様ランチの分が入っ
ていませんでしたので、「あのこれは」と尋ねると、マネージャーは「お子様の心ばかりの供養にさせてください。」と言わ
れたそうです。
 「今日は本当にありがとうございました。このような優しい思い出をいただけるとは思ってもいませんでした。今度は
、あの子の妹か弟を連れて遊びにきます。」と言って夫婦は頂いた真心を胸にレストランをあとにしたということです。

 この話に続けて、礒田良孝師は「供養」についてお話しされました。この夫婦もマネージャーも「供養」という語を使わ
れていました。私たちは仏事を行う時よく口にします。何となく分かっているようで、説明が難しいものです。辞書を引くと
「仏教の三宝(仏・法・僧)または亡き人の霊に供物を捧げること」とあります。良孝師はまだ納得できないので、仏教
辞典を調べられました。そこには「かたちのないものに真心(まごころ)を差し出す。」という言葉があったそうです。
もともと「捧げる」とは「身も心もすべて差し出す」という意味があります。とかく私たちは物事の形にこだわったり、外見
だけで判断したりしてしまいます。とくにパソコンや携帯電話の普及で、いっそう心の触れあいが希薄になっているよう
に思います。生まれたときからそんな環境であれば、それが当たり前になるでしょう。
 『無量寿経』の中に

   「和願愛語(わげんあいご)」「先意承問(せんいじょうもん)」

という言葉があります。「おだやかな表情で優しい言葉をかける。」そして「相手の気持ちを察して、その思いに応える。」
ことです。
 レストランのウェイターとマネージャーはまさに「和願愛語 先意承問」の持ち主だったのです。そしてそれは「真心
(まごころ)」から生まれたものなのです。真心を差し出すことで相手の真心が反応します。それがご夫婦の涙となって
現れました。  
 供養の精神もまず「真心」です。皆さんそうされていると思いますが、お仏壇やお位牌に真心をもって手を合わせま
しょう。供物(くもつ)も真心をもってお供えしましょう。そして幸せな一年をつくりましょう。

(東京ディズニーランドのお話は、インターネットで調べると、よく似た内容のエピソードが複数ありました。良孝師の話
の補うためそれらを活用させていただきました。)


NO.155       平成23年      11月

バームクーヘン
 先日、Sさん宅にお参りした折、ご主人のお話になりました。自宅を仕事場にして、長い間打ち抜きの金型を作って
おられました。コークスで焼き入れをする釜もあり、夏の暑い日でも汗を流しながら仕事に励んでおられました。ところが
視力も衰え、80に手の届くという年齢には勝てず数年前に仕事をたたまれました。
 しかし、今でも仕事のことを口になさるそうです。Sさんの頭の中では、まだ仕事を続けているのです。いわゆる生涯
職人さんなのです。
 辞書で職人気質(しょくにんかたぎ)を調べてみると、「職人社会に特有の気質。自分の技術に自信と誇りをもち、頑固
なまでに念の入った仕事をする実直な性質」とあります。Sさんの仕事は取引先から厚い信頼を受けていました。いいも
のを作る。それが評価されると作る喜びが生まれます。それがまた自信になり誇りになります。そしてもっといいものをと
いう、さらに前向きな気持ちになります。そんなもの作りが、工業だけでなく農業や他の産業でも、戦後の日本の発展を
支えてきました。そのような職人気質はもう一昔前のことになったのでしょうか。
 日本のもの作りはいろんな要因が重なって変わってきました。日本一の天体望遠鏡のメーカーであるM光器(株)は従
業員30名程度の小さな会社ですが、百万分の1ミリの精度の測定器を完成させました。会長のM氏は最近の大きな会社
を皮肉って次のように言われたそうです。「この頃の会社は、安く買う研究はよくなさるが、自分でいいものを作ろうと言う
研究は、あまり熱心になさらないようです。」と。日本はバブルの時期とそれ以降、国際競争力をつけるということで、製品
の価格をできるだけ押さえるために、部品をできるだけ安く調達しようとしました。それはとりもなおさず大手企業を支えて
きた会社に犠牲を強いることになります。そしてよいものを作ろうとする気持ちを壊し、職人さんをなくすことにつながります。
 いまでも多くの町工場が姿を消しています。ある時、東大阪で工場をもたれている方にお聞きしましたら、「次から次へと
工場が壊され、新築の家に変わっている」とおっしゃっていました。まだまだ、りっぱな職人さんも数多くいらっしゃいますが、
あと10年、20年、夢をもって後をたくす人はどれだけいるでしょうか。

 つぎは『子供に聞かせたいとっておきの話 第一集』にあるお話です。
 第一次大戦後、戦争に敗れたドイツ軍の捕虜が広島湾の似の島に収容されました。 ドイツの捕虜たちはよく働き、休憩
時間中も工場内を清掃して、紙くずやボロ布を整頓します。敵国の工場で働いているのに、不思議に思った日本人が尋ね
てみると、「自分たちは子供の頃から、人のものを大切にする習慣を持っている。敵国の紙くずでも粗末にはできない。」と。
彼らが本国に帰るとき、捕虜の誰かが乞われるままに、パンのいろいろな焼き方、お菓子の作り方などを日本の菓子職人
に詳しく教えました。日本では技術の深い肝心なところはそう簡単には他人に教えません。それは奥義ですから。まして敵国
人に教えるなんて。またそれを聞いてみたところ、 「人々のために、みんながおいしいものを食べるために、その人が少しで
も幸せになるなら、どこの国の人にでも教えなくてはならない。」と答えたそうです。私たちは時として外国の方に日本の心を
逆に教わることがあるのです。
 道元禅師の言葉に「利行は一法なり あまねく自他を利するなり」とあります。
 「利行」「利他行」というのは人のために尽くす行い、「一法」とはただ一つの真理をいいます。このドイツ人捕虜は仏教の精
神である「利他」の心の持ち主だったのです。人のためになること、人を喜ばすことは結局は自分自身の喜びになり、自分自
身が豊かになることなのです。誰でも一度はそんな経験しているのではないでしょうか。
 ちなみに、広島湾の似の島は日本におけるバウムクーヘン発祥の地といわれ、第一次大戦時に収容されていたドイツ人捕
虜カール・ユーハイムが、収容中に日本初のバウムクーヘンを焼いたというエピソードが残っています。マロングラッセも彼の
作ったものです。
 11月12日(土)午後2時からお十夜です。多くの方のご参拝をお待ちしています。そしてみんなで「利行」の心のスイッチを
いれましょう。
        (参考:NHK人間講座「ものづくりの時代」小関智宏著、
              NONブック「法句経入門」松原泰道著)



