――その時だった。
「お取り込み中のところ申し訳ありませんが、お邪魔してよろしいでしょうか」
いずこからの声。すとんと地面に片膝をついて着地したのは、銀鼠の栗毛を高く結わえ、紫紺の忍装束を着た細身の少年だった。
その声色も内容も、その場にそぐわないとぼけたもので。魔界之も文次郎も、一瞬ぽかんと動きを止めてしまった。
「やあ、可愛らしい子が来たねぇ。くの一?」
喜んだ声をあげて迎え入れたのは魔界之である。濃い闇の中、魔界之には少年の繊細な顔立ちが見えているようだ。
「残念ながら、男です。忍術学園4年い組の綾部喜八郎と言います。はじめまして」
「はじめまして」
「いきなりで申し訳ありませんが、今からそこから一歩も動かないでください」
「ん?」
「ここいら一帯に、トラップを仕掛けさせてもらいました。あなたは何重にも包囲されています。少しでも不審な行動をすれば、命の保障はありません」
魔界之の体がぴくりと揺れ、そこから一切の動きを止めた。
神経をとぎすませれば感じる、細い糸や隠し潜ませた凶器。綾部の言葉は嘘の脅しなどではないとわかる。
「なお、私への直接攻撃もおすすめしません。指一本で反撃と学園に救援を求める手はずも整っていますので」
周到で念入りな工作に感心したのか、魔界之はフッと思わず笑った。
「やっぱり小さい子を見逃したのはまずかったねぇ」
小さい子というのは団蔵のことだろう。
「今なら逃がしてあげます。だから、そこの先輩を解放してください」
綾部は聞く耳を持たない。淡々と自分の要求を述べるだけだ。
魔界之も、まずったと言う割には、それほど困ったようには見えない。
実際、どうにかしようと思えばどうにでもなるのだろう。しかし魔界之にはそこまでする理由がなかった。
「忍術学園とのか細いながらも確かな友好の糸を切らせたくないのならば、私の言うことに従ってくれますね」
「うん、もちろん。でも、ちょっとからかっただけなんだから、そんなに怒らなくてもいいんじゃないかな」
「怒る…?」
綾部は眉をひそめて、不可思議なことを言う魔界之をいぶかしんだ。
「僕は、怒ってなどいません」
「じゃあ、その殺気は無自覚なんだ」
「……」
「掴み所がないけれど、君は意外にわかりやすいタイプだね」
「知りません。無駄口を叩いてないで、すぐにここから立ち退いてください」
綾部が片手をあげ、トラップを発動しようとする素振りを見せる。
「残念。じゃあ…また今度ね」
魔界之が腕に抱いている文次郎に囁いたかと思うと、彼の額に軽く唇を落とす。
「ッ…!」
文次郎は苦い顔をしたが、朦朧とした状態でそれを受け入れてしまう。
「……」
綾部はその様子をじいと見つめる。
魔界之は文次郎から身を離すと、その場から姿を消して去った。
気配は消え、森は静寂している。罠にかかった手応えもない。
綾部はやや表情を曇らせたが、すぐ元の調子に戻ると、ひょいひょいとした足取りで文次郎のそばに歩み寄った。
「大丈夫ですか、文次郎先輩」
綾部はしゃがみ込んで、文次郎の顔色と具合をうかがう。
「お前は…」
綾部の方を見た文次郎の顔色は、暗闇の中、青いようにも赤いようにも見えた。呼吸は荒く、具合は芳しくなさそうだ。
「たしか、仙蔵(作法)んとこの」
「ええ。綾部喜八郎です。ひょんなことで先輩を助けにきました」
「そうか……すまなかったな、お前と俺はほとんど関わりがないのに、わざわざ」
「いいえ。後輩が先輩のサポートをするのは当たり前ですし、委員長からあなたのことはかねがね聞いています」
「仙蔵からか。どうせロクなことじゃねぇだろう」
「ええ、まぁ」
綾部は曖昧に答えたが、否定はしなかった。
「それに、結構僕は文次郎先輩のことを知っていますよ」
「ん?」
「いえ。先輩は学園でも有名な生徒ですし、知らない人なんていませんね」
綾部ははぐらかすように言葉を付け足してそう答えた。
それから、文次郎の負傷している片足に目をやった。
「傷の手当てをしましょう」
「いや、していらん。こんなもの」
文次郎は断ったが、綾部は構わず、懐から携帯薬と竹筒を取り出した。
「そのままじゃ走れないでしょう。追っ手が来ると厄介です。なにより、膿みでもしたら大変だ」
単なる山賊にやられたらしいから、大丈夫だと思うが、毒が塗ってある可能性も否定できない。
「早急な対処が肝心です」
「い、いいって。やるなら自分でやる」
「エンリョしないでください」
綾部は文次郎の抵抗にかまわず、持っていた手ぬぐいを破って包帯代わりを作った。
余った布に竹筒からの水を垂らし、濡れた布で傷口の泥をぬぐう。
黒く固まっていた血がじわりとふたたび滲み出す。
「ッ…」
文次郎がやや身じろいだ。痛みからではなく、撫でるような優しい手つきにぞくりと身を震わせたのだ。
呼吸が乱れそうになるのを押し殺して、何でもないふりをするのが精一杯だった。
「薬もまだ余っています。他にケガしているところはありませんか」
傷に塗り薬をつけ、包帯を巻き終わった綾部が、顔を上げて文次郎に尋ねる。
