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「先輩?」
「……!」
しばらく無意識に呆けていた。急に声をかけられて驚き、目を見開く。
振り向くと、後輩の三木ヱ門が心配そうにこちらをうかがっていた。
「先輩、だいぶお疲れのようですが大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。平気だ」
会計委員会は、一週間ほど前から予算会議の準備に忙しい。ここ3日は徹夜続きだ。
1年・3年の後輩はそろそろ限界だが、4年の三木ヱ門はまだギリギリ余裕がある。
しかし、6年で委員長の文次郎は、ここ数日様子がおかしい。
居眠りをする後輩を一喝することもなく、ソロバン持ってマラソンさせるわけでもなく、ただ黙々と自分の前に積まれた帳簿の山を片づけている。
それは、落ち着いて集中しているというよりも、他のことをする余裕がないように見えた。何かを振り払うように、一心不乱、機械的な計算を続ける。
本人が大丈夫だと言っても、三木ヱ門は素直に納得できない。
目の下の隈はとても濃い。文次郎はいつから寝てないのだろう。
「本当に大丈夫ですか。無理しないでくださいね」
三木ヱ門は念を押すが、生返事をする文次郎には、どれほどの効果もないだろう。
三木ヱ門が困りきってため息をつこうとした時、「あの…」と小さな声が聞こえた。
声の主は左吉だった。自分の分の確認をしていたのだろう、文次郎が目を通した後の帳簿を持っている。
「どうした左吉」
「せ、先輩…ここ…見てください」
「んん? それは俺がさっき見ていたものだが」
「……ま、間違ってる ような気がします」
左吉の顔面は蒼白で、文次郎を見上げた目は不安げに揺れていた。
「え、」
そんな馬鹿な。三木ヱ門が思わずの声をあげる。文次郎は帳簿のその箇所を睨んでいた。そして、ポツリと、
「本当だ…」
自分の過失を認めてしまったものだから、その場にいた会計委員に衝撃が走った。
「潮江先輩が!?」
「計算ミス…!?」
「ぼ、僕は見ていない、僕は見ていない、僕は見ていない…!!」
天変地異でも起こりそうなほど動揺している後輩たち。三木ヱ門はまだかろうじて正気だったが、動揺は激しい。
学園一ギンギンに忍者しているといわれる潮江文次郎。会計委員長を立派に務め、乱闘騒ぎの予算会議ではひとり大勢の委員長と渡り歩く。
そんな彼が初歩的な計算ミスをおかすなんてことは、よっぽどのことなのだ。やはり、文次郎には休養が必要だと思い、三木ヱ門はそれを進言しようとした。
すると、文次郎はすっくと立ち上がり、会計委員を見回して告げた。
「あー、すまん。委員長が計算間違いをするなんて、情けないな。今日はこれで終わろう。続きは後日にする。各自寝ろ」
文次郎の告知に皆は戸惑った。
「あの、寝るのは池で…ですか?」
おそるおそる団蔵が尋ねる。文次郎は苦笑して、「安心しろ。各自、自室でだ」と訂正した。
「「……やったー!」」
そこでやっと、団蔵と左吉は苦しみから解放されることを素直に喜んだ。
左門はすでに、電池が切れたようにその場で寝ていた。三木ヱ門はやれやれと思った。
左門の腕を取り、肩を貸してよっこいしょと体を起こさせる。
「では私は、こいつを送っていきます」
机の上を片づけている文次郎に、三木ヱ門が声をかける。
「おお、頼む。寝ぼけたまま迷子になったら学園を出かねないしな」
「はい。先輩も、お疲れでしたらゆっくり休んでください。あまり根を詰めないでくださいね」
「ああ、わかった」
「では、失礼します」
パタン
「……」
そして文次郎ひとりになった。先ほどまであれほど騒がしかったのに、しんと静まりかえった部屋の中。
