今年も菜の花一色に染まる季節が、この町にやってきた。
お父ちゃんが帰ってくる。
お父ちゃんは私が生まれると、大阪という賑やかな町に出稼ぎに行きはじめた。
ひっそりとしたバス停に降りると、よろずやの前を通って、がたがたの道をゆっくり歩いて帰ってくる。
白いワイシャツの袖をたくし上げ、決まって紺色のズボンに革靴。日焼けした太い腕には、近所へのお土産の入った紙袋を大事そうにぶら下げていた。
「お父ちゃーん」
私が思いっきり手を振り駆け出すと、お父ちゃんも笑って手を振ってくれた。
一年に一度、この町が最高に賑わう日。
お父ちゃんは、春のお祭りと、お盆と、お正月と、年に三回、帰ってくる。
「お父ちゃん、わたし、さか上がりができるようになったんよ」
「そうか、そうか」
「明日、晴れるだろうかね」
「晴れる、晴れる」
お父ちゃんはいつも笑って答えてくれる。
お決まりのじれったい午前授業を終えて、子供たちがいっせいに校門を飛び出す頃には、ピーヒャラピー、と、お囃子が遠くから聞こえてくる。
朝からドンガラと組み立てていた露店もすっかり出来上がっていて、ふだんは静かな通りも楽しいもので埋め尽くされていた。
ざらめの甘い香りを漂わせ、できたての綿菓子がふわふわと宙に踊り出す。きらきらのガラス細工の動物達がいっせいに、目で私を追う。
ひょっとこのお面に、あこがれのスターのブロマイド。りんご飴に、べっこう飴。それから、たこせんべいに、ニッキ味のゼリー。赤い爪塗りも、水に濡らすシールも、すべてがわくわくしてくる。
露店商の、少し意地悪そうな顔なじみのおじさんが、じろりと私に目配せをして、「早くおいでな」と言った気がした。その店の福引は、当たったためしがないのだ。だからこそ、今年も挑戦しなくちゃ。
目眩がするほどの誘惑を振り切り、いちもくさんに家に帰る。
おかえり、とお母ちゃんの声が奥の土間から聞こえた。
干ししいたけを炊いた甘いしょうゆの香りが、家中漂っている。
「お祭り、お祭り。お祭りのおこづかいちょうだい」
私がランドセルを放ると、
「そがにあわてんでも、お祭りは逃げんけん」
お父ちゃんがそう言いながら微笑んだ。
お母ちゃんが忙しそうにごちそうを運ぶたび、エプロンからお酢の香りが、つうんと漂ってくる。
「さ、おあがり。あんたの好きなのできたよ」
見ると、ちゃぶ台の真ん中に置かれた大皿が、きらきらと輝いている。
ああ、なんておいしそうな、ばら寿司。
それは、みごとなまでに美しく咲いた、我が家の「薔薇寿司」。
一年に一度、お母ちゃんの手の中で咲かせる大輪の「薔薇寿司」は、私が大人になるまで、その字を書くのだと信じていた。
錦糸卵のたくさん乗った黄色の「薔薇寿司」を、どきどきしながらひときれほおばる。口の中をじんわりと、つばがこみあげてくる。
甘辛く煮しめた、しいたけやかんぴょう、にんじんやきぬさや、かまぼこひとつひとつが、特別な日の味。
お父ちゃんも同じように口に運びながら、ちびちびお酒なんか飲み始めている。
「ふたりともゆっくり食べんさいよ」
お母ちゃんが、のどぐろの潮汁を運んでくると、今度はゆずの香りが、口いっぱいに広がった。
さあ、急がなきゃ、おなかはいっぱい。お祭りが私を待っている。
お父ちゃんはああ言ったけど、待ちに待ったお祭りは、あっと言う間に逃げていくけんね。
おこづかいを、ヒモ付きのおさいふに入れると、よろずやの前のがたがたの道を走りきった。道ばたで菜の花がふるふると揺れている。
お父ちゃんもいる、お母ちゃんもいる。
私にとってのお祭りは、もう始まっている。
2007.3