彼のことは以前から知っていた。
あれは初夏だったか、父上に用事があって忍術学園に訪れた。
正門で事務員の小松田くんに提示された入門票にサインしていると、噂を聞きつけた乱太郎たち3人組がやってくる。
山田先生は上級生の授業中です。
そうなの?じゃあ、授業場所はわかるかな?
利吉は忍務をひとつかかえていた。あまり長居はできない。母上の伝言ひとつ、授業が終了したら一言伝えればいい。
3人組はこっちですと校庭の方に案内してくれる。途中ひっついてきたしんべヱの鼻水が服について苦笑いする。
グランドには父と、深緑の装束を着た生徒達がいた。
あの色は6年生。最上級生――忍術学園で一番プロに近い場所にいる生徒達だ。
とはいっても、授業内容はレクリエーションのようなものだった。おおかた余った時間の穴埋めだろう。
生徒1人を手本に選び、何かの型を全員に説明している父。表情は厳しく教師そのものだ。
よし文次郎、今のを通してやってみろ。
手本の生徒に促す。文次郎と呼ばれた生徒がその通りにした。
すっと構え、教わったばかりの型を一筋も間違えず反復する。
無駄のない、綺麗な身のこなし。父が彼を手本に指名したのも頷ける。優秀な生徒らしい。
さっすが潮江先輩。学園一ギンギンに忍者してるだけあるね。すごーい!
乱太郎たちが口々に言った。
「文次郎」「潮江先輩」
……潮江文次郎、か。
利吉は生徒の中に戻る文次郎をじっと見ていた。
(それがはじまり。)
キィンッ
「魔界之小路、その子をこっちに渡してもらおうか」
「ほぅ…これはこれは、意外なのが助けに来たね」
「もうしゃべるな。今からお前がすることは、その子をおいてここから去ることだけだ」
「ずいぶん手厳しいじゃないか。何をあせっている?山田利吉」
利吉の握る棒手裏剣は、その切っ先を一寸違わず魔界之に狙いを定めている。
魔界之はいたって無防備だが、傍らには文次郎を抱えている。
文次郎はかろうじて意識があるかないかの状態。うつろな目を苦しげに細めている。
「文次郎くん」
利吉の呼びかけに、文次郎の肩がぴくりと反応する。
「動けるなら、こっちへ」
文次郎がふらりと動いた。
魔界之はそれを大人しく見送る。
人気のない山間の谷川。静かな沢縁に、利吉は肩を貸した文次郎をゆっくり下ろした。
「平気?」
「はい」
横に流れる河川は大きい。向こう岸に行けば帰り道は短縮されるが、見通しの悪い夜に川を渡るのは不可能だ。
目の前の流れは比較的穏やかだが、先の急流からの激しい音が谷間に反響して響く。
水面に浮かぶ月は本物以上におぼろげで、波紋が立てばあっけなく形を崩す。
利吉は浅瀬から手で水を汲み、清い水かどうか、口に含んで確かめた。
「うん、大丈夫。ここで足の傷を洗って」
文次郎が立ち上がろうとして、足下の大きな石に滑る。
こけそうになって、利吉がそれを腕で制した。
川の沿岸には丸いが不安定な石がごろごろしている。
「気をつけて」
「すいませ…」
文次郎が眉を寄せて、申し訳なさそうな、悔しそうな顔をした。
利吉の腕に文次郎の手がかかる。
「利吉さん…大丈夫です。腕を離してください」
肩を押しのける手、小刻みに震えている。
利吉はさっきから不審に思っていたが、文次郎は常と違ってひどく弱っている。
「なんで、あなたがあそこに…?」
小さく文次郎が尋ねる。
魔界之にとっても文次郎にとっても、助けに利吉が来たことは予想もしなかった。
もっとも、利吉にとってもこんな成り行きになるとは思わなかったが。
「団蔵くんに学園で偶然会って、君が山賊に捕まったって聞いたんだ」
助けを呼びに帰ってきたのに、運悪く誰にも会えなかったのだろうか。団蔵はせっぱ詰まった様子で利吉に泣きすがってきた。
「そうでしたか、すいません…」
文次郎が謝罪する。
「利吉さんには関係ないのに、巻き込んでしまって」