目をつぶり、ぼそりと低く呟く。
「頭では、わかってるんだ……ああ、畜生」
――何かをしていないと。気を紛らわさないと。(思い出してしまう。)
頭巾をぐしゃりと掴み、乱暴に剥ぐ。
衝動的に部屋を出て、そのまま外へ走った。鍛錬へ。
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文次郎の行き過ぎた行動を、文次郎の友人であり、保健委員長でもある伊作は黙ってなかった。
しかし、
「眠れないなら、安眠できる薬を作るから…」
伊作の何気ない一言に、文次郎の態度が一変して厳しいものになる。
「いちいち、余計な世話を焼くなっつってんだろ!?うざってぇ!」
伊作が表情をこわばらせて絶句する。文次郎がそこまで怒るとは思わなかった。
ごめん、と小さく伊作が言う。文次郎はそれを聞かなかったふりをして歩き出そうとした。
「待てよオイ」
それを、文次郎の肩をグイと掴み、その足を引き止めたのは留三郎だった。
振り向かされた文次郎が、留三郎を睨み返す。
「なんだ」
「お前、何にイラついてるか知らねぇが、伊作に八つ当たりしてんじゃねぇよ」
「留、いいって」 伊作がとめにはいるが、留三郎はやめなかった。「伊作はお前を心配してるんだぞ」
そんなことは、文次郎だってちゃんとわかっている。言い過ぎたこともすでに罪悪感があった。
しかし、留三郎に指摘されて素直に謝る文次郎ではなかった。むしろ火に油だった。
肩を掴む留三郎の手を乱暴に払い、けんか腰に留三郎と対峙する。
「何度も言わすな、それが余計だと言ってんだ、放っておけばいいものを。俺がそうしてほしいと、いつ頼んだ?頼んでないだろ!」
(俺は、拒んだんだ。必死で、その手を振り払った。なのに、)
思い出したくない記憶が頭をかすめて、文次郎が歯をぎりりと鳴らす。
まったくもって八つ当たりだった。今目の前にいる2人には、何の咎もない。わかっているのに、文次郎には落ち着く余裕すらなかった。
「自分のことは自分で責任を持つ。もう二度と他人の厄介にならねぇ!」
吐き捨てるようにそう言うと、踵を返してその場を去った。
「なんだよ、あいつは」
納得できない留三郎が忌々しそうに呟く。
対して、伊作は眉をひそめて思案していた。
「もう二度とって…。文次郎、やっぱり何かあったんだよ」
「……」
伊作の言葉に、引っかかるものがあるのか、留三郎もやや考える顔をした。
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留三郎がひとり、渡り廊下を歩いている。
文次郎がおかしくなったのは特に最近だが、微弱な変化があったのは「あの」朝の日からだ。
直接見たわけではないが、あの日文次郎は単身でどこかを目指したが、途中で何かに関わり、最終的に長次に連れられて翌朝学園に戻ってきたそうだ。
小平太に聞いてみたら、あの日の宵、団蔵が「先輩が危ない」と助けを求めてきて、長次が救出に向かったという。
やはり、原因を知っているのは長次なのだろう。問題を解決するには、寡黙な彼から話を聞かねばなるまい。
(俺、あいつのこと苦手なんだがな…)
図書室の前に着き、足を止める。留三郎はやや人見知りをするので、あまり話をしない人物との交流は気が重かった。
(でも、まあ、喧嘩するわけじゃないんだから、大丈夫だろう)
意を決し、留三郎はガラリと戸を開けた。
図書室に人の姿はなく、しんと静まりかえっていた。あるのは棚にびっしりと連なる、膨大な量の本ばかり。
ずかずかと中に入りながら、留三郎はその人を呼んだ。
「おい、中在家はいるか?中在――」
ヒュッ ザクッ!
