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長屋王の年齢??

reported by "YUZUKI"


 古代の人たちって、生没年がわからない人が多いようですが、長屋王もその一人です。いくつかの資料に生没年が記載されていますが、どれも決定打に欠け、専門化の間でも諸説(といっても2つだけど)あります。
 奈良朝初期を輝きながらも散ってしまった長屋王、彼はいつ生まれ何歳で亡くなったのか、史料の断片から推察してみましょう!

『懐風藻』:天武五年(676年)生まれ

『公卿補任』:天武十三年(684年)生まれ

 「長屋王の変」が起こったのが天平元年二月(729年)ですから、『懐風藻』説であれば、54歳で没、『公卿補任』説であれば、46歳で没ということになります。

『続日本紀』慶雲元年春正月癸巳条(704年) 叙位
   无位長屋王に正四位上を授く。


 『続日本紀』における長屋王の初見の記事はこの慶雲元年条になります。これは、諸王が蔭位を授けられる初めての記事です。この日、長屋王は正四位上に叙されたというのです。このとき、長屋王は何歳だったのでしょうか?
『懐風藻』説では、29歳
『公卿補任』説では、21歳となります。
どちらの信憑性が高いのか、当時の叙位の制度から探っていきたいと思います!

 大宝律令には、「蔭位(おんい)」という叙位の規定があり、これは父か祖父が親王か五位以上ならば、21歳に達すると自動的に従五位下以下従八位下の位階を与えられるというものでした。

『大宝律令』選叙令34 授位条:授位の最低年齢制限の規定
   凡そ位授けむは、皆年廿五以上を限れ。唯し蔭を以て出身せむは、皆年廿一以上を限れ。


『続日本紀』慶雲三年二月庚寅条(706年) 七条事其二
   令に准ふるに、蔭に籍(よ)りて選に入るは、出身の条有りと雖(いへど)も、選に豫(あづか)る式を明さず。今より以後、蔭を取りて出身するには、貢挙(ぐこ)と別勅の処分に因るに非ずは、並に常選の限に在らざれ。


訳:選任令(選叙令)には、蔭の適用を受ける資格のある者は二十一歳になると叙位される規定(選叙令34・35・38)はあるが、その者の資格を審査する規定はない。今後蔭によって出仕するためには、貢挙と特別の勅によるのでなければ、通常の選の対象としてはならない、

 蔭位を授けられるには、必ず官に仕えることを原則としますが(凡そ五位以上の子の出身=官に挙げもちいられること=せむは)、選叙令によると、蔭の適用を受ける資格のある者が出仕する場合、次の3つのコースのいずれをとることも可能でした。

(1)トネリに任官して出身するコース
   ・17歳以上20歳未満で自らすすんでトネリとなる場合
   ・21歳以上でまだトネリになっていない者がトネリとなる場合

(2)大学生となり科挙により出世するコース
   ・13歳から16歳の間に入学し、9年間修行した後省試を宇検して、及第す
    れば叙位されて出身する。

(3)蔭位のみで出世する

(1)ですが、トネリは内分番であり六考の選限を経て定選した時、初めて叙位にあずかることが一般的であったらしく、17歳で出仕したとしても初叙位されるのは最低でも6年後の23歳ということになります。

(2)ですが、13歳から大学に入ったとして、及第が9年後としても最低で22歳となります。

(3)は、21歳になれば自動的に叙位され、出仕するものです。

 慶雲三年二月庚寅の詔は、(1)(2)と(3)との間の不均衡を是正したものであり、「特別な勅による叙位」という特例を残しながらも、「貢挙(ぐこ)」=(1)(2)を経ることを蔭位授与の条件と規定したもののようです。このことから、選叙令に21歳以上としながらも、実際には出仕の後、定選年限が満ちて初めて位を授けられていたと考えられます。

 令の規定を素直にうけとれば、長屋王が初叙位されたのは21歳であるという説が魅力的に見えますが、実際の蔭位の運用として、それなりの実績が重んじられていたことを考えれば、初叙位が29歳であったという説も不自然には感じられません。

 また、慶雲元年春正月の叙位においては、長屋王をはじめ大市王、手嶋王、気多王、夜須王、倭王、宇大王、成会王に従四位下が授けられています。これは蔭位による叙位の初めての適用であり、適格者をまとめて叙任したものとの見方もあるようです。このことからも、この年、長屋王が21歳でなければならない理由にはなりません。

延暦十四年十月八日(795年)太政官符(選叙令34集解所引)
   二十一歳になれば、皆蔭位を授けられる


 このような官符が後に出され、わざわざ令制通りの運用にしていることからも、大宝律令施行当時には21歳で蔭位を授かる方がまれであったといえます。

 従四位上という位は、選叙令35にみえる「親王の子に従四位下を蔭する」規定からすれば格別の扱いであり、高市皇子が太政大臣であったこと、長屋王の年齢が高かったことを考慮されたと考えられる・・・かな?(ちょっと弱気)


 で、我らが長岡先生がどう考えられているか!ですが、ヒントは『眉月の誓(4)』にあります。34ページに高市皇子の殯のシーンに長屋王・鈴鹿王が登場していますが、彼らは何歳くらいに見えますか?(って、このシーンはスズメ♂さんが見つけられたことを付け加えさせていただきます!)
 高市皇子は持統十年(697年)に亡くなったのですから、676年生年説だと22歳、684年生年説だと14歳ということになります。
 う”〜ん、14歳には見えないぞ〜(^-^;)
 それに、『天ゆく月船』に出てくる長屋王も氷高女王より年下には見えない〜。(氷高女王:680年生まれ)

 ということで、長岡先生は”676年生年説”をとっておられるのだということにさせていただきます(^-^)



【語句解説】
 成績評定のための等級 通常一年(前年八月一日から当年七月三十日まで)で一考
選(せん) 官人の成績を毎年判定して考(こう)を定め、この考を何回か重ねた上で総合判定すること
成選(じょうせん) 考を一定数重ねて選の対象となる資格を得ること
選限(考限とも) 成選に要する考の数で、官職地位によって四種(四科)に分かれていた
  1.内長上 六考 職事(官位令所載の諸官)、別勅・才伎長上、散位五位以上、内舎人
  2.内分番 八考 官(省)掌、史生、大舎人以下諸舎人、兵衛、伴部、使部、内散位六位以下、帳内・資人
  3.外長上 十考 郡司、軍団大・少毅、国博士、医師
  4.外散位(外分番とも) 十二考 外位(あるいはかつて外考の諸職にあった者)で、現在非職の地方在住者をさすのであろう