|
最近、若くして亡くなったかたのアルバムを目にする機会が2度ありました。
一人は12歳で亡くなったご門徒。もう一人は24歳で亡くなった私の勤務先(障害者施設)に通園されていた利用者です。
昨年の暮れ、だめたけの寺の小学校6年生のご門徒が亡くなりました。
「中学に入るとなにかと忙しいから」と受けられた予防的な手術。短期間で退院の予定だったのですが、回復が悪く・・ 明るく元気な男の子で、持病があったとは私を含めてほとんどの人が知らず、ほんとに驚きました。呆然とされている両親、兄弟、おじいさん、おばあさんにかける言葉は、すぐには見つかりませんでした。
お葬式と中陰壇の写真は、亡くなる2週間前に年賀状用に撮られた家族写真からトリミングされたものでした。実年齢よりしっかりと見える好青年でした。
しかし、遺影以上に私がひかれたのは、横に置かれていた数十枚のスナップ写真を収めた大きな額でした。
そこには赤ん坊のころから保育園、小学校と故人の12年をおった写真でした。写真の一枚いちまいから感じられる「その時の輝き」に胸が締め付けられる思いでした。
先週のことです。職場の後輩が「事故で亡くなったMさんのお母さんから渡されました」と一枚のCD・ROM(スチール写真をパソコンで取り込んだもの)を持ってきました。2年前に24歳でなくなったMさんの写真を同僚数名でパソコンを囲みながら見ました。
私も一緒に写っている施設での行事の写真だけでなく、私たちが知らない養護学校時代の写真、さらにはもっと小さなころの写真が多数収められていました。
私たち職員は彼の「生育暦」は把握していましたが、その時に彼がどんな顔をしていたかは、このときはじめて知りました。
故人の写真といえば、お葬式のときの遺影でしょう。しかし、じつは真宗のお葬式では写真は使わないのが本当だと私は聞いています。
(私は父の葬儀では写真は使いませんでした)
だからといって、私は写真のある葬儀を否定はしません。
ただ、注意しなければならないのは、葬儀の写真はあくまで亡くなった人の切り取られた時間のうち、残された者いだく故人のイメージ、あるいは故人が望んだイメージを表したものでしかないということです。
晩年の表情はその人の人生を反映しているという意見にも一理あるとは思います。
しかし、一枚の遺影のみでその人と向きあうことには、故人からの学びを狭くする場合もあると私は思います。
もちろん写真を多く並べればその人の人生が語れるというものではありません。
CD・ROMのアルバムでは、どの写真でも笑っているMさん。しかし、コミュニケーションに支援が必要だった彼が、環境の整わない中で、混乱し、つらい思いをしておられたことを私や同僚は知っています。
Mさんのお通夜のときのお父さんはこんなあいさつをされました。
「息子は短い人生の中で、長生きする人の一生分の迷惑をかけ、一生分の愛をうけ、そして一生分の『自分の思いを人につたえられないくやしさ』をかみ締めていたと思います」
Mさんの人生は笑顔ばかりではありませんでした。
ただ、遺影も含めた多くの写真で、私は彼が施設に通所しておられた数年以上の人生があったというあたりまえのことを確認できました。そして、彼が受けていた愛の深さと彼の「くやしさ」を思いました。
それは確かにMさんとの新しい出会いでした。
人の一生は亡くなる直前だけのものではありません。望まれて生を受け、子どものころ、若いころ、老齢のころと一生懸命に生きてこられた時間の深さと広がりと重さを思いながら見つめることで、故人の写真は意味を持つよう思います。
話は変わって、先日の我が家のことです。
今春から寮生活をはじめた大学生の長女の部屋で、3人の子どもが幼かったころの写真をみつけました。
今ではお金のことでしか電話をかけてこない長女もまだ素直で愛らしく、無口な高校生の次女はまだトコトコ歩き、汗臭い中学生の長男はベビーカーの中という家族写真です。
あの写真からとても長い時間がすぎたような、あるいは一瞬だったような・・
とりあえずは、今しばらく家族のためにがんばらねばと思いました。 |
