論文集
 大仏鉄道研究会では大仏線並びに母体である関西鉄道株式会社に関する論文を募集しています。
 以下は、研究員からの論文です。
 
目次

  1. 関西鉄道残照1〜加茂駅に保存された旧跨線橋支柱〜 高坂史章
  2. 佐保側を渡る大仏線の鉄橋の位置が今春判明(古藪 博)
  3. 異説大仏鉄道(もう一つの大仏鉄道説)  (野邊 孝男)
  4. 関西鉄道(大仏線)年表 (高坂 史章)

1. 関西鉄道残照1〜加茂駅に保存された旧跨線橋支柱〜 高坂史章


 正式名称関西本線、愛称「大和路線」の加茂駅が橋上駅舎化されたのは去る1999(平成11)年12月のことである。それまでは2面3線のホームを狭くて急な跨線橋が結び、駅舎にはぶ厚い木の引き戸が設けられ、さらに南側には昔機関庫が設けられていたという広大な空き地が広がり・・・と、いかにもローカル線の(元)ターミナル駅らしい風景が広がっていたが、その光景は駅周辺に限ってみれば一変した。

 さて散々悪口のようなことを書いてしまったが、その「狭くて急な跨線橋」は関西鉄道時代の遺産であり、本会のテーマである大仏線の時代にも存在したであろうと思われる貴重なものであるので紹介しておきたい。この跨線橋は橋上化工事に伴って解体され、支柱の一本のみがホーム大阪寄りに保存されている。(写真左)この支柱は、研究者の間では「鋳鉄製跨線橋支柱」と総称されているものであり、同類のものは本州を中心とし各地に分布している。この支柱の製作年代は不明だが、鋳出しで「尾張熱田 鉄道車輛製造所 製造」と刻まれていることから1900年前後、関西鉄道が国有化前に設置したものであろうかと推測される。(注1

 またこの支柱の大きな特徴として、階段上り口の支柱に意匠を凝らしてあるなどの点が挙げられる。(写真右・注2)周知の通り、関西鉄道は1906(明治39)年の鉄道国有法により国有となり、弁当のサービスなどそのユニークなサービス精神(注3)も終焉を迎えることになるのだが、この凝った意匠も民営時代の気風を体現したものだと言えるかもしれない。なお、跨線橋に関しては国有化後の1908年と1909年に規画が制定され、(注4)以後は全国画一のものが流通するようになり、やがてレールを曲げた支柱とした跨線橋が主流となっていく。

 その他のことについては、最近吉川文夫氏が『鉄道ピクトリアル』誌上で述べているので触れないでおく。あまり類をみない明治期民営鉄道が設置した跨線橋が一部なりとはいえ保存されたことは喜ばしいことだが、ホームの端、しかも柵の外側にただ立っているだけの姿には寂寥の念を禁じえず、関係各位には是非ともその価値を認識し、せめて説明板の一枚でも付してほしいと思う。

 

▲旧跨線橋支柱と危険品庫(現状)               ▲旧跨線橋の意匠

注1 加茂駅の設置が1897(明治30)年であり、鉄道車輛製造なる会社は1896年に設立後、数年で倒産したことなどから推測される。

注2 なお、写真の部位は撤去され現存しない。

注3 当時、関西鉄道が名古屋−大阪間の乗客の奪い合いで往復切符切符購入者に弁当を配布したりするなどのサービス合戦を演じたことはあまりにも有名である。また現在、グリーン車の一部などで残っている車体帯の色によって等級を分けることも関西鉄道が始めたことである。

注4 跨線橋全般の学術的なことについては、堤一郎「首都圏に残る鋳鉄製跨線橋の現状」(産業考古学会『日本の産業遺産U』玉川大学出版部2000年)を参照のこと。概説的なことについては浅野明彦『鉄道考古学を歩く』(JTB1998年)中の「駅の名脇役跨線橋を観る」が分かりやすい。

本稿に関する指摘や質問等は、kohsaka@oak.ocn.ne.jpまでお願いします。


2. 佐保側を渡る大仏線の鉄橋の位置が今春判明(古藪 博)

 大仏駅から奈良駅へは翌年開通したが、その時、駅の直ぐ南側の佐保川を鉄橋で渡っていた筈である。 然しその位置は今日まで全く確定していなかった。
 それは
文献や資料が全くなく、又、川の形も何回もの水害で大きく変わって来た筈であり、又当然,当時の生き証人も亡くなっていたためである。
 