「……け。」
留三郎の目線が、自分の真横の柱に突き刺さった縄標に向かった。体は中途半端なポーズで固まっている。
縄標の縄の先には、探していた人物がいた。しかし、表情は通常より三割り増しほど険しい。
「……」
長次がゆっくりと指さした先には、『図書室では静かに』の張り紙が貼られていた。
「わ、悪かった…よ…」
留三郎は素直に謝った。こいつもずいぶん機嫌が悪そうだ。
「今、少し時間いいか」
「……ああ」
単刀直入に聞く。
「お前、一週間前に潮江を助けたらしいな」
「……」
「その時のことを詳しく聞いてもいいか」
長次は無言だった。これは、拒絶の黙秘だろうか。
留三郎は動機を話した。
「あいつ、最近なんか変なんだよ。誰に対してもトゲトゲしいし、すげぇ機嫌悪い。怒鳴られた伊作はふさぎ込んじまうし…」
「……知っている」
長次がうつむき加減でぼそりと返事をした。どうやら承知しているようだ。
「それで、七松とかに聞いたらお前の名が出たんでな、ここへ尋ねた。お前は、原因が何か知ってるか」
「……」
「団蔵は山賊が敵だと言ったそうだが、潮江を襲ったのはもしかしてドクタケの輩だったんじゃないか?」
「……」
「いや、その日の朝に偶然あいつと会って、それで思っただけなんだが。けど、そうだったとしても、ドクタケに潮江がやられるとは思えん」
点と点が線で繋がらない。
「やっぱり部外者じゃ原因がさっぱりだ。中在家、お前はどうなんだよ。何を知っている? 話せることはあるか?」
長い沈黙と、なぜか重たい空気。留三郎は居心地の悪さを感じながらも、長次の返事を待った。
「……関係ない」
長次の言葉に、留三郎が目を丸くする。
「あの日のことは、話せない」
「それは、俺が部外者だからか?」
「……違う」
長次は頭を振って、留三郎から目をそらせた。
「原因は……全部、俺だから」
「お前が?」
留三郎が驚いた声を出した。意外な答えが出てきた。
文次郎の原因不明の不機嫌が、これまた原因不明に不機嫌な長次のせいだと言う。しかし、これでは経緯がまったくわからない。
「喧嘩でもしたのか」
「……それに、近いことだ……無体を強いた」
「お前がか。珍しいな」
長次が文次郎に何をしたのか、留三郎が知るよしもなかったが、深く追求はしなかった。
長次の表情があまりにも陰鬱で、事態は深刻なものだと感じたからだ。
「よくわからないが、潮江はそれで怒ってんのか」
留三郎に聞かれ、長次はこくりと頷いた。
「それで、お前は謝ったのか」
長次は少し間をおいてから、首を横に振った。
「謝ろうと、近づいても、避けられた、から…」
図書室にもこの一週間一度も訪れていない。
おかげで延滞している本が何冊もある。それの取り立てもしなければいけないのに、長次は何も行動に移せなかった。
「避けられたから、自分も距離をおいたってことか」
「……」
「お前、それじゃ何の解決にもならないだろうに」
留三郎が腰を下ろして、長次と目線を合わせた。
「多分、謝りたいってお前の気持ち、潮江に届いてないぞ。そこからが問題だと思うがな」
「……」
「無理やりにでも近づいて、謝れ。まずはそっからだ」
「……それでも」
「ん?」
「それでも、許してもらえなかったら」
「お前、一体どんなことをしたんだよ… いや、言いたくないならいいけど」
留三郎が一呼吸置いてから、話を続けた。
「許してもらえなくてもだ。悪かったと思ってるなら、とにかく謝れ。伝えることが先だ。それでダメなら、その時に次を考えりゃいい。余計なこと考えてうだうだするより、自分の一番したいことするのが最善だと思うぞ、俺は」
「……」
「ひとりで悩んでんなよ。何かあったら誰かに相談しろ。伊作とかさ、聞き上手だから…あー、お前に聞き上手はあんま効果ないか」
留三郎はそこで話を終わらせた。立ち上がりながら「俺も力になるからよ」と一言、そのまま図書室を出ようとする。
「食満、留三郎…」
長次に呼び止められた。
「ん?」
留三郎が振り返ると、そこにはいつもの無表情の長次がいた。
「……ありがとう。助言してくれて」
留三郎がぽかんとした後、なんだか頬を染めながらも、にっと笑った。なんだ、思ったより全然いいやつだった。
「留三郎でいいぞ。俺も長次って呼ぶし」
「……留三郎」
「おう。またな、長次」
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