「いや、ない。大丈夫だ」
「……」
綾部は文次郎をじっと見てくる。文次郎は何となく後ろめたくて、眉をハの字にして目をそらした。
綾部は特に何を思っているわけではなさそうだが。
「では、ここから立ち去りましょうか。あまり悠長にしていると、本当に追っ手が――」
その時、微かな地響きと、人の悲鳴が聞こえた。
「何だ」
「どなたかが僕の罠にかかったようです。まぁ、たかが落とし穴ですけど」
山賊の残党か。どのみち、ここにいるのは危険だ。
「行きましょう」
綾部がすっくと立ち上がる。文次郎もそれに続こうとした が、気が急くばかりで体がついていかない。
「――チッ……!」
忌々しそうに舌打ちをする文次郎に、綾部が手を差し伸べる。立てますか?と。
文次郎は少しの間考え、無言だった。
「……お前は、先に戻れ」
「?」
綾部は首をかしげる。
「見ての通り、足をケガしてる。走ることも難しい。後輩の足手まといになるのは御免だ。だから、」
「本末転倒です」
話の途中で言葉を遮り、グイッと、綾部が文次郎の腕を掴んで、強引に立ち上がらせる。
そして文次郎の腕を自分の首に回して、肩を貸す状態になった。
「お、おい」
「僕はあなたを助けにきたんです。忍術学園に戻るまでは、あなたの護衛をさせてもらいますよ、文次郎先輩」
最初は抵抗しようとした文次郎だが、綾部の有無を言わせない言動と、余裕のない状況に、ついに折れることとなった。
「……ああ、すまんが、頼む」
「合点承知」
森から抜ける道はすべて人の気配(殺気)がある。追っ手の包囲網は思いの外強力だった。
それでも獣道ならいくらでもあるし、木から木へ疾走すれば常人の目に追えるものではないが、負傷している文次郎には負担が大きかった。
「う〜ん、困ったな」
さすがの綾部も弱音を呟いた時。岩場に洞窟を見つけた。
2人はほとぼりが冷めるまでその中に隠れていることにした。
洞窟の中は狭く、身をかがめなければ頭をぶつけるほど。しかし奥はそれなりの空洞があるようだった。ピチョン…ピチョン、と小さな水音が響いてくる。
人の気配はおろか生き物の気配もない。暗く、静かな洞窟の中で、綾部と文次郎は座り込み、じっと身を潜めた。
「綾部喜八郎」
「はい」
「すまんな。面倒事に巻き込んじまって」
「いいえ。そこそこ楽しいです」
「(楽しい…?) 今からでも遅くない。お前だけでも学園に戻れ」
「嫌です」
「……なら、魔界之に言ってた時の、学園に連絡をする手筈ってのは?」
「ああ、あれは嘘です」
さらりと言ってのける綾部に、文次郎は苦笑するしかない。
あまり親しくないからか、立花仙蔵率いる作法委員会の者だからか、この後輩は「後輩」という感じがしない。
苦手という感覚に似ている。けれど、嫌いではない。それ以前の問題だ。
綾部喜八郎のことは、よくわからない。
予算会議などの時に、作法委員長の仙蔵のそばについていて、その様子はしばしば見ているが。
いつも同じような顔でぼんやりしているし、仙蔵に従順かと思えば、勝手な(それも突拍子のない)行動に出ることも多い。
何を考えているのか読めない。忍者の素質としては将来有望だが、普通に接する時はどうにもやりにくい。
こうして何もない空間で、無制限に2人きりになると、話題もなく、沈黙が続く。空気が重く感じる。
実際、文次郎はそれどころではなかったが、綾部は退屈をするだろう。今はぼけっとしているが、時々文次郎をじっと見てくる。静かに、観察しているような眼差しで。
文次郎にとっては居心地が悪い。というか、得体の知れない不安を感じた。
(なんだ? 俺は、何かを見落としている気がする…)
「お前、1人で来たのか」
文次郎が綾部に尋ねる。雑談でも何でもして気を紛らわせようとした。
ぼけっとしていた綾部は文次郎の声で目を丸くした。
「はい。校庭で穴掘りをしていたら、その一つに誰かが落ちた音がして、行ってみると1年の加藤団蔵でした」
「なんだ、あいつ。落とし穴の目印も見つけられんかったのか」
「夜でしたし。それにひどく急いでいたようなので、仕方がないと思います」
「それで、団蔵はどうしてる」
「一部始終事情を聞いて、僕が救援を引き受けたのに、まだ混乱してる様子だったから、そのまま穴に残してきました」
「は? おい、おい」
「まぁ、そんなに深い穴じゃありませんよ。場所も校庭のど真ん中だし。朝になれば誰かに見つけてもらって脱出できるでしょう。その頃には僕たちも森を抜けられるといいですね」
ということは、この一件を知っている忍術学園の者は団蔵と文次郎を除いて綾部だけだ。
「誰も連れて来なかったんだな。意外に度胸がある奴だ」
「一刻を争う事態と判断しました。けれど、どのみち同じことでしたね。罠の設置もですが…僕だけの力量では、機会を待つしかできなかった」
「機会…? そういえば、お前、ずいぶん前から話を聞いてたみたいだな。……」
『これでも私はね、忍術学園と友好的でいたいんだ。ドクタマの教育のこともあるし、何よりあの学園の雰囲気が好きだし。
