【ワシの恩返し】




むかしむかし あるところに蝶野攻爵という少年が1人暮らしをしていました。
攻爵に肉親はちゃんとおりましたが、不仲で、攻爵は不治の病を患っていましたから、周囲は気味悪がって、親しい人はおりませんでした。

ある日、森へ薪を拾いにいった時のこと、猟銃で撃たれたのでしょうか、一羽の大鷲が地に倒れているのを見ました。
攻爵は別段何とも思いませんでしたが、ふと研究中の薬を試しに与えてみたところ、大鷲はたちまち元気になって、攻爵をその丸く澄んだ瞳で一瞥すると、ゆっくりと旋回して、遠くへ飛んでいきました。

その日の夜、吹雪いて寒い攻爵のあばら屋に、コンコンと、来訪者を知らせる音が響きました。
開けてやると、1人の男が戸口に立っていました。攻爵よりもずっと背が高く、髪の色は薄く光っている、不思議な印象を受ける男です。
「突然の吹雪に遭い、道に迷ってしまいました。どうか一晩泊めていただけませんか」
妖しいとも思いましたが、攻爵はあまり人に関心を持たない性格だったので、別にいいよと、その来訪者を招き入れました。
呼び名に困ったので「名前は」と聞くと、男は間をおいてから、「鷲尾です」と答えました。
鷲尾は一宿一飯の恩義として、その晩のご飯の後かたづけや、食後の薬の調合を手伝ったりと、攻爵の世話を焼いてくれました。
夜は2人で身を寄せ合って眠りました。いつもはぎゅっと丸まってもすきま風に震えてなかなか寝付けない攻爵でしたが、今夜は鷲尾の体温に守られて、とてもあたたかく、寒さを感じません。
人のぬくもりなどとうの昔に忘れていた攻爵は、少しだけ、ほんの少しだけ、
(悪くないな)
と思いながら、もぞもぞと布団にもぐり込み、深い眠りに落ちていきました。

次の日も吹雪は続きました。今年は厳しい冬です。当分外へ出ることは無理でしょう。やはり天候が穏やかなうちに薪をためてよかったと、攻爵は思いました。
鷲尾と名乗った青年は、攻爵の家に留まることになりました。
鷲尾は攻爵のことをこの家の主(あるじ)と呼び、病弱な攻爵の世話を献身的に焼いてくれました。
それでも鷲尾は攻爵に負い目を感じ、何かで恩を返そうとしているようでした。
「主の好きなものはなんですか」
そう聞かれて、攻爵は一も二もなく「蝶々」と即答しました。
食べ物などを想像していた鷲尾は少しだけ困惑しました。「蝶々、ですか」
「そうだ。蝶々は素晴らしい。誰も見向きもしない芋虫から、誰もが目を留めずにはいられない存在へ華麗に変身するんだ」
攻爵は熱弁します。鷲尾は真面目にそれを聞きつつ、思案します。
「蝶々は、冬にはいないですね…」
「そうだな。春になったら、南の野原にたくさん現れるだろう。楽しみだ」「…っ!」
そこまで言って、攻爵は急に吐き気に襲われて、口元を押さえて激しく咳き込みました。
「げほ、ごほ…!」
「主!?」
「んぐっ…げっ…」
苦しさに耐えられず、体の奥から真っ赤な血を吐いてしまい、さらに喉が焼け付くような痛みを味わいます。
「大丈夫ですか、主」
「……畜生、畜生…」
攻爵は血まみれの手をぶるぶると震わせ、どうしようもないほどの怒りを感じました。
理不尽だ、と思わずにはいられません。
「俺は不治の病に冒されている。どの医者もこれは治せないと匙を投げやがった。もう余命幾ばくないらしい…この冬を、越えられるかどうか…だとさ。だが、俺はあきらめないぞ。俺は死なない。先祖が遺した秘伝書に、禁忌の妙薬の作り方がある。それを完成できれば、俺の病は治るんだ」
攻爵は濁った目で、独り言のように低い声で呟きます。
周りとの関係を絶ち、ひたすら秘伝書の解読に努め、攻爵は自分の研究にすべてを懸けていました。
そんな捨て身の攻爵を、鷲尾は複雑な表情をして見つめます。心中では何を思っているのでしょう、攻爵に伸ばしかけた腕は中途半端に宙に浮いていました。
吹雪はびゅうびゅうと音を立てて、小屋に冷酷な空気を運んできます。


