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『天ゆく月船』を読み解く

reported by "YUZUKI"


 読み解くだなんて、すごーく偉そうですが、内容をご紹介ついでに史料なども探したいなぁと思っています。(^_^)
 『天ゆく月船』は、主に元正天皇を主人公にしたお話です。 名は「氷高」といい、母は元明天皇、父は草壁皇子、弟は文武天皇という生粋の「ひめみこ」さまですね。 彼女はとても美人だったらしい・・・ 永井路子さんの『美貌の女帝』には、「すみれ色のかげ」の宿る瞳という表現がされています。ぞくぞく〜。 そんな美しい彼女は生涯結婚することはありませんでした・・・ どんな人生を送ったのでしょう?『天ゆく月船』ではどう表現されているのでしょうか? いっしょに「読み解」いて下さいね!

【氷高女王をめぐる人々】(出典:『天ゆく月船』p.52系図より)



蘇我氏 === 淡海帝
(天智天皇)
=== 蘇我氏




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胸形氏 === 浄御原帝
(天武天皇)
=== 廬+鳥野皇后
(持統天皇)

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高市皇子
草壁皇子 === 阿閉皇女
御名部皇女

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吉備 氷高
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鈴鹿王 長屋王






「美しい」の根拠は?
 長岡作品でも、ちょくちょく登場する氷高女王ですが、どれも「美しい」という形容詞がつくんですよね! なにを根拠に言ってるんだ??? 続日本紀にそのようなことを言っている箇所があるのか探してみました。 以外と簡単にみつかったんですが・・・

◆元明天皇譲位の詔◆
『続日本紀』より 霊亀元年九月庚辰条
一品氷高内親王は、早く祥符に叶ひ、夙(つと)に徳育を彰せり。天の縦(ゆる)せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載佇(とま)り、謳訟帰(おもむ)くところを知る。

【訳】『続日本紀(上)』講談社学術文庫より
一品氷高内親王は、若いうちからめでたいめぐり合わせにあい、早くから良い評判が世に知られている。心ひろくあわれみ深い性質を天から授かっており、物静かで若く美しい。天下の人々はこの内親王を戴き、仰ぎほめたたえることを知るであろう。


たぶん上記の霊亀元年九月庚辰条の元明天皇の譲位の詔に出てくる「婉レン」が「美しい」のイメージの元だと思うのです。
〔婉レン〕=年若く美しい
〔婉〕=従順、しとやか、若くて美しい
〔レン〕=パソコンの辞書に無くて申し訳ありません(^^;)
     (糸+言+糸+女)という難しい字です。「女」は下に付きます。
     みめよい、美しい、従う、すなお

婉もレンも似たような意味ですね。2つ合わせて「若く美しい」という意味になるようです。「美しい」はともかく、譲位の年って、氷高女王は36才だと思うんですけど・・・(^^;) しかもお母さまがおっしゃるなんて、なんという手前味噌??? とつっこみたくなりますね! それだけ自慢の娘だったんでしょうか? それとも人々を納得させるためにはほめちぎるのが一番効果的だったのかな? 大げさではなく、身内もその他大勢も認める美人だったのでしょうね。きっと。

長岡先生も、草壁一家はとても”二枚目”に描いておられますよね。 お気に入りなのね〜(*^^*) 


「お勉強好き」の根拠は?
 『天ゆく月船』の氷高女王は、とてもよくお勉強しています。

p.21(草壁皇子に向かって)
「でも乳母たちはいつも言うわ 女の子に書物なんて−って」
p.46
「わたしは知りたい 少しでも多くのことを」
  「これほどご聡明な方は初めてでございます」
p.52(長屋王に対して)
「「後漢書」に入ったばかり 歴史は好きよ 私たちの国にもあんなすばらしい史書があればいいのにね」
p.59(長屋王に対して)
「私が勉強したいと思ったのは衣裳や珠のように自分を飾るためじゃないわ 先人たちの教えを少しでも自分のものとしてこの世の心理に触れることができたら−そう思ったのよ」
p.65(弟の部屋で)
「だって選善言司から新しい書物を手に入れたって言ってたから」



というように、かなりの学問好きと表現されています。 『続日本紀』をぺらぺらっとめくって、なにか裏付けになる記述がないか探してみたいと思います。

◆元正天皇の人柄◆
『続日本紀』より 元正天皇即位前記
天皇、神識沈深にして、言必ず典礼あり。

【訳】天皇は、御心は沈着にして思慮深い。言動は礼儀にかなっている。


◆日本書紀完成(天武朝に始まる編修事業がここで完成した)◆
『続日本紀』より 養老四年五月癸酉条
是より先、一品舎人皇子、勅を奉けたまはりて日本紀を修(あ)む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀卅巻系図一巻なり。

【訳】これより先に、一品の舎人親王は、勅をうけて日本紀の編纂に従っていたが、この度それが完成し、紀(編年体の記録)三十巻と系図一巻を奏上した。


◆学業にすぐれたものを褒賞する詔◆
『続日本紀』より 養老五年正月甲戌条
また、詔して曰はく、「文人・武士は国家の重みする所なり。医卜・方術は古今、斯れ崇ぶ。百僚の内より学業に優遊し師範とあるに堪ふる者を擢(ぬきいだし)て、特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし」とのたまふ。

【訳】また次のようにも詔した。文人と武士は国家の重んずるところであり、医術・卜筮(ぼくぜい)・方術(天文・医薬・占いなどのわざ)は、昔も今も貴ばれる。百官の中から学問を深く拾得した者をあげて、褒賞を与え、後学を励ますこととしたい。

〔文人〕明経・明法・文章などに通じた人
〔武士〕武術にすぐれたもの(武士の初見)