本音としては、なるべくそーゆーシビアな問題は出したくないんだよねぇ』
『忍術学園とのか細いながらも確かな友好の糸を切らせたくないのならば、私の言うことに従ってくれますね』
魔界之が学園との交友関係を気にしていることを条件に出したのは、つまりそういうことだろう。
魔界之のその台詞以降の、文次郎との間にあったすべての言動も、当然把握している――。
「!?」
見落としていた不安。そのことに、文次郎はやっと気付いた。
「文次郎先輩、大丈夫ですか。顔色が悪いですよ。辛いですか?」
「……いや、平気だ」
「でも、辛そうです」
確かに、寒くないのに体が震え、暑くないのに発汗している。文次郎の様子は明らかにおかしいだろう。
綾部が気遣うように文次郎をうかがってくる。勘づいているのか、いないのか。わからない。
迂闊だった。今は後輩の手前、魔界之に投与された薬物の作用を精神力で押さえているが、あの時は落とされる寸前だったのだ。朦朧としていて、何が何だかわからなかった。
それを、すべて、見られて……。
「……!!」
羞恥心が爆発しそうだった。穴があったら入りたいが、今まさに自分たちは穴(洞窟)の中だ。
文次郎はいつもの癖で、壁に頭突きを喰らわせたくなった。しかし、洞窟が崩れる可能性があるので、その衝動も身震いしながら押さえ込んだ。
「ところで、」
唐突に、綾部の声が洞窟に響いた。
「お聞きしたいことがあるのですが」
「なんだ」
「文次郎先輩はマゾですか」
「……は?」
綾部の突拍子のない質問に、文次郎は怪訝な顔をする。
「いえ、よく塀を壊すほど頭をぶつけておられるし、会計委員でも厳しい鍛錬に身を投じてらっしゃる。委員会から戻った三木ヱ門が『いっそマゾになりたい』と言っていたのを、今ふと思い出しまして」
たしかにその通りで、文次郎の行動は自虐レベルとも言える。(団蔵が見つけた壊れた塀も、以前文次郎が頭突きで開けた穴だった。)委員会でも後輩全員がへとへとになるものを、文次郎だけが楽しそうにこなしている。しかし、
「それで、文次郎先輩はマゾなのかなあと」
「マゾじゃない!」
「そうなんですか」
少なくとも、文次郎自身は自分がマゾだと思ったことはない。
「では、試してみましょうか」
言いながら綾部は、懐から罠に使う細くて長いヒモを取り出した。
「本当に、先輩はマゾじゃないのか、実はマゾなのか」
綾部の奇襲は素早かった。仕掛けられた文次郎は反射で対抗しようとしたが、重い体が言うことを聞かなかったし、そもそも油断していた。
気付いた時には、文次郎の手首は後ろ手に縛られていた。
「な……っ!?」
「だーい成功♪」
文次郎は唖然とする。なんだ、この状況は。
手を動かして、縄抜けを試みるが、どう縛られているのか、まったく解ける気配がない。
「くっ、綾部喜八郎!何だこれは!」
「いちいちフルネームじゃ仰々しいんで、喜八郎でいいですよ?あ、いきなりじゃ馴れ馴れしいですか。じゃあ綾部でもいいです」
「そういう問題じゃねぇ!こんな緊迫しとる状況で、お前は一体何をふざけとると言ってんだ!」
「緊迫してる状況というのは、こういうことでしょうか」
言うが早いか、綾部は片足で、あろうことか文次郎の股間をぐっと押し踏んだ。
「!! ぐっ……!」
必死に抑制していたモノへの突然の強い刺激に、文次郎は痛みすら感じた。
前のめりになってうつむき、歯を食いしばって耐える文次郎を、綾部は何でもないように見下ろしている。
「ふうん…?」
綾部の足がやわやわと小刻みに揺れる。最初の強い刺激とは対照的に、傷口を手当てされた時のような、撫でるような優しい動きになる。
「ぅ、ぁ……っ」
頭では、まだこの状況が信じられないというのに。布越しの局部は正直な反応を返す。
「おやまあ、ちょっとイタズラしただけなのに、もうこんなになって」
「あ、綾部っ、ふざけるのも、いい加減に…ッ…!!」
足をどかせたいのに、両手はまとめて後ろに束ねられている。足で暴れたいが、そうすると綾部の足がさらに股間に食い込む。
催淫剤が効いている文次郎の体では、大人しくされるがままにならざるおえない。事態は悪くなる一方だとしても。
「僕は一応、ふざけてるわけじゃあないんですよ、文次郎先輩」
綾部の声が頭上から響く。
じゃあ、一体どういうつもりなのか。文次郎には見当も付かない。
「文次郎先輩」
「…なんだっ」
綾部の呼びかけに余裕のない文次郎はイライラしながら返事をする。
「今どんな気分ですか」
「何、が」
「そうですね。具体的には、媚薬を盛られてどのくらい性的興奮してますか?と聞いているんですが」
文次郎は驚いて、そのままの表情で綾部を見上げた。
「なっ…なにを、馬鹿なこと…」
「隠しても無駄ですよ。魔界之との話もバッチリ聞いていたし、今のあなたを見れば発情していることは誰だって一発でわかると思います。ていうか一発ヤると思います」
文次郎は絶句したまま固まった。思考が停止した。全力で聞き間違いだと信じたい。
発情?ヤる?こいつはそう言ったのか?こんな小綺麗な顔をして…?