然し私達は諦めず,色々の伝手を求めて多くの人々を尋ねた結果、この春、やっと生き証人からその場所を教えて戴くことが出来た。

 その場所は,現在舟橋通り商店街の北端にある下長慶橋の直ぐ西側2〜3mの所で,現在は橋の北端西にある岩崎氏の門の所である。 これは岩崎氏が戦時中に親と一緒に防空壕を掘っていた所、地中からレンガ作りの鉄橋の橋脚が出て来た事で証明されたのである。
 その後更に複数の方から,昭和初期には佐保の川原のこの位置には,橋脚があったと言う話も聞く事が出来たので,間違いない事が分かった。

 これはその後、更に鉄橋の南端から奈良駅への線路の位置を確定する事に繋がる端緒ともなったのである。


3. 異説大仏鉄道〜もう1つの大仏鉄道説〜(野邊 孝男)

これは、ある大仏線研究家の調査報告に基づく、もう一つの大仏鉄道の話である。この方は第7回の会合以来、我が会の会員として共に活動していただいている。彼の研究テーマは、これまで大仏線について言われていることとは異なる別の仮説に基づき、地道に調査を何年も続けておられる。これは、とても興味深い仮説であり、ぜひご紹介させていただき、第2号から3回のシリーズ投稿として図面などを交えて連載を予定しており、これはその序章としてお読み頂きたい。

奈良市内で商店を営む村上さんは、平成4,5年頃の深夜、朝日放送のとある番組で実際に大仏線が走っている当時の無声のフィルム映像を見たという。そしてそれがきっかけとなって、大仏線が現在いわれるものとルートも車体も別のものであるという持論を持っておられる。
そのもう1つの大仏線の機関車は幅1.3m高さ3mほどの小型のB2型を使い、路線も明治時代の陸地測量部(現在の国土地理院)作成の地図上の線路の位置とはだいぶ異なり、木津町内の鹿背山を越え梅谷に出たあたりから進路を東に変え、山越えを避けるため途中距離を稼ぎループ線を経て黒髪山に至るルートであると言う。
現在そのルートのほとんどは水路となっている。また、史実上では大仏鉄道におけるトンネルは黒髪山隧道のみとされるが、実は数カ所のトンネルが存在し、現在はそのほとんどが取り壊されている。現存するトンネル跡とされる部分は、確かに水路としては立派すぎる。
彼は記憶をもとに映像の詳細を絵コンテと地図に起こし、現地を見聞し、古老の話を1つずつ足で拾い集め、その結果からますます自説を確信されている。
しかし、私自身はどうしても腑に落ちない部分がある。大仏線は名古屋方面から急行列車が乗り入れ、開通当時は、かの関西鉄道株式会社のドル箱路線で一日何百人のお客を運んだとされる。その大仏鉄道に、たった2人掛け座席の客車を曳いた、小型のB2型がここを走っていたとは考えられないのだ。当時、関西線を経営していた関西鉄道株式会社は、いかなる難所も迂回せず可能な限り直線で開通させるだけの鉄道屋魂を持ち、国内でも最新の技術の粋を尽くした会社であったはずだ。その一つは、当時の官有鉄道やほとんどの私鉄が狭軌で建設されたが、関西鉄道だけは全線広軌(高速走行が可能とされ、現在の新幹線の軌道幅と同じ)で設計し、トンネル、鉄橋もすべて広軌規格で築造した。そんな新進気鋭の会社が、大仏観光の看板路線に小型機関車を主力として投入したとはとうてい考えられないのである。しかも、非力な小型の機関車を使うために、直線での黒髪山越えを避けて、ループ線で距離と勾配を稼ぎ、当時の時刻表から見た加茂駅〜大仏駅間を約25分で走りきったかというと、どうしても納得できないのである。
しかし、このことすべてを一笑に付すこともできない。実際のところ当時を正確に伝えるものは、鉄道建設請願書、鉄道建設免許、時刻表、陸地測量部作成の2万5千分の1の地図だけであり、実際の映像は写真もフィルムも未だ見つかっていないことになっている。そこに彼は小型の機関車が、2人掛けのマッチ箱のような客車3両を牽いて大仏線を走る実際の映像をテレビの深夜放送で見たという。彼の熱心さと、その後の裏付けの成果を見ると、あながち何かの勘違いともいい切れないのである。
ここで、1つ別のことが考えられる、これはあくまでもこれは私の想像であり、仮説の域を出ないことを前置きしたいのであるが、当時大仏線建設のための必要な大量の煉瓦を、上質の粘土が採れる鹿背山地区のどこかで焼いた可能性があると思う(木津町梅谷地区という説もある)。しかし、当時の輸送手段といえば、木津の地名に見られるように木津川を中心とした舟運盛んかりし頃で、近距離陸上輸送といえば昭和初頭まで牛車が主要なものであったと聞く。そうすると大量に製造された煉瓦を建設現場に運ぶ手段として、簡易鉄道(索道)が建設されて、大仏線建設のほんの1年間ほどのごく短期間だけ使用されたことは無かったであろうか。 大仏線開通を告げる当時の新聞記事に「途中、かの鹿背山駅あり。云々。」というくだりがある。もちろん、この記事を発見するまでは鹿背山駅の存在など全く知られていなかった。また、開通当時の時刻表にも鹿背山駅は存在しない。この鹿背山駅は鹿背山不動尊への虎の日参りの臨時停車駅とも考えられる。また、ひょっとすると鹿背山焼輩出した歴史を持つこの地から良質な粘土使って焼成した煉瓦を運ぶ資材輸送を目的とした工事のための臨時駅が、開通当時撤去されずに存在したとも考えられないだろうか。
村上さんの話以外にもこの別ルート説については、加茂町でも同様に言われる方がおられるそうで、いつも忘れた頃にひょっこり出てくる。その度、百年間で史実が湾曲して伝わっただけであり「何かの間違い。」と聞き流しながらも、雷光号の走った大仏線にダブって、索道を走る小型機関車の姿が見え隠れする。そのうちに、だんだん否定しきれないほど、姿がはっきりしてくるような気がするのだ。
村上さんの言うループ線を持った索道鉄道は確かにあったかも知れないし、なかったかも知れない。いずれにしても、煉瓦の現地調達説を唱えると同時に、輸送手段に疑問が湧き、そこへまた、別の研究家が別の説を持ち寄ってくる。このあたりが、非常におもしろい。これは、われわれ大仏鉄道研究会が発足する以前から隠れた地元の研究家が地道に何年も足で稼いで、史実や、地形学的な特徴を1粒ずつ拾い集めてこられた成果といえる。
これからも、いろいろな人がいろいろな大仏鉄道をこの研究会に持ってくることになると思う。しかし、そのすべては事実である可能性があり、逆に世間一般に言われる説が絶対かというとそうとも言い切れないはずである。だから、一般論にとらわれず、柔軟な思考ですべてを否定せず、ただただ「真の事実は何か。」というところに着目していかなければならないのだ思う。そして、いつも我々は、当時のフィルムが存在するのならそれを見て、「すべてを明らかにしたい。」という気持ちと、「このまま、資料不足のまま謎解きを続けていきたい。」という、そんな2つの気持ちが交錯しながら研究を続けている。