吹雪は一週間続きましたが、一向に止む気配もありません。
居候の鷲尾は家主の攻爵に従順でした。
「一晩限りの約束でしたのに、居座ってしまい申し訳ありません」と何度も謝る鷲尾に、攻爵は「だから、別にいいって」と、本当にどうでもよさそうに言います。
何かと便利な鷲尾を攻爵は邪険に扱いませんでした。かといって、積極的になることもありませんでしたが。
それでも、鷲尾は攻爵の許しを得るたびに、硬い顔を少し弛めて、ほっと安心した表情になります。
攻爵は鷲尾のことを(大人な外見に似合わない子供っぽい中身をした奴だ)と思いました。
鷲尾は攻爵の世話をこれでもかと焼きました。そのおかげで、攻爵はこの一週間、自分の机に座って秘伝書の解読をする以外、何もしなくてもよい日々でした。
「腹が減った」と言えば料理が出てき、食後に飲む薬もちゃんと作ってくれますし、「汗をかいた」と言えばお湯で体を拭いてくれ、着替えも用意してあります。「眠い」と呟けば即座に布団が敷かれます。言うことなしです。

ただ、ひとつだけ不審だったのは、鷲尾が時々、隣の部屋にこもって出てこなくなることです。

「私が隣の部屋にいる時は、決して覗かないでください。お願いします」
「なんだそれは。そんなことを言われれば、気になるに決まってるだろう」
攻爵が正直にそう言うと、鷲尾はあせって必死に言い訳します。
「やましいことをしてるわけではないのです。信じてください、私は主の望まぬことは絶対にしません」
「ふぅん…?」
もっとからかってもよかった攻爵ですが、鷲尾があまりに必死なので、それ以上追求することはやめました。
黙った攻爵を、鷲尾が不安そうな目で見つめてきます。表情は曇っているのに、瞳だけは澄んだ色をして……。
「わかった。お前が隣の部屋で何かしている間は、放っておいてやる。安心しろ」
そう言ってやれば、鷲尾は安心した顔で「ありがとうございます」と礼を言いました。


とても寒い夜がありました。
小屋はすきま風でひゅーひゅーと鳴り、息を吐けば白いもやがあらわれます。
この日に限って、最後の薪の束は湿気っていたらしく、囲炉裏はまったく暖をとってくれません。
攻爵はもう寝ようかと敷いてある布団に入りましたが、布団の中すら、古い雪が積もり重なったような状態です。冷気に固まっています。
こんな時こそ、居候の鷲尾が側にいなければならないのに、鷲尾は布団を敷いた後、隣の部屋にこもったまま、まだ出てきません。
「……おい、鷲尾」
攻爵が彼の名を呼びますが、戸に遮られて聞こえないのか、中から返事はありません。
『隣の部屋は覗かない』という約束をしてしまった以上、攻爵は隣の部屋へ介入できません。
攻爵は不機嫌になりました。両手を前に組んで少しでも熱を感じようとしますが、攻爵の体温は低く、指などはまったく血がいっておらず、氷のように冷たいです。
「鷲尾」
もう一度名前を呼びます。返事はありません。
「鷲尾!」
今度は怒鳴りました。すると、中からガタンゴトンと音がして、しばらくすると、戸ががらりと開いて、中から鷲尾が出てきました。
「主、呼びましたか」
「……さっきから何度も呼んでいる」
あわてた様子で攻爵の元に駆け寄る、自分より背の高い男を見上げながら、攻爵はじとりと文句を言います。
「す、すいません……気付かなくて。ご用はなんでしょうか」
鷲尾は殊勝に謝り、攻爵の命令を待ちます。どうやら本当に気付いていなかったようです。一体何に熱中していたのでしょうか。
攻爵の怒りは徐々に萎えました。
「……もう寝る。布団が寒い、お前も一緒に寝ろ」
「はい」