文次郎が呆然と綾部を見つめる間に、綾部は身をかがめて文次郎の衣の襟に手をかけた。
それをガバッと思いきり左右に開いて、そのまま上着を脱がせにかかった。
「ちょっ!? ちょい待ち、待て、綾部!!」
「何でしょうか先輩」
「おま、お前は、何、何をしようとしてるんだ」
どもりながら綾部を見る文次郎は半分怯えていた。嫌な予感しかしない。しかも予測不能の。
そんな文次郎を綾部は真顔で見つめ返してくる。
「本当に、僕は何をしているんだろう」
ぼそりとそんなことを言う。まったくもって答えになっていない。
「そうだ。何をしているか当ててくださいよ、先輩」
言いながら、綾部は文次郎の上着を剥ぎ、その手を黒い肌着の中へ潜り込ませる。
ひやりとつめたい指の感触に、文次郎はぞわりと鳥肌を立てた。
「…くっ」
引きつるような反応と嬌声が漏れた。不快ではないのが逆に忌々しい。
「体温、すごく熱いですね。心臓の音も早い」
手の動きは止まらない。腹から胸へ上がって、胸の突起を見つけると引っ掻くようにそこを弄んだ。
「あっ…!!」
他の場所にされても何ともないことが、そこだけには、神経に直接刺激されたようになってしまう。
「へぇ。男でもここって敏感なのか」
「ばっ…かたれ、それはっ、ん…!」
媚薬のせいであって、自分のせいでないと、文次郎は弁解したかったが、刺激に反応して硬くなったソコを、綾部がますます弄るものだから、文次郎はまともにしゃべることすら困難だった。
きゅっと親指と人差し指でつままれて、くいくいと引っぱられる頃には、文次郎は呼吸が荒くなるのをもう止められなかった。
「ひ、あっ…ぁぁ…!」
「先輩のこんな姿、初めて見ました」
綾部が文次郎の上に腰を下ろして、もう片方の腕も使って左右の胸を責めてくる。
「はっ、あっ…あっ…ちょ…あ、綾部!」
「だからかなぁ、何か変なんです」
「なにっ、がだぁ…!」
文次郎の体が本人の意志を裏切って、勝手にびくびくと痙攣した。思考すら、理性がどんどん隅に追いやられていく。くらくらと目眩がする。
顔が赤く、眉を寄せて涙目になっている文次郎の様子を、綾部はほぼ無表情で観察していた。ふう と、ため息のような吐息が漏れた。
「さっきから僕も、落ち着かないというか、胸騒ぎというか……興奮?してるんでしょうね。うん、僕も欲情してるんですよ」
「はぁ……?」
綾部の台詞と、彼の無表情がどうにも一致しない。欲情しているとはとても思えない。むしろ蔑んでいるか、面白がっているような気がする。
「こんなこと、4年の後輩が6年の先輩を無理やりどうこうするなんて、本来ならしちゃいけないんでしょうが…まぁ、いいですよね。先輩はクスリで淫乱になってるし、やむおえない処置ってことで。どうせ今の先輩なら誰にでも足を開くでしょう」
「なっ…!? ……!!」
あんまりな言いぐさに思いきり怒鳴りたかったが、綾部の手の動きに邪魔をされて、歯を食いしばることしかできなかった。(情けない…!!)
肌着を首元までめくりあげると、散々弄られて色づいてしまった突起が晒される。
綾部は顔を近づけて、興味深そうに文次郎の乳首をまじまじと見る。
ごくごく自然に、舌を出してツンとそこに触れた。
「イッ…!!あっ!」
湿った舌先で乳頭を押され、文次郎の体は大きくはねた。
綾部の舌は周りをぐるりとなぞると、赤子が乳を求めるように、唇も使ってそこを吸ってきた。
ちゅ、ちゅく、ちゅうぅっ
「ふ…んあっ!…あっ、あや、べ、やめっ…!」
文次郎は途切れ途切れながらも必死で懇願する。
敏感な神経を直接愛撫されて、ビリビリと電流のような刺激が下半身を間接的に犯す。
文次郎には耐えるすべがない。首を振って、脳内を霞ませる快楽を散らそうとした。
「あっ…やだって…いやだ…!」
綾部は文次郎の訴えなど聞こえていないかのように、文次郎の乳首をたっぷりと愛でた。
洞窟に、文次郎の荒い息継ぎや、綾部の口から出る水音が、ひっきりなしに響く。
文次郎の興奮が綾部の臀部に当たる。それに気付いた綾部が、乳を吸うのをやめて、布を押し上げる文次郎の一物を確認した。
「おー、さすが学園一ギンギンに忍者している潮江文次郎先輩」
「……お前なぁっ……」
文次郎はもう、綾部の一挙一動に突っ込む気力もなかった。
あぐらをかいた文次郎の上に綾部が腰を下ろしている状態。格好と2人の見てくれだけなら、綾部が文次郎を受け入れるように見える。
だがこの状況では、とてもじゃないがそんな展開になる気がしない。文次郎は精神的に綾部に負けている。すべて、綾部の思うままだ。
綾部の手が文次郎の袴にかかり、しゅるりと腰紐を解く。それを文次郎はただ見守っていた。
「……可愛らしいな。そんな物欲しそうな顔をして、震えちゃって」
綾部が文次郎を見て、そんなことを言う。
可愛いなどと生まれてこの方言われたことがない文次郎は、綾部も何か幻覚作用のあるモノを飲んだんじゃないかと疑う。
「何というか…そそられるんですよね。あなたのその、飢えているのに必死で耐えようとしている姿。ほんと、限界まで虐げたくなります」
「お前…、ッ…!?」
言おうとしたことを忘れて、息を呑む。
ゆるんだ袴の中へ、綾部の手が無遠慮に入りこんできた。
熱く湿った中、ひときわ熱を持つ部分をぐっと押され、綾部の目が「これ?」と無言で問うてくる。
