次攻シリーズの最後の話にするつもりです。だから途中の話がものすごく抜けてる…
タイトルは鏡の国のアリスから引用しました(第一章のサブタイトル)/080903~

【鏡の向こうの家へ】





あらいやだ、おなじものがふたつあるわ。
メイドが右手と左手に同じ置物を持ちながら、困った顔をする。
なくしたと思っていたから新しくしたのに、どうしましょう。しょうがないわね。
右手に持っていたものを元に戻し、左手に持っているものをそのままに、蔵の方へ歩いていく。
その一部始終を、少し奥の方で、小さな男の子がじっと見ていた。
くらのなかにしまわれるんだ。
子供は無表情で、元の場所にある置物を見つめる。……おまえはへいきなの?
無機質の置物が問いかけに答えることはなかった。


+++


「蝶野、疲れてる?」
久しぶりにあった宿敵(と書いて友と読む)武藤カズキが、無遠慮に身を乗り出して、そんなことを言ってきた。
意味がわからないパピヨンは「はあ?」と声に出していぶかしんだ。
「どこをどう見てそう思う。俺はこのとおり元気BIN☆BINだが?」
「どこって言われても…でも、疲れてるように見える。ちゃんと寝てるか? 夜遊びとかしてないか?」
「しとらん。が、そうだな…最近、少し夢見が悪い」
むーと考え込むパピヨンを、武藤が心配そう見る。
「悩みがあるのか。誰かと喧嘩したとか」
「……」
当たらずも遠からずなことを言われ、珍しくパピヨンは黙ってしまう。すると、武藤はますます身を乗り出す。
「仲直りするなら謝るのが一番だぞ!…まぁ、お前が自分から謝るなんて、想像できないけど」
でも、少なくとも、話し合ってわかることもあるよ。理解し合うのは大切なことだから。
すっかり自分が誰かと喧嘩したことにされている。
「武藤、貴様は偽善者にもほどがある」
パピヨンはガタンと立ち上がってその場を後にした。
(馬鹿らしい)
…話し合う? 悪夢の中で?
自分がこの手で殺した者と。
(今さら、どうやって理解し合うというんだ)


+++


また、夢の中で。
自分は蝶野攻爵に戻っている。
パピヨンマスクもつけていない。
現実より平常を保っていられるのは、夢だと自覚しているからだろう。
なんだか妙な気分だった。まるで本当に人間だった頃に逆流したようだ。
暗い場所だった。目の前にある鏡の壁に、自分の姿がぼんやりと映っている。
まだ蝶人・パピヨンになっていない、貧弱な体。青白い肌。生気のない目。
鏡から目をそらし、攻爵はあてもなく歩き出す。
足をつけ、離した場所から次々と波紋が広がっていく。

トン、コロコロ…

遠くから小さなボールが転がってきた。攻爵の波紋とボールの波紋が相殺される。
『まってー』
ボールを拾おうと駆けてきたのは、小さな男の子。知っている。あれは、幼い頃の次郎だ。
「……」
『……?』
自分を見る攻爵に気付いた次郎は、不思議そうな目で攻爵を見返した。
青年の攻爵を自分の兄だと認識していないのか。すぐにくるりと後ろを向いて、元いた場所に戻っていく。
攻爵は次郎の後をゆらりと追った。不規則に波紋が広がる。

次郎は鏡の壁にボールをバウンドさせて遊んでいた。
1人遊びなのに、まるで相手がいるように楽しそうに。無邪気に。
鏡の向こうにいる自分に笑いかけて、時々何かを話しかけている。
『あっ…』
ボールがまた変な方向へ飛んだ。
次郎がそれを追いかける。攻爵も後に続いた。

そこでがらりと風景が変わる。場所は庭のようだった。
既視感を感じる。そこは蝶野の屋敷の庭とまったく同じだった。


+++


蝶野家の庭は広い。ボールが垣根の向こうにいったということはないだろう。
次郎は楽観視して、石畳の上をけんけんと渡りながら、ボールを探した。
きょろきょろとあたりを見回し、ほどなくして池にぷかりと浮いているボールを発見する。
池の縁から腕を伸ばして取ろうと頑張るが、手が届かない。
何か棒のようなものがないかと、また探しに行く。

