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5月29日から2泊3日で、組(同派寺院の地域組織)の研修旅行で鹿児島へ
行ってきました。
メインは「かくれ念仏」の史跡参拝。だめたけが、以前から、ぜひ行きたいと願っていた旅でした。
まず「かくれ念仏」について少し紹介します。
(元ネタは、今回の旅行で手に入れた資料とバスガイドさんから聞いた話、鹿児島別院で聴聞した法話です)
江戸時代、島津氏の支配した地域(鹿児島県・宮崎県諸県地方・沖縄県)と相良氏の支配した人吉地方では親鸞聖人の教えを厳しく弾圧ました。
理由は、士農工商の身分制度に不都合だったとか、真宗の僧侶が藩に不都合な情報を幕府に流したとか諸説あるようです。(だめたけの印象は前者です)
真宗門徒と密告された者に対する拷問は残酷を極め、正座のまま足に石を乗せられ下半身の骨を砕かれながら死んでいく者などは、数え切れませんでした。
しかし、南九州のご門徒は念仏の心を消すことなく、講(聞法会)を続けました。
ある人々は山仕事を装い山中の洞窟で、またある人々は釣り船に乗り海上で、またある人々は柱をくりぬいて隠した御本尊に手を合わせました・・
はじめに見学したのは、「立山(たてやま)の隠れガマ」でした。
体の大きなだめたけは、はって入らなければならないほどの狭い洞穴。奥に小さな小さなご本尊がありました。
たしかにバスが近くに寄れるように整備はされていますが、湿気た洞内から当時の人々の思いが伝わって来るようでした。
次に「ミュージアム知覧」(知覧町立博物館)で、町内の隠れ念仏の資料を見学しました。
中をくりぬいてご本尊を隠した納戸柱などを見ることができました。映像資料もわかりやすいものでした。
今回は行けなかった「牧永野の盗人穴」の説明もよく分かりました。
「幼い子どもがうっかり話さないように、『盗人がいて怖いから近づくな』と教えた」との話は、いかに慎重に真宗門徒であることを隠していたかを感じられました。
思わず資料集を買ってしまいました。
「花尾(はなお)の隠れ念仏洞」も訪れました。
山道を15分ほど登ったところにある自然の洞窟。すぐ脇を沢が流れているので「水音で念仏の声がめだたない」という利点があったとのことでした。
今回の旅行には、杖をついての参加の先輩もおられたのですが、「どうしても参りたい」と時間をかけて登ってこられました。また、下り道では、ひとりで登る若者にすれ違いました。みんなの心にもふれました。
「浄土真宗本願寺派鹿児島別院」にもお参りしました。
境内に「なみだ石」と呼ばれる薩摩藩が拷問に使った石がありました。この石に足の骨を砕かれ亡くなっていったご門徒が何人おられたことか・・
胸が痛くなりました。
最後に「真宗大谷派鹿児島別院」にお参りしました。
30分ほどでしたが、ご法話を聴聞しました。
同派の別院との気安さもあり、ざっくばらんな質問もできました。
貴重な資料もいただきました。
「バスガイドさんの言葉」も印象的でした。
「お西(本願寺派)ですが、真宗門徒です」というベテランガイドさん。「私の実家の近くにも、かくれ念仏洞がありました」との話を聞かせてくださいました。
「捜せば、かくれ念仏洞はもっとあると思う。完璧に隠されてまだみつかっていないものや、台風の土砂崩れなどで埋まっているものなどが多くなるのではないか・・」との話にも重みがありました。
特に依頼したわけではなく、偶然一緒に旅することになったガイドさん(ちなみに、運転手さんも)が、隠れ念仏につながるご門徒・・
目の前に居てくださる「普通のご門徒」に、南九州に根付く信仰の深さを感じました。
ちなみに「知覧特攻平和会館」も見学しました。
若くして、国家権力によって命を散らせた若者。年齢的に、今の高校生、大学生であることを考えると、ちょうどだめたけの子どもたちの世代です。
資料として展示されている遺書や遺品の数々、そして遺影。圧倒されました。
平日であるのに、来館者はすごい数。高齢のかたにまじって、修学旅行生も多く見かけました。ただ、見学している人の気持ちはまちまちかもしれません。
だめたけのグループは、二度と戦争をする国にしてはならないとの思いを確認
しました。
ちょうどこの旅行のころは、共謀罪が話題にあがっているころでした。
結局、成立はしませんでしたが、「出しては引っ込めて・・」を繰り返しながら、国民の感覚を麻痺させようとする作戦の一環と感じられてなりません。
ここ数年、社会全体の雰囲気として、組織の大小を問わず、「上」の基本方針に沿わない意見が言えないような雰囲気が急速に蔓延しているような気持ち悪さも感じているのは、だめたけだけでしょうか?
