Cocco の歌詞に使われている言葉の話。



2自分(遺書。、珊瑚と花と)

この単語はあまりないだろうなあと思っていましたが、やはり。
"個性派女性シンガー"という煽りの付いている歌手は沢山使っているような印象があります。
でも私は詩にこの単語使うの嫌だな、できれば(笑)
だって濁点がふたつもあって、響きが悪いじゃないですか。それに言葉自体も美しくないし。
そういえば歌人、俵万智さんは「サラダ記念日」の"ダ"の響きが悪くて、
「サラダ」という言葉自体を使うことを躊躇ったというお話を教科書で読んだ気がします。


神様(裸体、ねないこだれだ)

意外な少なさ。Coccoの詞の中にはいつも"絶対的な存在"が強く感じられますが、
それは圧倒的な自然の美しさであったり、想い出の中の家族であったり、心から愛した人であったりして、
宗教としての神の存在は実はあまりなかったりする気がします。



3世界(走る体、しなやかな腕の祈り、Still)

少ないだろうと予想はしていたけれど、3つだけとは凄い。
抱えている想いを表現しようとしたら、自分以外のなにかにそれを向けてしまうことは自然なことだと思うのですが、
そうだとすると、「世界」という単語は無意識に多くなると思うんですよ。
それに自分を包むすべてを表すのに、とても楽な単語でもありますし。
でもCoccoは66個の歌詞中たった3つだけ!(しかも「走る体」では"おとぎの世界"で、現実の世界とは違うもの)
これは「Coccoは外側へではなく、内側へ向かって言葉を発していたからだ」と思う人もいるでしょうが、
私は、世界という曖昧で、簡単で、自分の目で、足で、まだその全てを確かめていないものを
詞の中に登場させない堅実さがCoccoにはあったからではないかと思っています。

この言葉は、Coccoが内なる世界から、外側(現実の世界)をより強く意識することができたとき、自然に増えていく言葉なのではないでしょうか。


(白い狂気、ねないこだれだ、もくまおう)

実は集計するまえに、この単語は「もくまおう」だけでしか出てきてないだろうと思っていたんですよ。
他に2つもあってびっくりしました、もっと読み込む必要があるなとも同時に。

これもよく使ってしまいそうな単語ですね。
同じくあまり使いたくない単語です。
響きが悪いわけではないのですが、安直過ぎて、やたら使用していると、引出があまりない書き手のような気がします。
Coccoはその点、なんでこんな単語をー!というようなときめくものを出してきたり、
逆に一般的によく使われるだろう単語は少なかったりと、本当に感心しきりです。


(星の生まれる日。、樹海の糸、箱舟)

Coccoはいつも「許す/許さない」のあいだで揺れていた人という印象があり、この結果は意外でした。
調べれば調べるほど、そればっかりで発見の連続。
この単語が出てくる詞は、どれもCoccoの心境の変化を表している重要なものなので
少ない理由は、Coccoがこの言葉をそう簡単に使用せず、
だからこそ重要なときにだけ使用したのではないかなと感じています。



4永遠(走る体、晴れすぎた空、樹海の糸、風化風葬)

そんなに使用されていないとは思っていましたが、
使いやすいし響きも印象もきれいなので、4つだけとは凄い。
もうこればっかりですね(笑)
面白いのは、前半2曲では「永遠など」と言い、そんなものは信じてはいけない、といったふうに受け止められますが
後半2曲は「永遠」というものを、愛を諦めるかわりに望んでいるというところ。
今、Coccoが積極的に見えるのは、なにも諦めなくても、失わなくても、手に入れられるはずの永遠があるはずと気付いたからなのでしょうか。



5(首。、あなたへの月、けもの道、アネモネ、もくまおう)

「沖縄の光(太陽)」が強く直視できないほどの存在として、Coccoのなかを占めていたのなら
"闇"はどうなのかなと思い調べてみました。それほど多くもないですね。
闇という言葉は、一般的には不安や迷いを表すときによく使われがちですが、
Coccoの場合はそうではなく、孤独さえもつつむ静寂を表現するものとして使われているように思います。


(遺書。、星の生まれる日。、Rose letter、珊瑚と花と、幸わせの小道)

Coccoはこの言葉を、登場する歌詞を読む限り、
自分へ向けてではなく必ず誰かへ向けて使っているみたいですね。
私は、この「幸せ」という単語にはただ「幸せになってね」という感情だけではなく
その後ろに憎しみや、悲しみや、切なさや、諦めや、強がりが含まれていると思うんです。
でもそんな感情を、ひとつに纏めて、最終的にはとてつもなく純粋なものにしてしまっているのはCoccoの言葉と声の力なのかなと思っています。