攻爵が先に布団に入り、一歩遅れて、机にある燭台の火を吹き消した鷲尾が後から布団に入ってきます。
向かい合う体勢を整えると、太い腕が左右から出てきて、攻爵の細い体をゆっくり、優しく抱き寄せて、自分の体温を分けてあげます。
冷たい布団の中で、鷲尾の体は温かく、攻爵も自分の腕をからめて鷲尾に抱きつき、足もからめて、貪欲にその熱を吸いました。
鷲尾からすれば、攻爵の冷たい体は氷の塊のようなものでしょうに、何も言わないで、自分の体温で攻爵をあたためます。
「冷たいだろう、俺の体は。死体のように」
「いいえ」
攻爵が言った言葉を、鷲尾は嘘をついてでも否定します。
「主の体は、少し弱いだけで、ちゃんと生きています。体には止めどなく赤い血が通っていますし、心臓の音も、しっかりと聞こえます」
そうだろうかと、攻爵は疑問に思いました。鷲尾とぴったりと身を重ねた攻爵には、鷲尾の心臓の音しか聞こえません。それは、どくりどくりと、力強く脈打っています。
「私こそ、冬の森に1人でいた時は、雪に埋もれて、死にかけでした。何も見えず、何も聞こえず、体はどんどん冷たくなっていって、心臓の音も遠くなって……」
ぎゅ、と鷲尾の腕の力が強くなります。
「死にかけの私を助けてくれたのは、主でした。あなたは、私の命の恩人なんです」
深いため息を吐くように、鷲尾がそう言うのを、攻爵はふっと一笑にふしました。
「吹雪の日に宿を貸しただけで、大げさな」
「それだけでは、――いえ……そうですね」
「何だ?」
「何でもありません、主」
それきり何も言わなくなった鷲尾の顔は、頭が下にある攻爵には見えませんでした。
けれども、鷲尾が片方の手を攻爵の頭へとやり、ゆっくり、ゆっくりと撫でさすります。
他人に頭を撫でられることなど、幼い頃にあるかないかの記憶です。攻爵はくすぐったいと思いながら、やんわりとしたその感触を気持ちよいと感じました。
「おやすみなさいませ、主。よい夢を」
「ん……」
鷲尾の言葉に促されるように、攻爵は素直に眠ってしまいました。
だから、
「明日には、きっと、吹雪が止むでしょう」
鷲尾がどこか悲しげにそう呟いたのを、眠りに落ちた攻爵は、聞き取ることができませんでした。




攻爵は顔にかかる朝日の光で目をさましました。
夜にぴっちりと閉めたはずの窓の戸が、いつの間にか開いています。鷲尾の仕業でしょうか。
隣に彼の姿はありません。鷲尾は攻爵より早く起きて、台所で朝食の支度をしているのが常でした。今日もせっせと、乏しい材料でそれなりのものを作ってくれているのでしょう。
むくり、と攻爵が体を起こし、ぬくい布団から這い出ます。小屋の空気は相変わらず冷たいですが、今までの数日間と比べるとまだマシです。
用意してある着物に着替えながら、攻爵は、外から吹雪く音が聞こえないことに気がつきました。
「そうか、天気になったか」
ちょうど薪もなくなりかけだし、食料も少ない。今日はあいつも連れて外へ出るか……そんなことを考えながら、攻爵は戸を開け、台所へ進みました。
台所には、もうすでに朝食の準備がしてありました。しかし、鷲尾の姿がありません。
攻爵は台所のすぐ横にある玄関の戸を開け、外を見ます。
外は一面銀世界です。森の木も、向こうにうっすら見えていた村の集落も、すべてが白一色に染まっています。雪は太陽の光を浴びて、結晶のひとつひとつがキラキラと光って、とても綺麗です。
ふと見ると、小屋の横、薪が積んであった場所には新しい薪がでんと置いてあります。
「あいつがやったのか」
攻爵はいぶかしみながらも、寒さに耐えかねたこともあり、戸を閉めて小屋の中に戻りました。
「鷲尾」
攻爵は家の中で彼の名を呼びました。しかし、返事はありません。
昨夜もこんなことがあったなと思い出し、攻爵はいつも鷲尾がこもっていた部屋へ大股で歩きました。
嫌な予感がします。鷲尾はいつも『吹雪が止んだらすぐに出ていきます』と殊勝な態度をとっていました。
でも、だからって、自分に挨拶もなくいなくなるはずがないだろう。攻爵は思い直しました。