|
|
|
|
先日の法事のお宅は酒豪ぞろい。はじめから「御院住さん。飲むつもりできてください」といわれていました。
読経と法話の後、ご家族、ご親戚と一緒に送迎バスで国民宿舎に移動。40人近い人数だったため場所を移して食事です。大広間のあちこちでハイペースでビール瓶が空いていきます。
だめたけの周りには40歳代の男性のご門徒ばかり。「父親を亡くして世帯主になったものの、いろいろと苦労している・・」といった私と同じ境遇のオジサン5人が同じ席でした。
ビールに続き私の席では焼酎をボトルで注文。梅干入りの水割りをみんなで楽しみました。2時間半ほどの間に3本(さすがに一升瓶ではありません)空きました。
だめたけは乱れてはいけないとセーブして飲んでいたのですが、ご門徒が入れ替わり立ち代り「御院主さん、もっと飲んでください」とおかわりを作ってくださいます。結局かなりの量を飲みました。
最後には「男性ばかりで日を変えて飲みに行きましょう」と誘われました。
だめたけはなにも「法事ではおおいに酒を飲もう」といっているのではありません。
住職としていろんなお宅におじゃましていると「酒でめちゃくちゃになった法事」を見ることも多くあります。
よくあるのは、誰も亡くなった人を話題にせず、「単なる飲み会」になってしまう法事。「飲むだけが目的なら、違う機会にしたら・・」と言いたくなります。
最悪の例としては、酒癖の悪い数名の親戚に苦労され、ついには法事は家族だけで勤めるようになってしまったご門徒。特に10代、20代の若いご門徒が、「法事は親戚で苦労するいやな機会」と思ったことが心配です。
しかし、先日の「酒豪」のお宅はちがいました。
「亡くなったオヤジには、子どものころ自転車で何時間もかけて海釣りに連れて行ってもらった」「息子には厳しくても孫はかわいかったらしく、遠方まで筍掘りに連れて行って心配した」といった何気ない思い出話から、自然に「あの時、オヤジはなにを願っていただろう・・」といった話になります。
3人の息子のうち2人を交通事故で同時に亡くすという、たいへんなショックを乗り越えて生きてこられた故人。組織には属さず、自分の技術で生活してこられた故人・・
だめたけは、このご門徒との思い出を、次のように紹介させてもらいました。
私がまだ20歳前半だったころ、月忌参りでのことでした。読経をはじめると、この日ご法事だったおじさんに「お経は適当でいいから、早くこっちへ来て飲め!」と声をかけられました。私は一瞬おどろきましたが、すぐに亡くなった息子さんと歳の似通った私と話したいという意味だと気づきました。
今では僧侶の仕事は読経だけではないとの私への教えであったと思っています・・
けして涙を拭きながらの会話ではありませんが、語り合う中で、それぞれが故人に学ぶ時間をすごしました。
また、法話への意見や質問もいただき、私にとっても多くの気づきの場となりました。
繰り返しになりますが、私は「酒がなければ法事じゃない」と言っているわけではありません。
先日のあるご門徒の法事では、飲酒運転の問題もあり、全員にまったくお酒が出ない食事でした。
はじめはちょっと物足りない感じもありましたが、みんなが冷静に亡くなったかたのことや生きることの意味を語り合いました。女性陣の負担が少し軽くなることもあり「このやりかたもいいな」と思いました。
また、だめたけの寺にとって「住職も一緒に飲む」というパターンは私の代になってからです。私の父はまったく酒を飲めませんでしたので、ほんの10年ほどの歴史です。
しかし、だからといって父のころの法事が語らいのないものではありませんでした。「以前の法事で前の御院主さんとこんな話をした・・」といった話を毎回のように聞きます。酒を飲まなくても、私よりご門徒と心の触れ合う時間をおくっていた父を感じます。
法事は「宴会」になってはいけません。しかし、かしこまった時候のあいさつだけで終わるような、うわべだけの場では残念です。