「戦争には反対」「イラク派兵は間違っている」「憲法第9条を守ろう」「すべての人が自分らしく生きられる社会をめざそう」・・
こんなことを言っている真宗門徒が、再び山中や海上でひそかに講を開かなければならない時代が、すぐそこに迫っているような恐怖を覚える今日この頃です。
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先日、勤務先の障害者施設の広報紙に、署名文章を書く機会に恵まれました。「オチがなくて、だめたけらしくない」という評価も含め、数名の人から感想を聞かせていただきました。
また、ある集会では、来賓があいさつで私の文章を引用してくださいました。たいへん嬉しかったのですが、私の文章力のなさのために、必ずしも真意が伝わっていないもどかしさも感じました。
ちなみに、この文章は「だめたけ日記」用に再校正したものです。職務に関わる部分を削除するなど、後半部はかなり変えました。
私の大学時代は、まさに合唱三昧の毎日でした。ただ、私は音楽が得意ではなく、むしろ苦手でした。ある人に「合唱は一人では歌えないヤツの音楽」といわれましたが、私にはこの表現はピッタリあてはまりました。
合唱の楽しみは、それぞれの声質にあわせてパートに別れ、みんなで音楽を作り上げることです。数をたのんで声量を求めるのではなく、一人の声では表現できない深みと広がりをつくることだと私は思います。
私は、美しいとはいえない自分の声が、仲間の声と美しいハーモニーを響かせた時の感動が忘れられません。きれいに響いたときには自分の声は聞こえませんが、一人で歌うことでは得られない充実感を感じました。
大学を卒業し、合唱を離れて20年たちましたが、この経験がいまでも私に「ひとつの指針」を与えてくれます。
響きあうことは、ただ人に合わせることではありません。ひとり一人が責任を持って声を出さなければ合唱にはなりません。
これと同じく「私はこう思う」と意見を持つことはすべての基本となります。声質と声量のための発声練習が必要なように、努力や経験を重ねることも必要でしょう。ただ、人の声を聞かないとハーモニーは生まれません。
重要なのは、社会に埋もれた私ではなく、社会を構成する一人としての私を目指すことではないかと思います。人に影響を受け、人に影響を与えることが、自分の存在価値を発見するということではないかと考えます。
ひとり一人の思いが、みんなの願いになって、普遍性を持つようになる・・
大切にしたい視点だと思います。
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数週間前のことです。数年間使ってきた腕時計が不調になり、買い換えることになりました。あこがれだった(?)電波時計にしました。
電波を自動受信して時刻を修正する時計。最近は手の届く金額になりました。
「これで私も常に正しい時間を手に入れた」と満足していた購入直後、たまたま私が職場で司会を勤めることになった会での上司とのやりとりです。
上司: 定刻をすぎたから、はじめよう・・
私 : まだ時間前です。じつは私の腕時計は電波時計です。時刻は正確です。
上司: そうかなぁ、定刻をすぎていると思うが・・
結局は、私の間違いでした。
購入直後で操作を理解しておらず、表示のさせかたに問題がありました。
数日前なら「私が間違っているかもしれない」と即座に思えたはずです。しかし「私の時計は正しい」という思いが、あたりまえの発想を後ろに追いやりました。
そもそも、一刻を争うわけでもない場面で、数分の時間で意地になって言い張ることはなかったのです。
「自分が正しい」と思ってしまうと、人は危険な存在になります。他者が間違った存在に感じられ、どちらでもよいことに意地になったします。
今、世界は唯一の超大国の「正義」が、すべてのことを正当化してしまう危険な状態にあります。最も力を持った者が他者の言葉を聴かなくなるほど恐ろしいことはありません。
「自分はこれでいいのか」と立ち止まって自問する冷静さ、せめて「他の時計」を見比べる確認する良識を持ってほしいと思います。
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「だめたけ日記」の読者にニューヨークの大学で社会科学を学んでおられる「ともみさん」とおっしゃる留学生がおられます。はじめてメールをいただいたのは、2001年2月27日に配信した<考「ダンサー・イン・ザ・ダーク」>に対するご意見でした。
その後もたびたび私のメルマガに対し、温かくもするどいご意見をいただいています。
今回は彼女の許可をいただき、9月11日以降のメールのやり取りを紹介したいと思います。テレビのニュースではない、平和を願う一女性の視点を借りて、今の事態をみつめてみたいと思い ます。
9月11日 だめたけ >> ともみさん
日本のテレビでも、昨夜10時過ぎから信じれれない映像を流し続けています。言葉もありません。
ニューヨークだけでなく、アメリカ全土が大変な状態とのこと。
だいじょうぶですか?