部屋の前に来て、攻爵は、また鷲尾の言葉を思い出します。
『私が隣の部屋にいる時は、決して覗かないでください』
今、もし鷲尾が部屋の中にいるなら、攻爵は鷲尾との約束を破ることになります。
「……」
攻爵は戸に手をあてがったまま、少しだけ躊躇しましたが、

ガラリッ

攻爵は引き戸を開け、部屋の中を見渡します。
そこに鷲尾の姿はありませんでした。
攻爵は少しだけ安心しましたが、さっきからの問題解決にはなりません。
これで鷲尾はこの家にいないことが判明しました。
「一体どこへ行ったんだ」
イライラとした独り言を言いながら、一週間鷲尾に占領されていた部屋の中に入ります。
ここはもともと物置としてしか使っていない場所で、人ひとり入るのがやっとです。そんなところで大きな体の鷲尾は何をしていたのでしょう。
入って真正面に置いてある、平らな木箱を机代わりにでもしていたのでしょうか、そこには最近使っていたらしき裁縫道具が出ていました。
その横に、窓のない部屋は暗く、よくわかりませんが、何かあります。
「……?」
攻爵は置いてある燭台を手探りで見つけ、火をつけました。
ぽわ、と部屋がうっすら明るくなって、攻爵の目にその何かの正体が現れます。

「蝶々…?」

鮮やかな紫を基調にしたそれは、まるで、二枚の羽をしなやかにひらいた蝶でした。
手に取ると、蝶の羽はそれぞれぽっかりと穴が開いて、それが覆面であることがわかります。
何気なくそれを顔に当てて、その穴越しに部屋を見渡します。壁に掛かっていたほこりだらけの鏡に、覆面をした攻爵の姿が映りました。
それは、今までの自分とはまるで別人のようでした。
「……」

鷲尾はずっとこの部屋で、蝶々覆面(パピヨンマスク)を作っていたのでしょうか。
これが完成したから、吹雪が止んだから、鷲尾はこの家から出ていったのでしょうか。

「……あいつめ!」
攻爵はなぜか怒りを露わに、その場で血を吐かんばかりに怒鳴りました。
バンッと部屋を出て、台所を通って玄関へ走ります。
用意されている朝食は、まだあたたかいですし、汁ものには湯気が出ています。
鷲尾は家から出てまだ時間が経っていない、まだこの近くにいるかもしれません。
攻爵はそこそこに防寒して、雪一色の外へ飛び出しました。








冬の森の寒さは何度も経験していて、その度に独りで乗り越えてきたはずでした。
それなのに、胸に穴が開いたような不快感、気持ちの悪さが、鷲尾の足をふらふらと戸惑わせていました。
いっそ翼を広げて大空へ飛び立ってしまえば、立ち去った場所への未練もなくなるのかもしれません。
けれど鷲尾は人間の姿をしているので、二本の足で行く当てもなく進むしかないのです。
鷲尾は本当に、どこへ行けばいいのかわかりません。
今までの自分はとうにいなくなって、この体は、最初から自分の創造主のためのもので、最後までそうでなければならなかったのです。
けれど、これ以上共にいれば、あの方の迷惑になってしまう。根拠はないけれど確信にも似た焦燥感。鷲尾は身を裂く思いで家をあとにしました。
家の主である攻爵に一言の挨拶もなく出ていったことは、礼儀を欠くものでしたが、そうでもしなければ踏ん切りがつきませんでした。
確固たる忠誠心の片隅にある不明瞭な感情。こんな感覚は知りません。自分でも理解できないものを、他人に明かせるわけがありません。
(こんなものは……要らぬ)

森の中は雪でまっ白でした。その中に、ぴょこぴょこと動く白いものがあります。
(……うさぎ)
それは鷲尾の大好物で、認識した途端に食欲がそそられました。朝ご飯は支度をしただけで何も食べていません。
自分の昼ご飯にしようと、鷲尾は兎を追いました。兎はすぐに鷲尾に気付いて、だっと逃げ出します。
雪に足を取られて早く走れずに、なかなか距離は縮まりません。人間の姿は狩りに向かないのです。
こんな調子でこの冬を越せるのだろうか。そう思った鷲尾の脳裏に、以前聞いた台詞が重なります。
『この冬を、越えられるかどうか…だとさ』
「……あるじ」
思わず呟いたその言葉に、

「鷲尾!」

まさか返事があるとは思わず、鷲尾は驚いた表情のまま声がした方向に振り返りました。