◆女医博士を置く◆
『続日本紀』より 養老六年十一月甲戌条
始めて女医の博士を置く。

【訳】初めて女医の博士を置いた。

〔博士〕女医を養成する医博士のこと
〔女医〕官戸や婢から若くて頭の良い女子30人を取り、医学の教育を受けさせ、七年以内に修了させるもの

学問に関することと言えば、上記のような記述が見つかりました。この辺りから、氷高女王のセリフが生まれたのでしょうか? 特に「あんな史書があればいいのに」は、日本書紀完成に関わりがありそう! 
また女医養成については、比較的身分の低い層から選出されているのが興味深いです。わざわざ女子というのも。産婦人科だけではなく、内科・外科などあらゆる分野を修得させたようです。 毎月試験があったみたい! 年度末試験も! 文書ではなく口述で教育を受けたようで、相当頭が良くないと立派な女医さんにはなれなかったでしょうねぇ。(^^;)
一応聖武天皇の天平年間くらいまで読んでみたのですが、このような学問に関する記事はあんまりなかったです。 元正天皇が学問に興味があったことは、あり得たことではないかな、と思います。


氷高の恋
元正天皇は一生結婚しなかったのですが、当時では珍しいことだったのではないでしょうか? 結婚しなかったとはいえ、乙女として恋心が芽生えないはずがありません。『天ゆく月船』では、氷高女王の心の移り変わりがどのように描かれているでしょうか?

p.54(長屋王に対して)
「私の幼い初恋だった」
p.64(長屋王が別の女性に通っていることを知って)
「長屋が好き 尊敬し憧れてきた でも何かがこわれてしまった」
p.84(軽のつぶやき)
「どこにも行かないでくださいね 姉上が誰かのものになってしまうなんていやだ・・・!」
〜一生独身を通す決意を母親に話した後の心の整理〜
p.87(長屋王に対して)
「長屋・・・今も大好きな従兄弟 でも日々に心が離れていくのをどうすることもできない」
p.87(不比等に対して)
「あの人は−私のことなど小さな子供以上には考えていないだろう 私がどんなに想っても・・・」
p.87(軽皇子に対して)
「それに軽あなたにだけ重荷を背負わせることはできない」
p.99(持統太上天皇の願い)
「後を頼みましたよ日高 天皇家の家刀自として誇りと責任を忘れてはなりません」
p.102(不比等への想い)
「その人が誰よりもすばらしいと思ってしまうのです」



最初は近しい従兄弟への淡い恋心から始まり、現実を見てしまうことで夢が少しほつれ、真実の愛へと目覚めていく・・・というところでしょうか(^-^;)
そして、そこに天皇家の人間としての使命感が絡まってゆくのですね。

一人の少女が背負うには、とても重い荷物だったことでしょう。結局、日高は頼る人を得ず、孤独に使命を全うする道を選んだのです。

元正天皇は、決して強大な力を持った天皇ではなかったですが、天武・持統が礎を築き、文武・元明が推進してきた律令という制度を、軌道に乗せていい形で聖武天皇へと引き継いだという位置づけをしたいです。 日高女王は自分の使命を全うしたのです。(きっと)

気になる不比等との関係ですが、これはかなり長岡先生の妄想モードなのでは〜(^ _^;)という感じですが、日高と不比等の関わりを『続日本紀』では以下のように記されています。

◆藤原不比等との関わり◆
『続日本紀』より 養老四年八月辛巳の朔条
詔して曰はく、「右大臣正二位藤原朝臣、疹疾漸く留まりて、寝膳安からず。朕疲労を見て心に惻隠(いた)む。その平復を思ふに、計、出さむ所無し。天下に大赦して患う所を救うべし。」

【訳】右大臣・正二位の藤原朝臣は、病にかかって寝食もままならない。朕はその疲労のさまを見て、心中あわれみいたんでいる。その平復を願っているが、なす術がない。よって天下に大赦を行って、これによ    り病患を救いたい。

『続日本紀』より 養老四年八月癸未条
是の日、右大臣正二位藤原朝臣不比等薨しぬ。帝、深く悼み惜しみたまふ。これが為に朝を廃め、内寝に挙哀し、特に優勅有り。

【訳】この日、右大臣正二位の藤原朝臣不比等が薨じた。天皇はこれを深く悼み惜しまれた。ためにこの日は政務はみず、内殿で悲しみの声をあげる礼を行い、特別に手あつい天皇の勅があった。


このように、不比等の病気・死に対してかなり気合いの入ったことをなさっています。 いくら朝廷における有力者でも、嫌いな人にはここまでしないよなぁ(^^;) 特に挙哀をしているところが気になります。 挙哀(こあい)って、死者に向かって大声を上げて泣き、魂を呼び戻すという風習でしょう? 不比等に向かって大声で泣いて悲しんだんですよね? "愛"が感じられます・・・ムリヤリ?
大赦というのも、臣下に対してかなりの特別扱いだったのではないかなぁ・・・?

ということで、かなり勝手な解釈をしてしまいました。 淡々とした文章の続日本紀から、日高の悩みや苦しみ、人生観などがちょっぴり感じられるものですね。 日高女王は元正天皇・元正太上天皇となって、69歳で人生を終えます。 当時としてはとても長生きだったと思います。(女の子は強い家系なのね〜) 太上天皇となってからは、それほどの権勢があったとは思えませんが、聖武天皇の行く末を静かにそして時には叱咤しながら見守ったことでしょう。 

長々とおつきあいありがとうございました。(こんなに長くなるとは思わなかった(^_^;)) 『天ゆく月船』どうぞ楽しんでくださいませ。(って、こういうことは作者が言うのかな???)