6(走る体、遺書。、雲路の果て、つめたい手、風化風葬、卯月の頃)

悲しい、という言葉は、単純だけれど
使い方によってはその意味以上の深みを持つことができるものだと思います。
だけど単純だからむずかしいんだな・・・下手に使うと馬鹿っぽくなってしまうんですよ。
Coccoは、たぶん、あの声だったからということもあると思いますが
この単語をとても甘く、飽和したものとして表現してるように感じます。
ふいに襲いかかる悲しみではなく、錆びついて居座った悲しみ、のような。

ちなみに、「かなしい」という単語は漢字にするとき「悲」と「哀」のふたつがありますが、
Coccoは全詞にわたって「悲」の方しか使用していないようですね。


(走る体、SATIE、けもの道、'T was on my Birthday night、海原の人魚、歌姫)

この単語が出てくる歌詞の前後を読んでいくと、
Coccoの「ロマンチックな嘘は好き、でも守れない約束は嫌い」という発言がよく分かります。
自分自身がつく嘘には非常に敏感なのですが、
愛する人につかれた嘘に対しては、それさえも愛しくてしかたないという風な想いが感じられます。

けれど、この「嘘」たちも最初はすべて「真実」だったはずです。
Coccoが愛した、Coccoを愛した人たちが、その時は真実の響きをもって伝えた「ずっと側にいる」という言葉を
Coccoは少し、憎んではいても嫌いにはなれないのだと思います。
だからきっとすべては最初から約束なんかじゃなくて、嘘だったんだ、
素敵な嘘だったんだ、と思い込もうとしているような気が私にはします。


(遺書。、濡れた揺籃、Again、水鏡、海原の人魚、珊瑚と花と)

いつもCoccoに付きまとう言葉って感じですね・・・
でも実は、それほど自分へ向けて使われてはいないんですよ。
「死」という単語は直接的すぎるので、そんなには使用されていないと予想はつきますが。
それにしても、この言葉のイメージがやたらに付いてまわるのは、
いつか人は死んでしまうということを常に意識しているかのような、そんな刹那な雰囲気が詞の端々に織り込まれているからなのでしょうか。
でもCoccoが「死」という言葉を使う瞬間、
それに呑み込まれないように全力疾走している姿が私には浮かびます。


(がじゅまるの樹、Rose letter、裸体、歌姫、Drive you crazy、荊)

「自分の中の"痛い"を出すために歌をうたってる」と言っていたCoccoですが、
直接「痛み」という言葉を歌の中ではあまり使用していないのが面白いですね。
一般的なCoccoのイメージ(さらにはファンの間でも)からしたら意外なんじゃないかなと思います。
Coccoが表現者として素晴らしいのは、複雑な内面をこういった言葉で片付けてしまわず、
どう痛いのか、どうして痛いのか、痛みの原因はなんなのか、と全てを細かく言葉にして歌っているからではないでしょうか。
(「もう歌自体がめっちゃ暴露本さ」というCoccoの発言も頷ける)

最近は"痛み"をうたう女性たちも増えていますが、そう言っているわりには
その痛みの内容にはあまり触れていなく(表現しきれていなく)
ただ痛い痛いと繰り返すばかりで、聴き手としては胸やけや消化不良になることが多いです。
一握りの成功した人たちは、きっとその痛みを外へひとつ残さずきれいに、丸ごと表現することができる強さや努力や才能があったのでしょう。


(やわらかな傷跡、夢路、けもの道、しなやかな腕の祈り、つめたい手、Drive you crazy、荊)

痛みのあるところには傷があります。
傷は傷でも精神的な傷、肉体的な傷、自分の傷、他人の傷、といろいろありますが
英訳詞を読んでみると、

scar=傷あと(を残す,が残る)、心の傷<やわらかな傷跡、Drive you crazy
wound=負傷、怪我、損害、苦痛、侮辱<夢路、けもの道、しなやかな腕の祈り、つめたい手

とわけられました(「荊」は英訳詞がないので分別不可能)
なんでもないことのようですが、これだけでも解釈や捉え方が違ってきて面白いです。
「やわらかな傷跡」はわかりやすいですが、「けもの道」は意外、というか痛そう(笑)
憎しみ具合がすごいなと(怪我をしたところに雨ふらせってとこが・・・)
内容的にも自分の傷が云々より、誰かやなにかが傷ついていたり(傷つけていたり)したことを書いてるのが多く、
個人的にはCoccoらしいなと感じました。



7(首。、ベビーベッド、星の生まれる日。、寓話。、熟れた罪、かがり火、風化風葬)