「う…くっ…」
文次郎は思わず顔をそらした。羞恥が激しくて直視できない。
せめて変な声が出ないように、歯を食いしばって目をギュッと閉じる。もう「やめろ」と言える自信がなかった。
綾部の細くしなやかな手が、褌の側面から文次郎の勃起した一物をとり出す。
熱く、限界まで張りつめて持ち上がる肉棒は、体中が性感帯になっている文次郎の中でも最も弱い急所になっていた。
ゆるく持たれているだけでビクビクと反応する。先端からは透明の粘液がじわりと漏れていた。
「……」
文次郎が黙ったせいか、綾部もぱたりと無駄口を止めた。
確かめるようにサオを数回擦る。ぎゅっと握れば、どくどくと心臓のように脈動する。気に入ったのか、それの繰り返し。
「……っ!」
文次郎の足腰がひくひくと揺れた。ぷくりと盛り上がっていた先走りがつうと垂れ落ちて、綾部の手につく。
綾部はその筋を指でゆっくりなぞっていく。濃い肉色の亀頭にやってくると、血管の浮いたサオを違う、濡れてつるりとした感触を楽しんだ。
ぐりっ、と。
「……っんあ!」
鈴口を人差し指で、ぐりぐりとほじくるように擦られた。無防備な内部を意図的にかすめられ、文次郎の全身にぞくぞくと悪寒が走った。
「ふっ…うううっ…!」
そこから体液が出ている。指を動かせば動かすほど、ぐちゅぐちゅと粘った水音が出た。
ぐちゅ、ちゅちゅ、ぢゅくぢゅく。ぐちゅっ、じゅぷっ
先走りが後から後から出てきて、奉仕する側からすればやりがいがあるだろう。綾部は熱中しているようだった。
空いていた左手も使って、ぬれそぼった熱い肉棒を冷たくて細い手が蹂躙する。
「んう、うっ! ひぃっ…」
「気持ちいいんでしょう」
綾部が尋ねる。文次郎は目をつぶったまま首を振った。
「嘘だ。声、我慢しないで、出してくださいよ」
「ぃ、やだ……っ!」
「……やっぱり、文次郎先輩はマゾですね」
綾部の片手がソコから離れて、自分の後頭部に回った。
ぱさりと、高く結えてあった綾部の髪が下ろされる。
戻ってきた手には白い髪紐があった。
それを、文次郎の硬く屹立している陰茎、その根元にぐるぐると強く巻き付けた。
「! なに、してんっ…」
「いえ、別に。先輩が素直じゃなくて少し腹が立ちました。なので、気をやってしまうくらい、もっと先輩を追いたてようと思っただけです。お気になさらず」
さらりと大変なことを言われて、文次郎は何の声も出ない。しかし、
「ツッ…!?」
ぎゅっと結び目を硬く結われて縛られた。ぐっと圧迫された根元がズキンッと痛んだ。
思わず知らず手を動かすが、後ろ手に縛られた腕は使い物にならない。
「あ…綾部…!」
文次郎は助けを求めるように綾部を呼んだ。
痛めつけている本人の綾部は、いっぱいいっぱいの文次郎を見て、いくぶん柔らかい表情になる。
今にも泣きそうな文次郎を見て、「かわいい…」と、再度呟いた。
「先輩、かわいい」
「綾、部」
「そう。もっと、呼んでください」
顔が近づく。透明感のある瞳は、純粋無垢に文次郎を見ていた。
「僕の名前を呼んでください」
場違いなほどの、優しい口付け。
「知識はそれなりにありますが、実際にこういうことをするのは初めてなんです」
先ほど傷口に処方した塗り薬を取り出して、残りすべてを指ですくう。
垂れ落ちない内に、文次郎の下肢の付け根・後孔にぐいとあてがう。
ひやりとした感触に文次郎がびくりとすくみ上がった。
文次郎自身も、このような行為は初めてだろう。しかもされる側になるなんて、想像もしなかったに違いない。
「想像もつかないような快感、なんて、本当にあるんでしょうかね」
綾部が文次郎を見る。その瞳に欲情の焔が見えた。それは、綾部自身のものか、瞳に映る文次郎のものなのか。わからない。
「失礼します」
つぷっ
「う……!」
細い長い指が中に入る。軟膏が滑りをよくしてすんなりと入ってくるが、異物感はぬぐえない。
異物を出そうと動く内壁が綾部の指を締め付ける。
「うっ、んう…っ」
「文次郎先輩、力を抜いてください。これじゃあ辛いのはあなたですよ」
「…くっ、しょぉ…」
文次郎は半ばやけくそで。必要以上の力を抜こうと、はぁっ、と大きく息を吐いた。
綾部の指は入り口を慣らすと2本に増えた。ずくずくと、奥へ進めていく。
そのうちに、くいと指を曲げればコリと手応えのある筋に触れた。
「!? ひっ…」
文次郎の息が止まる。どくりと心拍数が早鐘を打つ。
「あっ…や、いやだ、そこは触るな!」
文次郎の表情は驚愕と焦燥がないまぜになった風で、綾部はもっと色濃くしてやろうとますますソコを煽った。
「ここ、ですか」
「ちょっ…!? だか、らあっ、…んっ、んぁっ…!!」
半開きの口から涎が伝う。気付いていないようなので綾部はそれを舐めとった。
そのまま耳元に顔を寄せて囁く。わざと無機質に。
「だらしない人ですね、上も、下も…。前なんて、ちゃんと縛ってるのに、ほら…変な汁が漏れてますよ?」
綾部の手が文次郎の陰茎を握る。先端から垂れた先走りで、にちゅと卑猥な音が出る。
「え、あ」
文次郎は自分の下半身を見て、可哀相なくらい赤くなって震えた。綾部の手が離れると、つうと間に糸が引く。
「ち、がっ…」
「違いません。あなたはどこもかしこもいやらしいんですよ。ねぇ、先輩、どんな気分ですか。後輩に犯されて悔しい?それとも感じちゃってそれどころじゃない?」
