五条
〜武智麻呂クンか井上皇后か〜


 オフ二日目の始まりはじまり〜 (_ _)ネムイゾ

 宿泊組(蒼穹さん、くぼやんさん、しをりさん、遥さん、千尋さん、VATAさん、杜かじかさん、スズメ♂)は、チェックアウト後(幹事が頭が回転せず時間がかかってごめんなさい)に、宿に荷物を預かっていただいて、美沙那さんも早く到着していただけたので、計9人で栄山寺へ出発。
宿です 道路のすぐ下を流れる吉野川

◆栄山寺

 栄山寺は、宿(緑水苑)の食堂から八角堂の屋根が見えるほどすぐ近くなので歩きましたが、伽藍(敷地)が横長で入り口が反対側にあるので、思ったより歩きました。また、前日のカンカン照りから一転して小雨がふったりやんだりという状況だったので難儀でした。

 まずは国宝の梵鐘です。

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こんな「鐘楼」に収まっています

京都の道澄寺から移したとのこと

小野道風の筆といいますが..

 なかなかうまく写真は撮れません。天気も悪かったし。

 京都神護寺・宇治平等院とならぶ「平安三絶の鐘」と呼ばれているそうです。銘文は、菅原道真の撰小野道風の筆になると伝えますが、書体は道風より古いのではないか、と見られています。
 国宝なんですが、触れます(^_^) 触れる国宝は珍しい。ツンツン

 鐘楼には、現在使っているようにも見える、鐘を突くための棒(何て言うんだろう?)が吊してありました。まさか国宝は突かないだろうと思いつつ、あとで受付の方に聞いてみたところ、いまは突いていないが割と最近(と言っても二、三十年のことではない)までは使われていたようです。

 本堂は天文22年(1553)の再建。ご本尊の薬師如来坐像は永享3年(1431)のもので重文。ただし秘仏なので拝見することはできませんでした。最近「里帰り」した木造十二神将はみることができましたが。

 本堂のウラに「写真ギャラリー」が増設されています。この寺の住職が写真家で、八角堂やその壁画を撮影し、「消え消えの美」として展示されているのです。
 八角堂の壁画は、かなり剥落が激しく(写真撮影は禁止されています)、正直よく見えません。このギャラリーでは、拡大写真や模写などがいくつか展示されていますので、先に見てから八角堂に行くのがいいでしょう。

 中のご記帳ノートに「クレセント」という団体名を書いてきました(^_^)

 本堂の前方に「史蹟榮山寺行宮阯」の碑があります(国指定史跡)。五条は吉野からほど近く、この寺は長慶天皇の行宮が4年間(1379〜1382)、置かれていたとのことです。

栄山寺行宮址碑
(奥に見えるのが本堂)

七重石塔婆
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 右上の写真は、うっかりすると見落としてしまいそうですが、奈良時代の造立になる石造七重塔(石塔婆)で、重文です。

 これだけ国宝や重文が並べば、奈良周辺なら観光客でごったがえしているはずですが、ここは静寂そのもの。ひっそりと、しかし毅然としている気がします。人目につかない奥山に咲く美しい花、といった風情でしょうか。

 さて、いよいよお目当ての八角堂(国宝)です。

 武智麻呂クンの子の仲麻呂が、父の冥福を祈って、天平宝字4〜8年(760〜764)ころに建立したものと伝えます。柱も八角形です。
 内部の写真撮影は禁止になっていたので自粛しましたが、壁画は確かに剥落が激しく、望遠で見てようやく分かる程度でした。

 同じ奈良時代の八角堂としては法隆寺の夢殿が有名ですが、それよりは一回り小さいです。ただ、回りが何もない山の緑の中なので、以外に大きく見えました。

 一段下がったところに撮影ポイントがあります。

 この寺の名称は、もと「前山寺(サキヤマデラ)」だったのが、平安時代になって「栄山寺」となり、「エイザンジ」と音読するようになったそうです。
 その「山」ですが、この寺のすぐ裏の小山の頂上に武智麻呂クンのお墓があるのです。
 クレセントオフとしては当然お墓詣りしたいところですが、見ればかなり急勾配の道。しかも小雨がしとしと降り続き、ちょっと腰が引けてしまうところです。

この山の上に.. 下の案内板にあった写真です

 それでもがんばろうという組と、あきらめて井上内親王のお墓詣りにしようという組に分かれることになりました。
 ちなみに、私は後者。またもや車で楽をさせていただきました。

 山を登ったみなさんのお話を総合すると....、とにかく急勾配で、上りはまだしも下りがもう大変。また、上りきったら終わりかと思ったら、そこから前方へずーーーーーーーと歩いていかないとお墓はないそうで、ホントにこの道でいいのか不安になるほどだった、とのこと。

◆井上内親王陵

そう、彼女は皇后だったんですよねぇ。

 井上内親王は聖武の娘。若い時期を斎宮として伊勢で過ごし、斎宮を解かれてからは白壁王に嫁いだ彼女ですが、まさか自分が皇后になるとは思っていなかったのではないでしょうか。すべては、孝謙を「中心」とする奈良朝廷の不始末ですが、最後に残った「天武系の直系」であったことが、彼女を政治の中央に引きずり出したのです。

 彼女と他戸親王は、無実でしょう。自らはすでに皇后の地位にあり、黙って待っていれば息子に皇位が回ってくるのに、何を企むことがあるでしょう。そんなこともわからないほど光仁は無能だったのか、それとも分かっていてもかばえないほど、彼の地位が弱かったのか..。

 宇智に流され、ここで没した母子。なぜ、こういう場所はいつも人気(ひとけ)がないのでしょう。色々考えると、何やら怖くなってしまいます。まして当時の人々はいかばかりか。

 

◆御霊神社

霊安寺町の御霊神社 中はあちこち普請中でした

 現在、五条(宇智)には数多くの御霊神社があります。ただしこれは古代のことではなく、嘉禎4年(1238)年に、在地武士の争論にともなって、五条各地(10カ所)に分祀されたようです。
 その中で、本宮とされているのが、この霊安寺町の御霊神社です。寺の縁起によれば、桓武の勅願とのこと。さもありなん(^^; 祭神は井上内親王・他戸親王母子に加え、早良親王も祀られています。さもありなん(^^;

 ここへの道も間違えてしまいました。私のミスです。橋が見えなかったの(;_;)
 あるいは、これも井上内親王の祟り??

 

 結局、車で往復したにもかかわらず、約1時間を要してしまいました。

 宿に戻って武智麻呂クン組と合流。すでにお昼をまわっていて、市立五条文化博物館はパスとなり、駅前で昼食をとってから、五条とはバイバイ(^^;して三輪方面へ出ることになりました。

 



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