Raining 1998.3.21 VICL-35026 SPEEDSTAR RECORDS \1,020 ●ジャケット+デザイン 可愛らしいジャケット。 まず紙質。歌詞が表記してある面はつるつるなのですが ジャケットは縦に薄い筋が通っていて、なんとも独特な手触り。 キャンバス画紙っぽいと思ったんだけど種類や名前なんかはわからず。デザイナーや絵描きさんならわかるのかな? じっくり観察すると、雨が降っているように思えるな、と改めて見ていたら気付きました。 それと切手型のシール。かなり珍しいと思いました。 今まで印刷以外の方法で、ジャケットが作られているCDって見たことないかも。 ちなみに剥がしてもなにもありませんよ!(剥がしたわけではなく透かしただけです、隠し文字でもあるのかと勘ぐって・・・) 切手の形をしていると、まるでCoccoから誰かへの手紙のようですね。 私は「大人になったこっこから、少女だった頃のこっこ」へ向けられた、歌という形でのメッセージだと思っています。 写真はSpecial Thanks Toにもある通り、SWITCHでの「soft scars 祝福された旅立ちの時」のヨセミナでの撮影時のもの。 「Raining」はCDも含めすべてが真白。 少女の汚れない純心さと、哀しみをつつむような雨の眩しい色、としてぴったりだと思う。 そしてもう一つ、ライブを葬式と称していたCoccoが「喪服」の色として選んだ白としても。 1. Raining 作詞・作曲:こっこ 編曲:根岸孝旨 Coccoの声と共にアコースティックギターからはじまり、キーボード、そしてエレキギターと、 いくつもの楽器が徐々に重なり合っていく構成はお見事の一言。 何十回(もしかしたら何百回)聴いた曲ですが、改めてキーボード、エレキギターの音を注意して聴けば その旋律のやさしさに思わず涙ぐんでしまいます。 キーボードの音色はまるで、卒業式でのエレクトーンのようにふんわりしていて エレキギターは、水が溢れるようにきらきらと鳴り出す二番のサビ 感情が噴出するようなラストのサビ、と胸をぎゅうっと締めつける柔らかさと勇ましさを持っています。 せつない内容なのにも関わらず、そして「雨が降っている」というタイトルであるにも関わらず、 ここまで生命力や根拠のない希望を感じさせ、そして心の中に「晴れた日」を思い浮かばせるサウンドは凄いと思う。 ちなみにシングルバージョンとアルバムバージョンはエンディングが違います。 私はアルバムバージョンでの、フェードアウトで終わらず"完結"する「Raining」の方が好きです。 詞は「bounce」で連載していた「髪」が元ネタかと思われます。 「髪」の方はコラムなので、歌詞よりもわかりやすく「とても晴れた日」の中にいる少女だったCoccoの状況が読み取れます。 興味深いところは、今のCoccoが昔の自分を思い返し あんなに不安や絶望を感じ、なにかに怯え、髪や腕を切ったのは何故なのか『今も想うけれど まだわからないよ』とうたっているということ。 そして今のCoccoということは、この歌をうたっているCoccoはもうこの晴れた日の少女ではない。 あくまで大人になり『今日みたく雨なら きっと泣けてた』と(恐らく雨を見つめながら)冷静に振り返れている。 にも関わらず、この歌は思春期特有の複雑な精神を抱えた少女たちから絶大な支持を受けている。 通常なら、十代の言いようもない想いというのは大人になれば忘れてしまうものだけれど これは女性でありながら、少女の心を胸の片隅にかたづけてしまっていないCoccoならではの功績だと思う。 晴れた日の少女であったCoccoの苦悩についてですが、 よく『ママ譲りの赤毛』の部分から勘ぐって母親が亡くなったのではないかと言われたり プロモの内容からか、尊敬している祖父が亡くなったのではないかと言われたりしますが 私はどちらも無責任で、残酷な過去をCoccoに期待する、おかしな方々の妄想にしか過ぎないと思っています。 (だいたい母親はデビュー曲に対しての感想をCoccoに話しているので、Coccoが15歳の時に亡くなったというのはおかしい。 それに尊敬する祖父であり沖縄芝居の重鎮、真喜志康忠氏もご存命です。 もちろん他の親族や恋人、友達は?と言われればわかりませんが・・・嫌ですよね、誰が死んだのかなんて詮索するの) 『行列』が果たして本当にお葬式を表しているのかは本人にしかわかりませんが、 表しているとしたら絶対に他人に触れられたくない、大事な記憶だろうし きっとその大切な人のことを軽々しくインタビューなどでは匂わせないと思います。 『目に映るもの全てが怖かった』というコラムでの一文や、髪や腕を切ってしまうくらいの逃げ場のない苦しみは Coccoにとってかけがえのない大切な「あなた」がいなくなってしまい、 この時期「どんな人間や物もいつかは去り、いなくなる。永遠に続くものなどない」という現実に直面し、 "今、目の前にいる愛する人々や風景たちも、そのうち自分を置いて消えてしまうのでは" という恐怖が胸をしめたことによって、生まれたのかも知れない。 