破壊衝動にかられている自己像を表現してる方って、多いと思うんです。
とくに女性シンガー(ヒステリーなどの女性特有の事情のせいでしょうか)
Coccoの場合も刹那主義なところがあるので、自ら
いつかこの幸福を失ってしまうのなら、今、幸せな気持ちまま時を止めるように壊してしまおう
という考えで、この「壊す」という行為を詞の上でもよく行っていそうですが、
数えてみればそれほど多くはありませんでした。
それに、この言葉が使われている詞を読んでいくと、自ら壊すというよりも
いつのまにか壊れて(壊して)いた、ということの方が多いように感じます。
それどころか、愛する人に壊してもらうことを望んでいる様なふうにも。
よくよく考えてみると、Coccoの詞の中に存在する「喪失感」って自分から手放したり、壊してしまったものの不在ではなくて
気が付けば遠くへ行ってしまっていたり、失っていたものたちの不在、の方が当てはまっていることのが多いように思います。
Coccoがいつも『置き去り』にされるような恐怖感を覚えていたのは、なんとなくそういうことなのかなと思いました。


(カウントダウン、晴れすぎた空、SATIE、樹海の糸、寓話。Why do I love you、美しき日々)

使われている歌を上げてみると、歌の内容やメロディがそんなに激しいものではないのに
使われているという歌が多くて意外でした。
「殺す」という言葉から連想する感情は「憎しみ」や「怒り」ですが
この言葉が登場する歌はどちらかというと「飽和した哀しみ」を漂わせる歌の方が多い気がします。

歌詞全体から見ると、浮いているような印象を初めは受けがちですが
味わってみると「殺す」という殺傷力の高い言葉が
ぼんやりとした曖昧な空間にはっきりとした切り込みを入れているような良いアクセントに見えてきて不思議です。


6〜7つの間の言葉たちは、
Coccoという歌い手のイメージを言葉にすると?という質問でもすれば
多くの人が選びそうなものばかりだなと個人的に思いました。
実際はそれほど多く使われているわけでもないのに、そう感じるのは
雑誌でのレビューや歌の内容からのイメージが、Cocco自身の言葉より強く付いてまわってるせいなのでしょうか。



8(Rain man、あなたへの月、けもの道、海原の人魚、星に願いを、珊瑚と花と、コーラルリーフ、もくまおう)

「月」は、Coccoの中では一体どのような存在だったのでしょう。
一般的に詞の中で用いられるときは自身の分身(=闇のなかの孤独な自分)としてが多いと思いますが
どちらかというと「やさしくおだやかなもの」としての使われていることが多い気がします。
「あなたへの月」は読んでのとおり「月=私」というテーマでの歌詞ですが、
他の歌では、闇夜を照らす甘い(たとえば母親みたいな)存在として登場している。

だから、「Rain man」では子供達は月に向かって泣き、
「けもの道」では牙を与え凶暴にし、
「星に願いを」では衝動的な願いのために空から落としている。
根本に「やさしい存在」という捉え方がないと、こんな風には表現しないんじゃないかなと思います。

Coccoのなかでは、許しを与える母や神聖な神様のようなものとして
「月」は心を支えたり、ときには残酷に突き放していたりしていたのでは、と感じました。

ちなみに対としての『太陽』も言葉は違えど、丁度8つあります。

●太陽/やわらかな傷跡、Raining、ねないこだれだ、珊瑚と花と(ひかり)
●お陽様/濡れた揺籃
●お日様/しなやかな腕の祈り
●朝陽/強く儚い者たち、あなたへの月(ひかり)

やはり、こちらの方も「母性」のような心安らぐものとは違いますが、Coccoの中で「絶対的な存在」としてあったように思います。
同じように、まるで自分を追いつめるような、強く胸を焦がすような。


(SATIE、ウナイ、雲路の果て、けもの道、'T was on my Birthday night、かがり火、もくまおう、アネモネ)

「闇」と似たいような意味合いなのだろうかと思っていたら、心を休める静寂という登場の仕方ではなく
"忘れがたい想い出がつまっている存在"として、この言葉が出てきているように思います。
それは悲しかったり、幸せなものだったりと様々ですが
すべての「夜」にはなにかしらの出来事があり、たとえば『眠れぬ夜を過ごす』というような
安易に孤独を表すためだけに、歌詞の中で使われていることはないと感じました。

この「夜」に秘められた物語を歌から想像してみるのも、また違った楽しみ方だと思います。



9朝<夜明け、夜が明ける
(Rain man、ベビーベッド、がじゅまるの樹、あなたへの月、ポロメリア、海原の人魚、コーラルリーフ、もくまおう、荊)