9月12日 ともみさん >> だめたけ
(略)
テロからもうすぐ10時間くらいになろうとしている所です。とりあえず私は生きています。もうジョークに出来ないくらいのひどい出来事で、言葉がありません・・・
飛行機がビルを貫通できるなんて知りませんでした。学校は12時半でしまってしまい、非常事態宣言のような状態です。学校から早めに引き上げて来たのはいいんですが、脱力感がひどくて何も出来ない状態です。情けないんですが・・・
そんな中でホストの中国人夫妻は餃子を作って御馳走してくれました(^.^) −(略)− ここの家に居られて良かったです。
朝、中継を見たときは、事故だというように聞いていたので、まさかこんな事になるとは思わなかったんですよ。信じられ無い話ですが、NYCのFMステーションは事故だと思ってそう言っていたので・・・ それを聞きながら学校に行って(友達の車で)学校で詳しい事を知って愕然とした訳です。図書館で特別にTVを中継してまして、それでワシントンの事も知ったくらいで、お昼の時点で何も知らない人も沢山居ました(灯台下暗しというか・・・)
先週の心理学のクラスで、ちょうどうちの先生が「民族間の紛争に付いて、もっと身近に考えるべきだ」という話をした矢先の出来事で、今日もクラスがあり「今が私達の正義を試されるときだ。復讐だけが取るべき手段ではない」と言われて、本当に考える事が多いです。とはいえ、パレスチナで国旗を振って祝っている市民(その殆どが子どもです)の映像を見ると、ますます暗い気持ちになります。
これからどうなるのか誰にも分からない状態で、専門家さえ明言を避けています(戦争への煽動を避ける為でしょう) とりあえず私は明日学校があるかどうか知りたいです。(略)
9月24日 ともみさん >> だめたけ
(略)
先々週は、ご心配のメール頂きまして有り難うございました。あの時は、何しろかなり気が動転していた為、支離滅裂なメールを送ってしまったような気がして今更恥ずかしく思っています。
あの日は12時間TVから目が離せずに、心配して連絡をくれたほかの方々にも無事の連絡をするなど張り詰めた緊張感の中過ぎていきました。夜も色々考えてしまい眠れない日が続きましたが、今は人々も段々落ち着きを取り戻しています。
あれから先生達と今回のテロに付いてとその後のアメリカの対応に付いて話し合う機会が多いですが、私は「無差別爆撃」に関する事には今でも反対です。しかし、民放局のTV番組が煽る中、今この国には誰もが国旗を振りかざし、国民の中には「愛国心」と「正義を行う」という2つの信念だけが渦巻いているようにも見えます。しかし過激派のイスラム教徒を殺し返せば済む問題では無いのは明らかです。アメリカ人の犠牲者に対する「誠実さ」が裏返されて「仕返し」に向かっている・・・ そんな気がします。
私の先生の一人は、「今までのアメリカのやり方が間違っているという事をアメリカ人はもっと認識するべきだ−それはまるで形を変えた植民地化にも見える」と言います。太平洋戦争、朝鮮戦 争、ベトナム戦争、そして湾岸戦争と「世界のモラルを代弁して」アメリカは本土の民間人を1人も傷つける事なく今まで「正義」を行ってきました。そのアメリカが今、建国以来初めての「本土攻撃」に遭い、彼等のモラルを試されています。大多数の国民がその事を認識していませんが・・・
私個人の意見としては、ラディン氏を捕まえても、殺しても、タリバンを攻撃しても問題は解決しないと思います。「原因」を理解しないと、この問題は解決しないのではないでしょうか。
しかし、「聖戦」と称してアメリカ人を皆殺しにしようとする団体に対し、どうすれば良いのか。解決するには時間が掛かりそうです(早急に事を運ぼうとすればこれ以上の悲劇を招くのは明らかですし・・・)
今の私の願いは、25日に来米、会談する「好戦家」の小泉首相の元、アメリカの「正義」に日本が積極的に参加しない事です。
世界をリードする大国がやる事だからこそ、他の国々はその意味を深く考えて欲しいのです。2週間が経ち、私はまた宿題に追われる日々が続いています。(略)
9月24日 だめたけ >> ともみさん
(略)
今日の法事の席でも、テロ事件が話題でした。
戦時中、特攻隊に志願したものの定員の都合ではずされたというご門徒が、「予科練で教官が『戦闘機でニューヨークのビル(エンパイアステートビル?)に突っ込めたらアメリカの戦意をくだける』との話をしていた。事件の映像を観て身震いした」と話しておられました。(略)
「はじめて経験する戦争」なのか、あるいは歴史の繰り返しなのか・・
「アメリカも足手まといと迷惑している」といったうわさもあるのに、強引に自衛隊を派遣しようとする小泉総理。
ともみさんが心配されるように、同じ間違いへの第一歩にならないことを願います。
10月8日 ともみさん >> だめたけ
(略)
アフガニスタン爆撃のニュース・・・一気に気分が重くなりました。
私個人の意見としては、これは完全に「歴史の繰り返し」だと思います。アメリカは今「神」と「正義」の名の元に飛行機を飛ばして1億円ともいわれるミサイルを落としています・・・ 大統領は さて置き、副大統領のチェイニー氏はさっさと雲隠れして他国の外相と電話で協議(もともとこの政権は副大統領が影で操っているというもっぱらの評判です) 特効志願者を操って人を襲うラディン氏との違いは何なんでしょうか??