「……うっ、うぅー…」
目をギュッとつぶった拍子に、文次郎の目尻からぼろぼろと涙がこぼれた。
綾部が動きをぴたと止めて、弱々しくめそめそする文次郎を観察した。
「やだな、先輩ったら泣いちゃって……かわいい」
言い終わらぬうちに、ドンッと体を押し倒された。
「!? 綾、」
バランスを崩したままの文次郎にのしかかり、綾部が、先ほどまで指を入れていた箇所に別のモノを挿れてきた。
指よりよほど大きく、熱い肉。
「部――!?」
綾部の様子は特に変わらず、その熱いものが綾部の性器だと理解するのに時間がかかった。
「待っ!……んぐっ!」
文次郎の制止を聞かず、綾部はズッとさらに奥へ侵入を推し進める。
「ここ、だったか、な」
角度を調節して敏感なところに突き上げる。抱え上げられている、傷ついた方の足がビクンと大きくはねた。
「ひっ……あ、ああっ!」
他人に穿たれている。慣らされたせいか痛みはなく、異物感も弱まった。
それよりも、疼く中を無遠慮に掻き回されることにひどく興奮した。嬌声を抑えたいのに、歯を食いしばることも満足に出来ない。
また、文次郎の目にじわりと涙が浮かぶ。
「あ、あう…ううっ…」
もう何が何だかわからない。マゾでも何でもいいからどうにかしてくれと思った。
「文次郎先輩は、本当に可愛いですね。僕の下で喘いで、気持ちよさそうで、僕も嬉しい」
奥まではめ込んだ綾部が動きを止めた。彼もさすがに息が荒く、それでも文次郎よりは冷静を保っているように見えた。
「先輩がこんなに可愛いなら、きっと他の人も放っておきませんね。もっと早くにこうすれば良かった。でも、ああ、誰かに取られる前に気付いてよかった」
「ぁ……?」
「今わかった。わかりました。僕は、文次郎先輩、あなたを愛してるんです。もう、ずっと、ずっと前から」
突拍子のない告白だった。文次郎は本気で聞き間違いだと思った。
「イきたいですか?」
焦点の合わない文次郎の目を無理やり自分の方に向けて、綾部は優しく尋ねる。
「イきたいなら、僕のことを好きだと言ってください。そしたら、このひもを解いて、イかせてあげますよ」
「うっ…ばかたれ、何をイッ……!!」
綾部の手が、文次郎のきつく縛られた中心をぴんと弾いた。それだけで、腰が抜けた文次郎の下半身は勝手に過剰反応する。
「んぐっ……!」
「ねぇ、嘘でもいいから言ってください。名前を呼んで、好きだって、言ってほしいんです」
「あ、あやべ…!」
文次郎はもうとっくにわけがわからなくなっているし、綾部もひょうひょうとしているくせにどこか必死そうだし、で。
綾部の細い指が結び目にかかり、今にもほどいてくれそうな動きをする。それに促されるように、文次郎は口走っていた。
「すきだ、あやべ…す、……ああっ……!!」
急になくなった圧迫感。喪失感。浮遊感。
解放された性器はその先端から勢いよく精液を飛ばした。
文次郎がのけぞって痙攣する。声も出ない。ただひゅっと喉が鳴いた。
射精の反動できゅうきゅうと尻の穴が締まり、綾部の性器を搾る。無意識の催促。
「……んっ、ぁ」
綾部が小さくうめいたかと思うと、直後、熱い流動が下半身を支配した。
「は…ぁぁ…ぁっ…」
精液を注がれるという今まで経験したことのない感触を、文次郎は朦朧としながら受け入れて、すべて嚥下した。
射精しそびれた精液の残り汁が、徐々に萎れた性器の少量漏れて、腹にぽたぽたと垂れる。
一瞬それが、洞窟の奥から聞こえるピチョン、ピチョンという水音と重なった。
頭の中に広がる波紋。
「あー……」
しばらくして。やっと正常に頭が回るようになってきた。
文次郎の目の下の隈はいっそう濃くなった気がする。
「大丈夫ですか?」
文次郎の拘束を解きながら、いけしゃあしゃあと文次郎の安否を気遣う綾部は、始終同じように見える。
後始末をしながら、衣服を正す。文次郎は改めて綾部を見た。
美形揃いの作法委員の中でも、ひときわ端正な顔立ちをしている。宝石のような瞳も、長い睫毛も、白い肌も、ほんのり赤く色づいた唇も、南蛮渡来の人形のように綺麗だ。
それなのに、さっきまでの行為は一体何だったんだ。悪夢だと言ってくれるなら信じたい。文次郎は頭を抱えた。
顔を隠した腕、文次郎の手首に赤い筋ができているのを見て、綾部が「あ」と声をあげた。
「手首、痕になってしまいましたね。すいません、文次郎先輩が僕のせいですっかり傷物に…」
「傷物とか言うな」
「安心してください。責任は取ります」
「していらん。だいたい、なんだその…俺とお前にはほとんど関わりがないだろう。なのに、こんなことになったからといって、無理に接することなどないんだぞ」
「……」
「惚れた腫れたってのは理由がいるもんなんだ。だからこんな、一夜の過ちみたいなもん、いっそ」
いっそのこと忘れた方がいい。
「やっぱり、忘れてるんですね」
言おうとした言葉が綾部の台詞と重なった。けれど、中身の意味は異なった色をしている。
文次郎が顔を上げると、綾部はくるりと踵を返して、洞窟の出入り口の方へ歩いた。
「おい、綾部…?」
文次郎が後に続く。足がややびっこを引くが、歩けないほどではない。
暗い洞窟を出ると、月のある夜の方が明るかった。
深い穴から脱したような、微かな既視感。「……?」