NO.154       平成23年      10月

熊野の森
 9月は2度にわたり、強い台風が上陸しました。そして、各地に水害をもたらし、和歌山の十津川や熊野では山崩れや
土石流などで大変な被害を受けました。 この地域は奥深い自然の中、神々がすむ山として古くより畏れられ崇拝されて
きました。
 この地を愛する現代歌人として和歌山県出身の小黒世茂さんがいらっしゃいます。小黒さんのエッセイ集『熊野の森だより』
(本阿弥書店)には次のように述べられています。
 熊野では神々は『日本書紀』『古事記』にさかのぼらずとも、いまも大自然をよりしろとして生きている。その力は大いなるエネ
ルギーなのだ。磐の力、飛沫の力、鉱物の力、陽の力・・・。私たちはそのエネルギーを、神と呼ぶ。命をつなぐために必要な力
なのだ。三六〇〇峰もの山々。温暖多雨の気候。北限にあたる南方系植物たちと、南限にあたる北方系植物たちの入り交じ
った自然。そこには特有種の生き物がひそんでいる。(中略)
 神仏も人間も動物も植物も大自然のなかで一緒くたに生きている。
それが熊野である。
 熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)の奥の宮といわれる玉置神社に向かう折の歌
   杉や杉、杉また杉の杉過ぎて
         常闇(とこやみ)ひそます玉置(たまき)の山

 また、紀伊と熊野を結ぶ路のひとつに小辺路(こへち)があります。そこを歩いたときの歌でしょう。
   杖つけば紅葉散るなり 空海さんは高野へ小辺路をいんだろーがい

 「いんだろーがい」は「帰っただろう」という方言です。

   人よりも山猿どものおほくすむ 十津川郷へ尾のある人と

 人はずっと昔から自然と共に生きてきました。人類の歴史からすれば、明るく便利な都市はほんのちょっと前に始まったばか
りです。熊野や十津川、また地震のあった東北地方も、そのずっと以前から自然といっしょに切っても切れない生活があったの
です。百年、二百年に一度は大きな災害に見舞われていたにちがいありません。それでもいまここに人の生活があるということ
は、それを何度も乗り越えてきた証拠です。
 NHKの朝ドラ「おひさま」で、こんな語りがありました。
 「人々は悲しみを忘れずに、幸せになろうとしている」
 ふつうよく言われることは「はやく悲しみを忘れて、元気になりなさい」でしょうが、これは反対のことを言っています。
 しかし、ほんとうにつらいこと、悲しいことは忘れられるものではありません。むしろ、それを乗り越え次につなげていくためには、
しっかりと心に刻みつけておくことが必要なのかもしれません。
 
 静かさをおしひらきつつ熊野には血の花いろの朝焼けがある。

 川霧は母のごとくに目の見える子も見えぬ子もふところに抱く

 このような山奥や海岸の地域は、四季の移り変わりが美しいところです。すべてを包み込む包容力があります。しかし、その美しい
自然の中に悲しい歴史が刻まれているようにも思います。奥深い神秘的な美しさです。
 さて、日本の仏教は、中国から朝鮮半島を経て6世紀中頃に伝わってきました。異国の宗教でありながら、全国に広まり世界有数
の仏教国となりました。その発展に寄与したのは多くの高僧が傑出したからでもありますが、日本の風土とうまく結びついたという一面
もあるように思います。
 日本は、細長い列島が森林と山岳で占められています。村や都市への移動には山を越えなければなりません。おのずから山との関
わりが深くなってきます。
 「峠(とうげ)」という語は、坂の上で道祖神に「手向(たむ)け」(お供えをする)ことから転じたものといわれています。
 そして、山道を外れて一歩踏み込めば暗い森の中、神霊が宿る世界に入ります。そこは日本人にとって、西方浄土とは別のもう一つの
極楽浄土とも考えられるようになりました。山折哲雄さんは著書「仏教とは何か」(中公新書)で「中世期に作られた、阿弥陀来迎図は、
阿弥陀如来が山の頂から雲に乗って降下し、臨終の人を浄土に迎えようとしている。」と述べられています。人は死後、その霊魂は身近な
山中、すなわち自然に帰っていくと考えたのではないでしょうか。
  昔は山奥に寺院が建立されました。○○山に建てられたお寺を、その山の名をとって○○山△△寺というようになりました。○○山を
山号といいます。その後、山から離れた平野に念仏道場ができると、そこを山と見立てて山号をつけ、お寺が建立されました。
そして施餓鬼や彼岸会などの法要が営まれ、法要の後半は、回向(えこう)といって先祖供養や亡き人たちの供養を行うようになりました。
それは、お盆の精霊流しや災害の後の慰霊祭などのように、昔のこと、悲しいこと、それぞれのルーツを忘れないようにするためです
。そうしてこれからの私たちの幸せを願うためです。



