やまざる通信(No.11−No.15)

 

やまざる通信 No.11 

(2002年1月20日)


新春です


今年もよろしくお願いします。


 さて、私の田んぼと畑の現在の様子をご紹介しましょう。半反の田んぼには稲刈りのあとに播いた小麦とライ麦が芽を出し、うっすらと緑のラインを浮かせています。畑では、エンドウ、ソラマメ、アブラナ、ネギ、玉ねぎ、キャベツ、ハクサイ、大根、ニンジンなどがゆっくりと育っており、イチゴの苗は葉を赤くして冬を越そうとしています。


 耕さない畑として4年目になる区画では冬でも緑の草々が畑を覆い、その冬草の陰に隠れるようにエンドウやソラマメの小さな芽が春を待っています。耕さず、農薬や肥料を持込まず、できるだけ自然の草の成長や昆虫や小動物の働きに任せておくと(自然農といいます)、徐々にではありますが確実に土地が豊かになっていくのを感じています。


 1月2月は畑仕事はほぼ休業して、野菜の支柱や家周りの補修に使う竹切りと、裏庭の整理などをしようと思います。また、1月中には今年1年の作付け計画も立てます。ナスは去年25本植えたらとても食べきれなかったし、大根は少し不足気味だったので増やそう。キュウリは2本ずつを時期をずらして3回ぐらい植えるとよさそうだとか、去年のでき具合と消費具合を勘案して・・・そうそう、今年は綿の木と藍染めの藍も植えてみよう。また、今まで作ったことのない中国野菜も加えてみようかな。


珍ニンジン


 娘の通っている幼稚園でカレーライスを作るため、各自1人分の材料を持っていく日がありました。ジャガイモは11月に収穫したのが保存してあるし、ニンジンは畑にたくさん植えています。それで畑に行って3本のニンジンを引き抜いたら、その一つの形がおかしい。きれいに二股の足のように分かれ、なんとその中央に男の逸物とおぼしきものがもっこり。娘は○○ポコニンジンと大喜び。「幼稚園に持っていったらみんな喜ぶよ」といってみたけど娘は「幼稚園に持っていくのは、はずかしいので絶対いや」といいます。この子も成長したんですね。


 さて、家に遊びに来ていたミセスのK子さんは、そのニンジンをじっと見て「かわいーい、食べてしまいたーい!」。私はなんと反応していいのかわからず、「・・・・・」



子供の脳があぶない


 これは犯罪心理学者として多くの重大事件で精神鑑定をされている福島章さんが書かれたPHP新書の題名です。


 人間の心や行動を理解するには、生物・心理・社会など少なくとも三つの次元を検討し、その知見を総合しなければならないという立場で書かれています。しかし日本の児童精神医学者は伝統的に生物学的次元に対する関心に乏しく、そのかわり、心理学的・社会学的な解釈や介入に熱心な傾向にあるといいます。たしかに、事件を起こした子供に対する一般的な反応は、私を含めて、たいてい親の育て方とか、学校や社会に責任を持っていくことで終わっています。


 ところが、学級崩壊と関係の深い「注意欠陥多動性障害」の子どもの多くは脳の微細な形成異常を持っていることがこれまでに明かにされています。また、殺人を犯した人の脳のを調べると約半数に脳の形態の異常が見つかっているのだそうです。神戸の酒鬼薔薇聖斗少年のような特異な犯行に及んだ少年の「脳」はけっしてふつうの少年のものと同じではないと、著者は言います。


 これらの異常は妊娠6、7ヶ月から生後1年ぐらいの脳の形成時期に「環境ホルモン」などの化学物質にさらされ生じたものが多いと推察されています。 生きた人間の脳の微細な形態異常は目で見ることができず、CTやMRIという精密な画像診断で発見されるようになったものです。


 脳の形態異常を原因とする行動異常に対して、心理学的な治療やカウンセリングには限界があり、医学的な対応が求められます。


 この本を読んで初めて、子どもの心や行動を理解し対応するためには、脳の生物学的異常も考えることが必要だと思いました。



やまざる通信を読んで


 この個人通信は、神戸の友人のご好意でインターネット上にホームページとしてアップされるようになりました。そのため、最近しばらく会ったことのない旧友や見知らぬ方々からの反応がメールを通して寄せられるようになり、嬉しいことです。