語らいの場に酒が必要であれば大いに飲み、障りになるのなら出さなくてもいいものです。「故人を縁として阿弥陀様の教えに触れる場」に必要かどうかは施主が判断すればいいと思いますし、「他家のやりかた」にこだわる必要はないと思います。
だめたけは、本音トークの助けとなる酒は賛成。語らいの障りとなる酒には反対です。
それにしても、先日の法事ではよく飲んだ・・
|
|
|
|
|
「だめたけ日記」は、おかげさまで2000年11月29日の創刊以来、ついに100号の発行となりました。
学生時代に、英語、体育についで国語が苦手だった私が、思いつきと勢いではじめたメールマガジンをここまで続けられるとは思っていませんでした。
この気ままなメルマガを読んでくださっているすべてのかたに感謝します。
「区切りの数字」といえば、仏事にも数字を機会に勤めるものが多くあります。
葬儀のあとの中陰は七日ごとですし、法事は回忌の「当たり年」に勤めます。また、50年ごとにおこなわれる親鸞聖人や蓮如上人の法要は御遠忌(ごえんき)とよばれます。
「どうして法要を勤めるの?」とたずねられたとき、だめたけは「自分を発見し、往き方を確かめるため・・」などと答えています。(<同級生の法事>などでふれています) そして、それを伝えるため、自分の経験や考えを話します。
ちなみに最近、軽い法話で何年かごとに法事を勤める意義を伝えるとき、「同窓会のようなもの」と話すことがあります。
だめたけの卒業した中学のことです。「20歳、25歳と年齢を重ねるたびに集まろう」ということになり、同窓会は、ほぼ5年ごとに開催されます。
都会に出て行った者と久しぶりに会い、あまりの変わりぶりに「ゴメン、誰だっけ?」と声をかけざるを得ないことも多い同窓会。
しかし、ここでおもしろいのは、だめたけをはじめとした地元に残っている者どうしの会話です。
今も生まれ故郷で暮らす者どうしにとっては、同窓会で会っても「ひさしぶり」ではありません。特に30歳代の時には、「先週も消防団で会った」仲間であり、「昨日も幼稚園のお迎えで一緒だった」保護者どうしです。
しかし、昨日も会った者どうしが「おまえ老けたよな・・」といった会話をします。そして「俺もそんな歳になったんだ・・」と感慨にひたります。
相手に対しても、自分に対しても、昨日とはちがう発見をします。
それは「節目」というきっかけに「同窓会」という場が加わってこそ出会える発見だと思います。その発見は、前回の同窓会とは違い、次回とも違うものです。
法要についても同じようなことがいえるのではないかと、だめたけは考えます。
亡くなった人をとおして自分をみつめることは、別に法事の場ばかりではありません。ふとしたことで先に逝った人の人生にふれ、自分の往きかたを見つめ直すことは多くあります。(そんな一例を<愛車>に書きました)
それでも、家を掃除し、内仏の荘厳を整え、縁ある人を招いて法事を勤めることで得られる、日ごろとは違い、前回の法事ともちがった出会いや自分の発見は確かにあると思うのです。
そのため、だめたけは、例えば二十五回忌の法話では、「あの日から24年たちましたね。小さな子どもだったあなたも親と呼ばれるようになりました。ところで・・」と話をはじめることがよくあります。
ふと立ち止まり、前後を見渡すことで、新たに見えてくるものがある・・
過去を振り返るばかりでなく、現在と未来への発見。これが「節目」のもつ力のようなのではないかと思っています。
「だめたけ日記」は、住職で、福祉施設の職員で、3人の子持ちのおじさんが、自分を確認するために書いている雑文です。そして、そんなメルマガが発行を続けられているのは、読んでくださる方がいるからこそ、さらにはご意見をくださる方があるからこそと、私は発行ごとに痛感しています。
しかし、100号発行を機会にあらためて感じる「読者に支えられた自分」には感慨深いものがあります。また、これまでの発行内容を確認することで、「気づかなかった自分の気持ち」を発見したりもしました。
ある意味では「その時の自分との同窓会」のようです。
そしてこれからの発行に向けて、新しい気持ちになっています。