NO.153      平成23年       9月

彼岸
 9月20日(火)から26(月)まで秋の彼岸です。23日(金)がお中日になります。
 私たちの住む現実の世界は苦しみと迷いの世界です。彼岸とは、文字通り彼(か)の岸ですが、河を渡
った悟りの世界、理想の世界をいいます。その彼岸という幸ある世界(浄土)に到る願いを込めて、古くか
らお中日に西の海に沈む夕日を拝む風習がありました。阿弥陀様は日の沈む西方の極楽浄土にいらっし
ゃるからです。その元になるものは、「観無量寿経」に説かれている次の「日想観(にっそうかん)」です。
    世尊は、苦悩するヴァイデーヒー(韋提希いだいけ)に告げられた。
   「あなたと衆生は、心を一筋にし、思念を一処に集中して西方を観想する
    のだ。どのように観想するのかというと、一切の衆生は生まれながらの
    盲目でない限り見ることはできるのであるから、太陽の沈むのを見るこ
    とができよう。正座して西に向かい、はっきりと太陽を観るのだ。心を
    しっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうと
    する太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。太陽を
    観終わったならば、その映像が眼を閉じているときにも、眼を開いてい
    るときにもはっきりと残っているようにするのだ。」
(岩波文庫「浄土三部経 下」訳注 中村元、早島鏡正、紀野一義)
 彼岸になると四天王寺にお参りされる方も多いのですが、その四天王寺の西門は昔から、極楽浄土の
東門といわれています。そこの鳥居には「釈迦如来・転法輪処・当極楽土・東門中心」(お釈迦様が仏教
の教えを説かれた所で、極楽浄土の東門にあたる)と書かれてあります。
 平安時代、四天王寺の西には瀬戸内海が迫っており、彼岸に沈む夕日を拝む人が群集したといわれて
います。また、折口信夫は著作の中で次のように記しています。
「四天王寺には、古くは、日想観往生といわれる風習があつて、多くの篤信者の魂が、西方の波にあこが
れて海深く沈んで行ったのであった。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海(ふだらくとかい)と言うた。
観音の浄土に往生する意味であって、淼々(びょうびょう)たる海波を漕ぎきって到り著く、と信じていたの
があわれである。一族と別れて、南海に身を潜めた平維盛(たいらのこれもり)の最期も、この渡海の道
であったという。
日想観もやはり、それと同じ、必ず極楽東門に達するものと信じて、いわば法悦からした入水死である。
そこまで信仰においつめられたと言うよりも寧(むしろ)、自ら霊(たま)のよるべをつきとめて、そこに立ち
到つたのだと言う外はない。そういうことが出来るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思いつめ、何かに
誘(おび)かれたようになって、大空の日を追うて歩いた人たちがあったものである。昔というばかりで、
何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀(ヒマツ)りをする風習が行われていて
、日の出から日の入りまで、日を迎へ、日を送り、また日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があつ
たことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうしてそのなごりが、今も消えきらずにいる。」(インター
ネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/より抜粋、現代仮名遣い使用)
 延暦二十五年(806年)三月十七日、勅命により各地の国分寺で崇徳天皇追善のため、金剛般若経に
よる法要が行われたのが彼岸会のはじまりといわれています。それが前述の浄土信仰と強く結びついて
、極楽への往生を願い、先祖の供養をする現在のような日本特有の彼岸会となったと考えられます。
 世界のどの宗教も死後は幸ある世界に生まれるといいます。それは心のよりどころとなるからです。
長寿を全うしてなくなられる方もいらっしゃいます。しかし、病気で苦しみながらなくなられる方、事故や災
害に巻き込まれて突然なくなられる方も少なくありません。生はいつも死と隣り合わせです。だからこそ心
の寄る辺が必要なのではないでしょうか。近年、四国お遍路や古寺巡礼が人気と聞きます。また、山野を
巡る山ガール、山ボーイなども自然宗教のひとつではないでしょうか。人間は「死を考える」唯一の動物な
のです。そして死はけっしてそれで終わりではないのです。
 ここで「イタカ」という詩を紹介します。
 作者はコンスタンディノス・ペトルゥ・カヴァフィス(中井久夫訳)
イタカに向けて船に乗るなら
頼め、「旅が長いように」と、
「冒険がうんとあるように」
「身になることもうんとあるように」と。
・・・・・中略・・・・・
祈れ、「旅が長くなりますように」と。
「未知の港に入る楽しい夏の朝が何度も何度もありますように、
フェニキア人の貿易港に幾度も行けますように」。
・・・・・中略・・・・・
エジプトの街をあちこち訪れろ。
賢者から知識を貰って蓄えろ。
イタカを忘れちゃいけない。
終着目標はイタカだ。
しかし、旅はできるだけ急ぐな。
何年も続くのがいい旅だ。
途中で儲けて金持ち、物持ちになって年取ってからイタカの島に錨を下ろすさ。
イタカで金が儲かると思うな。
すばらしい旅をイタカはくれた。
イタカがなければ出帆もできまい。
イタカがくれるものはそれで充分さ。
イタカが貧しい土地でも
イタカがきみをだましたことにならない。
きみは経験をうんと仕込んだじゃないか。
こんな叡智を得たじゃないか。
それを考えると
イタカの意味がいずれ分かる。
イタカという、島の意味がな。



NO.152      平成23年       8月

杜子春
 お盆は正しくは「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。インドの古い言葉「ウラバンナ」を漢字であてたもので、逆さづりの苦しみを意味しています。この仏教行事は「盂蘭盆経」というお経のなかの故事に由来しています。
 お釈迦様の弟子の目蓮(もくれん)は、安居(あんご)の修行中に母を亡くし、神通力を使って母親を捜したところ、餓鬼になってもがき苦しんでいる姿を見つけました。悲嘆にくれる目蓮にお釈迦様は「夏安居(げあんご)のあける七月十五日に、修行の終えた僧侶達に百味の飲食(おんじき)を施しなさい。それが供養になります。」とおっしゃいました。そこで目蓮は、修行の終えた日に僧侶たちをいろんな美味珍味でもてなしたのです。また、お釈迦様は僧侶達を集めて「目蓮のために七世の父母に対して篤く供養してやりなさい。」とおっしゃいました。その供養の結果、目蓮の母親はやっと餓鬼道から救われたといいます。
 それが祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事となったといわれています。
 ところで、子にとっては母親の苦しむ姿をみるのは耐えられないことです。
 芥川龍之介の作品に「杜子春(とししゅん)」という短編があります。
 杜子春は金持ちの息子でしたが、財を使い果たして無一文になり、唐の都洛陽の西の門の下で、途方に暮れてぼんやり天を仰いでいました。そこへ一人の老人が現れ、杜子春の事情をきいて哀れに思い、黄金の埋まっている場所を教えてくれました。その黄金で杜子春は前以上の金持ちになりました。しかし、同じように贅沢三昧の生活を送り同じように無一文になってしまいました。
 また門の下でぼんやりしていると老人が現れ、同じようにまた金持ちにしてくれましたが、やはり三年もすると元の木阿弥です。
 またまた、門の下でいると老人が現れました。また黄金の埋まっているところを教えようとすると、杜子春は「もう黄金はいりません」と老人の次の言葉を遮りました。そして「人間は薄情です。私が大金持ちの時はちやほやしますが、いったん貧乏になると、見向きもしません。」「贅沢に飽きたのではなく、人間というものに愛想が尽きたのです。」「あなたのような仙人になりたい。どうか弟子にして仙術を教えて下さい」と懇願しました。老人はしばらく考えていましたが、杜子春の願いを聞いてくれました。そして杜子春を峨眉山(がびざん)の岩の上に連れて行き、そこでしばらく待つようにいいました。「一人でいると魔性が現れて人をたぶらかそうとする。どんなことがあっても声を出してはいけない。一言でも口をきいたら、とうてい仙人にはなれない」と言い残して去っていきました。
 半時ほどすると空中から声があって「そこにいるのは何者だ。」としかりつけます。杜子春は返事をしませんでした。さらに「返事をしないと、命はないぞ」と嚇しますが、黙ったままです。それから、虎や蛇、雷や暴風雨などの天変が襲いますが、杜子春は黙然としています。
 次に、三叉(みつまた)の鉾(ほこ)をもった神將があらわれ、その鉾を杜子春の胸元に当てながら「おまえはいったい何者だ。命が惜しかったらすぐ答えろ。」といいます。どんなに嚇しても黙っているので、神將は怒って「約束通り命をとってやる」といって一突きで杜子春を殺してしまいました。杜子春の魂は死んだ体から抜け、地獄へと下りていきました。閻魔大王が現れ、「何のために峨眉山で座っていたのか」と尋ねましたが、それでも黙ったままです。怒った大王は杜子春をいろんな地獄の責め苦に遇わせますが、口を開きません。そこで閻魔大王は、畜生道で馬になっている杜子春の父母を連れてきて、「答えなければ、おまえの父母を痛い目に遭わせるぞ。」と嚇しました。それでも黙っているので、地獄の鬼どもは二匹の馬を容赦なく鉄の鞭で打ちのめしました。二匹の馬は肉が裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに倒れ伏してしまいました。杜子春は必死になって仙人の言葉を思い出しながら目をつぶって我慢していました。そのときです。ほんのかすかな声が伝わってきました。「心配しなくていいよ。私たちはどうなってもおまえが幸せになれるのなら。大王がなんとおっしゃっても、言いたくないことは黙ってていいよ。」それは懐かしい母の声でした。思わず杜子春は目を開きました。そこに力なく倒れたままの一匹の馬が悲しそうな目でこちらを見ているのです。杜子春は何もかも忘れ、転ぶように駆け寄り瀕死の馬を両手で抱いて、涙を流しながら「お母さん」と叫んだのです。
 気がつくと、杜子春はもとの門の下にいました。周りは前のままで変わるところはありません。ただ、杜子春の心の中は変わっていました。「これからは人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」と老人に答えました。杜子春は母親の無償の愛に気づき、人としての心を取り戻すことができたのです。老人はお釈迦様だったのかも知れません。
 無償の愛のつながりによって今の私たちがあります。このお盆はそれを気づき考えるよい機会です。心をこめてお祀りし、供養しましょう。