 昨年は、読売新聞と日本経済新聞の記者がやまざる通信のホームページを読んで興味を持たれたようで、拙宅まで取材に来られました。その結果それぞれ去年9月6日の篠山の風土と農に関する特集記事および今年1月3日の不安の実相という連載記事の一部になりました。自分では特別の事をしているとは思ってもいないので、私の暮らし方が記事になるのは、なんだか不思議な気がしますが。


 やまざる通信がご縁で、福井県からはるばる来られたご夫婦に、収穫した黒豆の枝豆を送ったら、自然農による初めての自家米を送ってくださいました。 また、何回かメールのやり取りのあと、昨年6月から毎月1回農作業のため宝塚市から通われるようになった女性は、今年も続けて私の田んぼで農を楽しまれるようです。


 今年もまたどんな出会いがあるか楽しみです。


          


やまざる通信 No.12 

(2002年3月31日)


春の田畑

 

 耕すことなく丸3年経った畑(約30坪)は踏むとほかほかとして気持がいいで す。 キャベツ、エンドウ、ソラマメ、シュンギク、ニンニク、タマネギ、小麦が冬を 越し、ダイコンは花が咲き始めエンドウやソラマメが周りの草の中から伸び出してい ます。 3月中旬、この畑にジャガイモを植えつけ、ニンジンの種を播きました。


 100坪ほどの河原にある畑は不耕起3年目。2、3年後には川の流路変更工事で 残念ながら川底になる予定になっています。 この畑は砂地でいも類がよくできるので ジャガイモのダンシャクを植えました。  


 去年の春から借りている300坪の田んぼの半分は小麦とライ麦の緑のラインがき れいです。麦の収穫(6月予定)後は水田としてお米を育てるので畑の一部を整地 し、油粕を薄く播き稲藁をかぶせて稲の種蒔きの用意をしました。


 先日同じ村のYさんと立話をしていて、近くの山すそに放置されている120坪ほ どの畑を栗畑として使ってもよいとの話となりました。栗の苗木5本を植えて、残り の場所には綿の木、藍染めの藍、薬草のウイキョウなど野菜以外の種蒔きをしよう。 山すそは、鹿、イノシシ、サルなどの動物が出やすいので野菜を作っても動物の食べ 物を作るようなものですから。

 

 去年、家の周りには梅、りんご、ラズベリー、ブルーベリー、プルーン、グミ、ア ケビなどの果樹を植えましたが、今年はブドウ4本とユズを1本追加しました。


 以上合計600坪弱(約2反)の田んぼと畑で今年も収穫が楽しみです。


不信と不安 

 

 昨年は世界中でいろいろな暗い事件が起きました。今日平和に暮らしても、明日ど うなるか分からない、そのような不安を覚える人も多いと思います。


 不安の奥には人や組織に対する不信があるのでしょう。警察や役所の不祥事が絶え ないのは、ある個人が悪いというよりは組織の問題が大きいような気がします。また 日常生活では、食品や医薬品、農薬やプラスティック製品など安全性を期待して食べ たり使ったりしているものが必ずしも安全でない事例が続出し、役所や学者が安全と いっても信用ができませんね。不安と不信が基調になってしまった今の世の中で平穏 に生活するのはなかなか難しいといわざるを得ません。  


 近頃、政治とお金の問題が話題を集めています。政治に限らず食肉のラベル偽装問 題にしても、より多くのお金を得たいという欲求がいかに強いかを示しているように 感じます。 わが国はどこで間違ってしまったのか、食糧とエネルギーの自給率を極 端に下げてしまいました。これも、お金があればなんでも買えるという経済第一主義 に基づくのでしょうか。食糧とエネルギーの輸入が途絶えたときこの国はどうなるの でしょう。あなたはこれらの不安にどう対処されるのでしょうか。


もらい物2つ

 