これからもあせらず発行を続けていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
|
|
|
|
|
先日、私の勤務先の障害者施設で、共に利用者援助にあたっていた友人が亡くなりました。病を得てから約5年。33歳で彼はいってしまいました。
今は現場が離れていますが、2年前までは同じグループのスタッフでした。組織の中では私のほうが上役でしたが、私がストレスを貯めているのを感じとると、自分はまったく酒が飲めないのに、ウーロン茶で付き合ってくれるような彼でした。
ちょっとアクがつよいタイプでしたので、職務のことでは注意をしたこともありましたが、後輩として「生意気ぐらいがちょうどいい」という存在でした。
特にはじめての入院の後に職場復帰をしたころには、人生観の深みが増したようで、福祉職員として魅力を感じていました。
裏表のない性格で、友人として信頼できる人でした。
昨年の秋から3度目の入院。年が明けてから、ひさしぶりに見舞った時には、病状が悪化しているものの、短時間ながら話ができました。その2日後に「亡くなった」と連絡が入った時には言葉もありませんでした。
通夜、葬儀には多くの友人、知人があつまりました。
人目をはばからず大泣きする者。必死に涙をこらえる者。葬儀ではどこにもある風景とはいえ、同僚、友人のみんなが肩を震わせて参列していました。
私自身、こみ上げてくる悲しみをかみ締めながら、涙にくれる多くの同僚に接し、ある僧侶の先輩に聞かせていただいた言葉が頭をよぎりました。
それは「悲しみは人が共感しあえる場」という意味の言葉でした。
もちろん、お祝いの場、例えば結婚式などでも、みんなが喜びを共感していることにはウソはありません。新婦の父親の涙にもらい泣きし、二人のあいさつによって自分の人生に新しい発見を することはあります。(<結婚>にも書きました)
しかし、気持ちに計らいがなく、人に真向かいになれるのは、祝いの場より悲しみの場であるというのです。
亡くなった友人と葬儀に参列した者の関係はさまざまです。例えばひとくちに同僚といっても、職場でもプライベートでも親しかった者、職場だけの関係ながら深く意見を交わしていた者、気がよくあった者、じつはあまり気が合わなかった者といろいろです。
また、同じような立場の友人でも、彼が亡くなったと聞いてから、各々の頭に浮かぶ彼との思い出は、ひとり一人違います。参列者の全員に「自分だけの彼との関係」があるはずです。
しかし、さまざまな立場、さまざまな関係性であっても、その場で彼の死をどうとらえるかで必死にもがいているという意味では同じです。
「もっと生きていて欲しかった。もっといろんな話をしたかった」と願い「悲しみを受けとめる」ということが自分ではどうしようもないくらい難しいことを実感する・・
思い出は別々であっても、なんの計らいもなく「本当に悲しい」というところで、みんなが同じ場所にいるのです。
このメルマガでは、何度も葬儀の意味について書かせていただきました。
(<遺言>、<震災七回忌>、<同級生の法事>、<葬儀と出会い>、その他)
亡くなった友人は、人にはどんなに叫んでもどうにもならない悲しい別れがあるという事実を、私たちに示してくださいました。まさに命をかけて「だから命は尊い。人生は尊い」ということを示してくださったのです。
今はまだ彼との思い出ばかりが頭の中を駆け巡るばかりの同僚も多いようですが(私もそうです)、彼の死をとおして、命の重みに共感したわれわれは、福祉職員としても少し前へいけるのではないかと思います。
そしてそれが亡くなった友人の願いであろう思います。
|
|
|
|
|
喪主や家族にとって葬儀はたいへんな法要です。
今回はお葬式と「出会い」を話題にしたいと思います。
私の父の葬儀のときです。
入院ではなく自宅で癌の療養していた父の最期は、家族で看取りました。危篤と告げられてから呼吸が徐々に弱くなっていく父をみまもり、私と母で呼吸の停止を確認し、主治医に連絡しました。