NO.151      平成23年       7月

空即是色        
 般若心経のなかの「色即是空」はよく知られています。「空」という考えは「世の中のすべてのものは互いの関係性(縁起)のうえでなりたっており、常に変化し永劫不変な実態というものは存在しない」ということです。「色すなわち是れ空なり」とは「この世の物質と現象(色)は常に変化し移ろうもの(空)でる。」と言っているのです。私たちの五感で感じるすべてのもの(色・受・想・行・識)。喜びや悲しみ、愛や恋までも、永遠であるものはなく無常であるのです。一切が空であると決めつけそれで考えを止めてしまうと、この世の中、何をしても無駄で、生きる意味さえなくなってしまいます。これがニヒル(虚無)な考え、ニヒリズムです。
 般若心経にはつぎに「空即是色」と正反対の言葉が続きます。「空すなわち是れ色なり」とはどういうことでしょう。まるで禅問答のようです。ちょっと方向を変えて考えましょう。
 先月号で精神科医ビクトルE.フランクルを紹介しました。彼の著書に『それでも人生にイエスと言う』のがあります。
 フランクルはナチスの強制収容所を生き抜いてきた人でした。「人生がどんなに過酷で苦悩に満ちていても、また身体的に、精神的に不自由なところがあり、人に支えられながら生きる人生であっても、その人生にイエスと言うことができる。」と彼はいいます。
 また、ドイツの哲学者ニーチェ(1844~1900)は、時代が進むにつれニヒリズムの到来は避けられないと考えていました。予言どおり現代社会は個人が何をしてもどうにもならないという閉塞感が漂っています。不遇な人生の中でニーチェは「人生は苦である」といいました。そしてその人生は全く同じかたちで繰り返される(永遠回帰)と考えました。避けて通りたい最悪の事件や苦悩がそのまま含まれて人生が繰り返されるということです。もしそうなら、人は永遠回帰を受け入れることはできるのでしょうか。ニーチェはこれに対して応えています。「万物はつながっている。苦しいことも悲しいことも含め、人生の様々な構成要素はすべてつながっている。だから一つでも幸福感で魂がふるえるほどうれしいことがあって、然り(イエス)と言ったならならば、ほかの苦悩もひきつれて、この人生全体にイエスと言ったことになるのだ」と。(NHKテレビテキスト100分で名著「ツァラトゥストラ ニーチェ」西研著より)
 NHKテレビ講座の講師で哲学者の西研(にし けん)さんは、「骨形成不全症」という骨が弱くてもろいため車椅子での生活を余儀なくされている女性Kさんから次のような話を聞きました。「障害者の間で『もし天使が降りてきて、あなたの障害をすっかり治してきれいにしてあげるといわれたらどうする?』と質問されたことがあります。でも私はこのままでいいと答えました。この身体をもう一度選びます。」 Kさんは自立障害者で、公的扶助を受けながら24時間ボランティアの人にお願いしてアパートで暮らしています。そのため多くの障害者や健常者と友達になり、大学のゼミにも参加されたそうです。彼女が自分の人生にイエスと答えたのは、その障害を通じて知り合った多くの人との関わりがあったからです。彼女の一番大切なものは、そういった人たちとの「関係の悦び」だったのです。
 人生とは他との関わり合いであることに気づきます。他との「関係性」(仏教では「縁起」)すなわち「空」から生まれるものであり、けっして人間一個人から生まれるものではありません。フランクルもニーチェも、その「関係性」に積極的に働きかけなさいと説いています。
 最初に戻りましょう。「色(受・想・行・識)」を「人生」で置き換えてみると、「人生は空であるけれど(色即是空)、また空すなわち互いの関わりによって人生がつくられている(空即是色)。」
(引用と参考: 「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル
         山田邦男/松田美佳訳 春秋社より
        「100分で名著 ツァラトゥストラ ニーチェ」
         西研著 NHKテレビテキストより) 