文次郎が顔をあげて、ぎこちなく笑った。
「助けにきてくれて、ありがとうございました。俺はもう大丈夫です」
ドボン
文次郎はすっくと立ち上がると、大股で川に入った。
目を丸くする利吉に、ぴぴっと水飛沫がかかる。
「……文次郎くん!?」
利吉があわてて止めに入る。
自らも川に入り、先へ先へと進む(おそらく向こう岸に渡るつもりの)文次郎を追いかける。
腕を捕まえた時、2人の足は付け根まで水に浸かっていた。
川の流れを肌身で感じる。
「待ちなさい!なに、何してるんだ、君は」
「俺、一人で帰れます」
動揺する利吉の声より、文次郎の声は意志が強く聞こえた。
「利吉さんはもう学園に用はないんでしょう?だったらここで別れましょう」
「無茶を言うんじゃない。向こう岸まではもっと深くなってるんだ。舟でもなかったらとうてい渡れない」
「泳ぎます」
文次郎が何でもないように言った。
さすがは忍術学園一ギンギンに忍者してる地獄の会計委員長…というべきか、その無謀さに素直にあきれるべきか、利吉は迷う。
絶句する利吉から目をそらして、文次郎は下方に顔をうつむかせた。
足から丸く広がる波紋。遠くになるにつれ、川の流れに負けて徐々に消えていく。
「文次郎くん」
さらに歩み進もうとした文次郎の腕を、利吉がぐっと掴んで引き止める。
心配そうな瞳が文次郎を見据える。
「何か隠しているね」
「か、隠してません」
「魔界之に、何かをされたんじゃないかい」
「違います!」
「ねぇ、何がどうしたの?私でよかったら…、」
利吉の言葉が不自然に途切れる。
文次郎の首筋に赤い鬱血を見て、何を言うか忘れたのだ。
文次郎はそれに気付いていない。
「勝手言ってすいません…でも、俺、行きます。大丈夫です」
「……」
川の水は冷たいのに、利吉が掴んでいる文次郎の腕は熱い。
よくよく見れば、文次郎は呼吸が荒いのを自力で抑えているようで。
(……)
外傷の症状ではないと思った。
薬で自由を奪うことなんて、闇家業では常用手段だ。あり得ると。
文次郎がその手のものを投与された可能性もとうに疑っていた。
なぜそうも必死になって隠し通そうとするのか、利吉にはそれがわからなかったのだが。
わかったような気がして、同時、ひどく鋭いショックを受けた。
グイッ
「!?」
利吉が文次郎の腕を引っぱって、元の岸に戻ろうとする。
今までとはうってかわって強い力。たじろぐ文次郎は反応が遅れた。
「利吉、さ」
ドサッ
波打ち際にまだ足が入った状態で、文次郎は利吉にすんなり押し倒された。
ごつごつとした石が背中に違和感を与える。
文次郎はわけがわからなくて、ただ困惑した顔で利吉を見上げた。
「利吉さん?」
「薬を飲まされて、こういうことをされたの」
「え…」
「首の痕は魔界之のでしょ?」
「……!」
気付いた文次郎がばっとその部位を手で隠した。
そんなことをしても何が変わるというわけではないのに、文次郎はまだシラを切ろうとする。
「違う。お、俺は平気です。何ともない」
「…だけど、」
「じゃあ、泳いで渡るのはやめます。しばらく休んだら、一人で学園に帰ります。だから…」
急に、文次郎の顔がくしゃっと歪んだ。
今にも泣きそうな、苦痛に耐える表情で、文次郎は少し声を荒げた。
「もう行ってください」
急に弱々しくなる文次郎の小さな声。涙声。
「お願いです。こんな俺、もう見ないでください…」
「……」
ちゃぷちゃぷ 浅瀬に満ち引きする小さな波の音。
「私は帰らないよ」
「え……」
文次郎の涙ぐんだ目に映ったのは、利吉の端整な細面。でも、どこか苦しげでもある。
「こんな風になってる君をそのまま学園に帰す気もない」
利吉は、仰向けの文次郎に改めて覆い被さり、
これから抵抗されることを見越して、文次郎の手をひとまとめに頭の上で固定した。
「あっ!? 何を…」