綾部は洞窟から数歩のところで止まった。くるりと文次郎の方を向く。
「とても小さいけれど、『理由』なら、あります」
いつも通りの表情だった。けれど、表情「だけ」のようにも見えた。
「先輩は覚えてないと思いますが、僕たち、昔一瞬だけ接点があったんですよ」
「へ…」
「僕が1年で、文次郎先輩が3年だった時のことです」
まだ学園に来て間もない綾部たちは、よく学園にしかけられた罠にかかった。
落とし穴や、飛び道具などなど。レパートリーは無限にある。あれらに慣れるのは大抵2年になってからだ。
――あの日も、全校生徒参加の野外授業があり、その集合場所へ急いでいた。やや遅れていたので、近道の裏庭を走っていた、ら。
『わっ!?』
ドスンッ
うっかり落とし穴に落ちた。しかも、かなり深い穴だ。出口がはるか遠く、丸い円になっている。
『あら〜…まぁ、いいか。このまま授業をサボろう』
成績は良かったが、特別真面目ではない綾部は、次の授業に出ることを諦めて、誰かに見つけてもらうまで、その穴の中でやり過ごすことにした。
昼寝でもしようと目を閉じていたから、頭上からの光が人影に遮られたのに気付くのが遅れた。
『おい、そこの1年、大丈夫か』
『…ふえ?』
ぼけっとしていた綾部はその声で目を丸くした。見上げると、地上から見えたのは若葉色の制服。3年生だ。逆光で、その顔はよく見えない。
『だーい丈夫で〜す』
綾部が軽く返事をする。どちらかというと相手の方が焦っていた。
『すまん。今助ける』
助けると言っても、穴は深い。1人ではどうしようもできないだろう。
『縄を持ってくる。待っててくれるか』
『はい。あ…しめ縄とか縄跳びとか持ってこないでくださいね』
『はぁ? そんなもん持ってくるか。いいから、少し待ってろ』
その3年は姿を消す。そして、少しの間と言うにはやや長いくらい待った。授業開始の鐘が鳴った。
先輩は戻ってこない。授業が始まったから、そっちへ行ったのかもしれない。綾部はひんやりした穴の中でそんなことを考えた。
まぁ、どうでもいい…。綾部は物事に執着するタイプではなかった。対人関係も薄く、まだ同じクラスの者の顔と名前が一致しない。
中にはものすごく強烈なキャラクターもいて、そういう者なら一応覚えているが。(たいらなたきやしゃまる…だったかな)
ぼんやりとそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じる。今度は本当に寝入った。
『……い、…おい。1年』
長かったか短かったか、綾部は揺り起こされて眠りから覚めた。(…揺り起こされて?)
綾部が目を開けると。そこには、穴の中に自分以外の誰かが、目の前にいた。
『えっ?』
『やっと起きたな』
暗い穴の中、ぼんやりした顔は見覚えがないが、その声と制服の色は、記憶に新しい。
『あなた、さっきの3年生ですか?』
『そうだが』
『なんで? どーして穴に落ちてるんですか。ドジっこ属性なんですか?』
綾部の疑問に3年は一言、『縄が見つからなかったんだ』と答えた。
『皆あいにく野外授業で出払っている。だから、俺がお前をおぶって穴をよじのぼることにした』
『ええ?』
突然の事態に、綾部はびっくりするしかない。
3年はそんな綾部にお構いなしで、くるりと背を向けて、しゃがみこんだ。
『おら、さっさと乗れ』
『人を担いでここをのぼるなんて、無理ですよ、先輩。そんなこと。僕けっこー重いんですよ』
『バカタレ! 男に二言はない。お前も男なら、一度やると決めたもんにケチをつけるな』
やると決めたのはあなただけです。僕は関係ない。そう言いたかったが、もはや同じ穴の狢になった彼の機嫌を損ねるのは良くない。ここは大人しく言うことを聞くのがいい。
綾部は半信半疑で彼の背に負ぶさった。
ギンギーン!と、3年が掛け声なのか奇声なのかよくわからない声を出して絶壁をのぼっていく。
深い穴だ。1人でのぼるのも難儀しそうなそこを、その3年は見事、綾部を担いでのぼりきった。
穴から脱出した綾部は、やっとまじまじと、明るい場所でその3年を見た。
短い黒髪を高く結って、さっきから無茶な運動をしたせいか、ところどころからほつれ髪がぴんぴんしている。
少年ながらも男らしい顔つき。目の下の隈は寝不足なのか、万年か。若草色の制服は土色に汚れていた。
『1年。足を出せ』
『え?』
『えって、傷を見るんだよ。お前、足ケガしてるだろ』
そう言われて、右足を見ると、赤く腫れていることに気付いた。そういえば痛い。
『ああ、こりゃ捻挫だな。保健室へ行け。とりあえずこの布で冷やすか』
言いながら、文次郎が手ぬぐいに持っていた竹筒からの水を浸す。濡れた手ぬぐいが発熱している患部には心地よかった。きゅっと固定される。
『これでよし。立てるか?』
差し伸べられた手。綾部はその手を取り、立ち上がる。痛みはあるが、1人で歩ける程度だ。
『もう、1人でも大丈夫です』
『そうか。じゃあ俺は授業に行く。お前は保健室で療養してろ。無理はするな。毎度の学園長の思いつき企画は、何があるかわかんねーからな』
そして去っていこうとする先輩の後ろ姿を、綾部はとっさに引き止めた。
『あっ……あの!』
綾部は自分の声に内心驚いた。はっきりした理由もなく、他人を引き止めるなんて、初めてかもしれない。
『ん?』