 今年小学校1年生になる娘がピアノを習い始めました。おもちゃのキーボードを 使って練習していましたが、やはり音やタッチが全然違うので、電子ピアノでも買お うかと思っていたところ、ピアノを処分したい人がいるとの話しがあり、早速見せて もらいに行きました。30年ほど経った国産のアップライトのピアノで、音は全部出 るし大きな傷もない。持ち主さんはタケモトピアノに電話したが無料なら引き取ると 言われたとのこと。ただで貰って下さいとのことなのでありがたく頂きました。本物 のピアノの音はいい。家内も娘のテキストを借りてこっそり練習を始めたみたいで す。


 もう一つは念願の足踏み脱穀機。これはもらったというよりは、捨ててあったのを 拾ったのです。鉄部分は錆び、木製部分は腐り道端に放置してあったものを見つけま した。近所の人に聞くと、持ち主だった人はもう亡くなっていて断わりようもないの でないので、持って行きなさいとのこと。それ以上壊れないようにそっと持ち上げ軽 トラに積んで持ちかえり点検すると回転部分のベアリングと歯車は錆びていなかっ た。錆びついたボルトをたたき外し、腐った木部を取り替えた結果、見事に復活。よ かった、よかった。


ニワトリ頑張る


 6羽のニワトリが頑張って卵を産み続けています。冬は産卵率が半分以下になると 本には書いてありましたが、わが家のニワトリさんたちは高率を維持して春になりま した。天気の日には鳥小屋から外に出すと元気に草を食べ土をつつき嬉しそうです。

  1才半の息子はニワトリを追いまわして得意そうです。  卵の数は家族の消費量の倍以上なので余ったものを近所に配るとそれ以上のお返し がきたりします。お金を介在しない物々交換の世界もいいもんですな。




やまざる通信 No.13 

(2002年9月22日)


お米あころぶ


 8月半ばから9月にかけて家のまわりの田んぼが一面にあころび実りの秋がきます。

「あころぶ」という言葉の意味が分かりますか。これはお米や麦の穂が実り黄色く色づくことを表す言葉です。青い柿の実が黄色から赤くなり、いがぐりが落ち始め、稲穂があころび出すと、ここ篠山では急に秋の気配につつまれてきます。篠山名産の黒大豆、山芋、松茸はいずれも秋の味覚です。秋の篠山にどうぞお越し下さい。


麦作り


 去年の春から借りている約10アールの田んぼはほぼ正方形で、一辺が約30mあります。まんなかに畦を作り半分は田んぼに、半分は畑にして使っています。その田んぼに4m間隔で溝を切り、4m x 15mの平らな畝が7枚できています。

 去年の11月に、その5枚の畝に小麦を、1枚にはライ麦を播きました。 麦は順調に成長し、6月には黄色く色づきました。昭和30年代頃までは、米のあと冬に麦を作るのはこのあたりでも普通のことだったそうですが、今では近くで麦を作っている人は見かけません。私が麦を育てているのを見て近所の方が話しかけてくれ、いい話題になっています。


 この地方で麦を作らなくなったのは、麦の値段が安いので作っても手間の割りに儲からないこと、それにこの近辺では稲の田植えが5月になっていて麦を収穫する6月まで田んぼに麦を置いておけないことなど、がその理由でしょうか。


 さて、今年は小麦とライ麦がそれぞれ50kgと10kgほど収穫できたのですが、こんなに多くの麦を収穫したのは初めてです。粉にひいてふるいでふるって、うどんにしようかパンにはできるだろうか。まあ、いろいろ試してみましょう。


自然農によるお米作り


 耕さず代かきしない方法でお米作りをしています。4月中旬に去年収穫した籾を播き、約2ヶ月経った苗を田んぼに1、2本ずつ手で植えていきました。今年はコシヒカリ、赤米、黒米、緑米と、隣の瑞穂町の自然農の仲間からもらったイセヒカリと合計5種類の稲を育てています。


 私が学んだ自然農では、田んぼを起こしたり代かきをしないのでトラクターは要りません。また苗は自然条件の中で育てるので育苗機やビニールハウスも要りません。


田植えや除草、稲刈りは手作業で行い農薬や化学肥料は使いません。、乾燥は天日干し、脱穀は足踏み脱穀機です。昭和30年代に絶滅したような方法ですが、規模の小さな自給のための方法としては、動力機械を使わず最低限のエネルギーで出来るとても気持ちのいいやり方なのです。今年もおいしいお米が出来るかな。