夜といえば朝。
消せない想い出がつまっているのが夜ならば、朝はCoccoにとって何なのだろう考えてみると
「すべてをふり出しに戻し、真新にしてくれるもの」という風に感じました。
想い出すには辛すぎる夜の記憶から解放され、朝の光の中でまた立ち上がれると信じているような。

そんな見えない不思議な力を秘めている「朝」には
物事を悪い方にも動かしてしまうような恐ろしい力もあるように思います。
けれど、それは朝自体にではなく、朝に刺激されたCoccoの感情が起こしているもののように受け止められます。
つまり破滅を用意しておくのも、立ち上がる力を持つことができたのも、自分次第という。

そういえばこの手の女性シンガーって「夜」を愛している人が多いですよね。
陽の光よりも夜の暗闇のほうが落ち着く、というような。
私は詞を読むかぎり、Coccoは朝の方が好きなんじゃないかなと思いました。あくまで個人的にですが。

こうやって考えると、Coccoって「情念系シンガー」の条件にあまり当てはまらないことの方が多い気がします。


(Way Out、眠れる森の王子様、My Dear Pig、Raining、寓話。、かがり火、つめたい手、Why do I love you、歌姫)

「Raining」の一節のためか、自身の自傷行為のためか、
Coccoの歌というと「なんか殺すとか血とかばっかりで物騒」というのが一般的イメージだそうでちょっと悔しい。
でも全66曲中(ベストに収録されている未発表曲まで)9つだけなら少ない方じゃないですか?

歌詞の中での違いといえば(個人の判断でですが))「体外にある」血は
「眠れる〜」、「Raining」、「寓話。」、「かがり火」の4曲で
「体内にある」血は「Way Out」、「つめたい手」「Why do I love you」「歌姫」、の4曲。
残りの「My Dear Pig」は他人(他豚?)の血。

さらに細かく分類すると「自ら体外に流した」であろう血は「Raining」と「かがり火」のたった2曲。
「自ら体内にある血を体外へ流そうとしている」歌詞は「Way Out」の1曲。
Coccoの代名詞としてある自傷に関連している血は、結局は3曲のみ。
(例外として「血」という言葉を使わずに自傷行為を表すフレーズがある「荊」もありますが)
まあこれもこじ付けているような気がしないでもないのですけれど、
自傷での血よりも、体の中で滾る血や他者(物)に傷つけられ流した血の存在の方が多いように感じます。



10
(裸体、ポロメリア、けもの道、海原の人魚、つめたい手、珊瑚と花と、Why do I love you、美しき日々、風化風葬、靴下の秘密)


言葉自体はやさしい響きだけど、過激な曲や穏やかな曲、どちらにも使われています。
個々の歌詞のテーマや世界観は違うものなので、共通点があるものかと悩みましたが
もしかしたら花という言葉には、心を落ち着かせるもの(安定)という意味があるのではとふと思いました。

また安定と意味は似ていますが「豊かさ」という意識もあったのではないかと。
花自体、国や社会、家庭や環境が豊かでないと、咲かない・咲けないものですし、人は育てたり購入したりすることはないと思うので
花は「家族のいる幸せな風景」の象徴、つまり満ちる愛の証であり
そして「裕福」という利益や富の象徴、の二つの顔を持っているものだったのではないでしょうか。
(花が利益や富の象徴として登場する歌詞は「珊瑚と花と」のみのような気がしないでもないですけれど)

Coccoの薔薇好きは有名ですが、お母さんから引き継がれたような、花を愛する想いがいつもあったように思います。
「前に住んでいた家でママがブーゲンビリアを育てていた」とか「炊飯器より花を」とか。
いつも最も身近にあった安らぎだったのかも知れませんね。
だからなのか、悲しい運命を辿っている花が歌詞に登場すると、一変にその空気が寂しいものになっている気がします。

ちなみに歌詞の中に登場する花(と花言葉)は以下。

薔薇/愛、情熱
ブーゲンビリア/情熱、私はあなたを信じます
葵/信じる心
緋寒桜/優れた美人、精神美
夕顔/儚い恋、罪
デイゴ/夢、童心
ポロメリア(プルメリア)/恵まれた人、内気な乙女
紫陽花/忍耐強い愛、ひたむきな愛
薊/独立、復讐
赤花(ハイビスカス)/常に新しい美、私はあなたを信じます


*補足
花言葉はまったく印象の違う言葉が混在していたり、また数が多いため、歌にあった言葉を選ばせて頂きました。
「赤花」は「椿」や「アザレア」の呼び名でもありますが
沖縄ではハイビスカスを「赤花」と呼ぶこともあるらしいので、恐らくこちらのことではと。







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