『その……ありがとうございます。この借りは、いつか必ず返しますから』
『いいよ、そんなもん。先輩が後輩を助けるのは当然だろうが』
『じゃあ、もし先輩が穴に落ちたら、今度は僕が助けてあげますね』
綾部の申し出に、3年は笑った。ニッと、年相応の破顔一笑だった。
『おお、頼むぞ』
「……思い出した」
「やっと思い出しましたか?」
「お前、あの時の1年坊主か」
「はい。僕は先輩のことずっと覚えてましたよ」
「うっ……だってお前、あんなちょっとのこと……それに、あれからお前、俺に何も言ってこなかったじゃねぇか」
「まぁ、そうなんですよね」
綾部はそれ以来、文次郎を見かけても話しかけることもなかった。
そもそも、学年が離れている2人に接点などほとんど無かった。
予算会議の時などに、気付かれない程度に視線を送るくらいしかしていない。文次郎に覚えられていないことは、綾部も承知している。
「そもそも、覚えていないことを責めるつもりなんて毛頭無いんですから、そんな申し訳なさそうな顔しないでください」
「いや……その、それもあるんだが……あのな」
「?」
何か言いにくそうなことがある文次郎に、綾部は首をかしげる。
「どうかしましたか」
「実は、その……あの落とし穴、な。俺が掘ったんだよ」
「! へえ…?」
「すまん。隠してたわけじゃないんだが、やはり後ろめたくて、あの時は言い出せなかった。結果的に助けたのは俺だが、お前を穴に落としたのも、ケガをさせたのも、原因は俺だ」
文次郎は頭を下げて、綾部に詫びた。
「お前は、俺に借りなんて、最初からなかったんだ。今さらだが、それを謝らせてくれ。すまん」
「……先輩、顔を上げてください。ついでに、僕の話をもう少しだけ聞いてください」
文次郎が顔を上げたのを見計らって、綾部は続ける。
「その日から、結構頻繁に文次郎先輩のことを観察していたんですが、先輩が穴に落ちることもなく、月日が過ぎていきました」
当然と言えば当然だった。すでに3年になっていた文次郎は、学園の罠にかかるなんてヘマをするはずがない。
「なので、いっそ自分で罠を作るかと、学園中に穴を掘ってたんですが、先輩はなかなか落ちてくれなくて…」
「いや、なんで俺をわざわざ落とそうとするんだ」
そこらへんから何かがズレてる綾部の感覚を、文次郎は突っ込まずにはいられない。
「まぁ、他の生徒は大量収穫できたんで、これはこれで面白いと、穴掘りは半分趣味みたいになりましたが。それは置いておいて」
綾部がモノを置くジェスチャーをしてから、改めて文次郎にまっすぐ向かい合った。
「僕、深い穴の中から、文次郎先輩を助けられましたよね」
「……ああ」
「だから、これで借りはチャラだと思ったんです。やっと、僕を見てくれたって」
綾部の手が伸びてきて、手のひらが文次郎の頬に触れる。
「……」
「でも、先輩が、借りなんてないと言ってくれるなら…今度は、先輩が僕に借りをつくった ということですよね」
「ああ。今度は俺が、お前に借りを返すことになるな」
「すきです」
巻末入れずに綾部が言ったので、文次郎は目を見開いて驚いた。
「あの日から、ずっと先輩のことを気にしていて、ずっと見ていて、ずっとずっと……気がついたらすきだったんです。気付いたのは、ついさっきだったんですけど。多分、もうずいぶん前から、すきでした」
「借りを返してくれとは言いません。その代わり、その借りはずっと持っていてください。それで、時々、僕のことを見てください。それだけでいいです」
「……綾部」
文次郎が何か言いそうになるのを、綾部は顔を背けることで拒絶した。
「いいんです。先輩が僕のこと何とも思ってないのはわかってます。今日は、とても、出過ぎた真似をしました」
「綾部」
「さぁ、学園に帰りましょう。帰ったら、全部元通りです。だから、先輩は安心して、」
「聞け、綾部!」
文次郎が綾部の肩を強く掴んだ。綾部の動きが止まる。それでも、目を合わせることはない。
「俺が……最中に言ったこと、覚えてるよな。お前と同じように、言ったろう」
言われて思い出すのは、行為の最中に、告白を強要したことだ。
「…ああ、無理強いをしましたね。すいません。気になるなら忘れます。だから、」
どうか、嫌いにならないでください。
そう言おうとした綾部の顔が、ぐいっと不自然に横に向かされる。
「!?」
目の前に文次郎の顔があった。
男らしいのに、困っている表情。でも顔が赤い。
「男に二言はない」
そう一言。そして、口を重ねられた。
「んっ……!? ぷはっ」
すぐに離れたが、余韻は強かった。感動も激しかった。なので、綾部の顔は少しだけ驚いていた。
「せん、ぱい?」
「お……ちょっと鉄仮面が剥がれたな」
綾部を見て、文次郎が嬉しそうにニッと笑った。それはあの日の破顔一笑と同じだった。
「……ああ」
綾部はため息のような一息をついたあと、つられてふわりと微笑んだ。
「やっと、手に入れた……」
そして、ぎゅっと文次郎に抱きつく。
「文次郎先輩、ねぇ、今さら嘘って言っても聞きませんから。もう先輩は僕だけのものです。死ぬまで離しません」
「……お前なら死んでも離さなそうだな。やれやれ…」
文次郎はいまだ複雑な心境で、綾部を抱き返した。
この不思議なくらいに一途な後輩に、ほだされた自分にも、やれやれだった。
(綾文/終)