<手首を狩るあなたへ>
『一緒に死んでくれる?』
彼女に別れのメールを送った後の、最初の返信がそれだった。
メールを見た私は思わず笑ってしまった。
まさに予想していた通りの安直な反応だったからだ。
そんな行動に移る彼女だからこそ私は別れを切り出したのだが、どうやら彼女はまだ気付けないらしい。
私は『いいよ』と短い返信を打ち、マンションの自室で彼女を待つことにした。そもそも、こんな深夜に他に外に出る用もないのだが。
最後の返信から一分も経たない内に、またメールが返ってきた。
『今からそっちに行くから待っててね』
本気で心中を図りたいのか、それともただの脅しなのか。
どちらであろうが構わない。彼女がどうであれ、私は至って本気なのだ。
うんざりしているのだ。彼女が本気で殺しに来るなら、私も遠慮なく反撃するつもりだ。
『分かったから早く』
とだけ返信してから風呂に入った。
◇
風呂場から戻ってくると、携帯に溜まっているメールの数は八つになっていた。
彼女はどうやら私の家へ向かう様を逐一メールで報告していたようだ。その様子が子供の頃に聞いた怖い話とそっくりで、私は逆に彼女の滑稽さを微笑ましくさえ思ってしまった。
メールの内容はこうだ。
『今、家を出たよ』
『もうすぐ駅だよ。待っててね』
『電車を降りたよ。逃げないでね』
『今、途中の公園。あと少しだね』
いかにも『らしい』やり口だと思った。よく聞くような、お約束的なストーカーらしい手口。
私は頭を拭きながら、残りのメールの内容を見ていった。
『あと少しで家に着くよ』
『あと一回角を曲がればもう着くよ』
『家に着いたよ、中にいるよね?』
『お風呂に入ってるの? じゃあ、出てくるまで待ってるね』
ほんの少しだけ、背筋に寒気が走った。
私はすぐさま辺りを見回した。部屋の中には何の気配もない。が、さっきまでと違いどこか不気味に見える。
私は周囲に注意を払いながら台所に移動した。包丁を手に取ると、反対の手で握り締めている携帯を見つめながら考える。
本当に、本当に彼女は今、この部屋の中にいるのだろうか?
不意打ちを喰らったようで少し冷静を欠いていたが、この半時間で本当に彼女が自宅まで来られるのだろうか。
今までのメールを確認してみる。メールの感覚が短いような気がしないでもないが、嘘だと核心が取れるほど不自然でもない。
だが、実際に彼女がここに着いていなければ、私が風呂に入っていたということは判らない筈だ。
――ところがそうとも限らない。
この時間帯、先程まで返信していたのが急に途切れる可能性があるとしたら、その理由の大体は風呂か就寝だ。物騒なメールを送られてすぐに就寝、というのも考えにくいので決め打ちするにも悪くはない。もし本当に眠っていたらそのまま襲えばいいのだ。彼女は合鍵を持っている。
そもそもこれはメールだ。彼女が本当に自宅から出発したという確証もないのだ。もしかしたら、最初から私の様子を窺いながらメールを打っているのかもしれない。
だが、それなら何故風呂を出た瞬間に姿を現さないのか。或いは、風呂に入っている間にこちらを襲うこともできる筈なのに。
考えれば考えるほど、確証がなくなり不安は増すばかりだった。
とりあえず、彼女がこの部屋にいるかどうかを確かめるためには玄関を調べることが先決だと考えた。土足で入っていれば汚れで嫌でも判るだろうし、侵入していれば鍵も開いていることだろう。
私は慎重に移動し、玄関の様子を見てみるが、何の変化もなかった。鍵は閉まったままだし、靴箱に靴を隠しているわけでもない。
しかし、これすらも工作という可能性も否定できないのではないか。
彼女の目的は一体何だ?
ここまで撹乱しておいて、未だに行動を起こさないとは?
やはり、ただのハッタリなのか?
そう断定するには危険すぎる?
玄関で立ち呆けていると、私の携帯の着信音が鳴り響いた。
急いで私は携帯を開く。彼女からのメールだ。
メールにはこう書かれてあった。
『今、あなたの後ろにいるの』
数日後、私は鬱病と診断された。