ホットライン (特別寄稿;2000年10月)


 

著者:青木 

近藤重蔵は寛政年間(18世紀末)、最初に択捉島を探検開拓し、北方4島が日本領であることの歴史的基礎を作った人である。

だがこの人は、前半生の華やかな活躍に比べ後半生は惨めだった。最後は子息「富蔵」の殺人事件に連座させられて近江の国大溝に幽閉され、そこで死んだ。

彼は、後世の識者たちからどうも評判が悪い。彼の型破りの豪放な性格が災いしたのだとおもう。しかし、近藤重蔵の人生軌跡を辿ってみると常人では成し得ないすばらしい功績がある。

また、表の歴史には見られない謎めいたものがあまりにも多い。その一つ一つを明らかにして不遇の中で死んだ傑物「近藤重蔵」の名誉を回復し表の歴史に挑戦してみたい。これが本稿執筆の動機である。

 

第1章では近藤重蔵の栄光に満ちた前半生を辿りながら当時の時代背景の中で彼が蝦夷で何をやったか、松前藩に酷使の限りを尽くされたアイヌにどのような同情を示したか、、またそれが松前藩だけでなく、ひそかに蝦夷進出を目論んでいた水戸藩とどう対立したかなどを私なりの視点で描いてみた。

一方においてはヒーローとしてまた他方においてはアウトローとしての近藤重蔵を眺めたわけである。

また近藤重蔵と同時代の探検家「間宮林蔵」と比較することによって側面から近藤重蔵なる人物の人間像を探ってみた。

 

第2章では近藤重蔵の栄達から挫折の生涯を追った。とくに大坂での大塩平八郎との思想上のやり取りに触れて両者の秘密に私なりの解釈を示してみた。

次に彼の失脚の直接原因になった子息富蔵の槍ケ崎における7人殺しをみた。今も変わらぬ親子の確執と破滅である。

蝦夷開発の功により書物奉行に栄転した近藤重蔵だが、机の前の仕事に耐え切れず、気晴らしをかねて目黒の槍ケ崎に新富士を持つ別邸を作る。常日頃幕府の税金無駄使いを批判し煙たがられていた近藤重蔵は老中「水野忠成」の憎しみを買い突如大坂の弓矢奉行に左遷される。

彼は別荘の管理を隣家の藁麦屋の半之助に任せるが、この男の実態はやくざまがいでやがて近藤重蔵の家を我が物顔に使い始める。

これを怒った富蔵は半之助一家七人を皆殺しにしてしまう。その中に7歳の幼児まで含まれていたので、大問題となり厳しく処断される。

父親の近藤重蔵もこれに連座して、というより重蔵の蝦夷での名声を憎んでいた幕府要人の策謀により無理に連座させられて、近江高嶋に配流される。 幽囚 ( ゆうしゅう ) 生活2年、病を得てこの地で死んだ。彼は死に際して自分の 魂魄 ( こんぱく ) は雷になって北方4島を守ると言い残したという。

 

3章では大溝における近藤重蔵の生活を論じるとともに彼が本当にこの地で死んだかを検証する。

大溝藩主「 分部 ( わけべ ) 光儜 ( みつやす ) 」は近藤重蔵処遇の幕府からの指示があまりの過酷さであることに怒る。逆に重蔵を藩主並みに厚遇するようになる。重蔵もこれに応えて藩士たちとともに遊んだり学問を教えたりして慕われるようになる。

だが近藤重蔵大溝脱出説は根強い。何より彼の位牌は名前の一字をわざと間違えていたり、彼の死亡日時が幕府への届とずれていたりしている。大溝藩が近藤重蔵脱出に一役も二役も関わっていたのではないかとの推論さえ成り立つ。

なにより重蔵が死んだといわれた日の大溝の動きは奇妙なほどの慌しさを見せているし、また幕府の隠密集団がこのとき大溝周辺に集結したといわれている。

明治になってから河竹黙阿弥が近藤重蔵大溝脱出をテーマに歌舞伎劇を書いた。この脚本を巡って賛否両論があったが、基本的には改変された。

これに対して東京朝日新聞の記者で当時の演劇評論の権威といわれた 饗庭篁村 ( あいばこうそん ) が不遇に

死んだ近藤重蔵の英雄復活劇が何故悪いんだと紙面で激しく議論するなど不可解な事件もあった。いづれにしても近藤重蔵の大溝脱出説の傍証は一や二つではない、少なくとも五つはある。

 

近藤重蔵森重、彼は今幕府という組織社会の落ち零れ、無頼旗本、としか見られていない、しかし、彼は行動する愛国者であった。それが誰しも成しえなかった蝦夷地開拓という大功につながった。ここのところを歴史はもう少し暖かくみてやるべきだろう。

こう考える限り、彼の人生は21世紀を迎えようとしている我々にひとつの大きな教訓を与えてくれている。

危機のスケールがあまりにも大きくそれに対応する政治力はあまりにも小さい。それはミレニアムなどとごまかすべきではなく、世紀末の特徴である。

こんな断崖の時代だからこそ近藤重蔵という男の生きざまをもう一度見直してみたい。彼には蝦夷の防衛、開拓という志があった。それを実現しようとする決断力と行動力があった。

今の日本人には方向内容はともあれこうした志がない。だから社会が沈滞する。あきらかに亡国の兆だ。このような危機感の中で私はこの物語を書いた。

(歴史文学振興会おう公募:第1回中近世文学大賞優秀賞)

 

 

    

 

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更新日; 00/10/21 01:18