青木淑子(えいほう宝鳳)/第2回個展
−生き抜く−
◇ とき:平成13年12月2日〜12月8日 ◇ ところ:東京近代美術クラブ画廊 ◇ 略歴:青木 淑子 水墨画に魅せられ澤井瀧山氏に師事。 高校教論、短大講師をへて生活経済を中心に評論活動をする。 著書多数。黒涛会会員。 ■出品目録 〜生き抜く〜 ◎ 富士は生きている 『富士はみる人、みる所によってそれぞれの詩がある。』 6点の作品 ◎ 私の祖先も生き抜いた ――近藤重蔵・富蔵父子を偲んで―― ・ 近藤重蔵 5点の作品・・・・・・・・・『釧路湿原』 ・ 近藤富蔵 5点の作品 ◎ 生きる力 ・18点の作品 ★ 「釧路湿原」 近藤重蔵が何度も通った釧路湿原には、命を育むものがある。 タテ 000センチ×ヨコ 00センチの作品。 <参考> 近藤重蔵守重(1771〜1829) 江戸の町与力 近藤守知の三男として生まれ父の後を継ぐ。幼少から神童の誉れが高く、17歳で白山義塾を開き、子弟を教えた。身長180センチの大男で眼光鋭く、威厳に満ちていたという古記録にある。 彼の歴史に残した功績が4つある。 ・第一は択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立て、現在の北方四島に日本領の根拠を つくったこと、 ・第二にアイヌ人のために蝦夷最初の道路を開拓したこと、 ・第三に蝦夷の中心は函館では南に偏りすぎている。中央の札幌か小樽がいいと建言し たこと。 ・第四に書物奉行として千巻以上の論考を書き、新井白石の再来とさえ称えられたこと である。すべてが常人には成し得ない偉業である。 しかし持ち前の潔癖さと正義感から上司の不正、財政の無駄使いを許さず、老中に直訴したことから疎まれて大坂に左遷、やがてそれも罷免された。 目黒の土地を巡っての争いから息子の富蔵が殺傷事件を起こす。父重蔵も連座して、近江の大溝藩に配流となり、そこで、国家の将来を憂いながら、死ぬ。59歳だった。 近藤富蔵守真(1805−1887) 近藤重蔵の長男として生まれたが、父に似ず文武とも普通以下だった。しかし、性格は温厚だった。その彼が、目黒の新富士の地争いに憤慨して土地のやくざを殺傷してしまう。その咎で八丈島に遠島になり、53年間も帰島を許されなかった。 死ぬまで前非を悔い仏門に帰依した。また許されてからも八丈島を愛し、帰島して寺の堂守をしながら83歳まで生きた。 彼は在島中に「八丈実記」69帖を著して、八丈の地誌として世界的に有名である。また彫刻をよくして八丈を中心として、仏像などを各地に残している。 いま、北海道の広尾には父近藤重蔵の、八丈には子近藤富蔵の顕彰碑が建っている。親子2代、した仕事がそれぞれ違いながら、ともに後世の人から感謝されているのは長い日本の歴史の中で前例がないだろう。 わたし、青木淑子は近藤重蔵4代目の子孫である。 作家 逢坂 剛さんが近藤重蔵を主人公に「重蔵始末」(講談社)を書かれている。 その中で彼を江戸最後の傑物と評された事、また、吉村貞司さんが、「たった一人でロシアと闘った男」と述べられたことを子孫として誇りに思う。また、八丈島では近藤富蔵を大恩人と称えているのも嬉しい。 今回の個展で特に一つのコーナーを設けたのは不遇の中で「生き抜いた」重蔵・富蔵の親子を子孫として顕彰したいと思ったからである。 |
更新日; 02/01/27 11:57