特攻隊に志願したというご門徒の方の話、大変印象深いですね。ラディン氏はその信じられ無い話を実行に移した訳ですね。こちらではまた大規模なテロが近々起きるんではないかという予測が世間に浸透しています。しかし、前回のようなシステムのほころびを上手く利用した大規模なテロは事実上不可能かと思われるので、どうなるのか分かりませんが・・・
アメリカ人は(まあアメリカ人に限った事でもないんですが)本当に自国以外の事に付いて知りません。パスポートを持っている(カナダ以外の海外に行った事がある)比率もかなり低いと思います。海外における「知識」も「経験」も無いんです。
そんな人々に対し、この国の民放放送は、完全な情報の限定と操作で国民の心理状態に大きな影響をもたらしています。ごく一部の人が実際の実力行使のカギを握っているとは言え、その大元は一般市民です。私が国旗を振りかざして「愛国心」を訴える人々を見て不安にかられる理由がここにあります。
メルマガの「人を逃げられないところに追い詰め、自分の優位をしめす。これが差別だよ」という言葉に深い共感を覚えました。
ラディン氏やタリバンの人達がここまで行動するその元は何なのか。何故ヨーロッパや近隣諸国ではなく、「アメリカ」なのか。アメリカ人はその意味を良く考える時だと思うのですが・・・
私もアメリカは「叱責する客」だと思います。
今の私に出来る事は、水が無くて死にかけている子ども達や難民キャンプが、爆撃箇所になっていない事です。今回も爆撃と同時に、アメリカやイギリスが援助物資をキャンプに投下しているようで、大きな矛盾を感じますが、一旦爆撃すると決定したら、これ以外の方法も無いのかとも思いますが・・・
今英語のクラスで勉強している詩に、こんな表現がありました。
「戦争を始める人々が勝てると思うから戦争は起こる」
(Wars happen because the ones who start them think they can win)
この一文は言葉以上に重要なものを表現していると思いませんか? 今のアメリカは正にこの状態だと思います。これはだめたけさんの言う「特定の個人や組織を世界一の悪者と位置づけ、優位な立場から攻撃するということ」という事ではないでしょうか?
これ以上自体が悪くならない事を切に願います。
(略) |
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9月11日、はじめはなにが起こっているのか分からず、ただ呆然とテレビをみつめいていた私。つづいて、激しい悲しみがこみあげてきました。
その後、報復攻撃が近いと伝えるテレビを観ながら、私はもう10年以上前に読んだプリントをあらためて思い出しました。
(大阪近辺の仏教学習会の会報ではなかったかと思うのですが、はっきりしません。細部についても不確かな部分があります)
しかし、とても印象深いエピソードです。
若い僧侶が先輩と中華料理店で食事をしている。
すると、となりの席で客が店主をよんで叱責しはじめる。ラーメンにゴキブリがはいっていたとのこと。
「この店のことを思って言っているんだ!」と客の激しい叱責。
それをうつむきながら「すみません」をくりかえすしかない店主。
それについて先輩は若い僧侶にひと言。
「人を逃げられないところに追い詰め、自分の優位をしめす。これが差別だよ」
この話と、今回のテロ事件とアメリカの軍事行動が、すべて同じとは私も思いません。
ミスでゴキブリを入れてしまった店主と、綿密な計画を行動に移したであろうテロリスト。
店主は誰よりも起こったことの重大さを痛感していますが、テロリストに罪の意識があるかどうかはわかりません。
また誰もが客観的に認めるゴキブリという証拠がある状況と違い、今回の事件は現在のところ「肝心の部分」が欠落しているといわねばなりません。NATOや小泉首相が「話せないけど聞い ている」というだけではいかにも不充分です。
店主が事実と責任を認めているという点でも、大きく事情が異なります。
そしてなにより、このエピソードには「乗り遅れるな」とばかりに客と共に店主を叱責する「友人」は登場しません・・
「アフガニスタンでの軍事行動でアメリカは勝利できない」という予測もテレビでよく聞かれます。アメリカは決して身を安全なところにおいているのではない。危険を覚悟で勇気をもって正義をしめすのだと・・
しかし、仮に軍事的に勝利できなくても、あるいは報復攻撃に対する報復テロがあったとしても、アメリカ本土がミサイルや銃弾が飛び交うであろうアフガニスタンのようになることはないでしょう。
私には圧倒的な国力、軍事力を背景に、自分を絶対有利の状況においた行動に思えます。
テロリストは、責任を感じるからこそ反抗できない「店主」ではないかもしれません。ただ、アメリカは「叱責する客」だと私は思います。
テロに反対するのは当然です。
何千人という人を殺したという残虐な事実は、どんな言葉でも表現することができません。ごく一部を除き、全世界のほとんどの人が厳しく批難しています。