豊かさの得失


 不景気とはいえ、私たちの周りは物がいっぱいあふれています。多いこと、大きいこと、豊かなことがいいことだという観念がしっかりと私たちの頭に定着しているように思えます。その頭で考えると不景気イコール悪となるのは当然ですが、本当にそうなのでしょうか。


 私たち人間を含めて動物や植物は、ある程度の飢餓状態には対応できるように体の生理メカニズムが備わっていますが過食に対してはガードが弱く、目の前に食べ物があれば、生きるために必要な量より多くても、そこにあるだけ摂取してしまうようですね。先進諸国で蔓延している生活習慣病といわれる疾患は、ほとんどが過食を原因としているのではないでしょうか。


 医療において、特にわが国では抗生物質の過剰使用など過剰診療が当たり前になっているように思います。これは患者のためというよりは医者がより多く儲けるためのように感じます。出産においては、陣痛促進剤と帝王切開の多用など医学的介入の過剰が問題ですし、死ぬ間際においてはチューブを何本もつないで高額の延命治療が普通に行われています。私たち夫婦はできるだけ自然なお産がいいと考え、3人の子はどの子も助産婦さんに介助していただいて、いいお産が出来ました。私は死ぬ時には自宅でゆったりと死にたいものだと思っていますが、そうするためには自分の死期を悟れるようにこころの整理や往診して死亡診断書を書いていただける医者を探しておくことなど少々準備が要るかもしれませんが。 


 農においては肥料過多による問題があります。とくに窒素肥料を多くするとほうれん草などの葉もの野菜は葉の緑が濃く大きく育ち、一見立派な野菜に見えます。しかしこのような野菜は過剰な窒素を硝酸体窒素の形でため込んでいて、これを食べると人間の体内で亜硝酸体窒素となるので、このような野菜を多く食べると貧血を生じます。野菜を多く食べるとヘルシーと思いこんでいる人は要注意です。 農家では肥料の効果をよく知っていますので、野菜が少しでも高く売れるように肥料は多め多めに使うことになるのでしょう。耕さず化学肥料を用いない自然農では収量は比較的少なく、形も小ぶりなことが多いですがその作物の味は野菜本来の味でとてもおいしいです。


 不景気や不足を目の敵にせず、至るところに過剰が見られる家庭や社会を考え直してみるのはいかがでしょうか。



やまざる通信 No.14 

(2003年1月22日)


新春


 篠山の農村部に移り住んで4回目の新年を迎えることができました。村の共同作業やお花見への参加、子どもの友達の家族との交流、近くにある篠山チルドレンズ・ミュージアムでのボランティア活動などを通じて地域の人々とのふれあいも深まってきました。田舎暮らしのいいところがたくさん味わえていてありがたいことです。子どもたちも自然の中でのびのびと育っているような気がします。

 最近は私たちを不安に陥れるようなニュースが多いことがとても気がかりですが、多くの人にとって今年も実りの多い年でありますようにお祈りします。


お米作り


 昨年は、5アールの田んぼでコシヒカリ、イセヒカリ、赤米、黒米、そして緑米の5種類のお米を収穫しました。

 そのうちの3アールにコシヒカリを栽培しました。耕さない田んぼにして2年目で初年度よりいい状態になるかと期待もしていたのですが、残念ながら今年も充分な茎数になる前に花が咲いてしまいました。田んぼの地力も充分でないこともあり、収穫量は少なく、お米の自給にはまだまだ時間がかかりそうです。しかしコシヒカリは味と食感がいいので、今年もう一度工夫してチャレンジしてみたいと思います。お米作

りは、出来がよくても悪くても1年1年がとても楽しい勉強です。

 赤米、黒米、緑米などは古代米といわれています。コシヒカリなどよく作られている品種は交配を重ねて産まれてきたものですが、古代米は昔から受け継がれた性質を残している在来種です。苗の勢いが強く肥料分の少ない田んぼでも元気に育ちます。