「死んでいくということは、たいへんなことなんだ」と人生を生ききった父に感動し、ちょっと潤んだ目でもう息をしていない顔を見ていました・・
しかし、葬式までの時間で、じっと父の死に向き合っていたのは、医師による死亡確認がおこなわれるまでの5分だけでした。
父が亡くなったことを各方面に連絡すると、ご門徒、近隣のご住職、親戚などがすぐに駆けつけてくださいました。
僧侶であっても私は喪主ははじめて。とにかくあたふた。葬儀の日時が決まってからは、まさに時間との勝負。少し父への思いに浸っていると、「これどうしよう」と声をかけられ、喪主として慣れない判断をもとめられます。
私が時間を気にせず父に向き合ったのは、葬儀一連の儀式が終わった夜でした。数日ぶりに風呂に入りながら、父がもういない事実を見つめていました。
私と父は決して仲が良い親子とはいえませんでした。
日本の戦争責任に対する考えかたや福祉観、労働者観は微妙に違ったので、意見が対立することもしばしばでした。そのため父が元気な間は、あまり尊敬の念のようなものは感じておらず、同じ場所に住んでいながらも意識のうえでは距離を置いていたかもしれません。
しかし、病状が悪化するなか自らを見つめ、最後は静かに呼吸を停止して亡くなっていった父に出会い、私の考えに合う合わないで判断していた父ではなく、父という人間を全体像として見つ められるようになったと思います。
「あのとき言っていたこと、こんな意味だったのか・・」とか「言葉ではいわなかったけど、父の願いはここにあったのではないか・・」ということが素直に感じられるようになりました。
決して意見が対立していたことについて「父の方が正しかった」と納得したということではありません。ただ、父という、私とは少し意見は違ったけれど、自分の生まれた時代を精一杯いきた先輩に「出会えた」との実感がありました。
<遺言>に書いた「阿弥陀様を中心に・・」という言葉の意味も、葬儀を終えてから心に響いてきました。
父が私に望んだことは、自分の手法の継承ではなく、「今、自分に求められていることはなにか」と問いつづける人生を歩んで欲しいという願いでした。
私は決して葬儀を軽視しているのではありません。
「すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず」(白骨の御文)
遺族が、親しい人の死を受け入れ、学んでいくための基点となる葬儀はたいへん重い法要です。これを厳粛に「意味あるもの」として勤めることは非常に大切なことです。
父の葬儀のときの私の心情を思い出しても、臨終、通夜、葬儀と私が父の死に感じたことは時間をおって少しずつ違っていたように思います。それはその瞬間であったからこそ出会えたことでした。決して、後で思い出して埋め合わせの出来るようなものではありません。
葬儀の準備に忙しく、亡くなった人とゆっくり向き合う時間が充分でなかったのは事実ですが、父と関係のあったさまざまな人からくやみをうけることで、父の生き様を立体的にとらえられたことも事実です。
あるいは忙しさに身をまかせることで微妙にバランスをとりつつ、徐々に父の死を受け入れていったのかもしれません。
「葬儀は、亡くなったかたがもう決して帰ってこないということを受け入れるための大切な法要。葬儀後からは、亡くなったかたに出会っていく法要」と私は考えています。
少なくとも、葬儀で僧侶の役割は終わるのではなく、重要な次の段階に入るのです。
|
|
|
|
|
先日の日曜日は、ご門徒でもある私の同級生の十七回忌と、そのお母さんの三十三回忌の法要でした。
彼と私は、家が数10メートルしか離れていませんので小さいときには一緒に遊びました。親友というほどの関係ではありませんでしたが「友人・おさななじみ」との表現は適当だと思います。ヘビを捕まえてきて友だちをキャーキャーいわせるような元気者の彼でしたが、アグネスチャンのポスターを部屋に貼っていることを指摘すると、顔を赤らめていたことを思い出します。
同じ地域で共に育った仲間でした。