NO.150      平成23年       6月

生きる
 4月の朝日新聞「ニッポン人・脈・記」に「生きること」という記事が連載されていました。それは精神科医
ビクトルE.フランクルの「生きること」についての考え方と、それに強く影響を受けた人たちのことが書か
れていました。
 フランクルについては以前にも少しお話ししたことがあります。ユダヤ人の彼は、ナチスの強制収容所で
過酷な環境下を生き抜いた人です。
 戦後、その体験をもとにした「生きる意味」についての講演や著作は世界中の多くの人々に感銘を与え
ました。
 強制収容所に送られる人々の95%は、駅からまっすぐガス室に入れられました。フランクルは残りの
5%でしたが、身につけている物はすべて取り上げられ、丸坊主にされ、消毒槽といわれる(本物の)シャ
ワーの下に立たされるのです。 今までのすべての人生をはぎ取られ、文字通り「裸」にされてしまうので
す。すると次に思うことは自殺です。高電圧がかかった鉄条網を自ら触ることです。しかし、遅かれ早かれ
ガス室に送られ「死」がそこにあることを思うと、その鉄線に触る必要性はありません。自殺の決意もすぐ
に消え、「ガス室」を恐れることもなくなるのです。
 収容所では「働ける」人間だけが生きながらえます。「働ける」という印象を与えるようにしなければなり
ません。顔色が悪くて不健康だったり、靴が合わなくて歩き方が悪いとガス室です。ある仲間は、ガラスの
破片を細工して毎日ひげを剃り、肌をピンク色に見せたそうです。
 収監されてはじめの何日間は、部外者には想像できないようなおぞましいこと、恐怖や憤激、吐き気など
に見舞われます。しかし、このような感情はついには弱くなって、情緒そのものが最小限に小さくなってし
まいます。そうして、一日をなんとか生き延びようとすることだけが唯一の関心事となるのです。すべてを奪
われた無の世界で、未来を失い、心の拠り所を失い、精神的身体的に崩壊していくのです。「生きよう」と
言う気力がなくなってしまうのです。
 フランクルはそんな絶望している人たちに、心の支えとなる「生きる意味」を与えることに努めました。
ある人には彼を待っている家族がいることを、またある人には彼がやり残している仕事が待っていることを
気づかせたのです。
 各個人がとって代わることのできない「かけがえのない」存在であることを気づき、それにともなう「責任」
を自覚することが、その人の存在理由すなわち「生きる意味」の中核となるとフランクルは言っています。
 また、「誰でも寿命というのがあるのだからいつかは死にいたる。結局のところ人生は無意味になってし
まうのではないか」と問う人たちに対して、フランクルは答えます。「命に限りがあるからこそ、人は生を充
実するように努めるのです。」「たとえ肉体の死が訪れても、人生の中で実現できたことは、死なないで世
に残ります。」
 「死」は忌み嫌われるものですが、自分の「死」を意識した人ほど、また苦悩した人ほど、その人の人生
は輝いています。生きることはまさに苦悩することなのです。」
 インドのタゴールは次のような詩をのこしています。
     私は眠り夢見る。
     生きることがよろこびだったらと
     私は目覚め気づく
     生きることは義務だと
     私は働く
     すると、ごらん
     義務はよろこびだった
 フランクルはこの詩を引用して次のようにいいます。
「生きるということは義務であり、その人に課せられた重大な責務です。よろこびやしあわせは求めても得
られるものではなくて、その責務を果たした結果ついてくるものです。」
「また、一般に私たちは人生に対して生きる意味を期待しようとしますが、それは自己を中心とした見方で
あって、逆に人生から私たちへ見方を変えなければなりません。すなわち、『人生は私たちに何を期待して
いるのか。』私たちはその責務を果たさなければならないのです。」
 米国のアル・ゴア元副大統領はある演説で「現代社会は、『生きる意味』の危機をむかえている。その危
機は地球生態系の危機と経済的危機の両者を合わせたよりもいっそう深刻である。」と言いました。フラン
クルは日本での講演の際、その言葉を補足するように「無気力、無感動、無目的という、生きる意味を失っ
た米国の大学生の数は、今日その総数の80%にものぼり、また、米国の十代の子供たちの50万人以上
が自殺を考えている。」と述べたそうです。
 それはそのまま日本の現状を言い表しているかも知れません。今の時代は、価値観や善悪の基準が混
沌としています。震災や原発災害でいっそう未来が見えにくくなっています。若者だけでなく苦悩する日本
がいまここにあります。 私たちは我欲を超えて、私たち自身の責務を果たさなければならないでしょう。
発句経より
    「すべては無常なり」と  
    智恵にて観る人は
    よくこの苦をさとるべし
    これ 安らぎにいたる道なり

    「すべてのものは苦なり」と  
    智恵にて観る人は
    よくこの苦をさとるべし
    これ 安らぎにいたる道なり

(引用と参考:「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル
 山田邦男/松田美佳訳 春秋社より、「発句経入門」松原泰道著 NONBOOK )



NO.149      平成23年      5月

自死
 先日、俳優の田中実さんが亡くなられました。田中さんは今まさに活躍中で、これからもいい演技が期待
される俳優さんでした。死因は「自死(自殺)」と発表され、二重のショックを受けました。誰にも悩みをうち
明けず、遺書もなかったそうです。
 4月10日付けの田中さんのブログにつぎのような詩が綴られていました。
   空を見上げて
   考える時は
   何か良い事ありそうな気分
   下を向いて
   考える時は
   どこか気持ちが沈んでるような…
   ・・・・・
   考えるのは大好き
   空を見上げて考えたい
   空を見上げて考え続けたい .
 
 「空を見上げて考えたい」という言葉のなかに、深い悩みを抱え、どうにかして克服したいという様子がう
かがえるように思います。
 警察庁の統計によると、平成22年の自殺者の人数は31690人で13年間連続して3万人を越えています。
交通事故で死亡した人の6.5倍。自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は24.9人で、世界でも4番目の
高さだといわれています。
 自殺原因にあげられるのは、「健康問題」(15802人)が一番多く、「経済・生活問題」(7438人)、「家庭
問題」(4497人)と続きます。性別では男性が圧倒的に多く、70%を占めます。おそらく中高年男性では近
年の不況の影響を強く受けていると考えられます。また少なからず男性は女性に比べて孤立しがちで、自
分の悩みを他人に相談することが苦手です。
 自殺対策支援センターの調べによると、自殺者の遺族は約300万人で、遺族自身が責任を感じて悩み、
四人に一人は自分も死にたいと考えているといいます。
 自死(自殺)はほんとうに不幸な亡くなり方です。「どうして」という思いがいつまでも残るからです。では
どのようにしたら自死を防ぐことができるのでしょう。京都自死・自殺相談センターのホームページから引用
させていただきました。 まず、悩みが極限に達したときのサインに気づくことです。行動や言動が普段と違
うことがあります。
 <行動>                   <言動>
 ・身辺の整理をはじめる。         「もういいです」
 ・急にギャンブルにのめり込む      「いままでありがとう」
 ・食欲の極端な減少や増加       「違う世界に行きたい」
 ・薬をため込む               「楽になりたい」
 ・無断欠勤が増える            「消えてしまいたい」
 ・眠れない                  「世話になったね」
                         「逃げたい」
                         「思い知らせたい」

