伴寺は東大寺写経所の年次未詳注文に、
大伴寺奉請 経
とある大伴寺と同じ寺と思われ、『東大寺要録』や『大和志』には、次のごとき記載が見られる。
永隆寺 字伴寺
右寺。大伴安麿大納言之建立也。飯高天皇代。養老二年。奈良坂東阿古屋谷。
立永隆寺。同五年辛酉三月廿三日。奈良坂東谷。般若山之佐保河東山改遷立之。
廃鞆寺<在川上村上方、要録云永隆寺一名伴寺、大納言大伴安麻呂建>
前者によれば、伴寺は正式には永隆寺と呼ばれ、養老二年(七一八)、大伴安麿によって奈良坂の東、阿古屋谷に建てられ、同五年(七二一)三月二十三日に般若山の佐保川の東の山(川上町東方。現在はカワカミチョウと発音する)に移建されたという。しかし、『続日本紀』によると、大伴安麿は和銅七年(七一四)五月に薨じているから、それから四年後の養老二年にこの寺が建てられたということはありうべくもなく、「強いて安麻呂建立説を生かすと、和銅七年前の発願と見るか、或は和銅七年以前に某地に建て、養老二年に阿古屋谷に移し建てたと見るより外はないであらう」。こうしたところ、伴寺の起源には今一つ明瞭でないところがあり、同寺の近くにあったかと思われる佐保寺との関係なども明確には知られていない。しかし、『平城坊目遺考』(下)にも「伴寺永隆寺跡<川上村東>」として「廃亡シテ今東大寺ノ三昧也」と記し、元禄十六年(一七〇三)に東大寺念仏堂の傍にあった頼朝、重源その他の石塔を「伴寺山墓所」に移したことを記していて、後年、東大寺の僧侶の墓所となったことが知られる。その地は、いっよりか、伴墓と呼ばれてきたところで、所在について杳として不明であったが、わたし昭和四十八年十一月二十日、その所在を確認した。すなわち、北御門町の五却院の前の道を川上町にぬけて、次第に登り坂になって行く道を登って行くと、近時営まれた三笠霊園の墓地に達する。伴墓は幸いにも三笠霊園に吸収されて、その一画に「東大寺墓所」(石柱が小さいので見落とす懸念がある)として存在する。登り坂のほとんど登りつめる手前、右側で(道をへだてた向かい側は霊園十二墓地である)、墓域は四つの区画に分かれて小段丘状に並んでいる。この一画のみは整地されずに古状を呈していて、幾らかの樹木も残っているが、その一番低い方の区画の松の木の下に「文珠院墓所」(これも小さい石柱)とあるあたりが、「東大寺墓所」の石柱のある位置よりして、もっとも古い部分ではないかと思われる。「俊乗房重源之墓」は、一番奥の区画にある。もし大伴氏代々の遺骨がここに収められたとすれば、そして、「遺骨配流」の非運を余儀なくされた家持の遺骨が、二十一年後の名誉回復に伴ってここに帰還したとすれば、わたしの立っている足下に家持はねむっているかも知れないのであった。また、旅人が、坂上郎女が、同様にこの足下にねむっているかも知れないのであった。おそらく古代貴紳家(個人ではなく)の墓所で、ここは、今日、確認される唯一の場所ではなかろうか。氏寺をそのまま氏の墓所ときめてかかることには問題があるにしても、伴墓という呼称は、そこが大伴家の墓所であったという永き伝えを裏づけて余りある。今、三笠霊園の内外に伴墓という記載−−たとえば墓地案内記などに見られる−−は残っていないが、霊園の事務所で訪ねても、土地の人びとに訊ねても、伴墓はそのまま伴墓として通用する。勿論、右の「東大寺墓所」である。わたしは、今日に生きる、この永き伝えを尊重したいと思う。しかし、なお冷静に考えれば、伴墓は大伴廃寺のあとにできた墓所という意味であるかも知れず、それだと大伴家の遺骨はここにはねむっていないことになる。この百歩の譲歩を認めても、旅人、家持、坂上郎女たちが、大伴氏寺のこの地に額づいたことは問違いなく、ここは明瞭にそれとして確認しうる家持足跡の故地である<文末補記一参照>。
補記
一、この文章を草した後に、わたしは再度「伴墓」を訪れた。そして、「俊乗房重源之墓」のある一番奥の区画の道路寄りにも「東大寺墓所」の石柱の立っていることに気づいた。これは、道路がわからは裏返しになっているので、最初のときは見落としたのである。したがって、四区画に新旧の別を認めるぺきではなく、すべてを同一年代の墓所とすべきである。なお、重要な
ことは、この墓所のすぐ裏手に瓦出土地帯があって、そこに寺院の存在したことが推測されることである。おそらく、大伴寺および付設の墓地(このような構造であったろうと思われる)は、現墓所と瓦出土地帯の双方を含めた地域を考えるべきではあるまいか。これらについては、いずれ稿を改めて述べることにする。
【川口常孝「大伴家持−「佐保の宅」考」(古代文学会編『シリーズ・古代の文学1 万葉の歌人たち』武蔵野書院 s49)より】