そんな彼が交通事故で亡くなったのは、16年前の激しい雨の夜でした。仕事からの帰り道、川沿いの道で橋の欄干に激突。即死に近い別れでした。
私たちは「死はいつ、どんなかたちで訪れるかわからない」ということは知識としてはわかっています。にもかかわらず、日頃は自分の周りにだけは悲しすぎる別れは訪れないかのような錯覚を持ちながら生きています。
彼の通夜の席、当時住職だった私の父の読経が終わっても、参列した同級生はみんな立ち上がれませんでした。
当時、まだ20代前半だった私をはじめ友人の多くは、「出会い」には着眼しても「別れ」には気づかずにいました。しかし、彼の突然の死は、我々に厳しい現実を突きつけました。
その彼は、小学生のとき病気でお母さんをなくしています。私は、お葬式の時の彼の後姿から、どんなにイヤだと叫んでも、人には避けられない別れがあることを子どもなりに学んだ記憶があります。
「お母さんが死んでしまうことがあるんだ」という事実が大きなショックでした。
先日のお二人の法事では、彼の妹さんと伯父さんが施主でした。
妹さんは、亡くなったお母さんに自分の年齢が近づいていることに感慨深げでした。まだ子どもがいない彼女ですが、幼い子どもを残して亡くなったお母さんの気持ちに思いがいたっているようでした。
亡くなったかたが残された我々に伝えてくださることは、お葬式の時に我々の心をかきむしったことを思い出させることばかりではありません。回忌ごとに新しい出会い(発見・気づき)があるのです。(決して霊魂が帰ってきて語り掛けるなどの誤解がないように)
お母さんの葬儀では、あまりにも幼すぎて「よくわからなかった」と話す彼女。兄の葬儀では大学生でしたが、やはり呆然と座っていた彼女。お母さんにかわり彼女らを育ててくれたおばあさんをなくした時は社会人になっていました。
彼女は、子どもから大人といわれる年齢を経つつ、葬儀だけでなく法事のたびごとにも少しずつ違う視点でなくなったかたに学び、現在の自分の生き方をみつめなおしておられるようです。
若くしてなくなった友人。彼はフィアンセを残していってしまいました。一方、私は子どもも3人できて・・
先にお浄土へ帰っていった友人に自信を持って報告できる人生を私は送っているだろうか・・
|
|
|
|
|
今年は阪神・淡路大震災で亡くなった方の七回忌になります。
だめたけの町は、被災地から数10キロ離れているで、まったく被害はありませんでした。しかし、町を出て阪神地区で暮らしておられたご門徒が被災され、22歳の娘さんをなくされました。
七回忌を機に、娘さんのお母さんが、追悼本を自費出版されることになり、だめたけもご依頼をうけて、駄文をよせさせていただきました。
今回は、その原稿を掲載させていただきます。いつもより長文になりますが、あしからず。
(文中の個人名はひかえさせていただきました)
(略)
私がM.K.さんとはじめてお会いしたのは、悲しいことに冷たくなってお母さんの実家までもどられた時でした。
M.K.さんのおじいさん、おばあさんとは寺と門徒ということもあり親しくしていただいていましたが、M.K.さんについては「都会に出ておられるM.さんには、とても美しいお嬢さんがおられる」と耳にしているのみでした。
そんなM.K.さんが亡くなられたとご親戚から連絡をうけたのは、たしか1月18日の昼頃だったと思います。それは私にとっては神戸に住む弟や友人の無事にほっとし、落ち着きかけた時でした。こんな身近に亡くなられた人がおられるということに目を覚まされる思いでした。
18日の夜、お母さんの実家で枕勤め(臨終のお勤め)をさせていただきました。家族のみなさんはみんな言葉少なでしたが、お母さんが「この娘は踊りが好きでした」とポツリと話されたのを覚えています。
私がご一家からM.K.さんが亡くなられた前後の様子をくわしくお聞きしたのは、お葬式が終わり、お骨拾いの時間をまっている時でした。
M.K.さんの助けを求める声を聞きつつも、自分たちも埋まっていてどうすることもできなかったこと。板に冷たくなったM.K.さんを乗せて避難所をさがされたこと・・