だからといって、特定の個人や組織を世界一の悪者と位置づけ、優位な立場から攻撃するということには、やはり「差別の構造」だといわずにはおれません。
差別のもっとも恐ろしく残酷な結果がテロ、テロの大規模なものが戦争・・
究極の差別が戦争だとすれば、報復攻撃は文明国を自負するアメリカの取るべき行動ではないはずです。
「差異をみとめる世界の発見」がわれわれに求められています。
最後に真宗大谷派がブッシュ大統領にあてた要望書を転写します。(同文は小泉総理あてにも送られています)
ただ、だめたけという一人の僧侶が共感をおぼえたメッセージとして紹介します。
アメリカ合衆国における同時多発テロにかかる要望書
このたび、2001年9月11日のアメリカ合衆国における同時多発テロ行為によって甚大なる被害を受け、多くの人々の尊いいのちが奪われたことに対し深い哀悼の意を表し、傷ついた方々に心からお見舞い申し上げます。
同時に私たちは、現在、このテロ行為に対する報復として武力行使が行われようとしていることに対しても深い危惧の念を抱かざるを得ないのであります。
すべてのテロ行為は、憎むべき卑劣な行為であります。しかしながら、その行為に対して武力をもって報復し、次々と戦争の悲劇を生みだし、多くの人々のいのちを奪い続けているのも事実であります。これこそ人間自身の持つ愚かさ・悲しさではないでしょうか。
もはやいかなる困難が伴おうとも、武力による報復という連鎖を断ち切り、民族・言語・文化・宗教などの様々な違いを認めあう道を模索する以外に、テロリズムを克服していくことはできないと確信するものであります。
私たち真宗大谷派は、過去の戦争に深く関与し、多くの国と人々に多大なる苦痛と悲しみを強いた歴史をもっています。生きとし生けるものを平等なるいのちとして見い出す仏陀の教えをいただきながら、その教えに背いて戦争への道をひた走ったという罪責は、どれだけ反省しても償うことはできません。私たちは今、戦争の歴史を検証し自らの加害責任を直視し、正義の名のもとに 人間が殺し合う戦争を二度と繰り返してはならないとの決意をあらたにするものであります。
私たちは今回のテロ事件を機に、世界における民族、宗教等の諸問題に対する無知・無関心をあらためて自覚し、全世界の悲しみを真摯に受け止め、この悲しみを乗り越える道を実現するため、これ以上一人の犠牲者をも生み出すことのない、いのちの尊厳を守る叡知こそが結集されることを願いとして、このたびのテロ行為に対する報復として、武力行使がなされることのないよう、強く要望いたします。
2001年9月21日
真宗大谷派宗務総長
木越 樹
アメリカ合衆国大統領
ジョージ・W・ブッシュ 殿
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<サンガ>の続編です。
なお、今回の文章での「僧」(サンガ)は、仏教教団にとどまらず、組織あるいは社会のイメージで使っています。
<サンガ>では玉光順正さんの次のような文章を紹介しました。
帰依僧(サンガ)とは、仲間作りではない。
帰依僧とは、たとえ考えは違っても、宗教が違っても、民族が違っても、様々な違い、その違いを超えて、その違いをもった人と朋になるような関係が開ける自分になるということである。
様々な違いを超えて、その人に真向かいになることが出来る自分になる。このことこそが帰依僧ということがいえるのではないだろうか。
それは、いわば一人の集団、個人としての集団とでもいえるかもしれない。
「一人の集団、個人としての集団」になるためには、「まず自分の意見をはっきり言って立場を明確にする」との必要が生じます。でも、「そんなことをしたら、集団のなかで孤立してしまう」と危惧する人は多いのではないでしょうか。
しかし、玉光順正さんは「意見をはっきりいうことで、誰とでも友だちになれる自分になれる。限定されることによって自由になる」といっておられます。
今回はこのことを会議にからめてテーマにしてみたいと思います。
だめたけは、いろいろな会議に出る機会があります。
勤務先の福祉施設の会議(これがたいへんな数でいささかまいっています)、労働組合の執行委員会、そして寺の住職の会議と自分の寺の門徒役員との会議、先日は自治会の寄り合いもありました・・
会議によって立場はいろいろで、単なる参加者のこともあれば責任者や議長役をしなければならない会議もあります。
会議で一番こまるのが、あまり意見が出ない会議。
これは時間的にはやく終わりますが、「賛成します」といっていた人にかぎって、議決したことに支障が出たときには「じつは私は反対だった」などと言い出したりします。
次にこまるのが、自分の意見を高圧的に主張し、他の人の意見を聞かない人がいる会議。
意見を吸い上げる立場にいながら、じつは自分では人に伝えるほどの意見は持っていないため、最後は「私の意見になぜ反対する!」と開き直るケースや、ダラダラと持論を述べ自己満足をしているケースもあるかもしれません。