 赤米のご飯は、赤飯のルーツで神事に用いられたそうです。味はさっぱりしていて香りがいいと思います。黒米を白米に1割ほど混ぜて炊くと紫色のきれいなご飯になり味にこくが出てきます。緑米の玄米を白米に加えて炊くと色と歯ざわりが面白いです。

  

野菜作り


 耕さず、農薬や化学肥料を使わない自然農で、いも類(サツマイモ、ジャガイモ、サトイモ)、豆類(大豆、小豆、エンドウ、ソラマメ、インゲンなど)、夏野菜(トマト、キュウリ、ピーマン、ナスなど)がよくできます。肥料分の少ない畑でじっくり育ったニンジンはスーパーで並んでいるものとは別の野菜のように香りが強いものです。

 キャベツ、ハクサイ、タマネギ、スイカなどは今の私の畑の地力ではあまりい大きくなりません。しかし味は濃くおいしいものができます。


組織と人の心


 多くの人は、組織の一員として、あるいは組織のトップとして仕事をされていると思います。元気な組織、働きがい生きがいを感じさせる組織も多いと思います。しかし、なかには病んだ組織、崩壊直前の組織もあることでしょう。

 報道されている最近の不祥事は、組織ぐるみといわれるものが多くなったように感じられます。昔は少なかったのか昔は発覚しなかっただけだったのかは分かりませんが・・・。

 人が組織の幹部やトップになって一定の権力が生じると、その権力を最大限に使いたいと思うのは人情なのでしょう。ところが人によっては、限度を超えて権力を振るうことがあります。自分より弱い立場にある部下などに対して不当な命令を下したり、侮辱したりする行動はしばしば見られるところです。

 私が会社に勤めていたころ、上司から電話があり、緊急性のない書類を「イヌのように全力疾走して持って来い」と命令されたことがあります。上司にしてみれば些細なことだったのかもしれませんが、わたしにとってこの屈辱感は30年も前のことながらいまだに消えません。これは小さな例でしたが、独裁者が支配している国家や組織では身体や生命をも脅かされている人々が多くいることは歴史上だけでなく現実のニュースでも目にするところです。

 権力を使える立場に長くいる人の中には、だんだん自分そのものが偉いと思いこむ人が多いように思います。そして権力の濫用に気がつかなくなり、とりまき連中や部下に持ち上げられ、やがて腐っていくのでしょうか。 

 私は中堅の会社で幹部社員ぐらいまでになっていましたが、自分を組織にあわせてしまいがちだった私が会社の中で自分を見失っていなかったかどうか自信がありません。

 利害関係、上下関係から離れてしまった今の暮らしは、私の性格に合っているようで気に入っています。しかし今の世の中のこともあれこれ気になります。

 会社、役所、宗教組織、いろいろな組織で問題が明らかになっているのを目にすると、組織の問題もあるでしょうが、むしろ人の意識の変革が求められているのではないかとも思うのです。


座禅会


 近くにある曹洞宗の多聞寺で毎月1回座禅会が開かれています。参加者は近くに住んでいる方ばかり5人ほどです。きれいな本堂で45分間の座禅はとてもすがすがしい気分をもたらしてくれます。

 私は臨在宗の座禅、TM瞑想、密教瞑想などの経験があり、瞑想や座禅のあと感じる身体の芯からほぐされるようなここちよさを体験してきましたので、このような近くのお寺で座禅にまた出会えたことに感謝しています。



やまざる通信 No.15 

(2003年10月8日)


お米つくり


 今年のお米つくりは、コシヒカリ2a(アール)、イセヒカリ2a、緑米、赤米、黒米あわせて1aの合計5a(5畝)とした。

 田んぼの一部に苗代区画をつくり、4月中旬に種まき。去年は苗が不足したので今年は多めに作った。苗代の広さは1.2mx15mの短冊形。種籾をできるだけ均等にバラまき、土をかぶせて上から押さえて固め、切りわらを撒き、さらに藁をかぶせてその上を防鳥ネットで覆った。後は自然の気候に任せて発芽を待つ。