北の方の縁側へ出る。そこは父の書斎が近い場所だった。部屋の襖は閉まっている。
縁の下にちょうどよいものを見つけて、次郎はその中にもぐり込んだ。
光の当たらない暗い場所。地面はひんやりと冷たい。暑い日の今日には肌に心地よかった。
蜘蛛の巣に気をつけて縁の下を進む。棒きれを掴んで、外に出ようとした。
「――でして、それはもう、講師の者も感心しておりました」
頭上から、誰かの声が聞こえた。びくりと身を固くする。

「もとより最も優秀なクラスに配したのですが、その中でも攻爵様は抜きん出ておられる」
「ふん、当然だ。あやつには一般の英才教育などとうの昔にやらせておる」
父の声が男に応える。父が誰かと話しているのだ。
お化けかと思った恐怖からは、とりあえず脱した。
男は続ける。
「いやはや、まったく。攻爵様は文武両道に優れ、おまけに眉目秀麗でいらっしゃる。旦那様も、将来が誠に楽しみでありましょうな」
「ふん」
「弟の次郎様も才知にたけている様子ですが…どうでしょう、彼にも攻爵様のように特別な、」
「いや、それには及ばん」
男の言葉を遮って、父が言い放つ。
「次郎には普通の教育をさせる。変に良く育てると、後々面倒なことになるやもしれん」
「ああ、家督相続などですね。まったくその通りでございます」
男が頷くと、父はふっと笑ったようだった。
「次郎は攻爵の万一に備えた予備にすぎん。このままだと、要らぬ予備になりそうだがな」

次郎はしばらくその場で放心していた。
(……)
父の言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。
じろうはこうしゃくのまんいちにそなえたよびにすぎんこのままだといらぬよびになりそうだがな。
キィンと頭の奥で鋭い耳なりの音がした。脳の悲鳴だった。


+++


次郎は掴んでいた棒を放り、池にあるボールもそのままに、庭から出た。
元の暗い場所にぽつんとひとりでいる。鏡はもうない。
立ちすくむ次郎の足下に、波紋。攻爵が歩み寄ってくる。

攻爵は気付いていた。先ほどのことは、次郎の体験した事実だ。
意図的に探るならまだしも、半ば強制的に、取り込んだ人間の記憶を視るなんて、そんなこと他のホムンクルスからも聞いたことないが。
それは自分と彼が血縁者だからなのかもしれない。
連日の悪夢は、血を分けた者を喰った者に科せられる罰なのだろうか。

次郎が攻爵に気づき、振り向いた。ゆっくりと口を開く。
「僕はいらない子なの?」
攻爵を見る、涙ぐんだ目。小さな子供の涙声。
「兄さんがいなかったら、僕は、父さんに、みんなに、必要とされたの?」
次郎の問いに、攻爵は答えない。
「兄さんがいなかったら…」
独り言のようにぽつりと呟く。

兄さんがいるから、僕は必要とされない。
兄さんがいなければ、僕は必要とされる?
兄さんさえ、いなければ。

「俺が、憎いか?」
攻爵がそう尋ねると、次郎は少し間をおいてから、攻爵を見た。その目はもう泣いていなかった。
「……きらい」
小さく呟いてから、堰を切ったように怒鳴る。
「きらい、きらい、きらい! 兄さんなんて大嫌いだ!」
「……」
幼い頃、弟は兄を慕っていた。
おそろいじゃなきゃいやだと駄々をこねた弟は、ある日突然、兄を避けるようになった。
原因はこれだったのかと、攻爵は思った。


+++


父を恨むことは考えなかった。
蝶野の家主である父はとても大きな存在で、絶対的な象徴で、誰もそれに逆らえない。
その父に、自分は必要がないと言われた。予備以下だと言われた。

ぼくはいらないそんざいなんだ……でも、どうして?

同じだから?顔も、仕草も、感情も。兄とまったく同じだから?
メイドが同じ2つの置物の、ひとつを蔵へ仕舞う回想。
同じ形をしたものは、ふたつもいらない。
ひとつはしまわれる。暗い物置の蔵の、奥深くへ。
仕舞われる置物は次郎そのものだった。