ホットライン (特別寄稿;2000年5月)
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私なりの自立論 安井孝成/大和郡山市在住 昨年の12月末日をもって40年近く勤めた会社を退職いたしました。年来の持論である「定年より停年」による退職を実行したのでした。「定年」は会社の都合で辞めざるを得ないというものですが、「停年」というのは自分自身が自主的に決めた人生の区切りであります。 わたしは、前々から「わが人生には残業時間はない」と信じて懸命に駆け足で走り抜けてきました。定年だと嬉しくもないのに『ごくろうさまでした』とかなんとか言われて、花束をもらって作り笑いをする、正直言ってこんな終り方が嫌でした。 定年までにはまだ2年あまりありました。多くの仲間たちが保証された収入を無碍にするなど馬鹿なことせずあと2年我慢しろと戒めてくれましたが、『わが人生は私が主役なんだ。おれは停年で辞めるんだ』という信念を貫きたかったのです。 会社に何の不満も有りませんでした。むしろ大変働きやすい職場環境でした。それどころか国内外にある関係会社の社長をやってくれないか、監査役はどうか、などのもったいないお勧めもありました。 しかし、すべてご辞退しました。私にとっては人事・総務部長11年は長すぎた,もういいでしょうというのがホンネだったかもしれません。便利屋になっていくことに嫌気が差していたのかもしれません。 私は人生を損得勘定だけで終りたくは無かったのです。定年までの2年間よりもこれからの人生20年をどう生きていくかを真剣に考えるのは今しかない、と思ったわけです。愚直かもしれません。しかし寄らば大樹の陰という甘えを吹っ切って自分の決断でお別れをする、これが私なりの“自立”であり、すこし大袈裟に言えば私の美学でした。損得で会社に残れば一生後悔する、そんな後悔の中で人生を終らせたくは無かったのです。 この間のサラリーマン生活40年を振り返ってみました。20代は労働組合運動に没頭しました。30代には全国ネットワークの市民運動をやりました。40代はあるミニ政党の党首の熱烈な支持者となり国政選挙を取り仕切りました。 「労働運動の20代」、「市民運動の30代」、「政治活動の40代」が私の人生の支えでした。そして私の50代は“社蓄族”とまでいわれてすべてに消極的なサラリーマンの生き方を変えねばならないといくつかの団体を仕掛けて設立したり参画してきました。いわば「仕掛けの50代」でした。 その一方で、ビジネスマンとして会社の仕事は後ろ指を指されないために誰にも負けずにやってきたつもりです。他人の2倍や3倍は仕事をがんばらなければ社外活動などできないのがサラリーマン組織の現実の姿であります。すべての目線をマジョリティにおいて真面目に取り組むことを信条としてやってきました。これがすなわち、私の自立論かもしれません。 リタイア後、直ちに大阪人材銀行の推薦を受けてホワイトカラーの中高年者の再就職支援活動を目的に活動をしている「キャリア交流プラザ」((社)大阪府雇用開発協会)に登録して12週間の指導を受けました。 私が早期退職をした理由の一つはパソコンのスキルアップでした。そこで、並行して労働省の雇用活性化総合プランの一つである「緊急再就職促進訓練」(雇用・能力開発機構)で3ヶ月間(延べ324時間)パソコン教室に通いました。 以上のような公的機関主催のセミナー・講座・講習を受講し、100%の経済的援助を受けたふたつのコースを5月中旬に修了することができました。半年間の充電期間において心身のリフレッシュとパソコン技術を身につけて7月にも再びビジネスの世界に復帰を目論んでいますが、ただ今はゆっくりとしたサンデー毎日とはなかなかいかないようです。 とにかくもうすぐ60歳です。これからの人生は、会社人間では到底得ることのできない人間の絆を積極的につくりたい,人間の幅を少しでも広げたい,こうして人間を磨きながら社会にお役立ちのできる“生涯現役の仕事”をめざしています。こんなロマンと希望を抱いて人生行路のギアを切り替えていくつもりです。 これまではわき目も振らずに新幹線で突っ走ってきました。これから5年間の仕事は在来線の急行に乗り換えて車窓をゆっくり眺めよう、そして次の5年間は各駅停車に乗り換え、四季の移り変わりを楽しみたい、途中下車をしてその土地のぬくもりを肌で感じたい。これが私の「生涯現役」のライフプランです。その向こうの70歳代は、それまで生かしていただいたことに感謝して信仰の世界に入りたいと願っています。 完
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Copyright (C) 2000 Tsutomu Takemoto
更新日; 00/08/29 07:58