あたりまえの会議というのは、いうまでもなく、おのおのが自分の責任で意見を述べ、他の人にそれを伝えようと努力し、他の意見もしっかり聞いて、決まったことには参加者全員が主体的に責任を持つ会議でしょう。
このような会議では、たとえ意見がぶつかっても、個人的な関係が悪くなるということは少ないのではないでしょうか。自分の意見の問題に気づいた人は素直に引きますから、不必要に会議が長引くことはありません。
しかし、このような「あたりまえの会議」の参加者になることはたいへんなことです。
まず、自分の意見(けして○○派ということではありません)を持たなくてはならないからです。
意見を述べれば責任も発生します。なにより建設的な質問であっても、それに答えていくことは大変なことです。これがわずらわしくて、あえて発言しないという人はたいへん多いと思います。
しかし、会議に限らず、社会的な人間関係においては、自分は何者かを名のることがないと関係がはじまりません。そして精神的に自立した人は、決して人の意見を聞かなかったり、抹殺したりはしないものです。
派閥にこだわる人は、結局自立していないといえるかもしれません。
「個人としての集団」とは、けして「一匹狼になれ」ということではありません。
「バラバラでいっしょ -差異をみとめる世界の発見-」という言葉に引っ掛けるとすれば、まず自分が何者かを名のらなければ、「バラバラ」であることの確認ができません。その確認ができてこそ「いっしょ」ということが課題となり、「差異をみとめる世界の発見」という理想のすばらしさが輝いてくるのです。
「あなたは何派?」といったゲームの駒としての個人でなく、自分を明確にすることで、お互いを尊敬し認めあう世界がひらかれる・・
玉光さんのいう「帰依僧」とは「自立した個人の集団」ということではないかと思います。
とはいっても、この「自立した個人」のもっとも遠いところにいるのは、他ならぬこの私です。
だめたけの正体をご存知のかたからは「おまえがいつも会議の質を落としているくせに!」と罵声が聞こえそうです。
昔、なにかのコマーシャルで「自分の顔に責任を持て」というのがあったように思います。
私もそろそろ自立した中年を目指したいと思います。
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アフガニスタンの巨大石仏破壊問題は胸が痛む限りです。
特定の宗教が他の宗教を否定する・・ また個人が集団行動を強要される。オウム事件の時もそうでしたが「だから宗教はいやなんだ」といった声が聞こえてきます。
しかし、本来、宗教とはそんなものなのでしょうか。
これに対するひとつの答えとして、私が尊敬する真宗僧侶、玉光順正さんの言葉を紹介します。
なお、今回の文章での「僧」は「僧伽・サンガ」。通常は仏教教団をさして使われることが多い言葉とご理解ください。
(略)
仏教徒とは、いうまでもなく三宝に帰依することをいう。三宝帰依とは、帰依仏、帰依法、帰依僧のことである。
ところで、私はこれまで長い間、帰依僧ということの説明として、僧=サンガ=仏教徒の共同体、だから本当の仲間、同朋、友達になるとか、その一員になることといってきた。
しかし、ここ数年来、どうもその言い方では駄目だと思ってきている。
帰依僧とは、仲間作りではない。
帰依僧とは、たとえ考えは違っても、宗教が違っても、民族が違っても、様々な違い、その違いを超えて、その違いをもった人と朋になるような関係が開ける自分になるということである。様々な違いを超えて、その人に真向かいになることが出来る自分になる。このことこそが帰依僧ということがいえるのではないだろうか。
それは、いわば一人の集団、個人としての集団とでもいえるかもしれない。
親鸞はそんな自己を「非僧非俗」といったにちがいない。(略)
同じ考えの人をどんどんふやしていこうという仲間作りのやり方は、宗教であろうと政治であろうと何であろうと、ほとんどこの方法がとられている。
しかし、仲間作りとは、悪くいえば徒党を組むことであり、当然それは仲間外れを作り、排除、差別、抑圧ということにもなっていく。
(略)
非僧非俗のサンガとはなにか。ネットワークとしてのサンガということになるのだろうか。帰依僧とは、ひとり一人がネットワークの一つの基点になることだと。ネット(網)というのはそのひとり一人が基点になってつながっていくわけです。
私たちが親鸞を聞いていくということは、もっといえば信心を獲得するということは、ネットワークの一つの基点となること、人と人をつなぐ一つの縁に徹することの出来る私になることではないだろうか。
(光明寺通信 1998年9月)
○ 段落など、だめたけが一部加工した部分があります。
玉光さんは別の文章で「宗教とは何かという問いには『宗教とは自分で考える人間になる』と答えたい」といっておられます。