自分を傷つけることで慰めを得、それでも不安による痛みは消えず その痛みすべてを書き切るには、まだ幼い表現力では追いつかず 世の中のせいにしようとも、憎むには世界はあまりにも美しすぎた。 そんなやり場のない想いたちが端々から溢れている。 けれどこの歌が思春期の苦悩を描いただけで終わらず、感動の域まで達したのは やさしい帰り道のにおい、つまり家庭(家族)という安らぎの場所があることで『生きていける そんな気がしていた』と 微かな救いを見つけるところまで、一緒にうたいきっていたからだと思う。 もし「生きていける」と想っていなければ、この歌はここまで沢山の人の心に響いていなかっただろう。 そう考えると自殺する少女の歌、自殺願望の歌、自傷行為の代弁歌など、 二番冒頭の詞の印象がいくら強いからといって、ネガティブな歌だと思われてしまっていることがとても口惜しい。 この歌は、自傷行為や絶望を美化するものでもない。 思春期の不安定さを丁寧に表現し、どこにでもいる普通の少女が抱える脆さと、 「生きる」という頼りなくも力強い決心を描いた青春ソングであり かつて不器用で悩める少女であった女性が、当時の自分をそっとあたたかく抱きしめてあげたくなるような ある種遠い過去を振りかえり、そして見送ってやるための卒業ソングだ。 世間に馴染めない、変わった子の暗い歌というイメージが そろそろ払拭されないだろうかと、私はこの歌の素晴らしさを味わうとき心底そう思う。 2. 裸体 作詞・作曲:こっこ 編曲:根岸孝旨 かなり重苦しい曲。 CoccoはJ-POPらしくない曲と見せかけて、実はとってもJ-POPな曲を送り出している歌手(もちろん根岸さんの腕前なわけだけれど) だと私は思っているのですが、この歌はかなり「やっちゃった」感のする作品だと思います。つまり異質。 私の貧相な耳の印象で、全然違うよ!と思う方もいるかも知れませんが Coccoがフェイバリットとして挙げていたPJ Harveyの雰囲気が匂ってくるなと感じました。あちらの方が、もっと濃くて強烈な音だけどね。 Coccoよりも成熟した女性というイメージですし(どんなに泥臭い歌をうたっていても、Coccoの中心は少女性だと思う) とてもシンプルで、生々しい肉体を連想させるサウンドの中でも 二番のサビでの悲鳴の後のアコースティックギターと (恐らく元の音をいじっているんでしょうね、狂っているようで大変気持ち悪い) 『わたしの影も〜何を望むの?』の歌唱にかぶるコーラス (これもエフェクトをかけているのか、ぶれたような声になっていてかなり不気味) この部分はぞっとするような念が込められているようで、怖いもの見たさからか、もう一度聴いてみたくなる気にさせられます。 実は歌詞の方もちょっと珍しいかなといった印象を持っています。 愛する人への過剰な想いから生まれる、副産物としての憎しみや悲しみの歌は 「ブーゲンビリア」の時点で多く存在しましたが、「裸体」はどの感情よりも強く「恐怖」が表現されているような気がします。 愛したことで、恐怖を抱くといった状況は、もしかしたらCoccoの歌の中ではこの作品だけかもしれない。 詞では、驚くことにCoccoは一度愛した人を嫌悪の対象として見ています。 「カウントダウン」でも、不実を行った恋人に対してもまだ「戻ってきてほしい」という想いを忍ばせているので 愛することを拒否しているCoccoというのは、とてつもなく衝撃的であると思う。 どうしてこんな悲惨なことになってしまったのか、と考えていくと 『わたしの影も わたしの夢も 貪りつくしたでしょう?』に辿りつきます。 この言葉をそのまま受け止めるとすれば、Coccoにとって愛し愛されることは "互いの存在を尊重し、同じ夢(あたたかな家庭を作る=結婚など)を二人で見ること"なのに対し きっと相手は、その愛の夢や未来などには興味がない、つまり遊びや欲望の対象として「恋人」になったのかも。 「裸体」というタイトルも、何も身につけていない状態=何もかも奪われた状態の愛、心、自分を指し 英訳の方のタイトルでは「pray(祈る)」=もう私にかまわないで、という意味を込めているように感じます。 そういえば「お風呂の〜怯えているの」「傷つけたこの体」などの表現から "幼い頃、性的虐待を受けていたCocco"という最低な解釈をよく見かけますが、 (解釈は自由です、けれど特定の個人の人格を貶めるような解釈を堂々としてしまう神経が私は嫌だ) 他人が勝手に妄想したことが、やがて真実かのようにインターネットや巷で出回り、 知らないうちに加害者に仕立て上げられるなんて、Coccoの親類の方々には本当に迷惑な話だと思う。 曲調や詞につい、深刻な気持ちにさせられる歌ですが 「あんな馬鹿な男と付き合ってたなんて最悪、思い出すだけで叫びたくなるほど恥ずかしい」 という、若さ故の過ちにして仕舞っておきたくなるような 誰にでも覚えがある記憶を込めた、単純な歌だと発想転換してしまえば、そこまで悲惨な内容に聴こえてこないから不思議。 いわゆる「恥の恐怖」と考えれば、この重苦しさに説明が付きますしね。 BACK |