すべてが、私にはどう相槌をついてよいか思いつかないほど、厳しく悲しい現実でした。
私たちは「死はいつ、どんなかたちで訪れるかわからない」ということは知識としてはわかっています。にもかかわらず、日頃は自分の周りにだけは悲しすぎる別れは訪れないかのような錯覚を持ちながら生きています。
しかし、M.K.さんの死と、M.K.さんをなくしたご一家が目の前におられる事実は、私たちにこの現実から目をそむけることを許しません。
仏教では亡くなった人を「大事な教えを伝えてくださる人」として「諸仏」(しょぶつ=もろもろのほとけ)と呼ばせていただきます。M.K.さんは、もっとも光輝く年齢で突然お浄土に旅立たれました。そんなM.K.さんが残った我々に伝えようとされている大事なこととは「だからこそ命は尊い。だからこそ生きることはすばらしい」ということではないでしょうか。
私はM.K.さんに、住職として法名をつけさせていただくとき-(略)-「踊りがすきだった」というおかあさんの話から、それにかかわる文字をいれようかとも思いましたが、あえて「慈悲」から一文字を使いました。
それは、「M.K.さんはきっと残された人々の思い出のなかで、ともによろこび、ともにかなしみ、それぞれの人の生き様を問うていかれるだろう。また、それに応えてM.K.さんに縁のあった人々は生きていかれるだろう」と考えたからです。
その後、私はつづけて、Mさん宅のお葬式を勤めることになります。
震災の一週間後、M.K.さんの後を追うようになくなった祖母のM.Y.さん。2年後、孫娘と妻の法事の準備中になくなった祖父のM.T.さん。Mさんご一家はつづけて3人もの最愛の肉親をうしなわれました。
住職の勤めとして、私はどのお宅でもご法事の後にかならず法話をさせていただくことにしています。しかし、さすがにMさんのお宅では胸がつまり、言葉にならないことが多くあります。ただ、私のつたない法話をMさんほど熱心に聞いてくださるお宅はありません。
M.K.さんの死、M.Y.さんの死、M.T.さんの死をつうじて、生きることの意味にご家族、ご親戚がそれぞれに向き合っておられる姿にいつも感動します。
震災のとき「あの場所」にはいなかった私ですが、M.K.さんの死と、それと向き合うご一家の姿にまなびながら、Mさんと一緒に生きることの意味を問うていきたいと思います。
「生きることの意味から逃げないように」これがほとけとしてのM.K.さんからの呼びかけと感じられるからです。
追悼本は410頁のボリュームです。友人、恩師、趣味の仲間などが様々な立場から文を寄せておられます。また、M.K.さんの生前の文章なども多数紹介されており、「一人の女性が精一杯生きた記録」としての本となっています。
ただ、自費出版のために、店頭で購入できる書店はごく限られるようです。
|
|
|
|
|
今日は父の祥月命日。
午前中にはご門徒の法事があるので、夕方に他の寺の住職をお招きして(親族の法要のときは、僧侶もあくまで施主ですから)家族と弟夫婦で法要を勤めます。
自分も他に仕事をもって住職をつとめた父が、末期のガンに苦しみながら私に残してくれた言葉があります。
「(施設勤務と住職というふたつの仕事の予定が重なり悩んだときなどは)阿弥陀さまを中心に考えてほしい」
そして5日後、父はお浄土へ帰ってきました。
施設利用者(障害者)が自分らしく生きるための援助と、ご門徒が自分の生きかたを振り返るための法要の執行。どちらも大切なのはあたりまえです。
でも予定が重なったときは、どちらを断るか決断をしなくてはなりません。(12月5日号の内容にも通じますが)
こんなとき、つい「どちらのほうが強い口調で叱責されないか」といった、自己保身などを判断基準にしてしまいそうになります。しかし、父が心配したのは、そうやって施設職員や住職としての責任を、ひいては人生を見失っていくことではなかったかと思います。
「阿弥陀さまを中心に・・」とは「今、本当に自分が求められているのはなにかを考えてほしい」との父の願いであったと私は理解しています。
|
|
|