「バラバラでいっしょ -差異をみとめる世界の発見-」
この真宗大谷派蓮如上人五百回御遠忌スローガンも、私のもっとも好きな言葉のひとつです。
なお、だめたけは、これらの言葉を福祉でよく使われる言葉に置き換えるとすれば、「自立」であろうと考えます。
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この映画の監督、ラース・フォン・トリアー氏は「映画を見終わって、誰かに話すとき、または文章をお書きになる時、結末に触れることを控えて頂きたいと思います」とパンフレットに書いておられます。
まだこの映画をご覧でないかたは、ご注意ください。
この映画にはさまざまな問題提起が読み取れます。
視覚障害、遺伝病、共産圏からの移民に対する差別、友情、中小企業問題・・
どれも重い問題が丁寧に描写されており、今もいろいろな思いが頭の中をかけまわっています。
しかし、今回は映画を薦めてくれた友人からラストシーンに対する感想を求められたこともあり、死刑制度にしぼって書いてみたいと思います。
主人公をラストシーンで絞首刑にするこの映画は「残酷な映画」といわなければなりません。
しかし、この映画には「極悪非道」と呼べるほどの悪人はでてきません。
刑務官は、職務として彼女を死刑にするものの、最後まで人間として接しようとします。
死刑判決をくだす判事や陪審員、それに検事も証拠の捏造などはしていません。共産圏からの移民に対する差別という大きな問題をかかえるものの、それぞれが自分に与えられた役割を人間の 能力いっぱいにこなす、真面目な人のようでした。
主人公の金を盗むビルにしても、警官の自分が人間として許されない行為をしていることに悩んでいました。
彼女に「殺してくれ」と懇願する姿には、弱い自分を乗り越えられずにいるようすがひしひしと感じられました。
極悪人というより、弱い人、あるいは人間らしい人との表現があたるのではないでしょうか。
にもかかわらず、主人公は絞首刑になります。これでもかというほど死の恐怖を味あわせた後、彼女の生の表現である歌を最後まで歌えないままに・・
映画を観られた方のほとんどが、「どうか主人公を死刑にしないでくれ」と願われたのではないでしょうか。
それは彼女が誤審により死刑台にのぼるからではなく、「生きたい」と願いつつ死んでいくからではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
夫を彼女に殺されたリンダにしても、執行の瞬間に彼女の死刑を望んでいたようには思えません。
親鸞のことばに「さるべき業縁のもよおせばいかなる振舞いもす」(条件と状況がそろえば、なにをしてしまうかわからない)というものがあります。
自分の弱さからセルマの金を盗むビル。もみ合ううちに銃が暴発するというかたちで、ビルを殺してしまうセルマ。そして息子の難病を隠すために、貯金を「父への送金」とウソをついていたために、裁判を不利にします。(真実を語らなかった彼女の心情については重い意味がありますが)
これらは誰でも持っている心情、誰にもおこりえる不幸です。
最後に、死刑廃止運動に取り組んでおられる、ふじえちづこさんの言葉を紹介したいと思います。
「殺さないでくれ!」と助けを求めている人々を知ってしまった数少ないひとりとして、私も「殺さないでくれ!」と叫ばないわけにはいかない。 (略)
「生きたい!」と願う死刑囚。「生きたかった!」に違いない被害者。
私の中でそれは「生きたかった!」のに死を余儀なくされたすべての人々への想いと重なっていく。 (略) 誰もが、与えられた生命の輝きをまっとうして生きられる世の中は実現できないものなのか。
(東本願寺・真宗ブックレットNo.3「死刑制度と私たち」より)
私も死刑制度に反対です。
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福祉施設に勤務するある女性からメールをいただきました。その内容は、私も悩んでいる課題でした。
メールをいただいた女性の許しを得て、3回にわたり、彼女とのメールのやり取りを掲載します。
(プライバシー保護のため、内容を若干加工しています)
<女性からのメール>
(略)
今日は相談があります。
私は福祉施設に勤務してもう何年にもなりますが、自我の強い私は毎日が自分との闘いです。
例えば問題行動のある人に対して、感情をすぐに顔に出してしまう。何回もしつこく質問をされる人に対して「いい加減にして欲しい」という感情を顔や態度や言葉に表してしまう。「面倒を見てやってる」という態度に出てしまい、ついつい上からものを言ってしまう。自分の都合で「忙しいから後でね」などとに対応してしまう。
(略)
自分をコントロールすること。こんなに難しいことってないです。
(略)
だめたけさんは自分の感情をコントロールできますか?
仏門に入られている方ですから、こんな質問って失礼なのかしら?