服の合わせ目から利吉の手がすっと差し込まれる。下腹部から下着をまくられ、直接肌に触れられた。
利吉の掌のひやりとした感触に、文次郎の体がびくんとはねる。
「や、やめてください!!俺、いま、体が変なんです…!」
文次郎が血相変えて利吉に訴えた。白状した。
ああ、そうだ。自分は今おかしくなっている。魔界之に飲まされた変な薬のせいで。
体が熱くて、特に下半身が熱くて、平気なフリをするのもいっぱいいっぱいで、正直、目上の利吉と接するのはきつかった。
川に入ればいくぶん冷めてくれた自分の体に安心した。本当に泳いで向こうへ渡れば万事解決しそうだと思った。
なのに、利吉に岸へ連れ戻されて、押し倒されて、暴かれるようなことをされて。
文次郎は心身共に追いつめられて、とても辛かった。また泣きそうになる。
(どうしてこんなことをするのだろう。俺のことが嫌いなのだろうか。だから、こんなに、俺が惨めになることをするのか。きっとそうなのだ。)
とうとう、ぼろぼろと、文次郎の目から涙がこぼれる。
「うっ…く、…」
目の下の深い隈が濡れそぼつのを、利吉は上から静かに見ている。
文次郎にとって利吉は憧れの人だった。
恩師の息子で、自分とそうたいして年が離れていないのに、立派にプロの忍者として独立している。
売れっ子のフリーということは、そこいらの城勤めより実力が高く評価されている証だ。
初めて素性を知った時は、嫉妬するよりも、対抗心を燃やすよりも、ただただ詠嘆した。
忍者としての才能にあふれ、それなのに高慢な態度はひとつもなく、誰にでも好かれる容姿と内面を持つ彼を、尊敬した。
なのに、自分は軽蔑された。そう思うと、どうしようもないほど悲しくなる。
そっと、
濡れた隈に小さな感触。利吉が指で文次郎の目尻と頬に触れてきた。
玉になっていた涙の粒がつるりとすくいとられる。
「だったら、私が助けてあげる」
利吉が言う。文次郎がゆっくりと目を開ける。
利吉は文次郎の涙で濡れた指先を、己の唇に持っていって、ぺろ…と舌を出して舐めた。
月明かりの下、どこか雰囲気の変わった利吉の妖艶な姿に、文次郎は驚き言葉を失う。
利吉はそんな文次郎を見下ろして、もう一度口を開いた。
「私が君をどうにかしてあげる」
利吉の頭が文次郎の横に降りる。
ちゅ 首筋に唇を押し当てられる。ちょうど鬱血があった場所だ。その痕を、上塗りされる。
「ひっ! いぅ…」
首の薄い皮膚を強く吸われて、文次郎がついか細い声をあげる。
あごにあたる利吉の髪。淡い感触が皮膚をくすぐる。ぞくりぞくりと体が勝手に反応する。
利吉が唇を離せば、そこには少し唾液に濡れている、さらに濃い赤に染まった痕が現れた。それはとても扇情的だった。
「利吉さん…いやだ…」
戸惑う声で、文次郎が利吉を止めた。怯えた目で利吉を見上げている。
「こんなの…本当に、いやなんです。俺、ほんとうなんです…し、信じて…」
あからさまに震える肩。
呼吸は荒く、熱く湿っている。
もっと明かりがあれば、彼の顔が上気しているのがわかるだろうに。
それでもまだ、この期に及んで。嘘――ではないだろうが、それに近いことをしている。
同じ男だ。プライドが許さないという気持ちはわかる。けれど、欲情する体を否定して、無理やりに抑えてしまうのは逆効果だ。
利吉は文次郎の両手を掴んでいる手の力を少し抜いた。
代わりにゆるい力できゅっと握ってやる。
「力を抜いて…大丈夫、君は悪くない」
「……うっ」
「私が自分勝手に、君を助けたいと思ってるだけなんだ。ごめんね」
利吉はどこまでも優しく、なだめるように文次郎に接する。
困惑しきった文次郎は抵抗することさえ躊躇した。
どうすればいいのか、どうなってはいけないのか、いつものように即座に考えられない。
忍者にとって迷うことは三病なのに。いたたまれない。文次郎はどこまでも自分を恥じた。
利吉に握られている、指先の震えが止まらない。