 もしサインに気づいたら、
 ・調子をたずねてみる
 ・気にかけていることを示す
 ・継続的に見守る
 ・相談窓口を紹介する
            京都自死・自殺相談センター ℡075-365-1616
                    金土曜日 午後7時から翌朝5時半
            大阪自殺防止センター    ℡06-6260-4343
                    金曜日午後1時から日曜日午後10時までの57時間
            大阪仏教テレホン相談室   ℡06-6245-5110 など
                    月曜から金曜日の午後2時から午後5時

 身近な人から「死にたい」といわれたら、普通は誰でも戸惑ってしまいます。でも、わかってもらえると思
って、苦しい悩みをおもいきってうち明けたのです。話をそらさずに、まず「どうしたの」とその方の気持ちを
聞きましょう。
 つい「死んではだめ」「がんばって」とか「そんなことを考えるよりも、こうしたほうがいいんじゃない」と言っ
てしまいたくなりますが、それは「死にたいほど悩んでいるのに私のことがわかってもらえない」「自分を否
定されているのでは」と受けとめられます。かえって心を閉ざしてしまうことになります。ですから、その人の
気持ちを受けとめ、話を聞き一緒に考えましょう。「共感してもらえる」「理解してもらえる」ということが伝わ
れば、「一人じゃない」ということに気づくかもしれません。
 ある研修会で円谷幸吉さんの遺書が紹介されました。東京オリンピックをご存じの方であれば誰でも知っ
ているマラソン選手です。優勝したのはエチオピアのアベベ選手でした。円谷選手はゴール間際で力尽き
て抜かれはしましたが、3位に入り銅メダルを獲得しました。つぎのメキシコオリンピックも頑張るということ
でした。しかし、いろんな悲運に翻弄され、昭和43年(1968年)1月9日自殺しました。その報道は多くの日
本人にとって衝撃的だったと思います。
    父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。
    干し柿 もちも美味しうございました。
    敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
    何卒 お許し下さい。
    気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
    幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
講師の先生はこの遺書について次のように説明されました。
  「死にたい」という表現はどこにもなく、むしろ最後の一行は「生きたい」
  と言っている。「死んでしまいたい」と思うことは、実は「生きたい。助け
  て欲しい」というサインなのです。

 東日本大震災の被災地では、多くの方が家族や家、職場、そして田や畑、家畜など、ほとんどすべてを
失ってしまいました。その喪失感は言葉で言い表せないでしょう。それが引き金になり最悪の事態を招くこ
とも少なくありません。復興にはその人達の心のケアも必要です。



NO.148      平成23年      4月

東日本大震災
 3月11日午後2時46分 大阪ではゆっくりした揺れを比較的長く感じました。多くの人は自分の体調が
悪くめまいをおこしたのではないかと思ったそうです。
 すぐにテレビは東北地方の地震を伝え、「津波に警戒してください」を連呼していました。当初私は
「数10㎝ぐらいの津波だろう」と高をくくっていました。
 しかしそれは忘れた頃にやってくるものなのです。戦後日本が経験する最大で最悪の悲劇だったのです。
東北地方太平洋沖マグニチュード9.0の地震です。さらにそれによって発生した津波は東北地方の太平洋
岸を次々と襲いました。テレビはヘリコプターから現地の映像を映していました。津波は防波堤をものともせ
ず、川を遡り堤防を乗り越え、家や船、車をおもちゃのように押し流し、丹精こめて整備された田畑を容赦な
くみるみる侵略しました。黒い悪魔がすべてのものを呑み込んでいるのです。津波の勢いをまざまざと見せ
つける恐ろしい光景でした。日本の歴史上最も甚大な災害でしよう。
 三陸海岸は津波海岸と言われるほど、昔から地震によってたびたび津波の被害を受けてきました。文献
に残っている大津波の最古の記録は、平安時代の貞観十一年五月二十六日(西暦869年7月13日)のも
のです。
    この日陸奥(みちのおく)の国(岩手県、宮城県、福島県のあたり)に
   大地震があり、立ち上がれないほどの激しい揺れに見舞われた。城郭や倉
   庫、門櫓(もんやぐら)など多数が倒壊し、やがて雷のような海鳴りとと
   もに大津波が来襲した。津波はたちまち多賀城下(宮城県多賀城市)に及
   んで、陸地を呑み込み、原野も道路も、すべて青海原となってしまった。
 また、日本沿岸で最大の津波災害となったのも、明治三陸地震津波でした。

明治二十九年五月五日(1896年6月19日)、三陸の沖合200kmの海底でM8.5の地震がありました。陸上で
はせいぜい震度2か3ぐらいの揺れだったので多くの人はあまり気にとめなかったようです。その35分後、
大音響とともに大津波が襲ってきたのです。津波の高さは大船渡市綾里で38.2m、その他の地域でも数m
から20mでした。この地震津波による死者は2万2千人だったといわれています。海に浮かぶ無数の遺体
を地引き網で引き上げたところもあったようです。岩手県田老村では死者が住民の8割以上にのぼりました
。その他の多くの村でも半分以上が亡くなられたといいます。
 この地方では昔から「津波てんでんこ」という言い伝えがあります。津波が襲ってきたら、「まわりにはかま
わず、てんでんばらばらに高いところに逃げて、自分だけでも助かれ」という意味だそうです。「自分だけで
も」とは少し冷酷なようですが、それほど急げということです。
 それを三陸海岸の人たちは教訓としてきました。日頃から高い防波堤を築き、避難所を設け、避難訓練も
行われてきました。
 しかし今回の東北関東大地震はM9.0でした。M8.5の明治三陸地震の約5~6倍の大きさです。まさしく想
定をこえた地震だったのです。(最近の研究では先の貞観地震が同じような規模だったといわれています)

 残った生徒の数が3割に満たない小学校があったり、人口が半分になってしまった町もあります。また、家
族を亡くした方は数え切れません。おそらく死者・行方不明者は三万人をこえるでしょう。
 そして、家も土地も働く場所も失って避難されている方は20万人ちかくにのぼります。「夢であって欲しい」
「明日がみえない」など不安と喪失感で立ちすくまれている方が多くみうけられます。
 そんな中、少しずつボランティアが入ってくるようになりました。以前被災された地域のは、「今度は私たち
が助ける番です」と。また、援助は国内からだけではありません。世界の各地から救援隊が派遣されたり、
たくさんの励ましのメッセージや行動が伝えられています。こんなに日本のことを思ってくれているんだと思う
と胸が熱くなります。炊き出しでやっと温かいものを口にした人が、「自分がこんな事になるとは思わなかっ
た。はじめてひとのあたたかさというものが分かった。」とおっしゃいました。
 東北の詩人に村上明夫がいます。陸前高田市(岩手県)の生まれで、肺結核を患い、若くして亡くなりまし
た。次のような詩があります。
   雁の声を聞いた 
   雁の渡ってゆく声は 
   あの涯(はて)のない宇宙の深さと おんなじだ 
   私は治らない病気をもっているから 
   それで 雁の声がきこえるのだ 
   治らない人の病は 
   あの涯のない宇宙の深さと おんなじだ