4.関西鉄道(大仏線)年表

関西鉄道(大仏線)年表
MS明朝体は『日本鉄道史』中篇掲載情報・FM富士通明朝体は『日本国有鉄道百年史』第4巻からの補注

明治26 218:桑名−名古屋間と共に柘植−奈良間延長免許を申請
    11  :第6議会に私設会社に敷設許可の法律案提出・協賛を得る
  27 612:法律第13号公布
     7  :仮免状下付
  28 128:免許状下付
    12  :柘植−加茂間25マイル起工
  300115:柘植−上野間9マイル8チェーン開通
    1111:上野−加茂間16マイル26チェーン開通
        :加茂−奈良間起工
  3103  :加茂−大仏間5マイル35チェーン竣工
    0419:同区間開通・再急勾配40分の1
    12  :大仏−奈良間57チェーン竣工 奈良駅使用に関し
         「関係鉄道会社ト協定ノ為遷延」
  320521:同区間開通
    10  :大阪鉄道、奈良駅拡張工事 大鉄・奈鉄・関鉄共用線敷設
         11チェーン延長

  3907  :加茂起点3マイル24チェーン地点より新木津を改め
         木津に至る接続線認可

  4006  :加茂―奈良間運転休止・新木津閉鎖許可
       0821:加茂−木津間接続線開通、上記二事項実施

関西鉄道(大仏線)駅間距離
『停車場変遷大辞典国鉄・JR編U』による
加茂−大仏間5マイル35チェーン・M340125に5マイル33チェーン・後5.4マイル
大仏−奈良間57チェーン・後、0.7マイル
※M351112にマイルチェーンをマイルに一元化、マイルは小数点以下一桁表記に変更

cf.書誌データ
鉄道省(編纂発行)『日本鉄道史』中篇 1921年 349〜351ページ・367ページ
日本国有鉄道(編纂発行)『日本国有鉄道百年史』第4巻 1972年 461〜462ページ・467ページ
石野哲(編集)『停車場変遷大事典 国鉄・JR編U』JTB(発行) 1998年 345ページ


Copyright 大仏鉄道研究会 2002