 2ヵ月後の6月中旬、浅い緑色の苗が生え揃い一安心。6月15日からはじめて、7月2日(暦で半夏生)に植え終わる。昔は田植えはできるだけ半夏生までに終えるように言われていたという。


 9月27日にコシヒカリの稲刈りを行った。3年続けてコシヒカリは成長が悪く、分けつも少なく面積あたりの収量はとても低い。イセヒカリはやや不作、古代米といわれる有色米はまずまずの出来であった。3年間同じ方法でお米を作ってきて品種、気候、草管理などの要因と成長、収量の関係が見えてきたような気がする。毎年毎年が勉強である。しかし、性懲りもなく来年はもっと上手に出来るに違いないと思い、鬼に笑われるかもしれないが来年のお米つくりを楽しみにしているのである。



手間のかかる生活


 最近、商品として店に並ぶ食料品は、手間のかからないものが多くなっていて驚く。野菜はカットされたもの、お米は無洗米、魚は骨を抜いたものなどなど。 最近の日本人は固いものを食べず、噛まずに飲み込める加工食品を好んでいるらしい。噛むことが少なくなったことは子供の発達に影響を与えている。昔と比べてあごの発達が不十分で顎がとがった顔が増えてきているという。あごが広くならなければ永久歯が全部一列に並ぶことができないので歯並びが悪くなって歯列矯正のため歯科に通う子が多くなってきている。

矯正歯科では狭いあごに歯が並ぶように上下左右4本単位で歯を抜いてしまうことも多いという。 

 手軽に食べられる柔らかくてすぐに飲み込める食物ばかりを好んでいると、命の力が弱っていくような気がしてならない。


 会社を50才で退職するまで私はできるだけ手間のかからない生活が好ましいと思っていた。効率化を常に心がけることを自分に課していたとも言える。

機械化、自動化、コンピュータ化によりワンボタン操作で物事が進むようになることは確かに気分のいいことであり、社会進歩の必須条件のようにも見える。

わが国の経済中心の立場から考えると、この流れは必然のように思える。

 しかし最近、新聞やテレビでスローライフ、スローフードという言葉を見聞きするようになってきた。日本の代表的な車メーカーのCMにスローライフという言葉が入っていて違和感を覚えたが、CMの好イメージ化を狙ってのことだろう。また、ある大手ハウスメーカーのCMで松たか子さんに「庭に苺を植えてジャムを作るというような手間のかかる生活をしたいと思うのであります」と言わせていたりもする。


 押しボタン一つで、とてつもないパワーを生じる技術は、土木工事や発電等にも重要であるが、とりわけ活用されているのは戦争においてであろう。これによって、テレビゲームで遊んでいるような感じで「手間をかけない」大規模破壊と大量殺戮が可能となっている。戦争より平和を望む人のほうがよほど多いと思われるのに、多くの人がいとも簡単に殺される戦争がなくならないのが悲しい。


 このような世の中で、手間のかかる生活を求める声が一部から出てきている。科学技術の巨大化、精密化、自動化などでは取って代われないなにか大切なものがあることを感じているからなのだろう。


 便利で手間のかからない生活をするためにはお金がかかる。お金をもうけるために普通は働かなければならない。自分が好きで納得の出来る仕事をしてお金が得られるなら、それはそれで立派なことだと思う。しかし、お金や権力を求める人々にリードされている日本でどれだけの人が納得の出来る仕事が出来ているのだろうか。 


 4、5年前から農を中心とした生活に替えて、私は徐々に手間のかかる生活に慣れてきた。農作業は手間そのもの。特に私はトラクターや田植え機などの動力機械類を使わないので、たとえば田植え機を使えば1時間ほどで終了する広さの田んぼに、手作業で10日ほどかけている。今年私の5畝の田んぼでは一列に60株、90列に苗を植えたので合計5400ヶ所に一株ずつ手で植えたことになる。以前の私であればこんな非効率は問題外として採用しなかったに違いない。


 しかし今思うに、これが私の選んだ生活そのものなのだ。汽車に乗ること自体が好きなひとにとっては、目的地まで速く着くことは必ずしも重要なことではないことと同じようなものか。生活の一こま一こまに自分の味付けをしてゆっくり味わいたいと思う。