 雁の声は、健康な普通の人には聞こえません。けれど、つらさ苦しさのどん底にあるひとには聞こえるので
す。被災者の方が「はじめてひとのあたたかさというものが分かった。」というのは、本当の人のまごころが
見えたのでしょう。
 戦後日本は奇跡的な復興をとげましたが、経済の発展とともに物質的な豊かさを求めるようになりました。
バブルのあともそれが続き、その結果、知らぬ間に豊かさが低い方から高い方に流れる格差社会が生まれ
るようになりました。
 本来だれでも持っている「まごころ」をみる心、そして「まごころ」を引き出す機会を失っていたのかも知れま
せん。
 サクラのつぼみも冬の寒さがないと開花しないといいます。これから私たちにはたいへんな試練が待ち受
けていると思います。でもその試練の先にはかならず花ひらく未来があると信じます。

   (引用と参考:伊藤和明著「地震と噴火の日本史」岩波新書、
          松原泰道著「法句経入門」NONBOOK)


NO.147       平成23年      3月

縁を楽しむ
 ピタゴラスの定理または三平方の定理といえば、学校でならった記憶が頭のどこかに
残っているのではないでしょうか。直角三角形の三つの辺の関係です。
 それを発見したピタゴラスはギリシャの哲学者、数学者で宗教家でした。彼は宗教教団
を組織し、殺生を忌み嫌い、深く物事を考え、音楽を聴きながら心を癒したとされています。
その中でも最も重要視したのは「数の信仰」でした。ピタゴラス自身美しい琴の音色を耳
にして、その音程やハーモニーに単純な数的関係があることに気づきました。そして、
「宇宙の根底には数がある」という考えがひらめいたそうです。お釈迦様の時代より約
100年も前のことです。
 ピタゴラス派は「宇宙」を秩序や調和という意味の「コスモス」といいました。彼らは、天も
地も「万物は数なり」という考えでもって、世界の普遍的な構造を推し量り、秩序と調和で
説明される宇宙(コスモス)をつくりあげていきました。
ピタゴラス派にとっては宇宙は不変で、完全なものでなければならなかったのです。
 近代に入ると、ガリレオ、ケプラー、ニュートンなどによって、宇宙の考え方は具体的にな
りました。ここでガリレオは「宇宙という書物は数学という言葉で書かれている」といった
そうです。確かに、ニュートンの力学法則で天体の動きが正確に計算できるようになり
ました。そしてこのとき人類は未来を予測する手段を手に入れたかのような傲慢な錯覚に
陥ったのです。特に西洋の科学的な考え方はピタゴラスの理想的世界観からさらに、決定論
的で要素還元型世界観に発展していきました。それは、「私たちの物質世界は、どんな複雑
なものでもごく小さな分子や原子でできている。それらの構成要素一つ一つを分解してその
運動を計算すれば、過去から未来まで全体の動きを知ることができる。未来はすでに決まっ
ている。」ということです。実際、この考え方で科学はめざましい発展をとげてきました。
 しかし、20世紀後半になって、科学は自然そのものを対象とするようになりました。自然は
生きています。つねに変化しとどまることはありません。その自然の構成要素(人間も含めて)
は、自然から単独に切り離して考えることはできません。構成要素そのものが自然をつくり変
化しているからです。自然という「全体」の変化は、構成要素の「個」に影響を及ぼし、またその
「個」の変化は「全体」に影響します。もちろん「個」どうしの関係も含まれてきます。入りくんだ
複雑な関係です。科学の分野では複雑系といい、とくに生命科学や天文・気象などの大きな
自然を対象としています。現在では経済にも応用されているようです。
さて、この複雑系は『華厳経』というお経の中にみることができます。
 中村量空氏は著書『複雑系の意匠』(中公新書)の中で、次のように書かれてています。
      私が華厳の縁起に関心をもったのは、複雑な世界の実態を説く縁起
     の世界観が、現代の複雑なシステムの理解に強いインパクトを与える
     だろうと思ったからである。
      ・・・・
      『華厳経』の説くところに依れば、世界が複雑に見えるのは、一切のものが互いに相よっ
     ているからだという。このような相互関連の構造を、『華厳経』では「重々無尽」と説く。
      ・・・・
     あらゆるものが、独立してあるのではなく、すべての影響のもとにあ
     って、これらの影響が一つ一つに現れているという。一つ一つのもの
     を詳細にみれば、織り込まれた影響が映し出されて見えてくると言う
     わけである。
      ・・・・・・
      空間的な広がりの中で、部分が全体を形成し、
      時間的な流れを通して、全体が部分に反映する

 そして、中村氏は歌人西行の次の言葉を紹介しています。

    華を読めども実(げ)に華と思ふ事なく。月を詠ずれども実に月と思わず。
   只此の如くして、縁に随(したが)ひ興に随ひ読み置く処なり。


 華だけを注目して詠むのではなく、華と自然と自分の心を縁でもって詠むことが大切だと言っています。

 私たちの社会は複雑系です。縁によって成り立っています。とくに日本社会は欧米に比べて個人より
集団や全体を大事にしてきました。滅私奉公という言葉もあります。それはある場合には規制や制限が
生まれ、健全な発展を妨げることにもなります。しかしまた、規制や制限をはずしすぎて個々を自由にして
しまうと、まとまりが無く個人主義的でつながりのうすい無関心な社会になってしまいます。今の日本は後
者に近くなっているのではないでしょうか。
 では、このような社会で人生を楽しむということは、どういう事でしょうか。
生きていて、いいことは少なく、苦しいことの方が多いかも知れません。しかし、人と人とのつながり、社会
とのつながりを通して、その温かさに触れることがあります。人生を楽しむと言うことは、一瞬でもそんな縁
を楽しむということではないでしょうか。 もう一度
       桃花春風に笑む
(参考と引用:中村量空著「複雑系の意匠」中公新書、
       丹羽敏雄著「数学は世界を解明できるか」中公新書)