<だめたけの返事>
(略)
利用者(私にとっては施設に通う知的障害者)に対してイライラすることは、私もあります。特に、忙しかったり、疲れているときには、ついつい態度に出ていることがあると思います。
(略)
(こんな自分の心をコントロールできないというこのに関し)親鸞聖人の生き方が参考になります。
よく、仏教の修行を積んだ者は自分の心をコントロールできると誤解されます。厳しい修行を積み、人の心の真実と物事の真理を究めると、くだらないことで心が乱されることがなくなり、澄んだ心になれる・・
親鸞もはじめはそのような境地を目指し、9歳から29歳までのあいだ比叡山で厳しい修行と勉学に励みます。しかし、そこで得た答えは「私はとても煩悩(よくない心)をコントロールできるような人間ではない」ということでした。
そして、「そんな私がいかに生きるべきか」をもとめ、法然と出会うのです。
どんなに理解し、分析できても自分の思うようにコントロールできないのが心だということが、親鸞の答えでした。
ちょっと違うかもしれませんが、私は福祉現場も似たような例と感じることがあります。
我々福祉職はケア会議で、しばしば人の心についての議論をします。
「あの人はこれにストレスを感じている」とか「あの人はこれが原因で人に当り散らしている」とか利用者の心の動きを検討し、分析します。
しかし、福祉職員がイライラしたり、カッとしたりしないということはありません。
ただ、あなたは「福祉の職員として、してはならない態度をとる自分」を感じておられます。
このことは大変重要なことだと思います。
「気づいてもコントロールできないのが心」とはいえ、まず「気づく」ことがなければ、スタートはないと思うのです。
(略)
ここから「理念としては知っていても、どうしても利用者を大事に思えない瞬間がある私」が「福祉職員として、あるいは人として、どのようにしたらよいのか」との探求が始まるように思います。
(このことは、歎異抄第三条の悪人正機説に通じると思うのですが、長くなるのでやめます)
(略)
(大きな間違いを犯さないために)もっとも有効なのは「今日のおまえの援助、問題だよ」と指摘してくれる同僚の言葉だと思います。しかし、私の施設では、どうしても遠まわしな言い方になったり・・
(略)
本当は「阿弥陀さまが見ておられるから」と間違いをおこさず毎日が過ごせればいいのですが、私もヒヤヒヤの毎日を送っています。
あなたのメールで私と同種の悩みを抱えながらがんばっておられる人を知り、勇気づけられました。おたがいにがんばりましょう。
<再び女性からのメール>
(略)
実は、思い悩んでいて沈みがちだった私を同僚も心配してくれておりまして、正直に相談したところ「私にもそういう時、あるよ〜」との返事。ずっとずっと一人で「なんて仕事に向いてないんだろう」と悩んできました。思いきってだめたけさんにご相談したので、同僚にも相談できたのです。彼女は私がそんな事を悩んでいたなど全く考えもしなかった様でした。
「人と人との付き合いだし感情が入ってしまうのは仕方ない。だが、『仕方が無い』とあきらめてしまったらそこで終わりであろう。せっかく同士が見つかったのだからと傷を舐め合うようなことはせずに、お互いを利用しよう。(略)一人で悩まずに一緒に考えて行こう」
これが私達の出した答えでした。勤務後、駅前のファミレスで6時間も話した結果です(笑)
彼女は熱く熱く語っていました。(元来熱い心の持ち主なのですが) そんな彼女と話していて、嬉しくてなのか興奮してきて涙が止まらなかったです。
果たして今後「これで自分を押さえて介護ができるでしょう!」と言い切れはしませんが、相談できる友人やだめたけさんの言葉を忘れずにがんばっていきたいです。
本当にどうもありがとうございました。
はじめは相談を受ける立場であった私が、このメールで本当に勇気づけられました。
福祉現場の職員は、利用者の最大の味方にも敵にもなりえます。それだけに間違いを犯さないための管理システムは無論必要です。ただ、「自分を見つめる能力」は福祉職員の専門性だと私は考えています。
そして、施設の質とは、マニュアルの整備だけではなく、仕事のことを腹を割って語り合える職員の信頼関係ではないでしょうか。
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住職と施設職員は職業としては異なりますが「すべての人が、自分らしく、いきいきと人生をおくれるように」というまったく同じ目標をもっていると、だめたけはとらえています。
そんな共通の課題の中で、障害者施設で特に重視している「自己選択」については、僧侶として学んだことなどを自分なりに整理し、現在のところ次のように理解しています。
「人生は経験の積み重ね。経験は本当の選びの積み重ね」
〜 重度の知的障害をもつ利用者がどちらを選ぶか一生懸命に悩む。援助者はそのサインを逃すまいと真剣に表情を追う 〜
選んでいる内容は、うどんを食べるかそばにするかであったり、散歩とビデオ鑑賞のどちらのプログラムを選ぶかといった小さなこと。とても社会の動きを左右するような大きな内容ではありません。でも、本人はありったけのエネルギーをつかって「選び」をおこないます。
一方、それなりに情報処理が出来るはずの「健常者」が、思いつきで物事を決め、あとで不都合を人のせいにするようなことはよくあります。(私もそうです)
本人は大きな決断をしているつもりでも、ただの責任回避であったり、損得勘定であったりと、物事の本質からかけはなれた決断もあるかもしれません。(政治家はどうでしょう?)
これらは、たとえ無難な判断であっても、「選び」を軽視したという意味で,人生や自分に対する不真面目さといえないでしょうか。
「自己選択の尊重」というのは、なにも身体に危険がおよぶことや公共のルールに照らして間違っていることまでを「本人が決めたのだから」と容認しようというのではありません。
ただ、決断の意味を経済や社会への影響力ではかるのではなく、「自分の責任で一生懸命悩んで決めた」という事実に視点をおけば、ともに同じ時を生きる人間として、すべての人が尊敬しあえる関係を自然につくれるのではないでしょうか。
とはいいながらも、自分の性根をよくよく思えば、はたして本当に悩んでいるのかさえ疑問ですが、私もなんとか「選び」から逃げる投げやりな人生をおくらないように努めたいと思います。
(ちなみに阿弥陀さまは真剣に悩むことすら出来ない情けない私をも救いとってくださるのですが)
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