NO.146       平成23年      2月

ほぐれる心  「人生の贈りもの」(朝日新聞1月19日付 記事)より
 10年ほど前、医師徳永進さんは23年勤めた鳥取赤十字病院を辞められました。やりがいもあり、
医師として充実した日々を送ってこられました。多くの患者さんからも慕われていました。しかし、総合
病院ではたくさんの患者さんが来ます。どうしても使う言葉が、「告知」「副作用」「生存率」などパターン
化してしまい、その結果「死」ということさえ、乾いた無個性なものになってしまうのです。
 以前から徳永さんは、淀川キリスト病院のホスピスケアに、「いつかは自分も」と思っていましたので、
年齢的には遅いタイミングでしたが53歳のとき思いきって診療所を開業しました。山のような借金でし
た。それでも床には無垢の木材をつかうなど自分なりの空間を目指しました。最初はなかなか患者さ
んが来ませんでした。事前に周りの住民に説明会をしましたが、ホスピスと言えば「死んでいく人の叫
び声が響きませんか」という声もあったそうです。
 たしかに、今の世の中は「死」に結びつく悲惨な事件が多発しているので、現代人は「死」というものを
「不幸せな死」や「手の届かない遠い真っ暗な淵に追いやられてしまうこと。」とみてしまいがちです。
残念なことに、そういうマイナスのイメージから、「死」は忌み嫌うべきもの、受け入れ難きものになって
いるのです。患者さんも、家族の方も「死」を前にして「過緊張」になっているといいます。
そこで、徳永さんは次のようにおっしゃっています。
  「構えずとも自然に受け入れられます。確かに死の本質は、悲しみの中に封
   じ込められて見えにくい。だから、人は死を突きつけられると、絶望の淵
   に沈む。でもやがて立ち直り、内に潜めていた死生観に出会う。するとね、
   変わる。いい風に変わる。照れや意地といった心を硬くさせていたものが
   パカッとはずれ、本人も予期しなかった言葉がわいてくる。こころから
   アリガトウと言えるし、仲たがいしていた家族と和解もしうる。・・・
   みんなハッピーエンドを迎えられるわけじゃない。でも夜空の星みたいに、
   もう人生を終えようという人のキラッと光る一瞬って、不思議なくらい多
   いんです。」
 「人は死を前にして心がほぐれる」と徳永さんはいいます。松燈だより2005年11月号にも紹介しました
が、臨済宗の僧侶で作家の玄侑宗久さんは「仏」を日本語で「ほとけ」と読むのは「ほどける」からきて
いると、また長年ホスピスに従事されていた鈴木秀子さんは、死の直前かならず家族との「仲よし時間」
があるとおっしゃっています。
 私もいままで多くの方をお見送りしてきました。枕経から葬儀に到るまでそのお顔がだんだん柔和な
表情になっていくのを感じます。不思議です。科学的な生命反応は全くありませんが、体全体で「ありが
とう」と言っているようにも思います。
 「死」はこの世との別れです。人生の最後です。その最後は厳かでなくてはなりません。豪華な装具と
か盛大なとかそういうものではなく、その人の人生を思い、厳かな気持ちで見送るということです。いず
れ私たちもいつかその時がおとずれるのですから。



                                
NO.145        平成23年      1月

ガラパゴス
 日本の「ガラパゴス化」というのが最近よく耳にします。「ガラパゴス」というのはガラパゴス諸島のこと
で、南米大陸より1000kmほど離れたところに位置しており、外界と隔てられたためそこの多くの生物は
独自に進化したと考えられています。ダーウィンも何回か生物の調査を行い、進化論の着想を得たこと
で知られています。
 そこで日本の「ガラパゴス化」とは、海外の動きに鈍感で日本の中を重視するあまり世界に乗り遅れ
ているということなのです。閉鎖的な日本の社会を揶揄した否定的な表現です。一時は経済大国とまで
いわれた日本ですが、いまや中国や韓国、インドなど新興国の躍進で存在感が薄くなってきました。元
気がないとまでいわれています。
 しかし、そんな中で独自のやり方を貫き堅実な経営を行っている会社も少なくありません。朝日新聞に
「農耕の発想 スローな商売」と題してヤクルトの専務さんの話が掲載されていました。(平成23年1月
3日付け10版) 現在31の国と地域でヤクルトは売られています。1964年に海外に進出して、撤退を
余儀なくされたところはまだ一つもないそうです。何年も試行錯誤を繰りかえし、行き着いたその販売方
法は国内と同じ「ヤクルトレディ」だったのです。
 ヤクルトの宣伝ではないのですが。ヤクルトは体によい「乳酸菌」を売っています。清涼飲料ではあり
ません。「乳酸菌」を売るためには顧客に納得してもらわねばなりません。多くを売るために味を変える
こともできます。量を増やすことも、質を変えて安価にすることもできます。しかし、それはしなかった。
本来の目的である、体によい「乳酸菌」を届けることからは外れてしまうからです。訪問して人間関係を
築き、信頼の上にたってその価値がわかってもらえれば、確実に買ってもらえるのです。同じような製品
を売る他者もありますが、シェアは重視しません。他社との競争を目的としていないからです。ほんとう
に時間と労力のかかるスローな販売方法です。インドなどでは女性が自転車に乗る習慣がないので、
「ヤクルトレディ」にバイクの乗り方を一から教えるそうです。市場という畑をじっくり耕す農耕型の発想で
す。
 今、電気メーカーや自動車会社などは厳しい競争の中にいます。ヤクルトとはいろんな面で違いがあ
ると思いますが、私たちはじっくり腰を据える民族であることを思い起こしてみてはどうでしょう。日本人
は良い意味で「ガラパゴス化」されているところもあるはずです。それを失ってしまっては日本の存在価
値はますますなくなってしまいます。

 さて、今年は卯年です。いろんな色のウサギがいますが、こころに思い描くウサギは白色が多いと思
います。「白色」は仏教では「菩提心」またはその心の清らかさ「清浄」を表します。菩提心とは「悟りを求
めようとする清浄な心」をいいますが、『華厳経』には「菩提心を起こした(発心した)なら、そのときすぐ
に正しい悟り(正覚しょうがく)に到っている」とあります。
年頭に当たって私たちは、今年こそはこうしようと思い立ったりしますが、時間に追われたり、周りの雑
念で迷いが生じたりで、一年間実行し貫徹することはなかなか難しいものです。
 でも、急がなくてもいいのです。実現できなくても初心を忘れないこと、思い起こすこと、遅遅として進ま
なくてもあきらめず続けることです。大事なのは独りよがりにならないことと、自分の「ガラパゴス」を失わ
ないことです。

(参考と引用:ちくま文庫「禅語遊心」玄侑宗久著)